世界に色が差した日
「そうそう。王女様、フィユって呼ばれてるんだな」
「えっ、ええ……」
突然の話題転換に目を丸くしつつも頷くフィユを、デューン王子は懐かしそうに遠くを見る目で見つめながら、ゆったりと続けた。
「俺が正式な首長継承候補になる前にな、この国にも寄ったことがあったんだ。そのとき孤児院からはぐれた女の子がいてさ。まあ、建物の裏手に回っちまってただけでぐるっと一周すれば帰れたんだけど」
デューン王子の言葉を聞いて、フィユの心臓が跳ねた。
あのときの記憶が鮮明に蘇り、涙が零れそうになる。初めてひとになれたときのこと。誰にも望まれない無名の孤児が、名を得て少女になれたときのこと。
「綺麗な青い目の子で、笑うと王女様みたいに可愛かった。で、名前がないっていうから俺の故郷の言葉で『野の花』って意味の言葉をつけたんだ。この国では野の花なんて全然珍しくもないだろうけど―――……」
―――俺の故郷は殆どが砂漠だから、野の花は癒しと救いの象徴なんだ。きれいな水と同じくらい貴重なんだぜ。
デューン王子の言葉が、あの日と重なる。屈託のない笑顔でそう言った褐色肌の少年。まさか彼がデューン王子だったなんて、思いもしなかった。
「……そう、なの……きっと、喜んだでしょうね」
他人事のように答える自分の態度に、そうするしかない現状に胸が痛んだ。あのときのお礼が言えたらどんなにいいか。もしもまた会えたらずっと伝えたい言葉があったのに、王女という立場がそれを決して赦しはしない。
「フィユ様」
思わず苦しそうな顔になっていたフィユを、リヒトが呼び戻した。傍らの瀟洒な執事を見上げると、彼はよく出来た笑みを浮かべてフィユを見下ろしている。
「え……ああ、ごめんなさい、なにかしら?」
「お礼を、お伝えください。王女様はその少女とお会いしていたと伺っております」
リヒトのいうことは、半分は正しい。確かに王女と少女は街の路地裏で出会っている。抑々その出来事がなければ、自分はここにいないのだから。言伝というほどではないが、指輪をなくすなという命令も受けている。
けれど、リヒトが言いたいのは事実確認ではないのだと、フィユは察した。彼はいつもフィユだけを真っ直ぐに見つめている。
「……そう、だったわ。ずっと忙しなくて、言う機会もなかったけれど……」
フィユは彼の言葉の意味を理解するや、デューン王子に向き直り、先ほどからうるさく鳴り響く心臓を抑えながら震える唇を開いた。
「あなたに名をもらったとき、人間になれたようでうれしかった。無名の石ころが本当に花になれたようでうれしかった。いつか会えたら、お礼を言いたいと……あの子はまさか王子様だとは思わなかったでしょうね。孤児院なんて、高貴な方が来るようなところではないもの」
一度目を伏せてから、デューン王子を真っ直ぐに見つめ、フィユはずっといいたかった言葉を口にした。
「わたしを人間にしてくれて、ありがとう。……そう、言っていたわ」
哀しそうな、泣き出しそうな顔で微笑むフィユを見つめ、デューン王子は暫くのあいだなにも言えなかった。ただ、なぜか自分が嘗て名を与えたあの少女が消えてしまいそうな錯覚を覚え、胸がざわつくのを感じた。