天上の花園
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「王女様、到着致しました」
俯いていた顔を上げ、窓の外を見た。目の前には、首いっぱい傾けて見上げても頂上が見えないほどの大きな城が聳えている。白い城壁に、青紫の屋根、いくつも並ぶ尖塔に、果ての見えない立派な庭園。馬車に乗ったまま異世界に迷い込んだようで、目眩がした。
騎士団も馬車も、馬車を引く馬でさえこの場に相応しい出で立ちであるのに、当然ではあるが少女だけが捕えられた罪人の様相をしている。
「さ、参りましょう。皆がお待ちです」
外から馬車の扉が開かれ、騎士が控える傍らで団長がまず降りると、手を差し伸べた。その手の意味が理解出来ずにいる少女の様子を見、団長は「お手をどうぞ」と優しく言い添えた。
少女が怖ず怖ずと手を差し出すと、優しくゆっくりと外へ導いていく。そして、最後の一段を降りる一つ前で手を止め、馬車に乗せたときのように横抱きにした。
「王女様、暫くのあいだ、ご無礼をお許しください」
少女を抱えている団長に代わり、先行する騎士が王城へ向けて声を張り上げる。
「王女様が戻られました!!」
城内が大きく響めき、視線が集まる。
団長は少女を抱えたままで、左右に列を成した騎士たちのあいだを悠々と進んでいく。最奥で待ち構えていた身形の良い青年の前でそっと下ろすと、膝をついて傅いた。
「アハト・ローウェルテート、ただいま帰還しました。賊は我々に気付いて逃げたあとのようでしたが、ご覧の通り、王女様は戻られました。……ですが、賊に誘拐され襲われたショックで記憶を失われているご様子にございます」
「そうか……アハト、まずはご苦労だった。賊については追って命が下るだろう。王にはリヒトから話が行くだろうが、私からも言い添えておくよ」
「畏まりました」
アハトが下がると、広いホールには場違いな少女と報告を受けていた青年の二人だけとなった。居心地の悪さを覚えながらもどうすることも出来ず佇んでいると、青年は少女の前に片膝をついて手を取り、見上げる形で微笑んだ。
豪奢な王城の中にあって尚、引けを取らないくらいに華やかな見目この男性。淡い金のやわらかそうな髪は正面から見ると肩までの長さに見えるが、後ろ髪は背中を覆うほどに長く、項で白いリボンで一纏めにしている。肌は透けるように白く、路地裏を這い回り、残飯を漁って生きて来た少女とはまるで真逆の美しさだ。
「よく戻ってきてくれたね」
若草色の双眸がやわらかく細められる。心の底からうれしそうに見つめる甘い眼差しを受け、少女は罪悪感で胸が痛んだ。
「わ、わたしは……」
「わかっているよ。なにも言わなくていい。きっと恐ろしい想いをしたんだろう。さあ、まずは身を清めに行こう」
少女は恭しく差し出された手を遠慮がちに取る。それだけで、彼はとろけるような目で少女を見つめ、優しく抱き上げた。
「記憶がないと言っていたね。私のことも覚えていないのかな」
「…………ごめんなさい」
ある程度知識のある人間ならば、王族や貴族の有名人の名前くらいは言えただろうが、少女にとっては雲の上の存在だ。騎士団長の噂も、凄い人がいるという程度しか知らず、姿や名前は路地で会って初めて知ったのだ。
俯く少女を責めることなく、この見目麗しい人は穏やかな口調で改めて名乗った。
「大丈夫、君が気に病むことはないよ。……私の名はヴァルト・ツァルトハイト。隣国の第一王子で、君とは幼馴染みだ。だから幼少期は、君をフィユと呼んでいたんだよ」
その言葉を聞いたとき、少女は反射的に顔を上げてヴァルトを見た。
「なにか、思い出したのかい?」
「あ……その、名前が…………」
フィユという呼び名。奇しくもそれは、少女の名だった。
南の国の言語で『野の花』を意味するその語は、幼い頃に出会った異国の少年がつけた名だった。彼はゆえあって世界を旅していると言い、様々な地方の話を聞かせてくれた。彼自身のことは内緒で来ているから言えないと言われて殆ど知ることが出来なかったが、本名の代わりにと、フィユだけに特別な呼び名を与えてくれたのだ。
名も家族もない少女に、初めて嫌悪や侮蔑以外の感情を向けてくれて、無名の石ころに過ぎない少女に、初めて人間らしいものを与えてくれた人だ。だが、いま彼にそのことを告げたところで何になるというのか。
「……いえ、何でも…………」
少女は首を横に振ると、再び力なく俯いた。
優しい思い出を、本当の名を言うわけにはいかない。野の花は摘み取られ、偽りの名を与えられて王城に飾られているのだから。