灰狼の忠信
忙しない空気がどこか遠い中庭で、アドニスの言葉が淡々と紡がれていく。
「おれは、あの人に拾われた。あの人の望みがおれの望み。だから、フィユ王女は王子を見つけてここに残る」
「でも、わたしは……」
「あの人が言うなら、あんたは王女に相応しい人だ。……もし王族の暮らしに疲れたら、ここに来て休むといい。ここに人は滅多に来ない。皆、おれを嫌っているから」
眩しそうに目を細め、アドニスは自嘲の笑みを浮かべる。
フィユはいまでも、心のどこかで一年後には孤児に戻るか、大罪人として処刑されると思っている。だが様々な人と関わるにつれ、心境に変化が芽生えつつもあった。
誰かに望まれるという経験をしたことがなかった孤児が、真逆の世界に触れて目が眩むほどの好意に囲まれて、思い上がっているだけだと思う自分もいる傍らで、望まれるならそのように生きる道もあるかも知れないと思い始めていた。
「ねえアドニス……リヒトに拾われたって言ったけれど、元はどこにいたの? 深い紫の瞳はフロイトシャフトの特徴だったわよね……?」
アドニスは一つ頷いてから、小さく「でも」と続けた。
「おれは、リュカントとの子だから……街から追放されて、辿り着いたのがここだった。何年か前に拾われて、ずっとここにいる」
「リュカント……確か、森の民とも言われる人狼種族よね。それくらいしかわからないのだけれど……」
「そう。髪色と目の作りはリュカントのもの。目の色はフロイトシャフトのだけど、形と牙までは隠せない。それに、リュカントには発作があるから、人は近付かない」
それでどうして追放という話になるのか、フィユにはわからなかった。リヒトに色々と教わりはしたが、主に貴族社会や王族の暮らしに関することだったため、特定の種族まで知識が行き渡っていないのだ。
もしかしたらアドニスの言う発作に関わるのかも知れないと過ぎりはしたが、だからと言って本人に「あなたはなぜ避けられるの」などと無神経な質問は出来ない。疑問を頭の片隅に追いやると、フィユはアドニスの不思議な光を湛える瞳を見つめた。
「フィユ王女も、ここに来てもいいけど、おれのいない時間にするといい。おれの仕事の時間は、リヒト様が知ってる」
そういうとアドニスは一歩下がり、フィユの背後を指差した。その視線はどこか遠くを見ているようで、フィユもつられて振り向き、指の差す先を見た。
「メイドが探してる。今日は客がくる日って聞いた」
「あ……いけない。また、次はリュカントのこともちゃんと勉強してから会いに来るわ。ありがとう、アドニス」
笑顔で名を呼び、駆け去っていったフィユの背を見送りながら、アドニスは一人呟く。
「また、会いに来るって。リュカントだって、言ったのに……やっぱり、違うんだな……あいつは、絶対にそんなこと言わない……絶対に」
喧騒を遠くに聞きながら、アドニスは生け垣の奥へと消えていった。