拾われ狼の願い
エスペランサに手紙を送ってから数日間。グランツクリーゼでは、来客を迎える準備に追われていた。前回の比較的気安い夜会とは違い、今回は国賓を招いた会合となる。
城中慌ただしい空気となっている中、手伝えることのないフィユはせめて準備の邪魔にならないようにと、勉強時間以外の殆どを中庭で過ごしていた。
「ここはいつも静かね……」
噴水の前まで来ると、小鳥たちが水浴びをしている様子が見えた。自然豊かで城下町も賑やかなこの国は、人も動物も絶えず行き交っている。
暫く噴水の傍で寛いでいると、ガサリと物音を立てて誰かが中庭を訪れた。
「あなたは……」
「…………」
生け垣の奥から現れたのは、庭師の青年だった。
「ごめんなさい、仕事の邪魔よね」
あの日と同様、長い前髪の隙間から覗く瞳に射抜かれたフィユは、気まずそうに視線を逸らすと立ち上がって踵を返した。が、
「……っ!」
歩き出そうとしたところ手首を掴まれ、思わぬ力の働きに反応出来ず、フィユは後ろに倒れかけた。だがそれを庭師の青年が抱き留め、そのまま腕に力を込めて抱き寄せた。
「あ……ありが、とう……」
体が大きく傾いた状態で抱きかかえられているため、自分で起き上がることが出来ないフィユは困惑した表情で庭師を見つめながら、何とか礼の言葉を口にした。初めて間近で見る庭師の顔は思っていた以上に端正で、どことなく野性味を感じる雰囲気をしている。
「あんた、あいつと違う」
「え……?」
至近距離でぽつりと零された言葉の意味がわからず、目を丸くして聞き返した。庭師はフィユの喉元に鼻先を寄せると匂いを嗅ぐ仕草をして、それからそっと解放した。
自分の足で真っ直ぐ立ち、改めて庭師の顔を見つめるが、長い前髪が表情を覆い隠しているせいで読み取れるものがない。
「似てるけど違う。あんたは……誰?」
あの日と明らかに違う態度と、それから謎の多い言葉に困惑して答えられずにいると、庭師は首を傾げつつフィユの手を取った。そしてじっと見つめたまま、再び首を傾げる。
「やっぱり、違う。でも……そうか。あの人にとっては、そのほうがいいのか……なら、いい。おれはなにも見てない」
「え、っと……?」
困惑から抜け出せないフィユを真っ直ぐに見つめると、庭師は手を握ったまま不器用に微笑んで見せた。その際、口の端に鋭い牙が見えた気がして、フィユは目を瞬かせた。
「おれは、アドニス。ここの庭師。そして……王女を逃がした本人」
「……!」
驚くフィユの手に、アドニスはリヒトがするそれと比べてだいぶぎこちないながらも、忠誠を表わす仕草で口づけをした。
「そんなつもりなかったとはいえ、あんたのことを知ってしまったから、おれもひみつを一つあげた。これで同じだ」
初めて庭師――アドニスの口元が微笑むのを見て、フィユは思わず見入ってしまった。前髪のあいだから覗く暗い紫色の瞳は、獣の虹彩をしている。
「フィユ王女。あいつが戻る前に、あの人の願いを叶えてほしい」
「あの人って……?」
「リヒト様」
二人のあいだを風が吹き抜け、前髪で隠れていたアドニスの目が露わになる。その瞳はフロイトシャフト公国の特徴を有していながらも、やはり見間違いではなく獣の虹彩で、鋭い光を湛えていた。




