モノクロの世界
見送りを済ませてそっと息を吐いたフィユの頬に、ヴァルトの手が優しく触れた。
「フィユ、頬を見せて」
「これくらいすぐに治るわ」
「いいから。君の顔に傷だなんて、私が耐えられないよ」
ヴァルトの言葉に甘えて軽く仰のく。優しい風が頬を撫でると、熱を帯びていた頬から痛みが溶け消えた。ヴァルトの治癒魔法は、彼の性質を表わしているかのように優しい。
「私も今日は失礼するよ。また明日、会いに来る」
「ええ、ありがとう」
全員を見送ったフィユは、レダとリヒトを伴って部屋に戻ると、そっと息を吐いた。
過去の王女がしたことで恨まれるのは想定していたが、思わぬ事情で火種が発生した。とはいえヴァルトが他の女性から思いを寄せられているという事実自体には、然程驚きはしなかった。以前のメイドの件もあるが、あれほど思いやりに溢れた優しい人間が誰にもそういった感情を抱かれないほうが不自然というものだ。
「……ありがとう」
パーティ用のドレスから寛ぐためのドレスに着替えさせられながら、フィユは手際よく事を進めるリヒトに礼を述べた。リヒトは淡々とした態度を崩さずに「恐縮です」とだけ答えると、着替えを済ませたフィユをベッドまで導いた。その傍らにレダも黙ってつき、メイド姿の人形のように静かに佇む。
「フィユ様のお陰で、こちらも収穫がありました」
ベッドに腰掛け、大きな枕に背を預けると足を伸ばしてまた息を吐く。ここにきて初の大規模なパーティは決して成功とは言えなかったが、どうにか終えることが出来た。抑々今回は、リヒトが敵と味方を見分けるための場でもあったのだ。
過激派なレダが、フィユが果実酒をかけられたときに動かなかった理由は、明確に白黒見分けるため、身に危険が迫るまでは手を出さないよう言われていたからである。
フィユに殴りかかった彼女ほどわかりやすい態度を見せた者はそう多くはなかったが、彼の慧眼にははっきりと明暗分かれて見えたようだった。
「少しずつではありますが、良い方向へ進んでおります」
「あなたがそう言うなら、きっとそうなのね」
豪奢な天蓋を見上げて、フィユは呟く。
ほんのひと月。それが一年に感じられるくらいには、とても重く苦しい時間だった。
「フィユ様、少々顔色が優れないようですね」
「そう……かも知れないわ。こんなこと、初めてだもの」
「そのわりには、王女として堂に入ったご様子でしたが」
「必死だっただけよ。ただわたしひとりが恥をかくだけならいいけれど、いまのわたしは国王様に代わってこの国の顔としてもいるのだから、下手な真似は出来ないと思ったの。でも……」
そこで言葉を切り、傍らに佇むリヒトとレダを見る。
「あなたたちがわたしを支えてくれていると思ったら、そこまで恐ろしくはなかったわ」
「恐縮です、フィユ様。さあ、今日はお疲れでしょう」
恭しく頭を下げる執事の表情は、凍り付いたまま動かない。よくできた人形のように、涼しげな形を保っている。唯一それが崩れるのは、あの狂喜じみた所作をするときだけ。
やわらかな布団に潜り込むフィユを見て、リヒトはそっと天蓋から垂れ下がるレースのカーテンを閉じていく。
「お休みなさいませ」
一年後、この国がどうなっているのか。自分はどうなっているのか。王女は本当に約束した一年で戻るつもりなのか。戻ってきたとして、いったいなにを目的としているのか。戻ってきた彼女を、王女としている自分を、この国はどうするのか。
(国を騙した大罪人として、処刑されるのが精々でしょうけれど……)
それ以外に、どんな末路があるというのか。
遠くにリヒトの声を聞きながら、フィユは目を閉じた。