暗雲を呼ぶ風
「あのヴァルト様が……」
「彼女、以前からヴァルト様にご執心だったから……」
「ご執心というより、姫王子なら押せば言いなりになると思っていたらしいわよ」
「今日こそ婚約をと息巻いていたらしいからな。そろそろ二十だし、危ないだろう?」
口元に笑みを乗せて、貴族たちが口々に囁く。特に女性は茶会などの場で誰が誰に恋をしているだとか、あるいはどこの貴族子息が平民の娘と遊んでいたなどといった話題を、風より早く仕入れている。先の貴族令嬢ほどわかりやすく態度に出していれば、知らない女性は社交界には存在しないとまで言われる世界だ。
「あの口ぶり、もしかして彼女が……?」
「まさか、ヴァルト様との婚約に邪魔な王女様を消すために……?」
「でも……最近の彼女、何だか様子がおかしかったような……」
そんな貴族社会で、彼の令嬢は、まるで王女を賊に差し出したかのような発言をした。
王女は賊に攫われ、まるで孤児のような有様で発見されたというところまで、噂として近隣諸国に広まっていた。実際に見た者は殆どいないためあくまで噂の域ではあったが、今回のパーティで、王女がすっかり別人のように大人しくなっていることは明白である。風説に過ぎなかった話題と、目の当たりにした事実とが結びつき、彼の女性に王女誘拐を画策したというとんでもない疑惑が塗りつけられていく。
「ありがとうレダ、リヒト。大丈夫よ」
フィユは二人に支えられながら体勢を立て直すと、賓客に向けて一礼した。
「わたしの不手際で混乱を招いてしまい、皆様には大変失礼を致しました」
フィユは、自分でも信じられないくらいに、すらすらと挨拶の言葉が滑り出てくるのを感じた。以前ならば遠目に見ることすら叶わなかった遠く高いところにいる貴族を前に、これほど堂々と振る舞えるものなのかと意識の端で冷静に思う傍らで、場を収める言葉を並べていく。
そして最後にまた一礼すると、呆然としていた賓客たちの中からシルベルジェール伯が一歩進み出てきて、大仰に拍手をしてみせた。でっぷりとした丸い腹を撫で回し、皮肉を張り付けた笑みでフィユを見下ろす。
「いや素晴らしい。叶うならこのまま記憶が戻られないことを願うばかりですな。さあ、お名残惜しいがあまり長居をしては申し訳ない。王女様はご病気でいらっしゃるのだ」
芝居がかった口調でそういうと、シルベルジェール伯は来たとき同様、連れ添ってきた女性の肩を抱きながら広間をあとにした。想像するまでもない。彼もまた以前の王女に、こういった場で余計な恥をかかされたのだろう。男性客も、彼に続いて気まずそうに顔を見合わせると黙したまま外へ出て行く。
だが意外にも、貴族令嬢たちは違った。
「私たちもお暇致しますわ」
「彼女が台無しにしただけなのだから、貴女が気にすることではなくてよ」
「色々ご不便もおありでしょうけれど、お元気そうでなによりでしたわ」
「貴女が無事戻られたなら次はお父様ね。お大事になさって」
王女に対して複雑な思いを抱えているだろう貴族女性たちが、口々にフィユを慰めた。中には燻る悪感情を昇華しきれない者もいたが、それを責めるのはお門違いというもの。フィユは広間の入口に立ち、去って行く高潔な淑女たちを最後まで見送った。




