指先に散る紅色の
ある程度挨拶が済み、会場で賓客たちが銘々に歓談している中、壁際で一息ついていたフィユの前に、給仕をしていた若いメイドがグラスを持って訪れた。そこへ、客の一人である貴族の女性が通りかかり、さり気なく肘でメイドの背を突き飛ばした。
「きゃ……!」
グラスと中身をフィユのドレスにぶちまけながら倒れるメイドに、貴族の女性は小さく笑いながら「ここのメイドは、王女様同様ろくな教育がされていないのね」と言い捨てて立ち去って行った。
グラスが割れる音で、周囲の好奇に満ちた視線がフィユとメイドに集まる。
「あの……」
「も……申し訳ございません!!」
フィユが声をかけようとした瞬間、メイドは青い顔でその場に手をついて、震えながら謝罪の言葉を叫んだ。零れたアルコールがメイドの衣服に染みこみ、勢いよくついた手は割れたグラスで傷ついている。メイドの勢いに驚いて固まっていたフィユだが、手に血が滲んでいるのに気付くと、その場にしゃがんでメイドの手を取った。
「ひっ……! お、王女様……!?」
「怪我をしているわ。片付けは他の人に頼んで、手当をしてもらってきて頂戴」
「フィユ、私が彼女の手当てをするよ」
「ヴァルト」
頭上から降ってきた声に顔を上げると、グラスを片手に持ったヴァルトがそこにいた。ヴァルトは二人を立たせるとフィユにグラスを預け、メイドの手を取る。
「すまないが、少し持っていてもらえるかな」
「ええ、もちろん」
恐縮し、動けずにいるメイドの手をじっと見つめ、口の中で小さく祈りの言葉を呟く。直後、傷ついた指の周りをやわらかな風が吹き抜けていき、見る間に傷が消えていった。メイドは何度も深く頭を下げ、目尻に涙を浮かべて礼の言葉を繰り返す。
「あ……ありがとうございます! このご恩は生涯忘れません!!」
「大袈裟だよ。大した怪我じゃなくて良かった」
「そうね。……ねえエマ、もうあのような真似はしてはだめよ。ただでさえあなたたちの手は傷つきやすいのだから」
「……!? わ、わたくしの名を覚えてくださっていたのですか!?」
メイドの声に、周囲がざわめいた。酒をかけられた王女が今度はどんな悪辣な意地悪を言うのかと笑いながら三人を眺めていた顔が、驚愕の色に染まる。
「あっ……! そ、それより、すぐに片付けるものを持って参ります!」
「王女様、お召し替えを……」
駆け去るエマと入れ違いに、恐る恐る近付いてきた別のメイドがフィユに声をかける。フィユがそういえばと自分のドレスを見下ろすと、思いの外ひどい有様だった。ドレスが淡い水色だということもあるが、果実酒の深い紅色がスカートをべったりと染めていて、フィユまで怪我をしたかのように見える。
「行っておいで。歓談の時間くらいなら、抜けても問題ないだろう」
「ええ、それじゃあジェーン、お願いするわ」
「……! は、はいっ! ではヴァルト様、失礼致しますっ」
パーティ会場を去って行く王女の背を見送りながら、ヴァルトは良く通る声で言った。
「記憶喪失で不安なことも多いだろうに……メイドの身を案じられる君は、やはり優しいひとだ。ここにいる皆にもそれぞれ複雑な思いがあるだろうし、それだけで以前の行いが全て消えるわけではないが……だからこそ、せめて私だけは君の味方でいよう」
その宣言は暗に、フィユに敵意を見せるのであればツァルトハイトをも敵に回すことになるという警告でもあった。ヴァルトとてまだ正式な婚約者と決まったわけではないとはいえ、当人同士が幼馴染み且つ父王同士の信頼も厚い彼らの結びつきは強い。仮に婚約に至らずとも、良家の関係が薄まることはないとまで言われている者同士だ。
潜めた声で囁き合う人々の中、メイドを突き飛ばした件の女性が、忌々しげにフィユが去って行ったほうを睨んでいた。
 




