壁の華は咲かず佇む
フィユが王女となって、ひと月が経った。
城での生活にもある程度慣れてきて、十分とはいえないながらも王女としての最低限の教養を身につけてきた頃。城で王女の帰還を祝うと共に、王の病状回復を祈る祝祭を開くこととなった。
「城下町にすら近付いたことがなかったから、お城の生活がこんなに大変だなんて夢にも思わなかったわ……」
「そうでしょうね。どのような世界でも、外からではわからないものです」
豪奢なドレスを着付けられながら嘆息するフィユに、リヒトが同意する。彼は生まれたときから城の敷地内にいて、いずれあの城の女王陛下に仕えるのだと言われながら修行を積み、働ける年になった誕生日から城勤めをしているという。
フィユにとってリヒトは知らないことなどないかのように見えるが、彼の目に映るこの城や外の世界はどんなものなのだろうかと思った。
「さあ、参りましょう。お客様がいらっしゃいます」
「ええ」
会場となる広間は普段以上に飾り付けられ、一角にはアルコールと軽食が並んでいる。舞台には楽団が控え、最後の調律をする音が微かに広間の外へ漏れ聞こえていた。中でも一番忙しくしているのはメイドたちだ。調理から飾り付け、来客の好物の調達など完璧に行う必要がある。広間までの廊下は殊の外丁寧に磨き上げられ、石造りの床は鏡のように影を反射している。
城内は朝から忙しなく、昼を回る頃には賓客が城を訪れ始めていた。フィユはリヒトに付き添われながら、会場を訪れる身形の良い人々に、王女として愛想を振りまいていた。
「ご機嫌よう、シェルフィーユ様」
「ご機嫌よう、シルベルジェール伯」
「そうしていると比較的王女らしく見えますな。いや、無事戻られてなにより。このまま国王様も快癒なさることをお祈り申し上げますぞ」
「お言葉、痛み入りますわ」
シルベルジェール伯爵はつまらなそうに一瞥をくれ、ふんと鼻を鳴らすと、連れ添ってきた女性の肩を抱いて会場奥へと進んでいった。
こうして訪れる者の大半が、挨拶に見せかけた皮肉を投げかけてくる。いったい王女はどれほどの人間に喧嘩を売って生きて来たのか、領内だけでなく国外までとなると、最早全人類に罵詈雑言を浴びせ尽くしたのではとすら思えてくる。
それでも、フィユが出会ったときのように何一つ悪びれることなく、寧ろ生き生きしているくらい自由気ままに家出を満喫しているのだから、稀なる強心臓ではあるのだろう。本当に、そこだけは羨ましかった。
「ご機嫌よう、フィユ王女」
「ご機嫌よう、ヴァルト王子」
教科書通りの挨拶をしてから、互いに顔を見合わせてくすくす笑う。この場で彼だけはフィユを敵視せずにいてくれる。その安心感があるから、針の筵でも王女として真っ直ぐ立っていられた。
「私も皆に挨拶をしてくるよ」
「ええ、行ってらっしゃい」
ヴァルトを見送り、フィユも他の賓客と言葉を交わす。事前にリヒトが容赦なく教育を施し、近隣諸国の重役の顔と名と功績を叩き込んでくれたお陰で、カイムとの初対面時のような非礼を働くことはなかった。
周囲からの視線は、いつ王女の化けの皮が剥がれるだろうかという期待に満ちている。僅かでも失態を犯せば一斉に嘲笑の的とされることだろう。