一振りの刃の如く
「フィユ様」
「良い。控えていろ」
駆け寄ろうとしたリヒトを、カイム公子が短く制する。そして、力が抜けて座り込んでしまったフィユに左手を差し出すと初めて嫌悪や憎悪ではない感情を映した瞳で見つめ、静かに口を開いた。
「その言葉に嘘がないと誓うなら、この手を取れ」
これは、カイム公子を公然で悪魔のようだと嘲笑い、触れれば災いが移りそうだなどと言ったあの王女だからこそ効果があると踏んだ、彼なりの試しだった。だがフィユは彼の思惑とは反対に、真っ直ぐにカイム公子を見上げると、迷わずその手を取った。
ふっと笑い、カイム公子はフィユの小さな手を握る。
「貴様の誓い、この場にいる者全てが証人だと思え」
カイム公子はフィユを引き上げると腰をぐっと抱き寄せ、耳元で低く囁いた。フィユはリヒトとヴァルト以外の異性が至近距離にいることに緊張し固まりながらも、一つ頷く。
「カイム公子……」
「カイムでいい」
「えっ」
思わぬ言葉が降ってきて、フィユは思わず間近であることも忘れて、カイム公子の顔を見つめた。こうしてみると、彼もまた端整な顔立ちをしており、意志が強そうな眼差しと相俟ってとても頼もしく映る。
「貴様のほうが断然立場が上だというのに、いつまでも畏まった呼び方をされては俺とて居心地が悪い。それとその妙な敬語もやめろ。寒気がする」
「わ……わかったわ、カイム」
納得したわけでも、赦したわけでもないだろうことは、フィユも理解している。だが、僅かながらでも想いが伝わったことが実感出来て、フィユは温かな気持ちになった。
「この手に誓って……あなたを失望させるような真似はしないわ」
「ならば俺からは、詫びの印にこれを送ろう」
フィユがカイムの手をそっと握り返しながら言うと、カイムは腰を更に抱き寄せつつ、フィユの左頬に口づけをした。
公衆の面前でカイム公子の腕に抱かれているばかりか、頬への口づけがされ、フィユは時が止まったかのように硬直していた。遅れて理解が追いつき、フィユの顔がじわじわと赤みを帯びていく。
その変化を間近で観察していたカイム公子は、ふっと淡い笑みを漏らすと口づけをした箇所を手で覆い、優しく撫でた。
「悪かった。不可抗力とはいえ、女の顔を殴ったりして。アイツの治癒魔法が優秀だとは知っていたが、痕が残らなくて良かった」
「い、いえ……その……わたしが、考えなしに飛び出したせいだもの……」
朝焼け前のような暗い紫色をした瞳が、ほんの僅かな距離をおいてフィユを真っ直ぐに見つめている。秘め事のように壁際で行われた口づけは、リヒトとメアの目にしか映っていない。その他の賓客は遠巻きに観察しているため、フィユが壁に追い詰められているということしか見えていない。
「以前の貴様であれば、ただ眺めて笑っていただろう。心の望むことがアイツを助けるということであったなら、俺は貴様の行いを評価する」
「カイム……ありがとう」
「礼を言われることではない。それに、貴様の心が真実に寄り添わなくなったときは……わかっているだろうな」
獰猛な光を湛えた瞳が、フィユを見据える。フィユはもう震えたりはせず、真っ直ぐに見つめ返して淑やかに頷いた。
「あなたが受けた傷に対して正しく誠実になれないわたしを、それでも見守ってくれるのだもの。きっとあなたの寛大な心に応えてみせるわ」
「ああ、精々見限られないよう気をつけることだ」
吐息が交わるほどの距離で見つめ合い、囁きあうその様子はまるで恋人同士のようで。他の賓客は、遠巻きに息を潜めて見守っていた。




