黒百合の公子
日が高くなった頃、フロイトシャフト公国の公子二名が城を訪れたとの報せが入った。フィユは緊張の面持ちで、歓待のために広間で彼らを待っている。他の参加者は既に各々歓談に興じており、フィユに興味を示している者はいない。下手に触れて、また理不尽な暴言を吐かれることを恐れているのだ。
「馬車が到着した報せは来ているから、もうすぐよね……」
「ええ、フィユ様」
落ち着かない様子のフィユの傍らには、リヒトが影の如く控えている。とそこへ、客を入れ替わり立ち替わり案内していたメイドが、広間に向けて声をかけた。
「カイム公子様、メア公子様がいらっしゃいました」
広間の扉が開かれ、二人の公子が進み入ってくる―――はずなのだが、フィユはカイム公子の数歩後ろをついてくる人物を見て、目を丸くした。
腰まで伸びた艶やかな長い黒髪と片目の紫色はカイム公子と同じだが、もう片方の目は赤紫色をしている。薄く化粧がのった瑞々しい肌に、黒の生地に紫の糸で刺繍が施された華やかなドレスと、どこをどう見ても、フィユより少し年上の少女にしか見えない人物がそこにいた。
「あら……噂は本当でしたのね」
驚いている様子のフィユを見た少女が、形の良い唇を笑みの形に歪めた。軽蔑の視線が隠しもせずに突き刺さり、フィユの心を抉る。
「つまり、お兄さまに対する無作法な振る舞いも、己の国すら顧みない愚かな振る舞いも全て忘れてしまっているのね。羨ましいわ。わたくしも過去の過ちをあなたのように全てなかったことに出来たら、どんなにしあわせかしら」
最早言われすぎて覚えてしまいそうな言葉を、メア公子と思しき少女がつらつらと口にしていく。
カイム公子は横目でそれを制し、フィユの元へ真っ直ぐに歩み寄ると壁際に追い詰め、壁と自身の体のあいだにフィユを閉じ込めるようにして、顔の傍に片腕をついた。嫌悪を剥き出しにした眼差しが、至近距離の頭上から降り注ぐ。
「どういうつもりだ」
「な、何のお話でしょう……?」
「しらばっくれるな!」
カイムが声を荒げると、会場の一部がざわつき、視線が二人に集まった。
またあの王女がなにか言ったのか、しおらしく見えたのは気のせいだったかと薄笑いに紛れて囁く声がそこかしこから上がった。周りの視線に構わず、カイム公子は強い語気をそのままにフィユを問い詰める。
「俺の行いを不問とするだと……? それで償ったつもりか」
その言葉で、フィユは漸く先日殴られた際のことを言っているのだと理解した。
「いえ、そんなつもりでは……」
「ならばどういうつもりで慈悲をかけた。また笑いものにする算段か? 随分回りくどい方法を採るようになったものだな」
王女としての信用はゼロではない、マイナスなのだと周りと会話をする度に思い知る。フィユはここで口を噤んでも更に落ちるだけだと思い、カイム公子を真っ直ぐに見上げて口を開いた。
「わたしは、わたしの心が望むままにそうしただけです」
「何だと……?」
思い出すと体が震えそうになる。力の差は歴然で、気絶どころか簡単に殺すことだって出来る相手なのだと、この身は知ってしまっている。それでもここで退いては、本心など永遠に伝わらないままだと、フィユは勇気を振り絞った。
「それにあれは、わたしが勝手にしたことです……わたしが、ヴァルトが傷つくところを見たくなかった……そう思ったら体が勝手に動いていたの」
震えながらも言葉を紡ぐことをやめないフィユを見ているうち、カイム公子の目に映る感情の色が揺らぎ始めていた。本当に目の前にいるのは『あの』王女なのかという思いが少なからず芽生えるが、それ以上に、この言葉に偽りを見出すことが出来ずにいるのだ。
最初こそ、こちらが信じかけたところで、嘗てのように「なんて、言うとでも思ったのかしら?」と嘲笑うのだろうと思っていたが、最早その考えは霧消していた。
「あなたも、他の方も、きっとわたしを赦せないでしょう。それは当然の罪で、わたしが受けるべき罰だと思っています。でも、それとわたしのあのときの行動は別です。たとえ赦されなくとも、嘲笑の的になろうとも、わたしはあのときと変わらず、今後もわたしの心に従います」
胸の前で両手を握り締め、微かな震えを押し込めるようにしつつどうにか言い切ると、フィユは壁を背にしたままズルズルと崩れた。