黒曜石の綻び
「王女様」
不意に声をかけられ、フィユは思考の渦から浮上した。見上げれば、メイドがフィユとリディを真っ直ぐに見下ろしている。
以前の王女なら、たとえ段差や身長差などで仕方ないことであったとしても、メイドや使用人が見下ろそうものなら、突き飛ばして無理矢理目の高さを地に落としていたはず。階段から突き落とされて腕を折り、仕事が出来なくなって捨てられたメイドを見たことがあった。
「……どうしたの……?」
「…………」
だがフィユは、リディの手を握ったまま首を傾げて、不思議そうな顔で見上げている。フィユに手を握られている幼いリディと、全く同じ表情だ。
「……今更ですが、ドレスが汚れます。お立ちください」
「あ……ごめんなさい」
メイドが手を差し出すと、フィユは迷いなくその手を取った。立ち上がって見れば裾が僅かに濡れてしまっていて、重ねて謝罪の言葉とお礼を口にした。
メイドはなにも言わない。ただ、フィユが握ったばかりの自分の手を、じっと見つめている。下働き女の手など穢らわしいと決して触れようとはしなかったのに。フィユ王女は迷わず手を取り、礼の言葉まで口にした。
「おうじょさま、だいじょぶです! レダおねえちゃんは、おせんたくじょうずなの! だから、だから……」
落ち込むフィユと、なにも言わないメイドの様子を見て、姉にフィユが叱られていると思ったリディが懸命に告げた。その様子にフィユが思わず笑みを零すと、メイドも小さく笑みを口元に乗せた。
だがそれもすぐにかき消し、フィユに向き直る。
「私はリディを宿に送って参ります。フィユ様もお部屋にお戻りください。お帰りの手は別のメイドに頼んであります」
「ええ、そうするわ。……レダと言ったわね」
「はい」
「ありがとう」
去り際、小さく目を瞠ると、レダは初めて表情を和らげ、深く頭を下げた。
妹と手を繋ぎ、レダは宿への道を辿る。リディは花冠を王女様に受け取ってもらえて、うれしそうに鼻歌を歌っている。
「……ねえリディ」
「なあに?」
宿の部屋に着くと、レダはベッドに腰掛けてリディを呼んだ。王都の宿は一部屋が広く立派で、メイドとして働けるだけ働いたところで一生縁がなかったであろう家具ばかりが並んでいる。こういった豪奢な部屋は洗濯や掃除をするためにあるもので、自分や家族が寝泊まりするものではないという意識が染みついているせいで、却って落ち着かない。
「私は、王女様に剣を預けようと思う」
「ほんとっ?」
レダの言葉に、リディが目を輝かせた。真っ直ぐ駆け寄ってきてレダの懐に飛び込み、自分にしあわせが舞い込んだかのように、うれしそうな笑い声を上げている。
「リディも、おうじょさまだいすきだから、だからね、おねえちゃんが、おうじょさまにひかりをみつけてくれて、うれしいの!」
「うん……私は仕事に戻るから、リディはいい子で待ってなさい」
「はーい!」
にこにことしあわせいっぱいな妹を部屋に残し、レダは宿をあとにした。
きっと今頃、王女はドレスを着替えられずに困っていることだろうから。帰りを任せたメイドは殊の外気が弱い新入りの少女だ。レダの思惑通りなら『あの王女』は怯えているメイドに余計な仕事はさせないはず。
「リヒト様……」
西門で帰りを待っていたかのように佇んでいるリヒトの前で、レダは徐に懐から短剣を取り出すと、三つ編みになっている長い髪をバッサリと切り落とした。
「王女様の元へ行って参ります」
リヒトはなにも言わない。
ただ穏やかな笑みを湛えて、立ち去るレダを見送った。