朝露の口づけ
「リヒトはきっと、家族で泊まれるお部屋を見つけてくれるわ。そうしたら皆でそちらへ向かって頂戴」
そうフィユが言うと、青ざめた顔のまま父親が口を開いた。
「お……畏れながら申し上げます。我々に、王都の宿代を払えるだけのお金はとても……王女様のお優しいお心だけで、我々は十分でございます……」
父親の言葉に同意するかのように、母親も平伏して何度も頷いた。ひたすら恐怖に支配された様子の二人に、フィユは胸がズキズキと痛んだ。
医師が診るために服をどけたリディの胸には、靴跡に似た青黒い痣が出来ていた。その奥で骨が折れていて、体内を傷つけていた。そして彼らの、怯えきった態度。王女が以前なにをしたのか、言われるまでもなく理解してしまう。
償わなければならない。たとえ赦されなくても。いまはフィユが王女なのだから。
「ねえヴァルト、この国の王都のお宿ってどれくらいなの?」
「……少なくとも、メイドに出せる額じゃないよ。恐らくは彼らも着の身着のままここに連れられてきただろうし、路銀なんて皆無じゃないかな」
「そう……」
フィユは、街の宿を知らない。孤児院か路地裏にしか居場所がなかったから。王女も、庶民がいるような宿など近付きもしなかったし、興味も示さなかった。真逆の理由ながら違和感なく会話が進んだことに、当人だけが全く気付いていない。
「宿代なら気にしなくていいわ。わたしが呼んだのだもの」
フィユの言葉に、父親は信じられないとはっきり書かれた顔でフィユを見上げた。
きっとこの言葉を信じて泊まったら、後日王家から請求が来るに違いない。そう思っていないと、心を保てそうになかった。
「フィユ様、宿の手配と移動準備が調いました」
「ありがとう」
扉が開かれリヒトが簡潔に用を伝えると、フィユはずっと地に座り込んだままの一家の前にしゃがんで母親の肩に手を添えた。途端、ビクリと母親の肩が跳ね、弾かれたように顔を上げた。
「リディを」
「……っ、は……はいっ、すぐに……!」
土埃と涙でひどい有様の顔で頷きながら、リディの眠る寝台へと駆け寄っていく。幼い体を抱き上げると、まだ顔が赤く熱が高いことが伝わってきた。
「あなたはこれをリディに」
「はい……必ず、仰るとおりに致します……」
薬草は父親に預け、フィユは再びヴァルトに支えられながら立ち上がった。
どれくらい、この埃に塗れた環境にいたのか。両親もメイドも足下がふらついている。父親が母親を支えながら歩き、メイドがそのあとをついていく。
部屋を出る間際にメイドが振り向き、フィユをチラリと一瞥したが、複雑そうな表情を見せただけでなにも言わずに去って行った。
この場にヴァルトだけとなったところで、フィユは地面に視線を落とした。足下に雫が落ち、乾いた土の色を暗く塗り変えていく。
「もしあの子になにかあったら……わたしはどう償えばいいの……?」
震えるフィユの体を抱きしめながら、ヴァルトは悲痛そうに眉を寄せた。
「大丈夫だよ。子供は強いから。ご両親の看病を信じて祈ろう」
「ええ……そうね。そうするしかないのよね……」
願わくば、リディが苦しみのない心からの笑顔をもう一度家族に見せてくれることを。静かに涙を流しながら、フィユはヴァルトの腕の中で祈り続けた。