姫王子から王子へ
ヴァルトから逃げるようにして中庭から立ち去ったフィユは、使用人たちの疎ましげな視線からも逃げるため、呼ばない限りは誰も来ない自室へと駆け込んだ。いまばかりは、望んで世話をしたがる人間がいないことがありがたかった。
ベッドに倒れ込み、体を縮めて蹲る。
「わたしは、なにを思い上がっていたの……?」
ヴァルトと彼女がどんな関係であろうとも、フィユには関係ないことのはずだ。元よりフィユは一年だけの身代わり王女に過ぎず、本当に王子や貴族の子息と婚約するわけではないというのに。王女として城で暮らすうち、本当に偉くなったように思い上がっていたことを突きつけられたようで恥ずかしかった。
「勘違いも甚だしいわ……わたしは仮初めの王女でしかないのよ……それなのに……」
何故か、ヴァルトを思うと涙が止まらない。そしてフィユ自身にもこの涙がなにを意味するのかわからなかった。図々しくも、王女になった気でいたことへの恥じらいなのか、それとも―――
「フィユ」
ノックと共に、いま一番会いたくて会いたくない人物の声がして、息を飲んだ。答えてしまえば彼と顔を合わせてしまう。答えなければ、この苦しい状況がきっと永遠のものとなるだろう。
「フィユ、どうか一目だけでも会ってはくれないか……」
今一度、声がかかる。先ほどよりも弱々しい声で、ヴァルトがフィユを呼ぶ。
扉越しに声を聞いていると、何日も何ヶ月も会っていなかったように錯覚してしまう。あの優しい人が苦しんでいるのだと思うと、自分がどうなろうともその苦痛を取り払ってあげたいと思う。
「……ヴァルト」
フィユは小さく息を吸ってから、扉に向けて名を呼んだ。
「フィユ……入ってもいいかい」
「…………ええ、どうぞ」
体を起こし、涙を拭ってから答える。
そっと扉が開かれて、想像していた以上に憔悴した様子のヴァルトが現れた。
「ヴァルト、さっきの……」
「彼女は、もういいんだ」
ヴァルトにしては珍しくきっぱりと言い切るその様子に違和感を覚えつつも、フィユは力なく「そう……」と答えるしかなかった。真っ直ぐ歩み寄ってくる彼の顔を見ることが出来ず、俯いてしまう。
目の前まで来ていることを近い気配と視界に映る爪先で理解するが、これまでのように見つめることが出来ない。
「フィユ……私は、……私は、臆病な人間だ」
ぽつりと、雨だれのような告白がフィユに落とされた。先ほどの語気は最早影もなく、普段以上にか細く消え入りそうな声が降り注ぐ。
「頼りない男だと散々言われて、周りが優しいだけだと慰めるのに甘えてきたけれど……本当は、以前の君に言われたとおりなんだ。自分で決断することも、守りたいもののため戦うことも出来ない、王子とは名ばかりの情けない男なんだ」
恐る恐る顔を上げると、ヴァルトの苦しそうな眼差しと視線がぶつかった。ヴァルトは屈んで優しくフィユの頬を包むと、力なく微笑んで見せた。
「君にしたことを、なかったことにはしない。もう逃げたりはしないよ、フィユ」
「ヴァルト……」
跪いて、フィユの手を取る。指先に誓いを立てるような口づけがされ、フィユは大切なものが欠け落ちて空虚だった胸に明りが灯るのを感じた。
「私は、君を守りたいと思っている。そのためならどんなことだってするつもりだ。もう姫王子などと言われるような無様は晒さない」
誓いの言葉と共に、ヴァルトの腕の中に閉じ込められた。キツく抱きしめる腕が微かに震えていることには気付かないふりで、フィユは心優しい人の背中にそっと腕を回した。




