奸計の果て
抑々の始まりは、フィユの部屋から赤い顔をして逃げ出したヴァルトを見たメイドから噂が広まったことにある。ヴァルトはまだ婚約者候補の一人に過ぎないというのに、他の候補を出し抜いて王女の寝所に通い詰め、手を出そうとしたのではというものだ。
まだ国内外に定着している気弱な姫王子という不名誉な称号が珍しく功を奏して「そのはずはない」という者ばかりだが、メイドの情報網は甘く見ていいものではないことを、ヴァルトも自国で嫌というほど見てきている。
このメイドは、周りを出し抜いて王子を誑し込み、あわよくば第二夫人の座につこうと企んでいた。気弱で断ることを知らない、強気に出ることが出来ない姫王子だからこその策だった。
「お約束が違いますわ、ヴァルト様」
しなやかな手が、ヴァルトの腰へと伸びてくる。娼婦のような手つきでヴァルトの体を煽ろうとしてくる。だが、ヴァルトは体が石になったかのように、なにも感じなかった。
このままフィユを放置すれば誤解が深まり、もしかしたら二度と修復出来なくなるかも知れない。だがこのメイドを放置すれば、彼女らの情報網を駆使して、自分だけではなくフィユのことまで吹聴される恐れがある。
ヴァルトは悩んだ結果、メイドの肩を押して体き離した。その態度に、一瞬ムッとした顔になるが、メイドは負けじとヴァルトを見上げて睨み付ける視線はそのままに、口元に笑みを引いた。
「あら、ヴァルト様、本当によろしいんですの? 私はヴァルト様の今後を思って情けをかけて差し上げておりますのに……私たちはいつでも貴方様の評判を覆すことが出来るということをお忘れではなくて?」
勝ち誇ったメイドの顔を苦しげな表情で見下ろしながら、ヴァルトはある名を呟いた。
「……リヒテンロート」
瞬間、メイドの顔が青ざめ引き攣った。
「お任せください、ヴァルト様」
いつの間にそこにいたのか、リヒトが恭しく一礼する傍ら、顔の右半分と左半分に白い仮面をそれぞれつけた二人の男性がメイドの両端を固めた。
ヴァルトが呼んだリヒテンロートという名は、仮面の男たちのものだ。男性従者の服に酷似した黒いスリーピースを纏ってはいるが、王城の表で働く従者ではない。男性従者は白いシャツに白手袋だが、彼らはシャツも手袋も黒一色で、唯一仮面だけが白い。
公用語で「断罪者」を意味する彼らは、名が示すとおりの役割を持っていた。
「ヴァルト様……冗談、でしょう……?」
怯えて見つめるメイドのほうには視線をやらず、ヴァルトは静かに「頼んだよ」とだけ口にした。それを聞くや、リヒテンロートは有無を言わせずいずこかへ連れ去っていく。
「い……嫌っ! 私、あそこにだけは行きたくない……!! ヴァルト様、お慈悲を……どうかお慈悲をっ!!」
メイドは城内ではなく、城にいくつかある尖塔の扉に連れて行かれた。扉の先は地下へ続く階段となっており、抵抗虚しく地下へ捕われていった。
扉の向こう、薄暗い地下でなにが行われているのか、ヴァルトは知らない。知らされていない。ただ、あの塔に入った者は二度と日の光の下へ出てくることはないという。
「それで良いのです。最初から私を呼んでくだされば、お手を煩わせることもなかったのですが……いまはご決断出来るようになられたことをお喜び申し上げましょうか」
苦しげな表情で塔を見つめるヴァルトを、リヒトが空々しく褒める。
「……彼女のことは、君たちに任せるよ」
「ええ、お任せくださいませ。ヴァルト様はフィユ様を」
リヒトに頷いて答えると、ヴァルトは足早に中庭をあとにした。