何事もない静かな朝
騎士の男が陰気くさい牢を抜けて地上に上がると、なにやら王城が騒がしかった。傍を抜けようとしていたメイドを一人呼び止めて何事かと問えば、王様の容態が悪化したとのことだった。王都から医師を呼び、暫く看病のために使用人を多めに割くという。
「場合によっては、ヴォルフラート王国に協力を仰ぐことになりそうなのです」
「そうか……」
その一言で、騎士は事態の深刻さを理解した。錬金術で栄えた彼の国の力が必要ということは、いよいよグランツクリーゼは切羽詰まってきているということだ。
「ありがとう。業務を続けてくれ」
「はい。失礼致します」
軽く一礼し、それぞれ歩き出そうとしたところで、遠くから過日を思い起こさせる鋭い破壊音が響いてきた。王女の振るまいがすっかり骨身に沁みているメイドがビクリと身を竦ませたのを憐れに思いつつ、騎士は仕方なしに声のしたほうへ向かった。
音の主は、確かめるまでもなくシェルフィーユ王女だ。
「誰も彼も、国王様国王様って……この国の正統な後継者は、この私なのに。あんなのはただの死に損ないじゃない。さっさといなくなればいいのよ!」
忌々しげな声と共に、ものをひっくり返す音が扉を突き抜けてきて、鼓膜に刺さった。直後、扉が開かれ、メイドが倒れ込むようにして飛び出してくる。
「二度と私の前に顔を出さないで!」
シェルフィーユの部屋から転がり出てきたメイドは、額から血を流していた。恐らくは手近にあったものを投げつけられたのだろう。騎士や他の使用人の視線から逃れるようにして、俯きながら駆け去っていく。
メイドが扉の傍からいなくなったことで支えを失った扉が、ゆっくりと閉じていった。
閉じきる寸前に見えた部屋の中は、見るも無惨に荒れ果てていた。運び込まれた食事は床に散らばり、繊細な陶器の食器は床の上で細かい破片となって、崩れたケーキや花茶と混ざっている。どうやらテーブルの上を薙ぎ払ったようで、クロスも乱れ、燭台や花籠も崩れてしまっていた。
閉じた扉の奥から響く癇癪の証が止んでからも、誰一人部屋を訪ねようとしなかった。それが、シェルフィーユには屈辱でならなかった。
ビクビクと顔色を窺われるのもうんざりだが、構われないのも腹立たしい。
幼少期から、いつかこの国で一番偉い女王様になるのだと言われて育ったのに、周りは誰も彼も自分を敬おうとしない。シェルフィーユが幼い頃に亡くなった女王を惜しむ声はあっても、シェルフィーユの即位を望む声は全く聞こえてこない。
「あのとき、邪魔者はいなくなったと思ったのに……!」
ダンッと、テーブルになにかを突き立てる音が廊下にまで響いた。
またナイフが一つ犠牲になったようだと、傍を通りかかったメイドが眉を寄せる。このあと待ち構えている片付けを思うだけで憂鬱だが、顔に出したところを見られてはどんな叱責を受けるか知れたものではないと、足早に部屋の前を通り過ぎていく。
先のメイドのように家族諸共呼び出され、連帯責任とばかりに投獄されることも、最早この城では日常となってしまっているのだから。
癇癪を起こした王女には、誰も近付きたがらない。
そそくさと立ち去り、部屋が遠くなったところでメイドたちは声を潜めて囁き合う。
先代の女王シェルフィーユの母親が亡くなってからというもの、城は荒れ果てていた。それ以前にも第一王子の視察中に落盤事故が起きたことや女王が乗っていた馬車の突然の暴走など、異様なことはあった。だがそれらは全て、グランツクリーゼ王家が傾き始める序章に過ぎなかったのだと、いまでは誰もが思っている。
第一王子の事件も女王の早世も、シェルフィーユが画策したのではと噂に上ったこともあった。結局証拠が挙がらなかったことや、あの子供じみた癇癪王女がそこまで頭が回るはずがないといった不名誉な理由からいつしか風化したが、未だに内心でその説を疑っている者は少なくない。
厨房はシェルフィーユが近付かない、数少ない場所だ。メイドたちは作業をしつつも、ここぞとばかりに日頃の不満を話し合う。
「……だいたい、あの花瓶だって王女様が癇癪を起こして割ったものなのに……」
「頭を下げる姿が気に入らないだなんて言われたら、会わないようにするしかないわ」
「本当にあの方が王家を継がれるのかしら……憂鬱だわ」
口さがないメイドたちは、王城の片隅で自らが仕える王女への不満を舌に乗せる。男の従者はメイドほど強く当たられはしないが、代わりに靴への口づけや、王女を褒めそやす役割を与えられている。王女は、従者たちが自分に仕えることをこの上ない光栄であると言って憚らないが、メイドも従者も、まだ物を投げられるほうがマシだと思っている。
特に騎士団長であるアハトは騎士団いち見目が良いことから事あるごとに傍に置かれ、連れ回されている。
「あの噂がほんとうなら良かったのに……」
「噂って、王女様が双子でいらっしゃったっていう? あれはただの皆の願望よ。そんな都合良く行くはずないわ。だいたい、第一王子でさえ亡くなられているのよ。仮に本当にいらっしゃったとして、どんな目に遭わされるか」
「そうね……ありもしない話をしても虚しくなるだけだわ」
古くから仕えているメイドほど、城内をよく知り尽くしている。
城に勤める誰一人として王女を味方していないということも。王女が生まれる数年前に生まれた第一王子は落盤事故で亡くなったとされているが、遺体が戻ってきたところを、誰も見ていないことも。王女を取り上げた現場に居合わせた者は皆、いまは誰も城勤めをしていないことも。ただ一人、彼女に仕える執事であるリヒトだけは、王女の扱いが別格だということも。
城で起きたことは、全て彼女たちが胸の内に抱えている。
「静かになったわね。またリヒト様が宥めてくださったのかしら」
「どうでもいいわ。仕事に戻りましょ」
遠くから聞こえてくる王女のヒステリックな声が止んだ途端、メイドたちも次々仕事に戻っていく。言葉通り宥められたならまだいいが、苛立ちを発散するものを探すため外に出たのだとしたら面倒なことになるからだ。
だが、メイドたちの心配を余所に、王女はその日部屋から出てこなかった。これ幸いと誰も王女の様子を見に行かないまま一日が過ぎ、夜が来て、王城は昼間の騒ぎなど忘れてしまったかのように鎮まり返る。
―――そして、翌朝。
「王女様、お召し替えに参りました」
若いメイドが二人、部屋の前に並んで、緊張を全身に張り付けた格好でノックをした。しかし部屋からは全く応答がない。
シェルフィーユ王女は、寝顔を人に見られるのを嫌う。応える声がないのに入室しようものなら、それこそ家族諸共処刑されてもおかしくない。
メイドが困惑した顔で互いに見つめ合い、どうしたものかと思っていると、傍をメイド長が通りかかった。
「あんたたち、お召し替えはどうしたの」
「それが……王女様のお返事がなくて……」
「それならあとで出直しなさい。どちらにしてもお叱りは受けるだろうけど、寝顔を見てしまうよりはマシよ」
「は……はい……」
メイド二人はシェルフィーユの部屋に一度視線をやると、別の仕事へ向かった。
シェルフィーユ王女がいないことに気付いたのは、公務の時間になっても部屋から全く応答がなかったことに訝しんだ使用人が、物を投げつけられる覚悟で王女の部屋を開けたときだった。