花は天を仰げども
ヴァルトに避けられるようになってしまってからというもの、唯一フィユに優しくしてくれていた人が遠ざかったことによって、どこにいても悪感情を帯びた視線が突き刺さるようになった。彼の優しさがどれほど救いだったか理解したところで、彼が戻るわけでもなく、時間が戻るわけでもない。
王女はこれほど周囲から疎まれてなおあれほど己を維持出来ていたのだから、ある意味誰よりも自分というものを持っていて、誰よりも心が強かったのだろう。それが愛される方向へ向けば一層気高い王女になれていただろうが、それも今更のことだ。
フィユは父王が病気であると知ってから、何度か見舞いに行こうとした。だが主治医とリヒトにまだ会うべきではないと止められ、顔も見ることが叶わずにいた。主治医曰く、いまの国王は意識がある時間のほうが少なく、その貴重な時間はできるだけ治療と投薬に使いたいとのことだった。彼の言うことは最もで、それほど病状が思わしくないならと、いまでは半ば会うことを諦めている。
抑々、フィユは本物の王女ではないのだ。実の父であるなら、たとえ重い病に臥せっていても別人であると見抜くかも知れない。そのことに思い至ってからは尚更見舞いに行く気になれなかった。
「……いまは、誰もいないみたい」
中庭に出ると、そこは無人だった。さらさらと流れる噴水の水音と風の音、遠くを飛ぶ小鳥の羽音と愛らしい鳴き声が、完成された音楽のように景色を彩っている。夕陽が遠く沈んでいくのを見ていると、自分の心も寄るに沈んでいくようだった。
「誰にも見向きもされない野の花と、大切にお世話をされて生きるお城の花……どちらも上を向いて咲いているのに、わたしは……」
犯してもいない罪を王女の名と共に背負う羽目になってからずっと、フィユは物思いに耽ることが増えてきた。裏路地にいた頃は毎日を生きるだけで必死だったのに、いまでは以前の倍の時間をかけて一日を過ごしているような気さえする。
噴水の縁に腰掛けて目を閉じ、フィユは清かな音に耳を澄ませた。背後の噴水に小鳥が数羽降り立った気配を感じる。水際で羽ばたく音と、水を弾く音、小さな鳴き声に、水に飛び込む音。振り返らずとも、楽しげに水と戯れる様子が目に浮かぶようだ。
「……?」
不意に、草を踏みしめる足音が二つ聞こえ、フィユは目を開いた。新たな人間の気配に小鳥たちが飛び立っていく音が聞こえたが、フィユはそれどころではなかった。
「ヴァルト……」
ほぼ一日避けられていたヴァルトと、思わぬところで出会ってしまっただけではない。彼は傍らに一人のメイドを連れている。しかもそのメイドは、彼と恋人であるかのように腕を組み、勝ち誇った顔でフィユを見ていた。
「ねえヴァルト様、今日は私と一日過ごしてくださる約束でしょう? いつまでもこんな退屈なところで留まっていないで、お部屋に参りましょうよ。いつも以上にたっぷりと、ヴァルト様にご奉仕致しますわ」
甘えた声でヴァルトにすり寄り、豊かな胸を彼の腕に押しつけながら、上目遣いで彼の顔を見上げる。だが、ヴァルトの視線はフィユに注がれたまま、僅かも揺るがない。
そのことに苛立ったメイドが、忌々しげにフィユを睨み付けた。小さく跳ねたフィユの体を見、ヴァルトも我に返ったような表情になる。
「フィユ……」
ヴァルトに名を呼ばれた瞬間、フィユの心にえも言われぬ恐れが過ぎった。続く言葉を聞きたくない。なにも知りたくない。溢れ出る恐れは体を突き動かし、フィユはドレスを整えるのも忘れて、弾かれるように立ち上がった。
「あ……ごめんなさい、わたし、部屋に戻ります……」
「フィユ!」
足を踏み出し、フィユを追おうとするヴァルトの腕を、メイドが引き留める。その顔はフィユへの嫉妬と怒りに満ちていた。