花蜜に口づけを
「いままで、わたしが出会った人たちが優しすぎたのね……ヴァルトも、言わないだけでひどいことを言われたのでしょう?」
「それは…………」
否定することが出来ず、眉根を寄せて曖昧に口籠る。それは最早、肯定と同じだった。
罪に対して無自覚な謝罪は赦されたという実績ほしさの自己満足でしかない。だからといって、彼らに対して不誠実なままでもいられない。
フィユは眉を下げて微笑み、静かに続ける。
「でも……わたしはまだ、皆に償えない。なにが悪いのかもわからず謝罪の言葉だけ口にするのは、皆に負わせた傷に対して不誠実だわ。だからといって、以前のように振る舞うことも出来ないわ。そうしたところで記憶が戻るわけでも、皆が喜ぶわけでもないもの」
俯き、目を逸らすヴァルトの頬を、フィユの手が優しく撫でる。以前の王女ならば手が腐り落ちるとでも言って拒みそうな仕草を、フィユは愛おしげに、そうすることが当然であるかのように行う。
「わたしは、誰かに許されるためじゃなく、いまのわたしの心が望むからそうしたい……あなたを庇ったように、大切に思うもののために、わたしの心に従いたいの」
気付けば間近で、朝露に濡れた若葉のような優しい瞳が揺れている。思い詰めたような表情でフィユを見つめている。
「たとえ、誰にも許されなくても……っ……」
唇を熱く濡れた唇で塞がれ、息と共に言葉が飲み込まれた。なにが起こったのかを理解するよりも先に、唇の隙間から舌が滑り込んでくる。異性との口づけなど知らない無垢な唇も、震える小さな舌も、戸惑いに揺れる吐息も、全てが絡め取られていく。
「…………は、ぁ………」
深く重ね合わされた唇が離れ、どちらのものともつかない吐息が混ざり合う。目の前にある若草色の瞳は、強い欲に濡れていた。だがその欲は、単純にフィユを喰らおうとする獣じみたものではなく、複雑な感情が入り交じっているように見えた。
愛情でも、情欲でも、支配でもない――その重たすぎる感情の答えに、ヴァルト自身も至れずにいた。
「ヴァルト……?」
熱で掠れた声がヴァルトを呼ぶ。潤んだ大きな瞳がヴァルトを見つめている。やがて、ハッとしたヴァルトが勢いよく体を起こし、フィユを見つめたままで片手で自身の口元を覆った。赤く染まった頬と動揺に揺れる瞳が、彼自身も意図しなかった行動だったのだと物語っている。
「わ、私は……なにを……」
ヴァルトの指先が震え、体の奥から熱が込み上げてくる。唇に残るやわらかな感触が、自らの行いを現実のものであると否応なく知らしめていた。
「……すまない、頭を冷やしてくる」
「あ……っ」
フィユがなにか言うより先に、ヴァルトは足早に部屋を出て行ってしまった。
静かな室内で、フィユは一人今し方身に起こったことを思い返す。思いを吐露していた最中に、視界をやわらかな若草色が満たした。胸の奥から滑り落ちてくる言葉が彼に飲み込まれたのを感じたとき、フィユの胸にも小さな想いが一つ灯るのを感じた。だが、その想いの名を当てることはまだ出来ない。そして知ってしまってはいけないと心の奥で強く警鐘が鳴るのを感じてもいる。
「……ヴァルト……あなたは何故……」
そっと、唇に触れてみる。自分の指先で触れただけでも先ほどの熱い感触を思い出してしまい、顔が火照るのを感じた。体の奥が甘く疼き、全身がとろけるような感覚が、甘い痺れを伴って走り抜ける。
「……わたしは……どうすればいいの……?」
涙と共に零れたフィユの問いに答えられる者は、彼女自身を含めて誰もいない。