草原に咲く一輪の
部屋に運び込み硝子細工を扱うようにしてベッドに寝かせると、フィユはゆるりと目を開けた。長い睫毛が震え、現在地を確かめるように視線を巡らせる。そして、傍らに心配そうな表情で見つめるヴァルトがいることに気付くと、フィユは安心させるように優しく微笑んで見せた。
「……ヴァルト……怪我は、ない……?」
「フィユ。君は自分の心配をしてくれ。なぜあんな無茶を……」
苦しげにヴァルトが囁く。フィユはヴァルトの手を両手で包みながら、真っ直ぐに彼の瞳を見つめて答えた。言葉に偽りはないと示すように、優しく諭すようにして。
「気付いたら、そうしていたの。あなたが怪我をしてしまうと思ったから……」
優しい人が、自分の迂闊な発言のせいで痛い思いをするのは嫌だった。そこに打算などあるはずもなく、体が勝手に動いていた。今更ながら、いくら物腰やわらかなヴァルトが相手だとはいえ、よく男性を押しのける力がこの身にあったものだと思う。
断崖の母は我が身を落として我が子を救うという言葉を、どこかで聞いたことがある。自分を母親に喩えるほど図々しくはなれないが、人はいざというとき己にも予測し得ない力が出せることがあるようだと、他人事のように思った。
「きっと、本当に殴るつもりではなかったと思うの……だからね、カイム公子様のことはあまり咎めないであげて。わたしが勝手にしたことだもの」
「フィユ……君は……」
ヴァルトは傍らに膝をついて白い手を握った。強がって見せても痛みがあるのか、赤く腫れている左側の目が僅かに涙で潤んでいる。
「いま治すから、動かないでくれ」
熱を持ったフィユの頬に手を当てて、目を閉じて集中する。ひんやりとした風が二人のあいだをすり抜けたかと思うと、フィユは頬からスウッと痛みが引くのを感じた。
「ありがとう、ヴァルト。いまのは、あなたの……?」
「……私は、これくらいしか出来ないからね」
だから王女にも散々な言われようだったのだと、ヴァルトは心の中で自嘲する。戦場で役立てるほどの魔法を使えるわけでもなければ、剣技や武術に優れているわけでもない。王子のくせにまるでお姫様のようだと言われたことは記憶に新しい。姫王子という名も、王女が言い出していつの間にか彼を嘲笑する際のあだ名となっていた。
フィユにとっては十分過ぎるほど凄い力だと思ったが、ヴァルトの表情を見るに、彼にとってはそうでもないようだ。
―――お前も王女に散々虚仮にされていたくせに、もう忘れたか。
殴られる前に、カイムが口にした言葉をフィユは思い返していた。
これほど心優しい人を、なぜ王女は罵倒出来たのだろう。王女として城で暮らしているうちにもしかしたらその行動に至った理由が見えてくかも知れないと思ったが、フィユは未だに理解出来ずにいた。
あの態度からして、カイム公子にもひどいことを言ったのであろうことは理解出来る。とはいえなにを言ったのかまではフィユには想像もつかないため、彼に謝罪を述べるにはまず本人に傷を抉る許可を求めることから始めなければならない。しかし、そんなことをすれば今度は殴られるだけでは済まないだろう。仮に彼から話を聞いたところで『いまの王女』は、記憶喪失で自分がしたことをなにも自覚していないのだから。
カイムが吐き捨てた言葉が、心の奥で反響する。何度も刃で切りつけられているように胸が痛み、涙が滲みそうになる。きっといま感じている胸の痛みは、これまで周りの人に王女が与えてきた痛みなのだろう。
これから人に会う度、この痛みを身に受けていくのだ。王女の身代りとして。