氷の檻と偽りの花
「どうかご心配なさらず。私に言いふらすつもりはありません。寧ろあなたには、王女としてこの場で生活して頂きたいのです。そしてシェルフィーユ様が戻られる前に、婚姻の指輪を渡す相手を決めてくださいませ」
王家を騙した罪人として突き出されるものと思っていたフィユに、想像もしない言葉が降り注いだ。全身が冷水に浸されるような感覚が襲う。一年間ここで偽りの生活を続けるだけでなく、彼は王女から預かった指輪の行方まで決めろと言うのだ。
「どう、して……? すぐ探せば、まだ遠くには……」
「必要なことだからです。あなたの協力もまた、必要なことなのです」
ここに来るまで出会った人は誰もが有無を言わさぬ濁流めいた力強さがあった。だが、彼はいままでの人たちとは明らかに違う。押し流す力ではなく、押し留める力。この国の王女の座に、どこの馬の骨とも知れぬ孤児の娘を縛り付けようとしているのだ。
フィユは彼の氷の眼差しに圧倒されながらも、震える唇を開いた。
「……い……一年で、戻ると……」
「それは僥倖」
笑みの形に細められた目が、フィユの心臓を氷の棘のように鋭く貫いた。王女に仕えていたというこの執事は、主人であるはずの王女が長期間戻らないことを望み、そしてそのあいだにフィユをこの国の一部に仕立て上げるつもりでいるのだ。
決して戯れでも冗談でもなく、全てが本気なのだと、彼の冷たい双眸が語っている。
「なぜ、あなたは……」
信じられないといった声で、どう訊ねるべきかもわからないままに思わず零れた曖昧な問いに、リヒトは嫣然と微笑んだ。
「僅かとはいえ、あなたも王女様の評判を聞いたでしょう」
怖々頷くフィユの足下に膝をつき、リヒトは恍惚とした表情で続ける。
「私は、このときをずっと待っていたのです。フィユ様が我々の前に王女として現れる、このときを……」
リヒトはフィユの小さな足を手のひらで包むと、爪先に口づけをした。
「や……っ、なにを…………」
ビクリと震えるフィユに構わず、爪先から足の甲、それから脛へと優しく舌を這わせていく。長いスカートをそっとたくし上げ、無遠慮な唇は太ももへと至った。
「あ……ぁ、いや……っ」
震えながらも抵抗するように伸ばされたフィユの細い手は、リヒトの繊細で大きな手にやんわりと包まれた。見上げてくる鋭い眼差しがフィユを見据え、強く訴える。包む手は相変わらず優しいのに、抵抗を許さない圧倒的な力を感じる。
「国の繁栄のため、我が王家の存続のため……これからあなたには良き王女として生きて頂きます。そのためなら、私はどのようなことでも致しましょう」
まるで、全身を荊の鎖で玉座に括り付けられるような心地だった。
偽りの王女生活は一年で終わると思っていたが、彼の口ぶりからすると、そのつもりはなさそうだ。狂喜に染まった瞳に射抜かれる度、フィユの心臓が痛みを伴って跳ねる。
「フィユ様……あなたが国のために在るように、私はあなたのために在ります。どうか、この私をお側に置いてくださいませ」
そう言って最後に白い内腿に口づけると、リヒトは自身とフィユの衣服を丁寧に整え、何事もなかったように立ち上がった。
「さて、フィユ様にはまず、体調を整えて頂かなくてはなりませんね」
にこりと微笑んで言うリヒトの表情には、先ほどの狂信めいた暗い色は全く見えない。あれは幻だったのかとすら思うほど、室内を訪れたときの瀟洒な執事そのものだった。
「どうぞ、お召し上がりください。食器の使い方は“覚えて”おいでですか?」
「…………いえ、わたしは……」
「では僭越ながら、私がお教え致しましょう」
初めて見るカトラリーに苦戦するフィユにも嫌な顔一つせず、リヒトは丁寧に初めからテーブルマナーを教えた。とはいえ、一朝一夕で身につくものでもなく、暫く記憶喪失と体調不良を理由に、部屋で一人食事をすることになりそうだ。