とけない花氷
「お休みのところ失礼致します」
どれほどそうしていただろうか。
扉をノックする音と入室の許可を求める声が聞こえ、互いにハッとして体を離した。
顔を見合わせ、思わず黙り込んでしまう。今更になって、じわじわと照れがこみ上げてくるのを感じ、二人揃って不自然に顔を逸らしてしまった。
「む、迎えてもいいかい?…………どうぞ、入ってくれ」
赤い顔をしたフィユが慌てて涙を拭き、小さく頷くのを見てから、ヴァルトが扉の外へ応えた。
「ヴァルト様もこちらでしたか」
丁寧な所作と共に現れたのは、瀟洒な白い燕尾服姿の青年だった。
短く切り揃えられた前髪と長い睫毛は新雪のように白く、どこまでも透明な湖面の如き薄水色の瞳をより冷たく冴え冴えと魅せている。背後に揺れる一筋の長い髪は、瑠璃色のリボンで一つに纏められていた。皺も汚れもなく一分の隙もない立ち姿はそれだけで彼の洗練された魂を映しているかのようだった。
執事の青年は一つのワゴンを伴い、フィユたちの傍へ近付いた。ワゴンの上には軽食とティーセットが乗っている。
「軽食をお持ち致しました」
「あ……ありがとう……」
恭しい仕草で一礼する彼に、フィユは戸惑いつつもお礼の言葉を口にした。瞬間、ごく僅かに執事の目が細められる。が、それをこの場にいるどちらにも悟られぬうちに表情を整え、何事もなかったように手際よく支度を進めていく。
「それでは、私は失礼するよ。また明日、君が良ければ話をしよう」
「ええ、また明日……」
フィユの手を取り指先に口づけをすると、ヴァルトは退室した。
室内には氷で出来た人形のような執事と二人きり。心はひどく緊張して仕方ないのに、先ほどから漂ってくる花茶や果物の甘い香りや香ばしい焼き菓子の匂いが、何日もろくな食事をしていないフィユの体を刺激して止まない。
「支度が調いました。どうぞこちらへ」
室内をほんの数歩移動するだけだというのに、丁寧にエスコートされる王城での生活に慣れる日が、本当に来るのだろうか。いまから一年ここで過ごすのだと思うだけで、気が遠くなりそうだった。
窓際に用意されたティーセットから立ち上る湯気はとても温かく、並べられた食べ物のどれ一つをとっても目にしたことすらないものばかりだ。細工のように綺麗なケーキや、上等な木の実の香りがする真っ白なパン、宝石と見紛うばかりに艶めくフルーツなどが、所狭しと並んでいる。
しかもそれらを乗せている食器が、どれ一つを取ってもまるで芸術作品のように繊細で美しい。触れたら砂糖菓子のように崩れてしまいそうで、恐ろしかった。
「申し遅れました。シェルフィーユ様の執事を務めておりました、リヒトと申します」
テーブルに着いたフィユの傍らで、白皙の執事が丁寧に一礼する。まるで過去のことを話すような物言いを疑問に思いながらも、フィユはただ聞くことしか出来ない。そして、リヒトはフィユの瞳を真っ直ぐに見据えながら、静かにこう囁いた。
「一つお伺いします。……シェルフィーユ様はいつ戻られると仰っておいででしたか」
「……っ!」
驚いて目を見開くフィユの顔を見て、リヒトは確信の笑みを見せた。
人形めいた顔に乗せられた微笑は、ぞっとするほど恐ろしい。見るからに高価な指輪を押しつけられたときよりも、武器を下げた騎士団に囲まれたときよりも、場違いな王城に連れ込まれたときよりも、いまこの瞬間が恐ろしくて仕方がなかった。
全身の血が心臓ごと凍り付いてしまったかのようで、身動きが取れない。息の仕方すら忘れてしまったのか、フッと気が遠くなるような目眩がした。