ななしゅうかん~絆~
今日もまた、残業で帰りが遅くなった。
電車が混雑している時間はとうに過ぎ、悠々と座席に座れるほど乗客はまばらだ。
奈々はいつも通り端の方に腰を下ろし、窓の外を通り過ぎていく景色をぼんやりと眺めていた。暗いから、街灯や車のライトくらいしか見えない。
「帰りたくないなあ」
ぽつりと本音がこぼれる。
最近終電ギリギリまで働く奈々のことを、同僚は気にかけてくれる。悩みがあることを知っているから、今度飲みに行こうと声をかけてくれているが、販売業のためなかなか休みが合わない。
早番と遅番のシフトも合わないため、昼休みも別々だ。
同僚の申し出はありがたいが、奈々自身はまだ心の整理が付けられず、誰かに話せるような状態ではない。
思い出すだけで、涙腺が崩壊して泣きそうになる。だから、できれば彼のことを今は考えたくはない。
連日朝から晩まで、さらには閉店後も売り場づくりで疲れ切っている奈々は、うとうとしかけた。
帰りたくないのなら、このまま電車を乗り過ごしてもいいかもしれない。そんな気になる。どうせ明日は休みをとっている。
頭をゆらゆらさせていると、奈々の前に誰かが立った気がした。
気のせいかもしれない。目を閉じているのに、立っている人の腰から下が見える。奈々自身が俯いているから、上半身は分からない。
「秀……」
ついこの間別れたばかりの彼氏に似ている気がした。
ああ夢を見ているのだ。奈々はすぐに気が付いた。
一方的に別れを突きつけて、いなくなった秀。奈々の前に現れるはずもない。そう思っているのに、目の前の誰かは奈々の頭を撫でた。よく知っている大きな手と、ぬくもりだった。
喧嘩した後仲直りの印にやるしぐさの後、彼は去ろうとした。奈々は、追いかけなくてはという気持ちになる。
「待って!」
叫びながら立ち上がると、当然目の前には誰もいない。
突然叫びながら立ち上がるという不審な行動をとる女に、ほかの乗客の視線が集まる。
奈々の頬が、羞恥で熱くなった。このままこの場にとどまるには、居心地が悪すぎる。
タイミングよく電車が止まって扉が開いたので、奈々は逃げるように飛び降りた。
いつも降りている駅だった。
このままどこかに行こうかと思っていたが、いつもの駅で降りてしまって急に意気込みがしぼんでしまう。明日の休みも用事があるからとったもので、その用事をすっぽかすわけにもいかない。いつも通り改札を通り、自宅に帰ることにした。
秀との思い出が詰まった自宅には、まだ帰りたくなかった。自然と足が遅くなる。途中で、コンビニに寄って、酒とつまみを買った。
もういっそのこと、酔ってしまえば何もかも忘れられるかもしれない。そう思った。
ふだん、奈々は酒を飲まない。単純に弱いからだ。逆に秀は強い人で、何でもパカパカと空けていく。特にビールが好きで、いつか札幌のビアガーデンに行きたいと言っていた。じゃあ新婚旅行は北海道にして、ビアガーデンの時期に行こうか、などという話をしたりもした。
目じりにじんわりと涙が浮かんできて、奈々は急いで首を振った。生ぬるい初夏の風が、奈々の涙を乾かす。
ちょっと買いすぎたくらいの缶を片手に、奈々は家路につく。
「重い」
ちょっと失敗したかもしれない。奈々はよく、調子に乗って買いすぎて持ちきれなくなっていた。それを秀が持つよといって、ちゃんと家まで運んでくれて……。
奈々はまた首を振った。
今日はもう、彼のことは考えない。
そう思いながらいつもなら徒歩十分の距離を二倍かけて到達する。
さすがに重かったので酒の入った袋は地面に置き、鍵を取り出す。鍵についているキーホルダーを見て奈々は眉をしかめた。
今時こんなのがどこに売っているんだろうという、ハートが二つに割れている形の片割れだ。当然もう一方は秀が持っていて、まだ返してもらっていない。
なぜ今日に限って、こんなに秀のことを思い出すのか。
秀が奈々のもとを去ってから七週間が経つ。最初の一週間は何を見ても思い出したし、いまだに彼のものを処分できずにいるけど、さすがに鍵を見たくらいでは何も感じなくなっていたのに。
今日は本当にやけ酒だ。そう思いながら鍵を開けて家に入る。
玄関には秀のサンダルが。隣の洗面所には、彼が使っていたタオルと歯ブラシ、剃刀が。居間に行けば、食器だってあるし、寝室には服もパジャマもある。いつ来ても泊まれるように、いろいろ置きっぱなしだ。
これで秀のことを忘れろ、思い出すなというほうが無理だった。
「ただいま」
肩を落としながら居間に入り、電気スイッチに手をかける。
「おかえり」
返事が返ってきた時、とうとう幻聴が聞こえるに至ったのかと、奈々は驚きもしなかった。
電気をつける。
奈々は息をのんだ。
頭の中が真っ白になる。
そこには、奈々がよく知る男が座っていた。テーブルの上には、ハートの片割れが付いている鍵がころんと置いてある。
「秀……?」
「そうだよ。久しぶり」
いつも通りのさわやかな笑顔で、秀は答えた。椅子から立ち上がると、自然な動きで奈々の手から荷物を受け取り、冷蔵庫の中に酒の缶をしまっていく。
酒は一つだけ残して、戸棚からグラスを二個持ってきて、慣れた手つきで注ぐ。
皿も出し、奈々が買ってきたつまみもちゃんと入れる。
「奈々、手を洗っておいで」
奈々は頷き、洗面台に戻って手を洗った。
聞きたいことが山ほどあった。けれど何をどう聞いていいのか、さっぱりわからない。
洗面所で手を洗いながら、だんだん視界がゆがんでいくことに気づいた。涙はやがて、嗚咽に代わる。
水を出しっぱなしにしたまま、奈々はその場に蹲って力の限り泣いた。
秀は戻ってきたのか。あるいは……。
「奈々!」
台所で作業をしていた秀が、心配をして様子を見に来た。子供のようにわんわんなく奈々を見て、困ったように笑う。
「しゅう、わたし、わたし……」
しゃくりあげながら、奈々は必死に自分の気持ちを伝えようとした。
「うん。わかっているよ」
何が分かっているのか。秀は優しい笑顔で、奈々の背中を撫でる。知っている手。大好きな手。奈々は秀の腕にしがみつき、さらに泣いた。
ひとしきり泣いて落ち着いた後、秀は奈々をお姫様抱っこで抱え上げ、居間のソファに運んだ。
泣いた直後で目は真っ赤、今更お姫様抱っこで頬も真っ赤で、奈々はソファに座る。
「相変わらず、奈々はかわいいなあ」
いとおしさを隠すことなく、秀は笑った。
「待ってて。冷やすもの持ってくるから」
そういって秀は洗面台にタオルを取りに行く。タオルを濡らした後、氷を取りに居間に戻ってきた。
秀のその様子を目で追いながら、奈々は寝室に続く扉に目を向けた。
扉の隣の壁には、スーツが一着、埃よけカバーをかけた状態で吊ってある。明日着るためのものだ。ほかにも小物類もちゃんと用意してある。
秀がここにいるのは、現実だろうか。それとも夢なのだろうか。
ぼんやりと考えているよ、首筋にひやりとしたものがあてられた。
「ひゃあ!」
思わず悲鳴が出る。
振り返ると、いたずらに成功したことを喜ぶ秀の顔があった。さすがに奈々もムッとする。
奈々が唇を尖らすと、秀は頬をつまんで引っ張った。
「ほら。せっかく彼氏が来てるのに、そんなつまらなそうな顔をするからだよ。せっかくの再会なんだから、笑顔で迎えてよ」
そう言いながら、秀は奈々の瞼にタオルを置いた。
「笑顔で迎えられると思ってるの?」
「無理だと思う」
わかっていて、無茶ぶりをしたのか。
喜びよりも、いら立ちが勝った。こぶしを振り上げるが、見えないのだから勝ち目はない。あっさりと拳は受け止められ、ぎゅっと抱きしめられる。
ちゃんと、秀のにおいがした。
「会いたかったよ、奈々」
「私だって、会いたかった」
どれほど焦がれたことか。
もう二度と会えないなど、信じたくもなかった。
奈々の目が見えないことをいいことに、秀は奈々の体のあちこちに触れていく。温かな手が気持ちよくて、奈々はされるがままになっていた。
タオルから冷たさがなくなったころ、秀はようやく瞼からタオルをよけた。真っすぐなまなざしで、奈々を見ている。
最後に見た時と変わらない、やさしい目だった。
秀はにっこりと笑って、奈々の瞼にキスを落とす。
奈々は顔をさらに上に向けて、唇にもキスをねだった。秀は表情を引き締め、顔を近づける。
とろけるような、口づけだった。
長い口づけの後、秀は奈々から離れた。
少し物足りないような気がして、奈々は秀の袖手を引く。が、逆に引っ張り上げられ、奈々はソファから立ち上がる。
「せっかくだからビール飲もうよ」
そういって、秀は奈々を食卓につかせる。
「飲むの?」
「飲む気で買ってきたんでしょ?」
「これは秀を忘れるために」
「え。酒で忘れられるくらい、俺って軽い存在だった?」
「いや、お酒くらいじゃ忘れられないけど」
「なんだ、それはよかった」
奈々が正直に告げると、秀は嬉しそうに笑った。
なんだかんだで晩酌が始まる。
主に奈々の愚痴で場が盛り上がる。愛想だけはいいが仕事を覚えようとしない新入社員、仕事ができないくせに失敗を部下に押し付ける上司、何でも言いがかりをつけなければ気が済まないクレーマー――
秀がいなかった間の出来事を、空白を埋めるように奈々は語る。
「元気そうでよかったよ」
優しい顔で、秀は言う。奈々の表情はすぐに曇った。
「元気じゃないよ。私、ずっと泣いてた」
仕事中は、気持ちを切り替えられた。だが、仕事が終わるともう駄目だった。どこにでも秀の影を求めてしまう。
日常は変わらないのに、そこには秀だけがいなかった。
「うん。知ってる。君はずっとずっと泣いていたね」
今も、涙がぽろぽろと落ちてきている。こんなにも涙もろかっただろうかと思うほど。
きっとこれは、酔っているせいだと奈々は自分に言い聞かせた。
「私が泣いているのを知ってたんなら、会いに来てほしかった!」
「俺だって会いたかったよ。この手で奈々を抱きしめたかった」
「なんで今更会いに来たのよ。やっと、忘れられるかと思ったのに」
それは嘘だ。
まだまだ忘れられるはずはない。たった二十五年しか生きていないけれど、生涯で最も愛した人だ。将来だって誓いあっていた。うまくいけば、来年には結婚できていた。
「今だから、だよ」
秀はさみしそうに笑った。
「奈々が、俺を忘れられなくて泣いていたら、連れて行こうかと思った。もし少しでも前向きに生きているのなら、会わないで鍵だけ返して帰るつもりだった」
奈々ははっとして秀を見る。
こうして姿を見せたということは、奈々を連れていくつもりなのだ。
奈々は迷うことなく頷いた。
「一緒に行く。連れて行って」
真剣なまなざしで決意した奈々に、秀は首を振る。
「やっぱり、だめだ。奈々は今の仕事、愚痴を言ってはいるものの好きでしょ? 改善すべきことがあって、環境を整えられることがうれしんでしょ? 大好きなものがあるのに、犠牲にしてまで行くところじゃないよ」
「でも! でも私は秀のほうが好き。大好き。愛しているの」
「うん。俺はその気持ちだけで十分。さよならも言えずに終わってしまったから後悔していだけど、こうして会えただけで、幸せだよ」
そういって、秀は奈々を抱きしめた。
確かなぬくもりがそこにはある。大好きだった彼の香りもある。それをまた、手放さなければいけないのか。
唇をかみしめながら、奈々は秀の体を思いきり抱き締めた。
「離さない。誰にも渡さない」
「奈々は本当に、俺のことが大好きなんだから」
苦笑いをしながら、秀はもう一度、奈々に唇を重ねてきた。ほんのりとアルコールの香りがした。
「大丈夫。俺がいなくなっても、奈々と俺の絆はなくならないよ」
あがいても無駄なことは知っていたが、奈々は最期まで秀の手を握っていた。
***
カーテンの隙間から差し込む光で、奈々は目が覚めた。
昨日は感じたはずの秀のぬくもりは隣にない。
いつも以上に乱れたベッドから降り、居間を覗き込む。そこにも秀の姿はなかった。
もしかして、幻覚でも見ていたのだろうか。だが食卓テーブルに置いてあるビールの空き缶は、明らかに奈々一人では処理できない量だし、何よりも秀が持っていたはずの合い鍵が置きっぱなしになっている。
彼の母に確認してもらったが、ずっと見つからなかった合い鍵だ。
空腹を感じなかった奈々は、手早くシャワーを浴びて髪を整え、壁に吊ってあったスーツに腕を通した。
七週間前に慌てて購入した黒いスーツは、前回着た時の線香の匂いがまだとれていないような気がする。
七週間前、奈々は秀をこの家で、また明日と見送った。その数時間後に再会した時、彼は物言わぬ人だった。
本当なら、もう二度と会えないはずだった。どのような奇跡が起きたのか、あるいは神様とやらのいたずらか。奈々と秀の間の絆が深かったからなのか。
最後の挨拶ができたのは幻覚でもなければ、夢でもなかったと奈々は信じることにした。
今でも、奈々は秀についていきたかったと思う。
けれど秀は、奈々の人生を優先した。だからというわけではないけど、奈々は前向きに生きる決意をした。
たまには泣くこともあるだろうが、秀のことではもう泣かないと誓う。
最後に、奈々は秀が残していったビールをあおった。
缶底に残っていたビールは生ぬるく、とてもまずかった。
(了)