惨禍を作る蜘蛛の巣
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『未来が視える……?』
極寒の空気に凍えた林間は、樹上から降り注ぎ堆積した雪によって光が閉ざされ、どこまでも広がる闇を作り出していた。川までは遠い。自宅から並んで歩くユウタと師は、狩りで捕らえた獲物の肉を洗う為に水汲みに向かっていた。今日は初めて、ユウタが自身で獣を仕留めた日である。
その成果を師には褒められなかった――彼が元より、人に世辞や安心させる言葉をかけるような人間では無い事を知っている。代わりに、師は「未来が視える」という話を徐に語り出した。
何故、そんな事を話すのか。その動機や意図を察することは出来なかったが、ユウタとしては未来を先んじて観察するという規格外の力を師が持つのだと敬服するばかりだった。
だが、それでも師の顔は厳めしく引き締まったまま。その力がユウタ、または未来予知を危機回避や栄光へと繋ぐ夢に満ちた力だと想像する者が思うような都合の良い能力で無い事を表していた。
師は横目で、ユウタの反応を盗み見ている様子である。すると、足を止めて自分の前方を指差した。その所作に疑念を抱き、暫く見詰めていると、遠くから藪を掻き分けて疾走する生物の気配を感じた。可聴域が獣のように広いユウタからすれば、師が指し示したのは人では捉えようの無い長距離にまだその気配が鳴らす音がある時だ。
十数秒後に、前方を白い小さな影が過った。それが何なのかを知るユウタとしては、眼前を過ぎた物よりも、それを知覚する前に先読みした師の芸当に驚倒していた。
『もしかして、これも氣術、ですか?』
『氣術における認識能力の拡大、これを応用すれば可能だ』
『僕にも出来ますかね』
『……相応の修行を積めば、いつしか。だが、この技は人を狂わせる。わしにそう説いた人が居た』
師が再び歩き始め、それに付いて行く。砂を草履で擦る音――師からは聞こえない。自分の足音だけが森の中で聴こえると、それはあたかも師が実体の無い怪物のように思える。隣に居るのに、自分が孤独であると錯覚させる。
『わしも、これを己の意思で使ったのは、数十年前ほどか。それ以降は使っていない』
己の意思では、という言い方が気になった。それはまるで、彼が否応なしに未来を見せられていたとでも言う口振りである。それがその険相の理由なのか。
『何故です?』
『先の危機を避ける事を意図し、行動する事で逆にその未来に直面する場合がある。予知能力の盲信、乱用は己の破滅に直結する一手でもある。何より――それは人間には不相応な力だ』
川辺に辿り着いて、師は獣肉を入れた麻袋の紐を解いて小分けにした部位を丁寧に取り出して行く。それを傍で手伝いながら、ユウタは彼の言葉を待った。
『人に生まれたのなら、その範疇を超えてはならない。それが生を受けた者が、唯一定められた理。ユウタ、どうか人間のままで在ってくれ』
師はその後、自宅に戻るまで一言も口にせず、淡々としていた。表情からも険が消え、いつもの望洋と感情に乏しいような彼の平生の顔に戻っている。それからも氣術の修練をこなしたが、ユウタが未来を視ることはなかった。
× × ×
森林を行進するのは黒衣の鳥族。その羽毛はいくら高貴な娘が髪を梳いても再現できない艶を持つ漆黒である。雨に濡れて、それがなお妖艶な雰囲気を纏いながらも、その集団は周囲一帯の気温を下げる殺気を放っていた。目指すは目前に佇む鍛冶の工房。厳然と立つ山の如く林間に在るそこに、集団が憎むべき仇敵が潜んでいる可能性がある。
個体で数人の達人と同等の実力を有する烏が束となって押し迫れば、敵がヤミビトであろうとも負ける筈がない。歩み出す度に周囲を漂う雨や土の臭いが濃厚になっていく。絶対的自信とは裏腹に、全員の身を竦ませるのはやはり恐怖だった。間違いない、此処には修羅が居る。
黒い刀を握り締めて、工房への距離を詰め寄る。建物を山へと追いやるように半円状の陣形で肉薄していく。雨の所為で視界が悪く、何よりも彼等が敵に対して優位に立てる空という活動領域が閉ざされてしまった。ここでは純粋な武器の操作技術、そして五感の鋭さが恃みだ。
慎重に歩を進めていた烏の軍勢、その左翼から悲鳴の声が上がった。雨の中でも喧しいそれが、一斉に一同の危機感を催す。まさか襲撃を予見し、屋外に出て隠れていたのか。全員の意識が左へと集中する中で、人知れず群れの中を通過した人影があった。
片手に持つ短刀は、烏が携えた得物と比較すれば頼り無い細身の刃。だが、用途が違う。何も敵の上体を袈裟懸けに斬るのではなく、相手の急所一点に突き立てるわけでもなく、これは彼の技を成り立たせる道具の一種である。
その人影は木の根元の地面に刺さっていた一尺ほどの枝を無造作に引き抜いてみせた。土から現れた枝の終端には縄が括り付けられ、それが林間の闇でぬかるんだ地面を突き破って現れ、どこまでも延びていく。烏の足元まで埋められていた縄が全貌を明かすと、縄の終点にあった木の幹から白刃が閃く。
烏が気付いた時には、木は一同の方へと傾いて、躱すよりも早く押し潰した。樹幹に仕掛けられた刃に突き刺されて、断末魔の叫びを上げる事なく絶命する。これは計算通りだった――木に忍ばせた刃の間隔を、相手の体格や立ち位置に合わせて配置させるのは至難の技であったが、この罠を設えた本人にとっては容易い芸である。
カーゼは混乱に陥った左翼に敵勢の意識が募る中で、今度は右翼へと襲い掛かる。短槍を後ろで少し傾けて構えたまま、背後から忍び寄る。これで敵を一突き……するのではなく、最も近くに居た烏の団塊の中央部向けて上へと投げ放った。
槍が弧を描いて、烏の頭上から飛来した。それに気付いた者も居たが、全員は動かない。その着地地点には、誰も立っていないからだ。避けるまでもない――その慢心が、次の罠を作動させる。
集団の中心、その地面には土に覆われた一尺の辺をした方形の板があった。その中心を寸分違わず槍が射抜く。板を貫いた音が烏の耳へと伝播していき、彼等は漸く槍の違和感を悟った。
槍が貫いた板が、音を立てて木っ端となり、全方位へと飛散する。その木片が烏へと突き刺さったが、彼等にしてみれば掠り傷も同然の軽微な負傷。
「甘ぇな」
人影が呟く。
槍が板を突き刺して数秒後、烏の足元から槍が現れた。穂先を天へと向けながら、飛び魚のように地表へと跳躍する。足元から迫った凶刃に対応できず、全員が胴や首、眉間を刺し貫かれて沈黙した。
板の下に張り巡らされた糸は、地中に隠匿された武具の数々を弾き出す弓の弦のように仕組まれ、板ごと糸を切ったのを合図に弦が張って、地上の敵を攻撃する機構。
「次か」
烏の群れを確実に罠へと陥れて行く。雨の中で暗躍する罠仕掛けの人間――カーゼが身を翻し、次の地点に向かおうとした時、雄叫びをあげながら背後から差し迫る敵意の影を感じた。
腹部からの流血を泥に含ませながら走る烏の鬼気迫る様相に対し、カーゼは落ち着いた様子で懐から一本の糸の両端を指で摘まんで取り出す。雨滴を弾くほど硬く張られたそれを持って、背後で刀を振りかぶった烏の脇を潜るように翻身する。張った糸を胴へと押し当てて、そのまま腕を振り抜く。糸は鋭く研がれた刃が肉を裂くように、烏の胴を両断した。
上半身が前へと落ちて、取り残された烏の下半身が膝を付いて頽れる。カーゼは糸を仕舞い、地面を蹴って雨の中を奔走する。敵の数はおよそ百……ユウタが帰還するまでに、保険にと施してあった罠で、左翼は壊滅的な被害を受けている。左翼の異変を察知した中央ではなく、まだ状況を把握できていない右翼を全滅させる。
そうなれば、残りは混乱の地へと駆け付ける烏を容赦なく死地へと導くのみ。
連鎖する絶叫。谺するのは死の合図。予め配置させていた罠の材料は、自宅から持ち込んだ物と、ドン爺の工房にあった武具やその他。現地で調達した物の方が比重としては多い。それらを活用して作り出した罠は、まさに敵が侵入して来るであろう方角に隠れている。つまり、山に居るユウタの帰還、或いはミシル達の逃走経路となる方向の安全であった。
カーゼが殿となって、敵の死を紡ぐ。相手が化け物じみた武者であろうとも、所詮は不死身でもない生き物。等しくカーゼの術中に嵌まれば、絶命は確定である。潜入において右に出る者のいなかった【猟犬】のシュゲンと、あのアキラならばすり抜けられただろう。
カーゼが仕掛けに少し力を加えるだけで、ほんの些細な動作をするだけで、複数の命が絶える。ミシルが現れるまで、積み重ね続けた経験が作り出す罠作りの技巧は、恐らくこの大陸に追随する者は居ない。既に退いた筈でありながら、その身には未だ人殺しの業が息づいている。
カーゼは笑った。この地獄の中で一人、皮肉に自嘲の笑みを浮かべていた。最期の仕事、とはよく言ったものだ。まさか、終焉まで人の命を摘み取る作業に身を急かされるとは。
カーゼはある時、町を訪れた『賢者』と言葉を交わしたことがある。勇者や聖女と比肩する『御三家』の一人である彼は、カーゼの寿命を占った。それが丁度、ミシルを引き取った時分であり、老衰してゆく体でいつまで面倒が見られるか全く見当も付かなかったからだ。
賢者曰く、「その死は穏やかである」、「子に看取られて逝く」と。
刺客として生きてきたカーゼとしては、どちらも己では得難い末路だと達観していたが、賢者に告げられて安堵した。仮に修羅場であろうとも、自分が死ぬ時はそれを抜けた後、安寧の中で死に逝くのをミシルが見守っている。
そして最後に「その死は子の巣立ち」。
あのアキラの弟子が訪れ、それに惹かれたミシルが彼を師事すると豪語した辺りから、ここが死に際かと悟った。だからこそ、家を訪ねたユウタに協力も惜しまず、逃走を選ばずに烏と戦っている。
森林では死屍が累々と横たわっていた。
烏の数は、もう既に十数体である。悉く罠に嵌められていながらも、その気勢は削がれず、工房へ進む足は止まらない。この進撃を阻む罠は、もうすべて作動し、後は回収を待つ物ばかり。
カーゼは、ミシルもドン爺も撤収したと見計らって、山の方角へと烏の居ない方角へと迂回しながら進んだ。敵よりも早く、ミシル達と合流すれば危険地帯の離脱も容易に済む。
いまさら無人の工房を襲撃したところで、彼等に収穫など無い。仲間を殺された怨恨に憤ったところで、それはカーゼにとって詮無いこと。
「なっ……」
カーゼは足を止めた。
工房の方を一度確認した時、その光景に思わず声を上げる。重い扉を開けて戸口に立っているのは、ミシルだった。ナイフを両手に持って、前方から接近する烏達を睨んでいる。彼女の目には覚悟があった。
何をしている?ドン爺を連れて脱出しろと言った筈だったが……
「そうか、剣か」
カーゼは納得した。ドン爺が工房を離れていないのだ。まだ剣を仕上げられていない、その状況で現場を離れるわけにはいかず、断固として離脱を拒んだ。それ故にミシルが烏の迎撃に出向いたのである。
呆れながらも、カーゼの足は方向転換し、烏達へと向かって行く。手に短刀、そしてあの糸を持って背後から飛び掛かる。
輪状に交差させた糸を烏の首に掛け、その傍に立っていたもう一体の首の血管に刃先を押し当てる。同時に腕を振り、烏二体を瞬く間に仕留めた。
「カーゼ!」
「何してる、早う逃げろ!」
カーゼの姿を見たミシルを叱咤し、カーゼは次の相手へと躍りかかった。短刀を相手の喉元目掛けて投擲し、武器を握る腕を肘の辺りで糸を絡ませて寸断する。引き絞った糸に骨すらも柔らかく断ち切られた。
黒刀を奪って、さらに次の相手の首へと一閃するが、横合いから現れた別の烏に受け止められる。カーゼの技量は、剣ならば烏にも劣る。彼が主流とするのは刃物ではなく、待ち構えて敵を陥れる策謀なのだ。
受け止められた刀の下を潜って、雑嚢に入っていた一尺をやや上回る刃渡りの小刀を取り出し、正面に居た烏の心臓を刺突する。胸骨の間を割って、臓器に達した一撃に烏が呻いて後退する。まだ死んでいない!
鍔迫り合うカーゼと烏。腕力ならば上回るとばかりに、烏は力を漲らせて上から押し潰す。膝を折って体勢を崩すが、それでも耐える。
ミシルが戸口から飛び出して、カーゼの下へと馳せた。彼女の目には、カーゼの背後から迫る数体の烏を捉えている。無防備な彼を守るには自分が動くしかない。だが、一足の歩幅、速度がまったく違う。追い付かないと解りながら、それでも足を前に駆り出すミシルの目には涙が垂れる。
カーゼは舌打ちをすると、刀を横へと受け流して、烏の腕を切断した。悲鳴を上げて踞るのを襟首を掴んで制止し、背後で駆け寄る敵に向けて蹴り飛ばした。腕を喪失した仲間を受け止めた烏の群れに向かって、カーゼが身を低くしたまま肉薄した。相手に向けて放った烏の体を遮蔽物に、全員の足を切り落とす心算である。
「カーゼ!」
娘の呼ぶ声が雨音に遮られて遠く感じる。
両腕を失った烏の胴を貫いて、複数の黒刀の切っ先が出現する。これには思わず、カーゼも瞠目した。仲間の死体を貫くことも厭わずに攻撃を再開する烏は……ミシルを守ろうと奮闘するカーゼを上回った。
肩を、腕を、そして腹を抉る。鋭い刃が体を切る感覚に顔を歪めながらも、カーゼは攻撃を中断せずに相手の膝下を薙ぎ払った。
足を失った烏が体勢を崩し、ここで合流したミシルが全員の頭部を刺した。
「カーゼッ……」
「……馬鹿者めが」
傷口を押さえて、木に凭れた。駆け寄ったミシルが彼を支えて覗き込む。
「ごめんっ……でも、あっし、ドン爺が言う事聞かなくて……!」
「判ってる。オイも理解できる、どいつもこいつも老いると頑固になる質だからな」
「大丈夫、今手当てするから!」
「止めとけ、無理だい」
カーゼは首を振って否定した。
烏に切り裂かれた傷を見る。何人もの死を見届け、そしてどの位置を破壊すれば相手が死ぬかを、常人よりも熟知しているカーゼからすれば、自分の体であっても冷静に分析できた。どれも応急処置や魔法でも間に合わない。
手練れの戦士を百以上に相手取り、最後に無茶をしたつけだ。
ミシルの震える声音に笑いながら溜め息をつく。
「まあ、判ってた事。穏やかに死ねるわけない。ミシル、次が来るぞい」
カーゼの視線の先では、罠を潜り抜けた烏の残党が剣呑な武器を片手に躙り寄って来ている。ミシルが立ち上がって、涙に潤む目を凝らしながら短刀を構えた。
傷口から手を離して、体に鞭打って立ち上がる。全身を貫く痛みを除けば、まだ十全に動く。相手に怯んで隙を見せてはならない。何より、ミシル一人でこの烏と戦わせるのは無謀である。ユウタ達が到着するまでの時間が必要だ。
「ミシル、これを持て」
「?」
ミシルには、まだ血の滴る糸を差し出した。硬く縛るだけで、輪の内側にある物を切断する凶器。罠を抜けて迫った烏を幾度となく屠ったカーゼの武器である。ミシルも知っているが、これは彼が古くから愛用していた得物である。特殊な製法で作られたこの糸は、どういう訳か人の肉、それ所か金属をも断つ。
「これ使え」
「でも……これ」
「作り方は前に教えた通り。これから、ミシルの武器だ。オイには無用の長物」
カーゼの腹部から迸る血から目を逸らし、ミシルは涙を拭って眼前の敵を注視する。今は情に駆られている場合ではない。ここまで奮戦した彼の為にも、ミシルは生き残らなくてはならない。もう彼が死ぬとしても、自分だけはこの窮地を突破してドン爺が打つユウタの剣を守る。
烏が蹴爪で地面を抉って飛び出す。
「構えろ」
「うん!」
× × ×
「ん……」
下山の途中、先頭を歩くドゥイが小さく声を溢す。
その時、ユウタは下から上がる悲鳴を聞き咎めていた。それがカーゼやミシルのものでない事は判る。敵襲があり、それに必死に麓で誰かが対抗しているのを察した。
「まずいぜ、ユウタ」
「何でしょう」
「ドン爺の声が聞こえた。半端ねぇ数がお出でなすったらしい」
「どのくらい?」
「百は優に超えてるだろうよ」
「急ぎましょう」
今回アクセスして頂き、誠に有り難うございます。次回から第五章が佳境です……アレオの登場が遅い。
次回もよろしくお願い致します。




