廃れた街道には怪物がいる
更新しました。久し振りのムスビとユウタのギャグ展開です。
小さな老人。
襷で袖を絞り、炉の前に口を結んで鎚を振り上げた。その矮躯に力を漲らせ、取り出した赤い光を放つ錬鉄の塊を打つ。金属の音の律動がこだまして、林間の深い闇の中へと沈殿していく。火花を散らす度に、あたりを熱風が吹き付ける。手元で弾ける火の閃光に肌が焼けるのも厭わず、その型を定める。
この職能は古くから、戒めと誇りを持つ。作る物によって、人の営みを効率よく進める道具になる事や、また敵対する者の命を殺す殺傷力の高い武具という、云わば戦を作り出す根源とも言える。だが、それを世に活かす為に、剣を、槍を、斧を、鎚を造り出す事を止めず、ただ己の使命を全うするのみ。
戒めとは、己が如何に罪深き人間かを自覚し、相手を屠る物であると共に、命を守る盾として武器を精製する。これが戦乱の火種に、さらなる薪をくべることとなろうとも、両立させる為の力を世に形として与えるべく、この熱い血潮を錬磨された鉄へと注ぎ込む。
誇りとは、この職に対するもの。自身の腕が上がるほどに、鉄には己の心の形が表れる。自分だけの技術、こだわり、人生を鏡の如く物体として投影できるのだ。自分の生き様を証明する手段。
そして、いま老人は傑作を生み出さんとしている。ただの鉄でありながら、これから多くの命を殺めるであろう罪科を背負う事となる武器。だがいつかは、人を守る為の力へと転じられると信じて。
工房の中で、ひっそりと佇むのは黒衣の少年。
印象が薄く、ただ琥珀色の瞳が鉄より咲き乱れる火花に煌めく。闇の中に同化するように、一切口を開かずに見守っていた。視線を外さず、吹き荒れる熱風にも耐え、これから道を共にする相棒の完成を見据えた。
老人は完成してしばらく経ってから、仕上げ砥まで済ませる。それから黒みを帯びた赤紫色の鞘と把を付けて、少年へと恰も王へ献上するような恭しい態度で手渡す。両手の上で横にされ、差し出された物を受け取った少年もまた、深々と黙礼する。
「これが最後の仕事だ。お前より後世に、人切りの剣を打つ事は無い」
「誓いましょう。僕で最後です、その為の僕です」
「よかろう」
決然とした誓言に老人は満足して工房の中へと入る。その背に、少年の憐愍を含む眼差しを感じながら。数多くの剣を鋳造し、それもある一族の為に働いた伝説の男は、悲願を少年へと託す。男は鎚を炉の中へと放ると、音もなく去って行った少年の面影に想いを馳せる。これから彼が歩む道は、誰よりも過酷で苛烈となるだろう。
若き心を壊死させ、凍てつかせ、麻痺させてまで、先を進む少年の武運を祈り、先に舞台を降りた。
× × ×
「ちょっと、起きなさいよ!」
肩を叩かれる痛みと、耳元で怒鳴る少女の声に意識が覚醒する。先程まで鮮明だった内容も、ほとんどが抜け落ちてしまった。必死に思い起こそうとするが、情景は朧気で何の要領も得ない。これが少女に無理矢理起こされたからか、或いはまた誰かの記憶と交錯した故の反動か。
旅の途中に眠ると、時折こうした夢を見る。自分はいつも、手が届くようで何も出来ない立ち位置のまま、その光景を黙視しているのみ。いや、侵してはならない、そして変えられない昔の事象だとするなら、それはどうしようも無い。せめて、自分に条理を逸した時間を遡行する力さえあれば、夢を現実にし、過去と対話が可能だっただろう。
だが、それは領分を超えた行為。歴史を築いた人間に対する侮辱。無闇に干渉する事で、生まれた筈の命や救済が、破滅と災厄に変えられる未来の可能性も否めない。時を遡るなど、元より分不相応で、思い上がりも甚だしい。力の有る者は、常に危険性について自覚がなければならない。それが与える影響が及ぶ範囲も把握すべきだ。
「あのさ、聞いてんの!?」
「耳元で喚き散らさないでくれ」
「あんたねぇ……!!」
夢はどんな物であろうが、睡眠を妨げられた不機嫌を隠さずに、ユウタは悪態をついた。ここ最近は、いつにも増して睡眠時間が少ない。たった数分だけ瞼を閉じれば、それだけで疲労を癒せる。回復力ならば誰よりも優れていると感じているが、仮にこの状態が続いて体調不良になっても敵は容赦しないだろう。
これが何かの発生する兆しだとすれば、ユウタは危惧の念が募る。流石に何度も進行方向にて、騒乱との邂逅を幾度もすれば、嫌でも考えてしまうのだ。旅人として、冒険者として、こういった事件に立ち会うというのは探求心を擽る出来事なのかもしれないが、ユウタとムスビにとっては、まるで執拗に厄介なモノの方からこちらへと歩み寄っているとしか思えない。
確かに、旅の目的に近付くとしては、奇遇にもすべてユウタに無関係ではなかった。いや、そうだったからこそ、巻き込まれないよう逃げるという選択肢を失った理由でもある。誰かが作為的に引き起こしたのだとすれば、見事に術中に嵌まっていた。快く現実を受け止めて敢然と突き進むのは、生粋の冒険者か、常軌を逸した途轍もない奇人。既にこの三ヶ月の旅の途上で、そういった人物とは何度も出会った。
ロブディを出発して早半月が経つ。山岳部にあった町から、森の魔物を退けて進んでも、二人のペースは早い。どちらも体力に関しては、一流の旅人と差異がないくらいだ。本来ならば一ヶ月を要する道を、半分ほどで渡った調子は素人の目で見ても良好。
そう、何も無ければ、の話だ。
町に到着してからが、二人の本領発揮、というのか。意図せず、何かと対立してしまうため、安寧や平穏といった言葉とは無縁の旅路を歩んでいる。
現在、二人が居るのは次の町の周辺にある、南方最大の森とされるシエール森林。強力な魔物が大量に出没する事で名が知られるこの地について、ユウタとムスビは全く予備知識も無く踏み入っていた。持ち前の戦闘力が相手を凌駕していたお蔭で、立ち塞がる魔物を退治できた。本人達も、敵との遭遇率の高さ以外に違和感を覚えない。二人の無知が許されるのは、ひとえに厳しい鍛練、苛烈な経験を培って、緊急事態にも迅速な対処ができる気構えができているからだ。
町への到着間近とあり、すぐ近くにあった巨木で体を休めると提案したムスビに賛成し、魔物から身を隠す為にも木の上で安臥できる場所を探して二人は眠った。
そして、森に降り注ぐ雨に打たれた枝葉から伝う雨水にムスビが起きて、ユウタを叩き起こし、ロブディから現在地に至るまでの経緯の説明を終える。
ユウタが見上げると、幾重にも重なる葉の微かな隙間から暗雲が見えた。その内、落雷でもありそうな黒さを孕む。雨脚が酷くなる予感を覚えて、体を太い枝から起こした。
ごろごろ。
どこか近くで、盛大に雷鳴が轟く。
「ひっ」
短い悲鳴を上げて、ユウタの袷の袖を両手で掴む。全身を強張らせて、いつもの気勢を忘れたように、相棒の肩へと顔を埋める。その姿に唖然として、ユウタはムスビの手を握った。
「もしかして君、雷が怖いの?」
「な……んな訳ないでしょ!?あたしが空をチカチカさせるだけの近所迷惑な自然現象に、どうして怯えなくちゃ」
ごろごろ、ぴしゃあっ!
「ひぇっ……」
今度は咄嗟に口を覆って震える。垂れていた尻尾がぴんと張って、耳が頭に伏せていた。あれだけ言い訳をしておきながら、怯懦を隠さずにユウタに縋り付く。可笑しくて込み上げる笑いを必死に堪える事で精一杯であるユウタは、自分の膝の皮を抓ねっていた。
しかし、近い。ユウタの居るのは、この一帯の中でも背丈の高い木。悠長に眠っていたら、ムスビを嘲笑した事に対する天の裁きを受けるだろう。
ユウタが立ち上がった時、雨が更に激しく樹冠に叩き付けられる。勢いを増し、葉肉を滑り落ちる水の量も、桶をひっくり返したようだった。怯えるムスビを宥めて、急いで荷物を背負う。幸い、二人とも少量の持ち物しか無いため、早々に巨木から離れた場所へと移動できた。
未だユウタの腕を掴んでいるムスビの異常さに疑念を懐きつつ、町へと向かって歩き出した。空があまりにも暗いが、朝である事は判った。
ぴしゃっ!!
周囲を照らす光が瞬いたと認識した瞬間、爆風に二人は前へと突き飛ばされた。遅れて空気を走る音が鼓膜を激しく打った。
風が樹間を馳せて二人を直撃する瞬間よりも先に、ユウタの危機を察知した本能が動いた。咄嗟にムスビを両腕で抱えて飛び上がり、空中で翻身して着地する。風に煽られた勢いを後ろ足で踏ん張って相殺し、急襲してきた轟風に耐えた。あと僅かでも反応が遅れていたら、無様にぬかるんだ地面の上を滑っていただろう。
ユウタは驚悸で胸骨を叩く心臓を落ち着かせて、爆風の発生源を窺う。
自分達が休憩していた木が煙を立てて炎上していた。二丈ほどあった高木が、中程まで大きな亀裂を入れ、その裂傷から凄まじい火勢で隣の木まで延焼する。
「あ、有り難うムスビ。もしかしたら、僕らはあそこで本当に天国との距離を省略していたのかもしれない……」
冗談ではなく、本心で呟いたユウタ。ここまで凄まじい光景を目撃したのは初めてだった。自分でも視認出来ない物の例を挙げるとするならば、恐らくこの雷だと断言する。
ムスビは相変わらず――否、むしろ先程よりも震えていた。内側を毒で冒され、激しい痙攣でも起こしたように、ユウタの襟を掴んで揺すっていた。あまりに異常な彼女を心配しないとまではならず、ユウタは近くの木陰へと身を寄せた。
ゆっくりと降ろして立たせると、顔を覗き込んで表情を覗く。
雨とは違う、汗が頬を伝って色気を放っていたが、顔色は薄闇の中でもわかるほど白い。
「ムスビ、大丈夫?」
「は、離れないで……お願いだから……」
「いや、僕も怖かったよ。あれは本気で冗談の程度じゃないよ。僕らを狙って巨木に爆薬でも仕込んでたんじゃないかな」
「あ、あんただけでしょ!あたしは何もしてないじゃない!」
「僕だけ罪人扱いとは、随分と都合が良いな。振り返ってみろ、僕らの旅路を!」
「ああ、海が綺麗だったわね」
「確かに、そこだけだな」
沁々と頷く。シェイサイトでは有名人となり過ぎて、町中では絶え間なく人々から声を掛けられては誘われていた。ロブディでは路銀を稼ぐ為の仕事に追われ、ハナエの世話以外に心が安らいだ事はない。リィテルの海が美しく思えてしまうのは、恐らくその所為だろう。
いつもの会話で、恐怖が希釈したのかムスビが冷静さを取り戻す。ユウタの右腕を掴んだ手は離さないが、前に進める状態にまでは復調した。キャスケット帽子を深く被って、深呼吸する。
「ムスビ、どうかした?魔物にも怖じ気付かない君が雷を恐れるなんて。まさか本当に自分が雷に打たれる情景でも思い浮かべたの?」
「言い方が気に掛かるけど……。そうね、あたしが北の大陸から来たって話したじゃない?」
「初耳だな」
「また最初から聞きたい?」
「はいはい、憶えてますよ」
不真面目なユウタを睨む。
「あたし、実は友達が居たの」
「居たの!?君に!?」
「ぶっ飛ばすわよ!!」
「どうせ君を目当てによって来た男だろ」
ユウタの後頭部へ、久々の鉄拳が炸裂した。森の中を騒がせる雨音に負けぬ轟音が鳴る。軽い小突きだと予想して躱わさなかったユウタは、意識を刈り取られそうになって蹌踉めく。頭部から脳を直接叩く鈍痛に悶えながら、ムスビを見つめる。
ムスビは憤怒に顔を赤くさせ、眉根を寄せていた。鋭い剣幕から、どうやら嘘ではないと理解したユウタも謝罪した。
「北大陸の海を渡った後、こんな感じの激しい天気で、あたしとソイツは別れたのよ」
ユウタは彼女から聞いた話を、確りと記憶している。北大陸で武装した<印>によって殲滅させられる中、自身を庇った両親の犠牲を越えてベリオン大陸に辿り着き、南下してシェイサイトでも孤独な生活を送っていた事。まだ齢十の小さな体で、過酷な惨劇を体験したというのを、聞いた身としては忘れるわけがない。
その時、まさか二人だとは思わなかった。彼女が一人でベリオンへと難を逃れたのだと、勝手に解釈していたのだ。
別れの時が、丁度この天候と相似した状況なのだとしたら、不吉に感じるのも無理は無い。「離れないで」と言ったのは、友人と分断された辛さを思い出したのだろう。
「その友達も獣人族の生き残り?」
「そうね……まあ、戦闘力だけはあるから、何処かで傭兵でもやって生きてるんじゃない?知らないけど」
「<印>じゃなくて、その友達を探せば良いのに」
「良いのよ、あたしはもう」
ムスビはそれだけ言うと、ユウタの右腕を抱き締めた。もう様子としては、平常時の彼女を取り戻したようだが、離れる気はないらしい。状況と聞かされた話に振り払うのも気が引けた。
暫くして、ようやく解放してくれたムスビと共に森を北上する。町はもうすぐだ。
「ムスビ、着いたらどうする?意外とロブディで大量に稼いだから、飯屋かな?」
「あんた、いつもそれよね……。もう少し考えなさいよ、例えば……」
「例えば?」
「あれよ、確か……逢瀬よ!そう、ロブディの図書館で小説を読んだのよ。男と女が密かに会って楽しむって言うやつ」
「僕らもう嫌と言うほど一緒に居るじゃないか」
「嫌と言ったら殴るわよ」
「要するに、町を歩いて楽しめば良いんだね」
そこで両者の考えが纏まり、歩調を緩めずに真っ直ぐに向かった。
× × ×
町と森を区切る防壁が見えて、二人は駆け足となった。半月も同じような森の中を淡々と進み続けた二人は、久しい変化を得られ興奮した。途中、濡れた地面に足を取られそうになって互いを支え合う男女を、微笑ましそうに眺める門兵が待ち構えていた。銀の重甲冑を身に纏った兵士は、さながら出入口に聳え立つ塔。その長身で二人を見下ろす姿は、門を守るに相応しい厳めしさがあった。
身分証明書を拝見した門兵から許可を得て、二人は門を潜った。
「ちょっと待ちな少年」
「?はい?」
呼び止める門兵に小首を傾げると、門兵が険しい表情でユウタの肩に手を置く。
「このまま真っ直ぐ、“明るい町”まで向かうんだ。悪い事は言わない、道程に沿って、街灯を目指して、道の途中で止まったりするな」
「??はい」
それだけ言うと、門兵は配置へと戻った。傍で聞いていたムスビも首を捻って、理解不能と言いたげだった。ユウタは振り返って嘆息をつく。
“いつもの”嫌な予感がしたのだ。
門を潜り抜けて、少し歩くとすぐに街が現れた。
――が、二人は憮然と立ち尽くす。これまで見てきた町とは正反対な様相だった。旅先に驚愕と発見は必至だが、それでも二人に初見で与えられた衝撃は、今までに無いほど大きい。
粗末な石畳の床をした街道は、瓦礫と枯れた街路樹が立っており、道脇に並ぶ住居と思しき建物は木製で、既に腐食して柱が崩れている物もあった。明らかに人に捨てられて、廃れたと解る町並みに口を開かず周囲を見渡すのみ。
ユウタは門兵の言葉に、前方を睨んだ。遠目に明るい街灯――恐らく、あちらが町の主体であり、ここは旧市街とでもいうところか。人が向こうへと移り住んだ後、取り壊されずに残され、整備もされずに時の経過に身を委ね続けた生活の残骸が佇立している。
ムスビは不穏な空気を感じて拳を握る。
氣術を使わずともユウタの鋭い感覚が、この建ち並ぶ廃墟の中から気配を感知した。静寂の中で拾ったのは、こちらを避けるように歩く足音――それも悟られまいと気配を殺しながら行動している。
成る程。人の居ない町に住み着くのは、裏世界の居住者だろう。こういった場所を訪れたのは初めてだったが、ユウタが非常に馴染み深い感覚を憶えたのは、身を隠している人間と同じ界隈で発揮される能力を持つ故だろう。
「確かに、余計な寄り道をしないで進んだ方が良さそうだ」
「何か居るの?」
「こっちを見てる。三人かな……絶妙な立ち位置で、僕らの死角になる場所を動いて見張ってる。黙って歩こう、でないと殺される」
ユウタの言葉に慄然とした。
いつになく、緊張を走らせた声で注意する彼に頷いて、街道を歩く。
その間も、ユウタは背後から距離を一定に保って追跡する人間の足音、呼吸音を聞いていた。門兵が警戒する理由を解するのがもう少し遅ければ、最初から争いが勃発したかもしれない。
「あれ、何?」
ムスビが目を眇て、街道の先を見た。
浮き上がって不規則に凹凸を作り出した石畳の上に、襤褸の布を纏った人が倒れている。頭まで覆い隠しているため、人相までは確認できないが、はみ出した腕は明らかに細い。皮と筋しか無く、人骨に人間の剥製を施したようだった。
「あんた、大丈夫?」
駆け寄るムスビに置いて行かれながら、ユウタは観察する。こんな危険地帯で、無防備に姿を晒しているのはおかしい。この廃墟に住むのは、死体なら襤褸布でも引き剥がして売る無情な人間。それが、この状態で放置するのは納得できない。
「!ムスビ、離れろ!」
ユウタは微かに、石を擦る音を聞いた。布を巻き込んで、人肌が這う音。
ムスビが屈み込んで、襤褸布へと手を差し伸べた瞬間に、ユウタが踏み出す。電光石火の一足で彼女の前に割って入り、その胴に腕を回して飛び退る。仕込み杖を抜く余裕はない、襤褸布から一瞬で距離を置いた。
ムスビが居た地点を、襤褸布を突き破って現れた剛腕が通過していた。――否、腕ではない!
ユウタの目には、それが大蛇の胴にも見えたし、ムスビには奇妙に撓り打つ太い縄とも思えた。
だが、実際は違う。
錐状の先端をした灰色の触手、人の体に直径一尺の穴を空けるような太さをしたそれが、先をくねらせている。
「な……何なのよ、これ」
直進していた触手が翻り、二人を目指して地面を高速で蛇行する。襤褸布は依然として動かない。これは、魔物か?
ムスビを後ろに立たせながら、ユウタは紫檀の杖の柄に手を添えると、鼻先にまで迫った異形の手を一刀する。視認も許さぬ斬撃で触手を切り落として血を払って鞘へと戻す。堅い音を立てて姿を隠した仕込みの閃きに、物陰に隠れていた複数の気配が忙しく動いた。
襤褸布へと触手が引き戻されていく。切断されたそれは、断面から新たに先端を生やして、根源へと吸収された。
「う……」
人の呻き声。
襤褸布が石畳から体を起こすと、人の輪郭をようやく露にした。立ち上がってみると、相手が長身痩躯の男である事が判った。灰色の頭髪、灰色の瞳に眼鏡を掛けている。著しく細い足は体を支えるのも苦労して、左右へとふらふら揺れている。
ユウタが次の攻撃を繰り出す瞬間を見計らい、即座に切り伏せる態勢を整える。この容貌もまた、相手を油断させる為の狡猾な罠だとすれば、もう迂闊にムスビを近付けるような真似はしない。不審な挙動を見せた時には、懐へと潜り込んで頸動脈を切る。
剣呑な眼差しを投げ掛けるユウタに対し、男は空を一度見上げた後に再び地面へと倒れた。四肢を投げ出して、瞼を閉じる。
暫く見詰めていた二人に、小さな声が聞こえた。
「ど、どうか……ご飯を……」
顔を見合わせたユウタとムスビは、男を睥睨した。
「僕らを攻撃しながら、図々しいですね」
「頼む……もう三週間も食ってないんだ……美味しそうな臭いにつられて、つい攻撃してしまった。もう、なにもしない……でも、後生だから一食だけでも食わせてくれぇ……」
もはや言動からは非礼を詫びるよりも、食欲の方が強いらしい。
「どうする?」
「取り敢えず背後から襲われたら面倒だから、縛ろう。ついでにムスビも」
「じゃあ、あたしとコイツをあんたの両足に繋ぐわね」
「蹴り飛ばしてやる」
呆れたムスビは彼を縄で捕縛し、その間も警戒を解かずに杖を携えたユウタが見張る。結び目を堅く締めて行動不能にすると、そのまま男を引き摺って“明るい町”を目指した。
第五章開幕です。
今回本作を読んで頂き、誠に有り難うございます。以前から温めていたネタをついに書ける事に幸福を感じています。皆様に楽しめて頂けるよう努力します。
次回もよろしくお願い致します。




