闇の胎動(4)/カリーナと「文字魔法」
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ハナエとは常に、僕を支えるモノだった。
数少ない同年の友人で、村に忌諱されてからは一番傍で見守ってくれた家族。この身が危険に晒された時、誰よりも心配をかけてくれる。誰よりも強いのに、僕の前ではその胸懐を吐露してくれる。彼女が僕を信頼するから、応えようと思えた。
だけど、春先で氣術師の襲来があり、ハナエは人質として捕縛された。発端はすべて僕だった。ゼーダやビューダの事情を除外しても、僕の家を訪ねようとした彼女が狙われたとなれば、それは僕に対する信頼が招いた惨事である。
人の死ぬ光景を見せたくない。そう誓ったのは、タイゾウを川へ突き落とした時だ。もう憎しみで人は殺めてはならない。立ち塞がるならば、感情の対象とせず、ただ排除することを意図するだけ。
ハナエは心臓だ。師の亡き後、僕を人間として見てくれる。僕の所為で被害を被ったというのに、僕を慕ってくれた。どこまでも愛しくて、許されないと心得ておきながら、やはり彼女に縋ってしまう。
だから、旅を出れば変わるかもしれない。
ハナエは別れを惜しんでくれた。必ず君の下へ帰る、と約束を交わすと安心してくれる。離れたくない、傍で守りたい。
――でも、それは僕じゃない。二つの町を冒険して理解したのは、もう僕の周囲に安寧が存在しないという状況だ。ハナエにも実害が出ている以上、僕は彼女と居るべきではない。
ムスビに晩酌で問われた時、やはり言葉には出来ずに自戒した。口が裂けても、ハナエの隣を望んではならないのだと。それならば、せめて今ここに居る仲間だけでも救わなくてはならない。
でも、その道で人の屍は積み重なる。綺麗事で通らない世界だとは、もう随分と前から弁えているが、それでも解せないのはこれだ。殺す必要も無い者まで、事の成り行きで結果は何人もの死者を作り上げているのは僕だった。
叶うなら、戻りたい。
まだ純粋に何も知らなかった、あの家に。
師が居て、僕の頭を撫でて、この身を何よりも案じてくれるハナエが居た頃に。そうしたなら、早々に悲劇を免れた筈なのに。
家族を失うことだけは絶対にあってはならない。このすべてを擲ち犠牲にして、その人が笑える未来を獲得することで、僕の体は、力は、剣は、ここに存在意義を示す。
× × ×
「ハナエ……?」
ユウタは見下ろした。自分の握る剣から滑り落ちた、ハナエの体を。敵に操られ、ユウタへ攻撃しようとした彼女から武器を取り上げ、いま敵の術から解放しようと試みる前だった。
ジーデスも放心し、ただ倒れる彼女を見詰める。自身が装着した鎧、そして頭髪よりも赤い血が流れていた。
ユウタが耐えられず、その場に膝を屈した。全身から力が、感覚が、感情が抜け落ちたように、ただ愕然と目の前の事実を受け止めきれず硬直していた。瞼を閉じた綺麗な人相は、自分が大切だと重んじてきた宝も同然の価値を有する。それをどうして、己の手で奪う事があるというのか。
仮にそんなものが存在するというなら、それはこの世に生まれ出た時より定められた理と解する他にない。
タイガが傲然と腕を組んで、少女の容体を遠目で窺う。氣巧眼を用いなくても確認できる距離で、傷口の深さや位置から推察する。
「死ぬぞ、その娘」
「嘘だ」
「それが主を選ばなかったヤミビトの末路だ」
きっぱりと、ユウタの弱々しい声を無視して断言した。ハナエを仕込みの刃で刺した行動の真理を、タイガだけが理解し、それを本人に諭そうとしている。首を振って、上を見上げて少年が現実から逃れようとするほどに、語調を強めて執拗に告げる。
「ヤミビトは元来、主神に忠誠を誓う。余人には与えられぬ力を、過たず、無為に陥る事なく主の為に活かす事こそ本望。大陸を追放されて後も、代々ヤミビトはムガイが懐く怨恨とは離反して、常に神の遣い手となった最強の殺し屋。
神の威光が大陸を照らした時、そこに現れる影を取り除くのが使命だ」
太古より変遷することなく、神の矛として闇を奔走する者。黒い烙印を誕生と共に刻まれてから、既にその生涯は神威としての定型を授かる。影として任を果たし、影として去る時は音もなく消える。一代の命が潰えようとする時、この世に新たなヤミビトが現れるのは、ある意味では“呪い”だった。
主を持たず、曖昧な目的で力を行使するのは、ヤミビトではない。ヤミビトに意思は無い、ただ神の手先として使役される現象、機械なのだ。本来の用途に添わない生き方は、誤作動を起こす。
「訪れる先々で、お前が遭遇した事件はすべて、ヤミビトに課せられた“呪い”。主を持たぬヤミビトを罰する為に世界が起こした自然現象だ。
先代ヤミビトは、カルデラ一族と主従の契りを結んだ故に、その不穏な未来を免れた。だが……奴も愚かだ。次代にその危険性を諭さず、ただ澄まし顔のまま、満足して逝ったのだ」
ユウタの脳裏に去来するのは、師の悲哀を裏に孕んだ笑顔。彼がヤミビトの使命を拒んだからこそ、世間から隔絶した神樹の森に隠遁したのだろう。だが、いずれ敵が来ると知っていたからこそ、持ちうる技術を伝授したのだ。
師は躊躇ったのか。それとも、本当は森を出る事なく、一生を終えると考えていたのか。
「無意味に振るわれた剣が血に塗れ、錆を落とそうとまた血を求める。無意識だろうが無自覚だろうが、宿命から逃れられない。
今の貴様は、本能が目の前に立ちはだかる敵を、たとえ肉親だろうと知己であろうと過たず、無差別に殺傷する。変化の兆しは、その黒印の成長」
あの時からだった。
三人の氣術師が来訪する春。それからシェイサイトでクロガネと一騎討ちを果たす時が限界だったのだ。リィテルで、情報収集の為に生け捕りを目的として八咫烏の戦闘に臨んだ筈なのに、いざ始まってみれば、確実に仕留める事だけを念頭に置いて戦っていた。
聖女の護衛を討ち滅ぼし、八咫烏を退けた時に感じた違和感は間違いではなかった。
いや、最初から危惧していた未来でもある。身近にいる人間が巻き込まれる事件、その中心にいつも自分が居る事。ヤミビトの本能に対し、ユウタという人間性が微弱ながらに警告を発していたのだろう。
「どうやら、畏れた未来は実現したらしい。ヤミビトの刃は、害意を滅する能力。その手で与えた負傷の度合いが、命に近付くほど感情を奪う」
ユウタは心当たりがある。あれだけ師を憎んでいたクロガネが、後日に会った時に憎悪の欠片すら見せなかった。では――ハナエが助かったとして、果たして彼女は人間として機能するのか。ユウタの見立てでは、寸分違わず急所を突いている。練り上げてきた腕が望まぬ形で発揮されていた。
項垂れて絶望するユウタを見詰めて、嗜虐の笑みを浮かべた。追い討ちをかけるならば今だ。まさしく、ユウタの精神は瓦解の一途を歩み始めた。積み上げてきた物が凡て崩れ、ヤミビトへの回帰を成そうとしている。
「無名!」
ジーデスが反応した。ユウタの方は依然として、脱け殻の如くその誰何にも面を上げない。
勇者セラを伴って、暫く別行動をしていたカリーナが駆け付けた。倒れているハナエを発見し、ローブの裾を払って傍に屈み込む。早速、その刺創を診て即座に原因となった得物を特定すると、もう誰もが語るべくもなく、事の経緯を察した。
ユウタが一般人に害を及ぼした。その手違いを咎め、カリーナの平手が彼の頬を叩く。避けずに受けたユウタの顔が赤くなる。
「今は問わない。それよりも治療が先決だ」
「治るんですか!?」
「出血が多いが、まだ間に合う!」
ジーデスの必死の形相にも、冷静な面持ちで対応したカリーナは、懐から鍵とは違う物を取り出す。
その手にあるのは、文字を記す尖端付近の握る部分に空色の宝玉が嵌められ、それを包む銀の蔦が伸びる装飾が施された鵞ペンだった。インクも付いていない上に、認める為の紙がない現状では、全く使い途のない道具だ。
だがカリーナは迷わず、中空で先端を振るった。そこに見えない紙面があるかの如く、文字を描いていく。
彼女が何をするつもりなのか、それを黙って見ていたジーデスの目前に、光の文字が浮かび上がった。投影されたのは、カリーナの癖がある達筆な文字である。精密に記すよりも、文末まで一気に書ききる為に逸るペン先から荒々しく紡がれる。
「《再生の詩》・《物質創造》」
カリーナが唱えると、文字が光の粒子として形を崩すと、ハナエの傷口へと入って行く。
この光景に、ジーデスが瞠目した。傷が急速に、目に見えて分かる変化を遂げている。塞がっていくそれを、セラも感嘆の声を上げて見守った。
「こ、これが……」
「必要になるとはな」
カリーナが使ったのは、カルデラ一族に代々継承される特殊魔法。この迷宮図書館の危険な書物を管理する血族は、時にそれを封印する役を担う。その際に必要なのが、言葉を文字として、文字を現象として具現化する能力。
「文字魔法」と呼ばれるこれは、他の魔法と異なる。初代カルデラ一族の当主が、この鵞ペンに彼固有の魔法であった「文字魔法」を付加した。その能力でペン自体を永久的に魔装としたのである。そして、それを使用できるのはカルデラ一族のみ。
一族の秘宝は、『図書館の鍵』と『顕現の鵞ペン』。
今回は後者を、カリーナ渾身の魔力を注いで描いた文字により、ハナエを癒そうとした。切り裂かれた組織や血管を繋げ、不足した血液を、地面に溢れた血を分解して材料に体内で創造する。一流の魔導師が長い詠唱と儀式で成功させる技を、彼女はその手先で一瞬の内に作り出した。
ユウタを同伴した以上、些細な障害は考慮に加えなくても良いと踏んでいたが、念の為に当主の権限で家宝を持ち出すに至った。無論、その所業や真意をカルデラ一族の館の使用人、そして兄のムンデさえ知らない。
ハナエの出血が止まる。少し咳き込んで、身を丸めて呻いた挙動で、生きているのが解った。補う為に増量された血が巡る。急場を凌いだお安堵したジーデスも情けなく感涙を目尻に溜めた。セラは飛び跳ねて喜んでいる。
「やった!」
「いや……私の魔力では、全癒は出来なかった。応急処置を済ませただけの、まだ危険な状態に変わりない……」
「あ、ボクは血液作るのは無理だけど治癒はできるよ?」
魔力の大半を失い、疲弊したカリーナは血色が悪い。荒い呼吸と虚脱感に苛まれている。それを見て笑いながら、セラが身を乗り出し治癒魔法を使った。
ジーデスがハナエを両腕で抱き上げた。カリーナの指示通りなら、血がまだ足りない。すぐにでも栄養と安息が必要だ。しかし、この地下の炙られた空気では体力が奪われていく一方だ。ただでさえ深傷を負った後に、この環境は毒だった。
「勇者セラ、カリーナ様を運んでくれ!」
「えー、これでもボク女の子なんだから、ボクも運んでよ」
「その理屈で行くと、俺は三人を抱えて手練の武装集団から走って逃げなくちゃならないだろう!?」
軽口を叩くセラへ無理矢理カリーナを任せて、ジーデスはユウタに振り向いた。まだ感傷に浸っているのかと苛立ちを感じたが、彼の様子に凍り付く。
こちらに背を向けたまま、ユウタは仕込みの刃を振って血を払い、鞘に納める。右手の包帯がほどけ、そこから露になった黒印が広がっていく光景は、ユウタの全身を冒す毒が体内に蔓延していく禍々しさがあった。
「ゆ、ユウタ?」
ジーデスの戸惑いに震えた声にも反応せず、タイガへと進み出る。黒印はもう右腕を真っ黒に染め上げ、全身に行き届いていた。温厚で穏やかな少年の顔までも黒塗りになり、双眸が真紅の輝きを灯す。右手に握った杖にまで伸びた烙印は、紫檀を漆黒で上塗りする。
肉体だけでなく、手に駆る武器にすら影響する烙印の変化の異様さに、ジーデスは押し黙った。
「……無名なら大丈夫だ」
「しかし、カリーナ様……!!」
「それと、セラはその娘を連れて町へ。その方が安全性が高い。ジーデス、お前は私の護衛として、第四層に留まれ」
「何故……!?」
「無名が奴等を連れて来る事態を防ぐ為だ。無名と共にこの場を脱した後、この階層を『閉じる』」
「……はい」
「仕方ないなぁ。ボクが運ぶよ」
ジーデスからハナエを受け取ると、颯爽と来た道を駆け戻るセラ。怪我人を運ぶ際に必要な配慮があるのか二人は心配になったが、今はそれよりも意識を引き付けられる出来事が目の前にある。
タイガが目を細めて、ユウタを眺める。
少年としての容貌ではなく、そこに人の形を真似た闇が蟠っているように感じた。それが生き物であると判別できるのは、赤い瞳のみである。炯々と輝くそれには、途轍もない殺意が宿っていた。
「そうか、それがヤミビトの真髄か」
その名に相応しい姿を得たユウタへ乾いた拍手を送った。所詮、その真価を発揮しようと氣巧眼で捉えられる。どんなに敏捷性があろうとも、その事実は覆せない。
「良いだろう。まだ向かって来るというのなら、全力でやろう。だが、次の一撃で決める。その勝負にもお前が敗れたなら、今度こそ我々と来て貰おう」
カリーナが顔を顰めた。このタイガという氣術師が、ここまでユウタを完封してのけた人間なのか。
二人から眼を逸らさずに、横に立つジーデスに敵の戦術を問う。この場でユウタを除けば、その能力を知るのはジーデスだけだ。
「奴の武器は?」
「素手です。ただ腕力からすれば、殺傷力が高いですね。ユウタだからこそ、辛うじて致命傷を回避できている状態です」
「奴がユウタに対して繰り出したのは、格闘術のみか?」
「いえ……氣巧眼、という技を使ったとか……。氣術については判りませんが、本人は微かな体の動きから先を読み取れるとか」
「確かに厄介だ」
「ユウタは……勝てるんでしょうか?」
ジーデスの声に、数瞬の間を置いて答える。
「あの姿で発揮できる力は未知数だ。始まってみなければ判らない」
それから二人は口を閉ざして、氣術師の対立に集中した。
今回アクセスして頂き、誠に有難うございます。カリーナの活躍が漸く書けて満足しています。次回を乗り越えたら、暫く戦闘の無いシリアスが続行されます。
これからもお付き合い頂けたら嬉しいです。次回もよろしくお願い致します。




