思い出と温もり
怒濤のラッシュ(投稿)。自分が余程、暇人なのを証明するには不足なしですね(泣)。
出会ったのは、十歳だった。
森林に囲まれて生活していた少年にとって、この世界は森とあの老人だけで完結していて、他に語るべきは自分だけという簡素な事実。取り分けて大きく興味を惹く事がなくなり、いつしか年頃に似合わぬ無頓着な性格になりつつあった。
そんな時、自宅から少し離れた川。そこから先に進めば、村があるという。そう、老人から聞き及んでいた少年は、対岸に向かって意味もなく眼差しを向けるだけ。先に進もうとは思わない。
そこへ、一人の女の子がやってきた。
同い年だろうか、随分と華奢な手足をしている。森林の陰から現れ、日の下に晒された頭髪が輝かしく煌めいた。網膜を焼き付けるような光に、一度だけ目を瞑って、再度その少女を見据える。
少し、途方に暮れたような顔で、こちらを見ていると、不器用なりに微笑んだ。
その時、少し興味の薄れていた世界が、色付いた気がした。
× × ×
ハナエと別れた己の判断と行動に悔恨を懐きつつ、到着した自宅の前で疲労に凝り固まった体を超然と伸ばす。元より、村を出る時には終わってしまう関係だ。物怖じしても仕方がない。きっとこうなっていたなら、せめて二度と会いたくなくなるよう・・・
心を安らげる為に理屈を捏ねるほど、それが虚しい試みだと理解してしまう。自分の胸の芯を、鈍く突き刺す痛みを堪えるしかないのだ。自分にとっては、唯一にして無二の友人。それを自分の手で強引に終わらせた事は、どうあっても覆し難い後悔が募る。集積する負の念から目を逸らし、戸板の扉を開けた。
ユウタは、無人の家の中を舐めるように見詰めて、玄関に膝を着く。体の疲労よりも、精神的な負担の方が大きい今日は、早めに休眠を取りたい。
狩猟採取による自足自給(最近は釣りによる魚が多く、春の一件以来は獣を狩る事すらしていない)とは言え、恐らくこれから森を出た後の旅先は金銭による物交換が主流となるだろう。そういった知識を、老人から最低限知識を叩き込まれた故に、ある程度の心配は要らない。だが、それでも他人との交流、それも商人が相手となればどうだろう。簡単な詐欺に会うのではないか。
また思考に耽溺するユウタが、天井を見上げ、込み上げるものを押し殺した呻き声を出す。気にしないようにはしているが、やはりハナエの居ない家は物凄く静かだ。
節々で彼女を想起してしまう自分に呆れて、膝を叩いて己を叱咤した。
「よし、明日に謝るか!」
× × ×
村長から通告を受けて、四日が経つ。
残りは三日。その内を、ユウタは黙々と、今まで通り過ごしている。
変わったのは、あれからハナエが一度も家を訪ねないこと。その理由を、彼女との決別を切り出した自分の責任だとし、考えないようにしていた。不意に浮かぶ彼女の面影も、その声も、一切を意識から排除することに努めた。それが思わぬ内に胸を締め付けている事には気付かない。
少し下り、中流域で川面に糸を垂らして仕掛にかかるのを待つ。退屈ではあるが、それはいつもの事。いずれ旅をする内に…旅の事を考えれば、いま孤独に苛まれる心も和らぐだろう。
そんな発見をした時、背後で藪を掻き分ける騒々しい音に振り返った。一瞬、無意識にハナエと期待した事に忸怩たる感情を懐きつつも、揺れ動く草木を注視する。傍に備えた仕込み杖(二尺ほどある刃を隠した得物)に指先を添えて、接近する何かが全貌を晒すのを刮目して見守る。
「え」
現れたのは、ゴブリンだった。
深緑の肌に、二尺ほどしかない背丈と、大きな鼻。醜悪に歪められた口元が嫌らしくつり上がっていた。集団で旅人を襲う事で知られ、魔物にさほど詳しくもないユウタでも耳にするマイナーな怪物だ。
ユウタの驚愕は、単に登場したのが予想外だったかだ。ゴブリンは、この地域には棲息しない魔物。更に南側へと遠く進めば、ようやく姿が確認できるが、この地に出現した例は無い。
何より、集団行動を主とするゴブリンが一体で行動していること自体が、この状況の異常さを犇々とユウタに感じさせた。先日のスノウマンといい、何か少し怪しい。
夏の強風、見慣れぬ魔物の出現、村からの完全追放…、最後は兎も角、こうも重なると何かの予兆としか考えられない。いよいよ、ハナエが村を出て此方に来てくれるのは、絶望的だと言えよう。心底、状況の悪化に落胆しながら、釣竿を岩の隙間に挟んで固定し、ゴブリンに悟られぬよう足音を消しながら仕込み杖を引き抜く。
ゴブリンを仕留め、その死体を川に流しながら、ため息をついた。村には、村の外を巡回に出ている“守護者”に忠告した方がいいかもしれない。
「……ギゼル辺りが良いかな」
そんなことを一人呟いて、夜に赴く事にした。魔物の出現が、己の所為と噂される前に。何も告げずに出れば、後に存在が判明して濡れ衣に指を指されるだろう。教えても同じだが、責めて世話になったその証として。それが済んだら──その翌朝には出立しよう。
ハナエとの再会は諦め、謝罪もせずに出てしまえばいい。一週間の期間を設けられ、慣れ親しんだ土地に離れる事を躊躇したが、そう決断してからのユウタの胸に未練はなかった。
三尾入った藁かごを抱え、釣竿を巻き上げると家路を戻る。清々しい気分になったことで、心なしか足取りが弾んでいる。森の外に広がる世界に想いを馳せ、いつしかあの老人のような人間に育ちたい。そう願うばかりだった。
× × ×
一つ、昔話をしよう。
ユウタには、一人の師がいた。
物心つく頃から、自分の傍に居て、いつしか森で共に暮らすようになった老人。本人から聞いた話によれば、十数年前に立ち寄り、ここに腰を据えたらしい。白い無精髭を蓄え、裾の短い服を着ている。山に隠れ住み、どこか神秘的な空気を纏う姿は、仙人の様相を呈していた。
いつも彼の強いた原則は厳しく、生活の大半をそれに従い、制限されていた。唯一許された休憩、もとい児戯を容認する時も、ユウタは進んで老人の傍に居た。少年にとっては、老人が唯一の肉親であるためか、信頼は誰よりも厚かった。
老人は何事にも関心の薄そうな人間だったが、その時間だけは少年の親として優しかった。自分が森に行き着くまで、旅をして居た頃の話。地域によって様々な文化があり、時に異文化との間で生じる軋轢も。それは、幼い少年を虜にした。
武器の扱い。体術。そして──特殊な業。
それらを修練で身に付け、更に己を錬磨するユウタの目標は、常に老人である。彼に追随するには、守護者全員を束ねても届かない。一生をかけなければその頂を捉える事すら難しい霊峰の如し存在だ。
ユウタの成長を傍で見守っていた老人は、自身の右腕に刻まれている刻印について語ってくれた。
これは、“愛情”なのだと。いまは忌まわしき呪いと揶揄されても、いつか本当の真実に辿り着いたとき、それが何よりもの救いになるだろう。老人の言葉は、今なお少年の耳を離れない。
老人が老衰に倒れ、床を離れられなくなった時。死期を悟った彼は、ユウタに遺言を残した。
一言、「愛している」と。
そうやって事切れた。ユウタが十歳の頃だった。
老人を丁重に葬り、墓石を立てた。以前から彼と交流あった村に援助を受けながら暮らしていた中、ある狩りの日にハナエと出会う。
最初は、才ある人形師が人生の全てを費やし制作した傑作でもあるかのような、そんな美しい少女に言葉を失ったが、好奇心旺盛な彼女の様子に、自分と変わらぬただの子供だと認識する。そこから打ち解けるまで、時間を要することはなかった。
五年間続いた友好関係は、その春に起きた事件を境により深まることになった。共依存にも似た互いの信頼を覚りつつも。
× × ×
自宅に帰る頃には、日が暮れていた。
夜空を覆う森の中では、星明かりすらない。松明を作って、帰路を辿るユウタにとっては、この闇すらも恋しい。もう此所から離れるとなると、子供の頃に暗闇を恐れていた頃が懐かしくなる。
自宅に差し掛かった時、前方に揺蕩う火の灯りに身構えた。自分の家の前で、誰かが待っている。火は起こしてもいない自宅で、灯りがあるのは不自然だ。
「ユウタ」
身を隠そうとしたユウタを、聞きなれた声が制止する。
「は、ハナエ……?」
「うん、待ってたよ」
松明を片手に、火に照らされて濡れ光る金の髪を見て、ユウタは暫く忘我する。もう会う気はなかった。会う事はないと諦念していた相手が、長い沈黙を破って自ら現れたことに驚嘆している。
ハナエは松明の火を消す。途端に闇に溶けて消えた彼女の姿に、慌てて前へ駆け出した。
いま見失ったら、二度と。そう不安にさせる。
ユウタが走り出してすぐ、彼の胸の内に飛び込んで来た。決別の時と違って、優しい抱擁だった。
「おかえり、ユウタ」
「……うん、ただいま」
彼女に引かれて、松明を消す。闇の中でも、家へと真っ直ぐ行けた。繋いだ手は火よりも暖かく、その感触に安堵してさらに指先を絡めた。
その後、久し振りに孤独の和らいだ我が家の中は、度し難いほど心地よかった。
おう・・・文字数が減ってきていますね。着実に。
残り三話で、恐らく「ユウタと神樹の森」は完結します。そこから色々始めたいと思います。