しりたい
短めですが、かなりの爆弾です。
遡ること――わずか数分。
虹の帳で包まれた異形の天女。
異質な光で照らされた北部は、動植物から一時の夜を忘失した。消えたのは夜闇だけではない、空気すらも暖められ、冬の凍気は瞬く間に春の気候に遜色ない暖気に変わる。
木々の間で猛禽が聒しく、雪下から草木が立ち上がり、木々は雪を振り落として花を咲かせた。
誰もが神の御業と心得る光景だ。
しかし、ユウタだけが力の正体を明確に把握していた。
規模は桁違いだが、広範囲全体に拡散していく氣の波動は、紛うことなき魔術と同質のもの。ムスビの氣流などを感知していた経験から間違いないと断ずる。
夜空に浮かんだ瑰麗に考える力を失いそうになるが、ユウタは氣術の流儀として最も重要な判断力と集中力の喪失を厭うて自身を叱咤する。
何より、出会った頃よりは頭脳戦も行えるようになったものの、未だ感覚に重きを置いた戦法のムスビの隣で、ユウタが思考を放棄するのは自殺の沙汰なのだ。
仕込み杖を右手に携える。
強く握り込んだ杖から、墨汁が染みていくように紫檀の表面を邪氣が包んでいく。黒印の形も崩れて皮膚全体を侵して、ユウタの半身を黒く染め上げた。
体をほぐすムスビの隣で武装を完了する。
対峙するのは本物の神――生半な攻撃手段では絶対に斃せない。討伐方法を推測するべく、天女の力を氣術で再分析した。
あの天女の下半身の剣に氣が最も集中しており、常時気候を変転させる魔術の根源は切っ先から波動を発している。
ユウタは、飛びかからんと踏み込むムスビの肩を摑んで引き留めた。
「何よ?」
「アイツの弱点は剣の切っ先、そこを破壊すれば力を封じられる」
「どうやってやるのよ」
「頑丈そうだけれど、僕が邪氣で外部を破壊して君が魔法を叩き込む。……それで、いけるかも」
ムスビは釈然としない面持ちだった。
体力の限界に近い状態で勝算のある相手かと言われれば、にべもなく否と答える。魔術師の祖であり、紛れもない神そのもの。
天女の言動は、明確にムスビを指していた。
つまり、撤退を選んでも執拗に追撃を繰り出してくるのは自明の理。最初から戦う以外の選択肢が無いとはいえど、ただでさえ普通の伏兵にも難儀している身では敵わない。
特にユウタの疲弊の具合が甚大だった。
目前に聳える強大な力に緊張感で体を奮い起たせているが、一度それが解ければ忽ちに地面に伏しているだろう。
つまり、早期決戦が望ましい。
相手を見る限りでは、長丁場しか予想がつかないが……。
「いいけど、あんた動けんの?」
「正直、指先を動かすのも億劫だ。体内氣流を加速させてどうにかだよ」
「……無理して死なないでよ」
ユウタは意外な配慮の言葉に目を見開く。
心の芥蔕で長く重苦しかった空気が一瞬だけ和らぐ。救済にも思える短い時間に深呼吸する。
隣のムスビが再度構えた。
ユウタは邪氣の翼を生成して、一気に天女に躍り掛かろうと踏み出して――。
『貴方は邪魔ですね、ディンの一族の裔よ』
天女の半身が地面に沈む。
切っ先が北部の漁村を半壊させ、数呼吸の間を置いた後に虹色の波紋が広域に拡散した。衝撃波を伴うそれに、地面が捲れ上がって噴煙が高波のごとく連なり内陸部へと殺到する。
面食らったユウタは、飛行体勢を中断して両の掌を前方に突き出した。邪氣の防護壁を立たせ、その後ろで今や小山程度の質量ならば自在に動かせる氣術で斥力の防護膜を展開するが、眼前から押し寄せた衝撃波は予想を凌駕する。
斥力との衝突――正面から喰い合った力の抵抗力がユウタの両腕全体を苛む。
呆気なく邪氣の壁が破砕された。虹の輪となった波紋が斥力場を軽く後退させていく。
押し負ける危機感に、無意識に邪氣でムスビを包んだ。
虹の輪がユウタの腹部を通過し――直後に全身を乱打する氣の乱気流に襲われた。波紋の中心点から押し退けられた瓦礫などの物質とともに、力の波頭に押されて吹き飛ぶ。
ムスビを保護する邪氣の外側以外が、破格の天災によって形を失う。
山岳部は波紋を受けた部分から寸断され、地面から切り離された山腹は爆砕し、噴煙の津波によって森林や村が浚われていく。
天女が剣先を引き上げると、穏やかに虹の波紋は消失した。
遠雷のごとき地鳴りを残すだけで、中央大陸北部を侵略した理不尽が途絶える。
邪氣の防護が解けた。
破片となって分解していく邪氣に、ムスビは茫然自失となった。視界が黒に遮られる寸前、為す術なくどこかへ吹き飛ぶユウタの面影が脳裏に焼き付いている。
土煙で全景が塞がれていた。
ムスビの相棒を探す視線は、まるで積乱雲の中に閉ざされたような景色ばかりを映す。これでは探しようもない!
右往左往していると、崩壊した邪氣の破片の一部が南の方へと走っていくのを見咎めた。慌てて破片を追跡し、ムスビは均された地面の上を走る。
坂だった道も、完全に平坦になっていた。
土煙の切れ間から、虹色の陽光が差す。煩わしくて顔を顰めたムスビを嘲笑うような天女の笑声が空を賑わせた。
やがて破片が小さくなって消滅する。
ムスビが足を止めたのは、山々の瓦礫が堆積した地域だった。
この近辺にユウタがいるのだと考えて、ムスビは再び視線を巡らせる。先刻よりは視界良好、されど打って変わって今度は岩たちが遮る。
ムスビは半ば諦念に打ち拉がれながらも歩いて探す。
その捜索から幸いにも卅を数えない時間で、脳裏の面影と照合する人物を発見した。
そして、現在に至る。
ユウタは平坦な地面の上に倒れていた。
外見からは瓦礫に押し潰されたり、肉体が崩壊していない。
ムスビは駆け寄って、脈拍を確かめる。血流は止まっていない、呼吸は穏やかで規則的に行われている。
それでも、瑕瑾があるように思われた。
意識が、否、まるで魂でも抜けたような気配がする。目が覚めないという直感に冷や汗が滲み、ムスビは彼の体を激しく揺すった。
「起きなさいよ、ねぇ!」
ユウタは動かない。――ただ昏々と眠っている。
『彼のいない世界って、あたし達に必要?』
唐突に耳の奥で声が生まれる。
ムスビは咄嗟に頭頂の両耳を手で覆った。総身を根底から不快感で揺さぶられる。
夢の住人だったはずの声の主が、ムスビの領分だった現実にまで干渉してきていた。
『混ざりモノ、雑ざりモノ、交ざりモノ』
「黙んなさいよ!アンタの方から混じって来たんじゃない!!」
「……アンタの方が後なのに?」
「違う!そんなわけない!」
拒絶反応で震えるムスビ。
声の主と生じた牴牾の違和感が、ますます嫌悪感を湧かせる。腑を鑢で削られるような感覚に総毛立った。
その背中の虚空に氣で生成された光背が浮かび上がり、右半身から銀の炎が包んだ。
『後釜のくせに、あたしから「ムスビ」を奪ったくせに』
「違う。アンタは……」
『力が欲しくない?』
不快な声が告げる甘美な提案。
ムスビは後方を顧みた。未だ北の空には神々しく天女が佇んでいる。
あの女神を倒すには、独力では敵わないとつい先刻に知った。ムスビが使える魔術は、ほんの一端に過ぎない。
最強の亡霊グレイワンとは異種の格上。
これから淘汰すべき神の一つ。
「寄越しなさいよ、その力ってやつを」
『条件がある』
「…………何よ」
『もし、彼を死なせたら――彼の魂以外、アンタもろとも世界を滅ぼしても良い、って約束して』
僅かに震えを催した声。
ムスビは違和感を覚えながら、倒れているユウタを見下ろす。
ユウタがいない世界――ムスビの隣を歩んでくれる人物がいなくなる。そうなれば、再び故郷から逃げて孤独と戦ったあの五年よりも辛い日々が待っているのだ。
仲間でも補えない、心は大きな洞になる。
ムスビはしばらく考えて、頷いた。
「良いわよ」
『交渉、成立』
ムスビの満身を未知の力が駆け巡った。
× × ×
おまえは――罪の象徴だ。
非難する声が聞こえた。
ユウタは瞼を開く。朧気な意識が醒めれば、そこには白い世界が広がっている。何度か死の淵をさまよったり、師の記憶に喚起されて視る映像に似ていた。
それでも、少し違う。
世界の中には、ユウタともう一人。
目を疑うしかなかった。
ユウタは息を呑んで硬直する。
眼前に、齢十となるほどの自分が立っていた。まだ人殺しもしらない、無垢な琥珀の眼差しでユウタを見上げている。
『おまえは罪の象徴だ』
あどけない顔から発せられる非難。
声の主はこの子供だった。
まだ驚愕から立ち直れないユウタは、ただただその視線と声を受け止めて、ゆっくり噛み締めるしか無い。
『罪の一、再構築される前の世界では生まれなかった者たる“新生”であること』
「……何のこと?」
『罪の二、その身でありながら旧世界から存立していた命を奪ったこと』
「……」
『罪の三、新生でありながら旧世界の住人に干渉したこと』
「何なんだ、君は?」
『罪の四、……あの子を置き去りにしたこと』
要領を得ない内容の糾弾。
ユウタは子供の胸倉を摑み上げた。
「君は何者なんだ!?」
『置き去りにした』
「ハナエを置き去りにした、でもそれは仕方がなかったんだ」
『違う』
無垢な瞳は、真っ向から否定する。
ユウタという存在自体を。
『手を取りながら、忘れた』
「誰のことなんだ」
『人と人を結ぶ約束、それが一番大事』
「そうだよ」
子供は笑った。
『なら、どうして』
「え?」
『どうして、あの子と交わした約束だけを忘れたの?』
声ばかりは、憎しみだけを乗せて。
『罪の四、僕ら新生は、地球から逃げた人間』
脳を引き裂くような頭痛が起きる。
ユウタは頭を抱えて膝を屈した。血反吐ではない何かが口から溢れる。声だったかもしれない。記憶だったかもしれない。感情だったかもしれない。魂だったかもしれない。
重くなって降りてくる瞼の裏に奇妙な風景が映される。
建ち並ぶ摩天楼。
道々を走る奇妙な形の台車たち。
およそ文明が知る世界とは異なる様相を見せる光景が広がった。
その中の一画。
鉄柵で囲われた空間がある。傾斜を作った台や、鉄棒で組まれた方形の迷路、小さく区切られた砂場。
それらで小さな子供たちが遊ぶ。
そこからやや離れた位置に長椅子が設置されており、その上に二人が座っていた。
ユウタと、ムスビである。
前者は黒印も無ければ瞳は黒く、後者には獣人族らしき特徴は見受けられず、髪は黒かった。
「ねえ、明日あんたの誕生日でしょ」
「それが何さ」
「あたしが祝ってやるわよ」
「げっ、毎年恒例だけど要らないよ」
胸を張るムスビ。
しかし、ユウタは顔を苦々しげにして遠慮した。
すると、目を剥いてムスビが怒る。
「何よ、中学からの親友の祝意を拒否る気?」
「そも、君が好き勝手やってるから祝われてる気がしないんだよ」
ムスビは不満げに頬を膨らませた。
ユウタは少し微笑む。
「なら、こうしよう」
「何よ」
「明日は、僕が何でも君に一つお願いできる」
「なに、あたしにえっちなことさせようって気?」
「そういう分野は排してさ」
ムスビは疑わしきと眉を顰める。
顔を引き攣らせたユウタをじっくり睨んで、少し経ってから目を伏せて嘆息した。
「いいわよ」
「よし」
「その代わり」
「――とか無しだよ」
「うぐっ」
「僕の誕生日に何で代償を払わなければならないんだよ」
ユウタに先読みされ、且つ未然に防がれる。
ムスビが拳を握って震えるが、深呼吸で自らを落ち着かせた。若干険のある顔で、不承不承と頷いて承諾した。
場景が一変する。
燃える家屋の中で、二人がいた。
服を流血で染めて倒れるユウタを、悲泣の涙で顔を濡らすムスビが抱えあげている。彼女は躙り寄って来る火の手にも構わず、腕の中にいる相手に泣きながら呼び掛けた。
「何で、誕生日でしょ!?どうして、あたしじゃなくてあんたが……」
「まさか、誕生会に……君の家で無理心中の現場に出会して、巻き沿い……とはね」
「ねえ、死なないでよ……お願いだから……まだ、あんたの望み聞いてないじゃない……!」
ムスビが顔を伏せる。
ユウタの血は流れ続けた。彼は周囲を見回して苦笑する。
「この火勢、君は逃げられるかな」
「嫌よ、あんたを置いて行くなんて」
「死ぬ気?」
「独りになんてさせないわ」
その一言に、ユウタが深く息を吐く。
「じゃあ、誕生日の願い事」
「え?」
「もし……死後の世界があったら、必ず君にもう一度会いに行って、今度こそ誕生日のお願いを聞いてもらう」
「死後の世界って、そんなのあるわけ――」
ムスビはそこまで言って、口を閉ざした。
それから、笑顔を作ってみせる。
「判った、約束守んなさいよ」
「ああ」
「あたしも、本当はあんたに言いたいことがあったから」
「それも、あっちで?」
「そうよ、覚悟してなさい」
火が二人を包み込む。
それでも、そこに苦痛は無かった。
ただ互いにまだ先があると信じて、それを祝福する笑みを残している。火によって人の形が崩れるまで、その表情は消えなかった。
そのとき。
けたたましい鐘の音が鳴る。
祝福と、怨嗟に満ちた音色であった。火中から青白い火の玉が浮かび上がり、軒をすり抜けて空へ、更に高く昇っていく。
鮮やかな青と緑の混在する世界を脱して。
鏤められた星の眩しい漆黒へと投げ出される。
そこに、一人の黒衣の男がいた。
――おまえ達は、誰だ?
男が叫んでいる。
――別天神は……ヒビキは何をしたんだ?
男は火の玉を抱き込んだ。
そして、後ろへと振り返る。そこに、出雲島と海峡が存在する海を孕んだ巨大な球体があった。そして、出雲島を起点に白く染め上がっていく。
男が得心して小さく呟いた。
――そうか、あいつは本気で夢の叶う世界を作る気か。
そして腕の中を見る。
――俺は、こいつらを持ち帰れって話か。
男が儚げに微笑む。
その体が、ゆっくりと出雲島の方へと引き寄せられ始めた。緩やかに降下していく最中で、火の玉もろとも男が光の粒子となって崩壊し始める。
『それが始まり』
また場景が変転する。
再び白い世界に移動していた。
あれは――前世の記憶なのか。ユウタとして、この世界に生を享ける前にあった人生。
そうだとしても、あの世界は根幹から異なる物で構成されている気がした。
「今のが、約束?」
『断片的でごめん。詳しくは、まだ』
子供が言葉を濁す。
『でも、僕が言う“約束”はこの後』
琥珀の瞳が、ユウタを見て眇められる。
『しりたい?』
読んで頂き、誠に有り難うございます。
随分とデカい事を打ち明けた気がします。ヒビキとアキラが欠けた穴を異世界転移者が……という感じなのかどうかも、これから判明していきます。
次回も宜しくお願い致します。




