その言の葉に偽りなかれと願う
今とは時間軸を異とする世界。
出雲島を心臓に据えた海峡の北側で、海の情勢に睨みを利かせる軍港は、早くも戦争に向けて戦力を集中させていた。
友邦国の軍艦が海を裂き、自らが波となるがごとく列を成して港に合流する。近隣諸国の騒ぎ立つ声など顧みず、物々しい空気を海峡全体に伝播させていた。
それは港に面する森の一部に聳える山岳地帯で営まれる寺院にも影響がある。
何名かが徴兵され、普段ならば巡礼者が歩む岩の階には土汚れた軍靴の足跡が刻まれていた。
澄んだ月光に照らされるほど、寺院の境内まで続くそれを禍々しく際立たせる。
階段の傍の岩に腰を下ろしたヤミビトは、昏い琥珀の瞳で月夜の空を眺めていた。
茫と月下の寺院の上にある月の模様を目的もなく見つめる背中は、故郷への帰途が残りわずかとなった感慨もなく、ただただ憂いの陰りばかりが伸びる影を色濃く見せる。
追手から逃れるべく一時的にこの土地へ避難したが、出雲島の神々を信奉する寺院の空気には馴染めず、仲間たちを休ませて一人だけ夜気に当たっていた。
また世界中と敵対する立場となり、二度と仲間を作らないと戒めた自分の現在は、ここに至るまでの旅順で仲間の安全にも配慮した結果である有り様にほとほと呆れている。
ヤミビトは過去に受けた警告と嘲りを想起し、また同じ過ちを犯そうとしているのだと自嘲的な気分になった。
故郷への扉を開く『カムイ』の双子、それだけで条件は充たされるのに、いつしか勝手に同伴した赤髪の傭兵少女、くたびれた風采の男娼まで随いてくる始末だ。
もし無事に辿り着いても、ヤミビトはその先の人生など望んでいない。
そんな危ない旅の最後に彼らを巻き込んで善いのか。
その果てを思索した。
「何してんのよ」
煢然と座していたヤミビトの背中に問いの声が投げ掛けられた。
背後を顧みた瞳に、湯浴みを終えた赤髪の傭兵少女が、借りた僧衣に着替えている。髪を拭きながら、草履で石の段差を摺り歩く。
ヤミビトは肩越しからの一瞥だけで、再び夜空を仰いだ。
後ろからため息、足音、そして隣に座る気配。
「ねえ、本当に故郷に帰るつもり?」
「ああ」
「止めはしないけど……大丈夫なの?」
ヤミビトは首を横に振る。
「ブィリーナの連中も動くから、相当危険な道程になるだろう」
「あの武装集団ね。何者なの、アイツら?」
「傭兵なのに知らないのか」
薄く浮かぶヤミビトの呆れの色に、傭兵少女は不平顔になる。
出雲島を追放されてから傭兵業を働いた前者と、幼い頃から父の傭兵団に属していた後者。傭兵としての経歴の長さなら少女の方がある。
尤も、二十年にも亘って戦地での苛烈な経験を叩き込まれたヤミビトとしては、どんな傭兵も他愛なく見えてしまう。
相手は異質な能力を行使せずとも武術を極めた達人ばかりだったり、人智を超えた力を容赦なく揮う敵ばかりである。
人であろうが獣だろうが、人の枠を逸した異人であろうとヤミビトには隣人に近いほど対敵に馴れていた。
そんな折に、彼の細やかな慢心を咎めるように現れたのが凄腕の傭兵部隊『ブィリーナ』。
「簡単に言うと『戦争』の玄人だ」
「それはアタシらも一緒でしょ」
「闇経済では武器の売買に関与して人間を煽動し、戦争へと駆り立てることで莫大な財力を蓄え、さらに実力的にも国家機密の略奪などでも雇われる特殊な傭兵部隊だ」
ヤミビトとしても実際に耳にするだけの存在である。
傭兵少女としては、全く知らないことだった。
「でも、アンタは勝ってたよね?」
「束になられると判らない。一人でも充分に百の隊を撹乱できる実力者の集団だ」
ヤミビトは嘆息混じりに応えた。
傭兵少女は納得がいかず、鼻を鳴らして適当に相槌を打つ。
道中で幾度も奇襲を仕掛けてきた武装集団、ヤミビトが梃子摺った相手であり、旅路では最も厄介とされる敵対勢力だった。一人でも難敵な集団が、故郷目前で束となって襲い来る。
微かに物憂げなヤミビトの空気にも、だがしかし傭兵少女には判らなかった。
そんな連中を掻い潜ってまで故郷に帰る意味が理解しかねるからだ。
「故郷にブィリーナが来ちゃうわよ?」
「それがどうした?」
「いや、ほら。神様の土地にそんな奴等を連れて来ても良いの?」
ヤミビトはまた首を横に振る。
「あそこにいるのは神じゃない」
「……でも神聖な大地って」
「あれは怨念の繭だ」
ヤミビトの険相に傭兵少女は息を飲む。
いつも活力の無い瞳に、憎悪だけを滾らせていた。
「ねえ、故郷に帰ったらどうするの?」
「過去との決着をつける」
「じゃあ故郷の用事を済ませたら、それからどうするの?」
「……先のことか」
ヤミビトが自嘲的な笑みを浮かべる。
先など望むべくもない、表情がありありと残酷な心の内を語っていた。
傭兵少女はうつむいて、その顔に陰りを宿す。隣に座る男の黒衣の裾をつかみ、縋るような思いで見上げた。
「今の面子さ、嫌いじゃないんだ」
「…………」
「もちろん、アンタも含めてよ?」
「だから何だ」
ヤミビトの昏い瞳が傭兵少女を映す。
愁いと諦めで淀んだような琥珀色だった。
「だから、終わったら一緒に暮らさない?」
「…………」
「いや、み、み皆でよ?ふ、二人っきりとかじゃないから!?」
傭兵少女は誤認がないよう狼狽しつつ補足する。
ヤミビトの表情は一貫して不動にして不変だが、無言で彼女を凝視していた。意外な提案に喜んでいるとも、正気を疑っているとも見受けられる。
元から感情は面に出さない。
それどころか、旅を始めた当初は子供にも険悪で荒んだ性格だったヤミビトは、鳴りを潜めて穏やかになると益々内面を窺うことは難しい。
傭兵少女が怯えながら反応を探っていると、ヤミビトの口角が微かに上がった。
――まさか、笑われた?
自身の狼狽を嘲られたと感じて、傭兵少女が顔を真っ赤にして熱り立つ。
「な、何が可笑しいのよ!?」
「いや、この面子か……と」
「り、季はともかく、カムイの二人は子供だから独り立ちは難しいでしょ」
「アイツらなら、やっていけそうだが」
「ダメ。絶対に今放り出したら危険よ」
ヤミビトが肩を落とすように項垂れた。
とつぜん脱力した彼に、傭兵少女も何事かと少し身を引いて構える。
「な、何よ。どうしたの……?」
「いや、未来の話を笑って話せたのは何年ぶりかと思ってな」
「……これから飽きるほど笑わせてやるわよ」
「そうだと、良いな」
ヤミビトが愁いの影もなく笑った。
それが傭兵少女にとって、最期に見る彼の純粋な笑みだった。
色彩に限りのない花畠。
傭兵少女はその上に伏し、腹を貫いた槍で地面に固定されたままだった。流血が限界量に近い、応急処置も間に合わない。
淡々と生命の終焉を予期した。
瞼を閉じればそこに仲間たちや、不覚にも傭兵少女の人生で初恋の座を奪っていったヤミビトの顔が浮かぶだろう。きっと、それを最後に二度と目覚めないはずだ。
荒れ果てた故郷を目にしたヤミビトの顔。
彼はここにいても救われない。
けれど、その後を彼が望んでいようといまいと、自分にはその隣を歩く時間が残されていなかった。
視界の隅に、黒褐色の筋骨隆々の男が立つ。筋肉に力をみなぎらせ、短剣を振り下ろそうとしている。
――終わりか。
生の涯を予感して目を閉じようとした。
しかし、直前で男の体が小さく揺れた。
首を太い剣によって突き刺されており、一瞬の後に首が刎ね飛んだ。呆気に取られる傭兵少女の前で、男は視界の外へと退出するように倒れた。
そして、間髪入れずにヤミビトの緊迫した顔が現れた。
「しっかりしろ」
「……ごめん、やっぱりブィリーナ強いね」
「逃げろと言ったはずだぞ」
「……アンタを置いて行けるわけないじゃない」
よく見れば、ヤミビトの顔には血が垂れて、衣服は所々が小さく裂けていた。さぞや予想以上の苦難に見舞われたのだろう。
彼らしい、と傭兵少女はしぜんと微笑んでいた。
ヤミビトは首を横に振った。
「……おまえが死んでいい理由になっていない」
「……ねえ、ヤミビト。お願い、あるの……」
ヤミビトの眼差しが悲しげに揺れる。
傭兵少女は衰えゆく鼓動に耳を澄ましながら唇を動かした。
「ずっと一緒にいる、って……約束して」
無理難題きわまりない。
叶えられるはずがない、それでも縋った。
ヤミビトはしばし表情の色が失せた顔になった後、傭兵少女の腹に突き立つ槍を引き抜いて上体を抱き上げた。
「安心しろ。俺はずっと、お前たちの傍にいる」
その言葉を最期に、少女の意識は絶え――篭の外に甦った。
それから少し経ち、篭が崩れるのを予測した海峡の列国が軍艦を出し、出雲島に殺到する。たとえ神の国が亡びた後も、きっと島に平穏はないだろう。
外部からの侵略が行われる。
それでも、傭兵をやめて町娘になった少女は彼を待つ。故郷のしがらみから解放された彼を。
最期に残した言葉を、現実にしてもらうまで。
× × ×
出雲島――中央大陸北部。
そこにあった町、森、山々が一瞬にして消え去った大地。
瓦解した山の一角。
その麓で、ムスビの悲鳴が響いていた。
動かなくなった相棒の体を激しく揺すって、混乱に涙と普段は隠している尻尾すら出ている。
「起きなさいよ、ねぇ!」
ユウタは動かない。
読んで頂き、誠に有り難うございます。
知らぬ間に三周年でしたね。それと三百話目(厳密に言えば登場人物紹介を含めないと届いてない)になりました。
何だろう、今年の初めに六月までには完結させるとか誰かが言っていたような……。
すみません、愚かしい私のいきった発言でした。お許し下さい。
なるべく有言実行を目指します。
次回も宜しくお願い致します。




