漆黒のナイフ
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首の次はお尻が痛い!
二〇年前の冬──
西の国と東の国で戦っていた。
霙混じりの雪が風と共に吹き荒れる。異国の甲冑を着た軍勢の鳴らす音は、こちらを目指して迫る潮騒のようである。
此所は大陸の北側。
要害も一切なさない平野での戦争にも臆さずに、武器と戦意を以て敵を討つと決めた人間の意思は固く、たとえ腕を切られようと喉を貫かれようとも突き進んだ。僅かでも動けるなら、命があるなら、凶器を振るう。──恐怖を忘れ、戦いに臨む人間達は凄壮な火花を散らして衝突する。
センゴクの陣営に雇われた傭兵クロガネは、当時から周囲に畏怖される戦士だった。その実力は、正面から肉薄する敵兵にも遺憾なく発揮された。
屍を積み重ね続け、死の城を築き上げていく。終わる事が、果てる事がないと思ってしまうほど夥しい命を潰す。束ねられた殺意も、敵意も、戦意も、彼からすれば柳に風の如き自然なものである。
武器を持って向かって来るなら、子供も隔てなく敵と見なす。戦士という概念に年齢は関係なく、兵士ならば性差もない。力を持つ人間ならば、応じて武器を持つのが彼だ。
あたかも、そこは災厄に見回れた地のようだった。雪の中で屹立する死体の山の頂に、錫杖を担いだクロガネが座っていた。外套の下の長作務衣は返り血で染められている。
眠るように瞑目して、俯いたまま接近する敵を待つ。この場を任せられた故に、ここを離れずに居る。
辺りで打ち鳴らされていた砲撃や、鋼の激突する音。それらは以前と比較して、少しずつ静かになっている。その内、この戦場は終局を迎えるのかもしれない。この戦争自体は、まだ終わる気配を見せないが……
「失礼。クロガネとお見受けする」
クロガネは腰を上げると錫杖を肩で一旋し、後ろに引き絞った腕で持った。
全く気配を感じなかった。積雪は無く、足音を消す要素は何一つ無い。自分の耳は風の音よりも敵の気配を優先して働く。耳だけでなく、戦場で練り上げた感覚は、第六感じみたモノすらも開化させた。
なのに、この声の主は自身の探針にも反応しなかった。まだ敵と刃先を交わらせてすらいないのに、途轍もない戦慄が全身を凍らせる。寒風の冷たさが一気に温度を更に落としたように感じた。
見据えた先には、敵影が映った。足下の死体に躓く事もなく歩く。襟巻きに単衣、裁付けに裾を絞った袴といった黒衣の格好。脇に自然と垂らした腕の片方に、三尺の紫檀の杖を握る老人。その風貌は東国の者である。傭兵を生業として世界を馳せる人間でも、今回の戦争では積極的に全員がこちら側へと募った。
西の国の土地で出会ったこの老人からは敵意を感じない。その琥珀色の瞳は、凪いだ湖面のように穏やかである。見詰めた先にいるクロガネにも怯えた挙動がない。
その背後には、外套で頭から足下まで隠した人間が居る。両の手を握り、祈り捧げるように老人を見守っていた。
死体の山から跳躍し、雪と血の混じった地面へと水音を立てて着地した。クロガネは足下に目を見張り、冷や汗をかいた。
この土では、音を立てずに歩くなど至難の技である。だが、依然としてこちらに歩を進める老人からは足音もしない。自然に踏み出している。その姿、無音の歩、東国の服装……
「なるほど、貴様は氣術師か」
「ご存知のようで」
聞いた事がある。地面と己の体内の氣を同調させることで、接触時の音を抑えるのだ。東国では有名──無論、その業を基本とする氣術師もである。
老人は如何にも興味の無さそうな口調で答えると、足を止めた。丁度、クロガネが一歩踏み出しても錫杖が届かぬ間合いである。得物を見ただけで測る事の出来る人間とならば、相当の手練れだ。
クロガネは外套の釦を外し、風に乗せて脱ぎ去る。身に迫る危険を目の当たりにし、内側から湧く強敵との邂逅に高揚に震えた。
嬉々として戦う姿勢を見せるクロガネに、冷然とした眼差しだけを返す。身構える事もなく、ただ肩幅ほどに足を開いて直立したまま動かない。
見下されている──そう感じて、錫杖を旋回させながら進む。
老人は背後の人間を一瞥すると、クロガネに視線を戻した。
「少々、お待ち下さい」
クロガネの視界に、銀の光が閃いた。
× × ×
ユウタが敗北した翌日。
ティルは空中に飛んだ。
たが、それは彼の力ではない。別の物によって、理不尽に、豪快に弾かれた結果であった。空を仰ぎ、全身の浮遊感に鳥となったように感じる。だが、それも夢──すぐに奈落へと突き落とされたように、地面の固い感触に落胆する。背を打って、肺の奥から空気が洩れた。
ヴァレンは無我夢中で、一傷でも浴びせようとしていた。刃を潰した鉄の爪で、眼前の巨漢を倒そうと必死である。しかし、鉄壁を小石で叩いた手応えだ。彼の中途半端な長さをした木剣で、見事に弾かれていた。
ギルドの設備した修練場は、それを独占したガフマンにより、ティルとヴァレンだけの訓練所となった。三人で広い空間を使用する必要があるのか、とガフマンの用意が大袈裟すぎると嘲ったのも束の間である。
剛腕で振るわれた木剣だけで、端まで突き飛ばされた。その時、了解した事実がある。彼が手加減に対してではなく、場所に対して配慮している事に。希望に添う物と違う形で見られたガフマンの気遣いに呆れてしまった。
そこから二人は、何度も打ち上げられ、叩き付けられている。何回この相手に対して向かって行ったのかも記憶していない。
ティルは空間の隅の壁に背を付けて座り込み、ヴァレンは中心で四肢を投げ出して倒れている。
その場に立っているのは、赤髪赤髭の男。地面を木剣の尖端で叩いた。地雷を炸裂させたかのような大声を、修練場へと響かせた。
「さあ、どうしたお前達!立って我の所へ来んか!」
「いや、休憩させろよ。メチャクチャやってると思ってんだけど」
「まだ昼だが」
「はぁ!?昼!?ちょっと待てよ!それってまさか・・・」
「おう、始めたのが夜だからな。十数時間ってところだろう」
「鬼畜かアンタは!?」
修練場は屋内にある。故に、長時間居ると時間を錯覚してしまう。昨日の夜分から鍛練に打ち込んだ二人は、ガフマンが唯一ある窓を開いて外の様子を確認した結果を聞き、憮然としてしまった。
ティルとヴァレンはその場に伏して、瞼を閉じようとする。自分達はこんな状態なのに、この巨人からは全く疲労感が見られない。
「少しよろしいでしょうか」
「む、何だ?」
入口から受付嬢が姿を現した。ガフマンがそちらへと首を回して応答する。二人は会話を聞く気にもなれず、寝息を立てて眠り始めた。一晩明かして続けられた激しい運動に、体中が悲鳴を上げていた。
ガフマンは彼女の前に立った。その手元にある紙を差し出されて受け取る。紙面に目を走らせ、そこに綴られた内容に彼は嗤った。予想通りに展開が進んでいる状況が、何よりも可笑しいのである。その中心に居る人物の浅薄さが知れるからだ。
「明日、結婚披露宴を開催か。こりゃまた急いでるな、連中も」
「クロガネが居る期限までに、彼女との婚姻を周囲に認めさせたいのでしょう」
「よし、奴等の日取りが決まれば、こちらもハッキリとした目的が定められるわ!」
受付嬢は頷くと、次の要件を口にした。
「ユウタさんが意識を回復したようです。会話も十全に行えるそうですが、まだ体は思うように動かないと」
「背中の具合が復調せん今、坊主に頼る訳にはいかんな」
ガフマンは、修練場で寝る二人に笑う。
この二人は、修行開始時に比べれば技量は間違いなく上がった。弱点を分析し、そこだけを狙って木剣を振り続けたのである。本能的に二人は防御し、己の強さの薄弱な部分を把握した。
そして何より、クロガネと戦う根性を問う為に、敢えて長時間、外と隔絶した場所で戦わせた。経過を見ると、その点は問題ない。
だが、クロガネの力は計り知れない。不安はまだある。
それを消す為にも、ユウタの掩護が欲しいが、今のところは望み薄だ。恐らく、ティルもヴァレンも、ユウタが敗北した事が何よりもクロガネと戦う事に諦念を懐かせるのだろう。
「まあ、周囲から婚姻を認められなかった場合、戦闘開始だからな。我も可能な限りは、そっちの結果を望んどる」
「ええ、穏便に済ませたいですね」
ガフマンは内心で、どちらも穏やかとは言い難いと呟いた。
× × ×
盆に載せられた食事を見て、ユウタは嘆息する。自分の現状を見て、ただ呆れる他になかった。負傷して寝台から動けずにいる自分を嬉々として介抱する人間に、申し訳無さを感じている。
ヴァレン達を逃して殿を務めた彼は、見事に三色の相手を討ち滅ぼした。その時に感じた違和感──シュゲンが危惧したほどの実力者ではない。一体なにを忠告したかったのだろう。
募る疑念よりも、敷地内から脱出する事を優先して走り出した時、屋敷から現れた長身の男に襲われた。こちらもその気配を感じて迎撃をしたが、錫杖を武器として戦う相手の鈴の音に、意識を撹乱された。戦闘の際は、目耳の敏さを武器にしているユウタとしては、苦戦を強いられる相手である。
何より、あの体格で出せるとは思えぬ行動速度で背後を取られ、背に大きな傷を受けた。杖を奪われ、こう言ったのである。
『貴様は連戦で疲弊している可能性がある。十全な状態で、もう一度来るが良い。それまで、この武器は預かる』
彼を振り払ってギルドへ逃げた。ムスビに忠告だけを残し、そこで意識が消えたのを憶えている。
気づけばこの場所で眠っており、ガフマンの知人であるルクスに救われた。
匙で救ったスープを、口元へ運んでくれる相手に礼を言った。
「ありがとう、ミミナ」
「いえ、これは私の任務ですよ!」
ユウタはスープを啜って、舌で味を堪能する。ルクスの料理の腕前は達者で、この短い旅の間で特に一番であった。
ミミナは休憩の合間に、ユウタの介護をしている。確かにギルドはそう遠くない場所だが、それでも彼女の休む時間を取り上げてしまった事に責任感を感じてしまう。だが、今はその厚情に甘えるしかないのが自分だった。
「ミミナは優しいし、面倒見が良いね。きっと良いお嫁さんになるよ」
「ユウタさんの嫁にしてくれて良いですよ!」
「またまた冗談を」
ユウタはそう返すと完食した。
ミミナはいつ切り出すか悩んでいた。
まだ、ユウタにはムスビの事を伝えていない。ガフマンから口止めされている訳でもなく、ルクスから注意を受けてもいない。しかし、ミミナは怖かった。
ユウタが大怪我をして帰還した。その原因の相手は、いまムスビを捕らえる人間の陣営だ。彼女が拘束されているのを知れば、すぐにユウタは剣を執って敢然と救出しに行く。また彼がその敵と対峙した時に、今度は殺されてしまうのではないかと。
ユウタがミミナに尋ねた。
「ミミナはさ、どうして、僕に優しくしてくれるの?」
「え?」
「僕は人殺しだよ。君の見ていない場所で、何人も斬り倒した。そんな人間に、君はどうして温情をかけられるの?」
ユウタから真剣さが窺えて、ミミナは姿勢を正した。それから彼の目を見据えて答える。
「私だって、この世の理不尽さを知っています。シェイサイトで殺人だって起きるし、それを怖がったりしますよ。
でも、ユウタさんは違う。している事は認められないけど、私は貴方が残忍な人間じゃないって解ってるから優しく出来るんです」
ユウタの右手を握って微笑んだ。彼女は絶対に嘘は言っていない。それだけが感じられる。
すると、ユウタは笑って天井を見上げた。
「良かった」
「何がですか?」
「いや、何でもない」
ユウタは目を閉じた。
思い出すのは、神樹の森を出る前の晩にしたハナエとの会話である。
その時、自分の右腕の烙印や氣術は嫌な物まで寄せ付ける、と言った。彼女が自分を励ますように、しかし確実な理のように言った。それを小さく否定しても、そう断言した。
“──それでも、きっと良いモノも引き付ける。それで、色々な人があなたの優しさに気付く。”
今、その通り、ミミナやティル、シュゲンやヴァレン、ガフマン、受付嬢。戦いに暮れる日常ではあるが、それでも自分の周囲にいる人々の優しさにも助けられていた。幾ら感謝しても足りない。
「やっぱ、敵わないなぁ」
ユウタはハナエを思い浮かべて呟いた。
「おい、坊主!目を覚ましたらしいな!」
ガフマンの声が傷に響き、思わず悲鳴が口から出た。ミミナが戸口に立つ男を睨むと、本人は自覚の無く途方に暮れた顔だった。
その両腕に、溢れてしまいそうな程の食料を詰めた麻袋を持っている。恐らく見舞いに来たのだろう。ユウタは軽く手を挙げて応えると、彼は喜色満面の笑みで床を踏み鳴らしながら歩み寄って来た。
麻袋をベッドの傍らに下ろして、少年を見回す。
「うむ!健康そうで何より!」
「ガフマンさん。彼は怪我人ですから、労って下さい」
「おおぅ?責められたぞ、何故だ?」
「あはは。遠慮しなくて良いですよ」
柔らかいユウタの態度に笑うと、ガフマンが彼に一枚の紙を渡した。
内容を見たユウタは、目を見開く。
「これ……ムスビが結婚?え、彼女はいま何処に?」
ミミナが額を押さえて溜め息をついた。
「実はお前さんを此所に届けてる間に、領主の息子が娘を拉致してな。クロガネの存在もあって抗えず、いま館に監禁されとる」
「そうですか………。僕が負けたのは、クロガネという男ですね」
ユウタが虚空に向かって手を伸ばす。
すると、壁に飾られていた小太刀が引き寄せられ、手中に収まった。慌ててガフマンとミミナが止める。
「止めないで下さい。奴は僕の杖を奪いました。取り戻す為にも、奴とまた一戦しなくてはなりません」
「なに、杖を奪われた?……確かに無いな」
部屋を見渡す。ユウタの所有物である仕込み杖が無い。
ユウタにとって、あれは師の遺品。戦いで彼が愛用していた物なのである。自分にとっても、己の力が最大限に発揮されるモノだ。
自分が扱う中で、槍も剣も斧も鎚も、特に秀でている物は無かった。手に馴染む、最も操りやすい武器。──あの杖が、その理想だった。そして、それが師の物と聞いて、更に貴重だと感じたのである。
クロガネという男は、それを今ユウタから奪って所持している。相手はそれを取り返しに来ると間違いなく確信しているだろう。師から継承した物なら、確実に奪還しようとする。
「どんな形にせよ、僕は挑みます」
「それは容認できん」
ガフマンが認めなかった。険しい目付きで、ユウタを叱る親ように睨んでいる。
「坊主では太刀打ちできんだろう。良いか、ここは我々に任せておけ。お前の為にも、杖は取り返そう」
「え……我々?」
「いや、こちらの話だ」
ガフマンのはぐらかす調子に、ユウタはちらりと訝った。何かを企てている様子なのは、火を見るより明らかである。
だが、それはムスビを奪い返そうとしているという事。ガフマンが参加するというのなら、形はどうであれ、信頼はできる。
ユウタは力なく微笑した。
「ありがとうございます、ガフマンさん。
僕の仲間を、よろしくお願いします」
「うむ、任せておけ!」
そっと、ユウタは小太刀を握りしめた。
× × ×
修練場に集合した三人は、互いに顔を合わせていた。壁の方には、受付嬢とミミナが静観している。
三人組の中心であるガフマンが胸を張った。
「よくぞ、この修練に耐えた!」
「一日だけだがな」
「でもその一日が長すぎた、濃すぎた」
ガフマンが咳払いをすると、ティルの方へと向き直る。自身の懐を探り、中から取り出した物を彼に投げ渡した。
慌てて受け止めたティルが、それを検める。気になったヴァレンも、横目で眺めていた。
ガフマンが無造作に渡したそれは、二本のナイフだった。革の鞘に納まっている。把を握って抜けば、黒々とした刀身である。表面は艶やかに光り、刃の部分は鋭かった。
ティルはガフマンを見上げて説明を求める。先程から笑みを湛えて黙っている彼を、不気味に感じた。
「それは昔、ダンジョンで取れた希少金属を、リュクリルに居る親父に鍛えて貰った物に、漆を塗って黒くしたモンだ」
「ど、どうして漆を……?」
「その金属は硬度は鋼よりあるが……発光するモンだからな。注文したはいいが、使い手が困っちまう。だから、漆を塗ってみろと親父の妙案に従った」
「良いんですか!?これ!?」
「昔惚れた仲間の女がナイフ使いだったからな。我はプレゼントしようと思ったが、その前に死んじまった。だから、これも運命だと思ってお前に贈ろう!」
ティルは改めてナイフを見る。
黒塗りのナイフ、これが彼の得物となる。自分には不遜なほど素晴らしい物だと解る。これを使えさせて貰える事に、彼は感銘を受けた。
「ありがとう、ございます。大切に使わせて貰います!」
「いや、戦いで使うんだからな?」
ヴァレンの言葉も耳に入らない。
領主の息子ビバイの結婚披露宴まで、あと少し。
ティルは覚悟を決め、鞘に納めたナイフを腰に佩いた。
次回、ついに激突です!
今回読んで頂き、ありがとうございます!引き続き、次回も楽しんで貰えたら幸いです!




