合っていたはずの歩幅
久々に重めのシリアスです。
それは五つの春を遡った日。
神樹の森は、太古から続く平穏の中にあった。外界の手が触れない樹間の空気は神秘性すらも帯びて、ただの植生によって織り成されただけの森林から存在意義を根幹から逸脱させている。
神代末期に追放された人類が、唯一その神の威光を知る為に現存した証――青空に手を広げ、月夜に大きな影を落とし、ただ世は無常と云われて拒絶された不変の象徴である。
森に生息する魔物さえもが強力にして神聖とされ、梢を賑わせる一葉、静寂に羽を叩く鳥の囁き、穏やかな風さえもが侵し難いほど余人には輝いて見えた。
そして――仮に神罰すら降ろうとも、危険を冒して侵犯する輩がいれば、それは等しく森を守護する戦士によって滅ぼされる。
住まう者は、その静穏を謳歌していた。
そして森の中、隔絶した環境下で人の営む村があるが、そこからも離れた位置に一軒が建つ。
森の一部を切り開いた場所に佇む小屋は、村にある家屋よりも森の空気を浴びて新しい。元来人が流れ着くことさえも出来ない場所に、唯一の異例として存立する者たちの家だった。
その戸口では、逆さにした桶の底に腰を下ろしたハナエがいる。
自身の膝に頬杖を突いて、肩口まである金糸さながらに輝く髪を風に靡かせながら空を見上げていた。翡翠の眼が青空を映すと、澄んだ河の底に覗く真珠のようである。
無聊を託って、その両足は小さく土を蹴る。
そんな退屈な様子とは対照的に、彼女の眼前で二人の少年が激しい剣戟を繰り広げていた。鉄ではなく、木を削った剣と槍の交わり。
本来は攻撃を躱すことを流儀とするユウタも、ゴウセンの槍を剣で受け流しつつ刃を返す動きに徹していた。
雑念に濁らない剣捌き、対するは長く保持される均衡に焦慮で加速していく穂先。切っ先に乗る速度が最高点に達したとき、ユウタの剣が捌き切れずに大きく後ろに弾かれた。
「ここだ――!!」
渾身の一突きが繰り出される。
無防備なユウタへ、一直線に向かった。直撃は免れない、相手の銅を強かに突き放して勝敗は決する。
その確信の槍先を。
ユウタは弾かれたと同時に身を回転させて威力を殺し、流れるように体勢を立て直すと刺突を掻い潜った。ゴウセンの内懐に踏み込み、木剣の柄頭で顎を叩き上げた。
全体重を搭載した槍に対する反撃。
自身の攻撃力すらもがユウタに利用され、その威力によって意識を失う。撥ね上がった顎に引かれて上体が仰け反り、そのまま地面に倒れた。
目を開ければ空。
幼い頃は、そんな状況が幾度もあった。
当然、端を森が円形に区切り、その中に映る青い空漠を背に彼は微笑んでいる。見下ろす琥珀色の瞳は、畏れを知らぬ梟のように鋭く賢しげだった。
ユウタの手が差し伸べられる。
「今日は僕の勝ちだったね」
「何が今日“は”だ……二十一戦全敗だぞ」
ゴウセンは手を取って起き上がる。手伝った相手が反動で転んでしまうほど勢いを付けたが、ユウタは軽くいなしていた。
激情に駆られやすい自分とは違い、受け流す清流の如く常に冷静で在ろうとするユウタは、一種の理想ですらある。
二人の稽古は、数も二桁を過ぎて少し経とうとも、勝者が変わったことはなかった。
「正しくは二十戦目だよ」
「てめぇを奇襲したヤツだろ、あれも含む」
「何で奇襲されたんだっけ?」
小首を傾げるユウタに、ゴウセンが呆れた。
槍の穂先で軽く彼の頭を叩く。
退屈そうに待つ戸口のハナエを一瞥して、一年前の春を想起する。
事の発端は、ユウタの家に足繁く通う村長の娘を皆が見かけるようになってからである。当時から既にハナエを好いていたゴウセンは、密かに尾行してその行方を突き止めた。
彼女と親しげに話す少年――ユウタである。
嫉妬と憎悪で煮えくり返った心のままに、彼に襲撃を仕掛けたのであった。
結果は……返り討ちとなったのである。
相手からすれば、ハナエや自分を害する敵と認識され、容赦なく打ち据えられた。中途半端に武術にも優れていたのが仇となり、それが殊更にユウタの中で認識するゴウセンの敵性を凶悪と判断したのだ。
あえなく敗北したゴウセンは、その後も攻撃を繰り返し、いつしか稽古相手として二人で戦うようになった。
「本当……あれから勝ててねぇな」
「ゴウセンは釣りで僕に勝ってるだろ」
「逆に何で釣りなんだよ……!」
「むしろ僕はそっちの方が重要だよ。いつだって二尾以上も差を付けられて……」
そう愚痴るユウタが唐突に横へ飛ぶ。
すると、彼の退いた位置に木剣が振り下ろされた。奇襲を仕掛けたハナエだった。
ゴウセンもが驚いて硬直する中、彼女が悔しげに顔を歪める。
「わたしも戦士になりたいな」
「何でだよ。俺みたく守護者のレーラさんに憧れてるの?」
「強くなれば皆も縁談を控えるはず……」
「ハナエは美人だから、僕はきっと減らないと思うよ」
肩を竦めながら呟いたユウタに、ハナエの顔が真っ赤になる。ゴウセンまでもが口を大きく開いて驚愕した。
自覚のない彼が眉を顰めて訝る。
ハナエは顔を手で挟み、困惑していた。
「な、何か顔が熱い……!?」
「慣れない剣を振ったから?」
「んな訳ねぇだろ……もう一戦だ、こら!」
「え、でも昼食が……何で怒ってるのさ!?」
ユウタは再び始まる槍撃を避ける。
穂先で追い縋るゴウセンは、さらに踏み込んで叩き込む。昼食前の試合だったはずだが、予期せぬユウタの発言によって延長戦の火蓋が切って落とされた。
漸く全員で囲炉裏を囲った食事は、ハナエ以外が土汚れた状態で済ませる奇観となる。未だ絶えないゴウセンの敵意の眼差しに、ユウタはただ自分の胸に手を当てて考えても解答は見つからなかった。
夕刻も近付き、ハナエが帰宅する。
その後ろ姿を見送ろうとしていたユウタの隣で、ゴウセンが木の槍を手にして過ぎていく。道中の護衛は彼がする所存だ。
既に双子の守護者が影ながら見守っている気配を覚れるほど戦の達者でない二人には、それが最善だと考えていた。
「じゃあな、次こそ勝つ」
「また今度、昼前に河で集合だ」
「いや、釣りじゃねぇよ」
「え……また武術?」
ユウタは肩を落とした。
師承した特殊な技である氣術、そして戦でしか効果を発揮しない武術までもが『身を守る術』として伝授されている。師の教えとあって絶やさず鍛えてはいるが、相手を傷付ける行為自体が厭わしく思うユウタには、武術による争いは苦手だった。
発生する戦いは、いつだって害悪が現れたときのみ。
ゴウセンのように好戦的な姿勢にはなれない。
「てめぇは少し血の気があった方が良いと思うぜ」
「……何だか聞こえ方によっては死人って言われている気がするね」
「もう少し積極的になれって話だ」
「戦うとしても、守護者のように守る為の戦いでありたいね」
次はゴウセンが落胆した。
誰よりも輝ける原石たるユウタ自身が、その道を閉ざそうとしているのだ。妬み羨む不平声の前に憂慮してしまう。
本人が志願しないのであれば他者の口は何もかも不要な催促に聞こえて煩わしい。自身が目指す道を誰かに諭されて閉ざすのも、誰かに催促されるのも煩悶が生じる。
ゴウセンもまた、才能はあっても村人から守護者になるのは不可能だと否定されていた。
だからこそ稽古に打ち込んでいる。その相手として好適なユウタこそ、自分の理想に近い人物だった。
「なあ、ユウタ……お前は将来何になるんだ?」
「僕か……」
ハナエが立ち止まって顧みる姿に二人で手を振る。
「いつか僕は、望んでなくても森を出ることになるよ」
「な、何でだよ」
「成人する頃までだろうけど、最近は村長が僕を煩わしく思っている節がある。いずれは追放宣告を受けるね」
「しゅ、守護者になればいい!」
「戦いは好きじゃない。それにハナエとかも心配だけど……」
振り返ったユウタが微笑んだ。
ゴウセンには、それが太陽に比肩する眩しさがあった。
「ゴウセンがいる。将来は誰よりも強い守護者になるからね」
「……馬鹿野郎」
この三年後、ゴウセンは自らが死ぬ事を想像もしていなかった。
それでも、この時のゴウセンは最後まで、ユウタには敵わないと感じていたのである。誰よりも優しく、誰よりも強い、そんな少年の姿が、永久に自分の憧憬である確信を胸に秘めた。
× × ×
熱気で茹だる冬の山嶺付近。
獣のごとく樹間を馳せる二つの影は、並走と衝突を繰り返した。噴火の地響きにも足を止めず、飛来する溶岩が迫ろうとも引き返さない。
しかし、理性を失った二体の獣ではなく、どちらも人間であった。互いの差異があるとするなら、生者か死者という点のみ。
黄泉國から舞い戻った守護者ゴウセン、その懐かしき面影と相対するユウタは、苦悩に苛まれながら戦闘する。
彼の槍が問い糺す命題――その重大さ。
思考に拘って、戦いに集中できない。
獰猛に追うゴウセンの凶刃を、疾風となって躱すユウタの足をも鈍らせた。必ずどこかで綻びが生じ、致命的な隙に繋がる。
先行きの危惧がありながら、それでも改善の仕様が無い。
ゴウセンの問は、彼自身が意図した以上の効果でユウタの心身を追い詰めた。
「どうした、どうしたァ!?」
ゴウセンが槍で足下の草を薙ぎ払った。
飛び退ったユウタの爪先を風が掠める。着地と同時に懐に潜り込んで拳打を叩き込もうと前進した。
その接近を予測していたゴウセンが、槍を地面に突き立てる。柄を強く握った部分から、穂先まで内側から光が溢れていく。
すると、ゴウセンの周囲一帯――地面から木々や葉の一枚までもが蛍光色に瞬く。
回避に成功した安堵を根底から覆す氣の強い波動が噴火とは異なる震動を催す。
ユウタは反撃に転じた体勢のまま地面に掌を触れる。付近の地殻や、接している植生に至るまで影響を及ぼす氣の流動を読み取り、自身の足下を蠢く力の運動だけを遮断した。
ユウタの足下だけが光を失い、長槍から充填した力で森は数度明滅する。ゴウセンも動きを止め、一瞬の静寂が訪れた。
破裂音が鳴り響く。
連鎖的にそこかしこで音を炸裂させ、次々と木々や砂の一粒までもが爆発した。樹木は木っ端を散らし、また岩は礫となって飛散する。
ユウタは全方位で始まった現象へ即座に氣術による斥力を放ち、爆風や凶悪化した破片たちを弾いた。
ゴウセンも斥力を受けて吹き飛ぶも宙で身を畳んで背転し、槍を地面に立てて体勢を立て直す。
絨毯爆撃が途絶えて、山肌が剥き出しとなった全景を見回すと、改めて槍を構えて突進する。
ユウタも足音で間合いを測りながら、仕込み杖の柄に指を絡めて抜刀の姿勢を整えた。
ゴウセンの目からは杖も手元も体で隠れて見えない。槍を後ろへ引き絞り、杖の間合いに掠る距離で地面を踏み下ろす。
腰を捻り、連動して振り回される上体の力を長槍へ漏らさず伝達し、絶対と確信する速度、威力、機で突き放った。
握力がこもり、再び槍全体が発光する。
泰然と構えていたユウタの表情が固まった。槍の描く軌道、攻撃自体は予備動作から心臓を狙っていると看破している。
しかし、そこへ再び長槍に宿っている神秘が解放されるとは予想だにしなかった。ユウタにすら感知が難しい氣――すなわち聖氣の槍撃である。
上体を後ろに煽って肉薄した穂先を躱す。袷の襟を擦過し、鋭い風が膚を撫でた。
物理的な刃の脅威は過ぎる……それで終わらない!
ユウタは杖を柄頭から石突まで剰さず邪氣で武装し、槍を横合いから叩いて遠ざけた。
光量を増していた長槍の切っ先が空へと逸れ、その瞬間に夕闇をつんざく一条の翠を放出する。錫杖の遊環のような鈴の音を鳴らし、雲を切り裂いて消えていく。
勢いに身を委ね、倒れるように背中で地面を転って距離を取った。ゴウセンを置き去りにして走り出す。
ゴウセンもまた瞬刻の間すら空けずに追走した。
「てめぇにしては、読みが甘ぇな!」
「…………」
「無言じゃなくて、質問に――応えろ!!」
ゴウセンが前景の虚空を槍で数度突く。
穂先が到達した位置を始点に翡翠の光が宿り、突いた数だけ前へと光線が迸った。障害物を無差別に貫通し、果てなく直線に突き進んでいく。
防御不能の光による全弾は、果たして命中には至らなかった。
ユウタの袂を裂く程度に終え、貫いた障害物を先刻と同様に爆破させる。
その爆風に煽られて、ユウタは飛び迫る木片などを腕で防御しつつ傾斜を転がった。小さな断崖となっていた場所を転落し、中空で姿勢を変えて着地する。
膚を切り、また刺さった痛みに堪え、低姿勢で足音を立てずに駆けた。
再度、光線が迸った。
正確に照準を定めた攻撃では無いので、幸いにも降り注ぐそれらが着弾したのは地面のみ。しかし、過程で貫通した木々や地面は、次々と赤く内側から膨らんだ後に大爆発を起こす。
土砂や木片に揉まれ、ユウタはさらに下へと叩き落とされた。
猛然と転がり落ちる体を止めるべく木の根を摑む。どうにか静止すると、足の裏でしっかと地面を捉えて走った。その一瞬の後に、過去位置が光線に貫かれて爆破される。
「てめえは俺に、ハナエを守ると誓ったよな!敵の術とはいえ殺しかけるたぁ、どういう事だ!?」
森を薙ぎ払う光線が奔った。
前傾姿勢で低く馳せていたユウタの頭上を切り裂き、近辺に佇立する木のほとんどが爆風を炸裂させる。ユウタは地面に伏せて飛来物や風の猛威を遣り過ごす。
立ち上がって面を上げると、自身めがけ正確に長槍の穂先を定めて放たんとするゴウセンを捉える。
咄嗟に全体を邪氣で包んだ右手を翳す。放出した光の直線が掌中と激突し、後方の麓へと複数の線に分散する。伝わる衝撃で、ユウタもまた後ろへと弾かれた。
「俺は期待してた。てめえになら、ハナエを任せられるって。だが、この体たらくは何だ!?」
「……!」
「他人に警護を任せて復讐を優先?冗談も程ほどにしろ!」
ゴウセンが飛びかかる。正面に着地するやいなや、横薙ぎに長槍をふるって胴を狙う。
ユウタは一足だけ彼へと踏み込み、穂先より内側の長柄を直撃前に摑んで止めた。そのまま槍の柄を回るように跨ぎ越えて彼の首筋へと手刀を振る。
ゴウセンは上体を前に倒してその打撃を避けると、長槍でユウタの背中を下から掬い上げる。喫驚すべき膂力が発揮され、ユウタは瞠目するよりも先に上へと放り投げられた。
宙で無防備に背中を見せたところを光線が強襲する。
その攻撃を予測していたユウタは、自分と一緒に舞い上がった砂礫を氣術で操り、ゴウセンの手元へと発射した。速度と威力を重視した弾丸は槍の尖端に命中し、光線の狙いを逸らす。
翡翠の一条が空に駆け上がる。
ユウタの横腹を薄く掠めていった。
地面に降り立って、姿を匿すように走り出す。ゴウセンも追走を再開した。
「叩き上げたのは身躱しだけか?」
「安い挑発だね」
「喧嘩買えよ」
「争い事が嫌いなのは、知ってるだろ」
ユウタは冷淡に返答した。
視線をゴウセンに固定し、手元は足下の石を拾い上げて投擲する。軽い投石だが、途中から氣術の掩護を享けて軌道を目標に修正し、速度を跳ね上げて迫った。
即席の投擲物も、弓の名手が放つ一矢へと変換させる。
ゴウセンは回旋した槍の長柄で事も無げに撃墜た。変則的に弾道を変えた事には面食らったが、一つひとつ丁寧に処せる範疇の脅威だった。
ユウタは予想通りの結果に落胆しながらも懐かしさに相好を崩す。
弾いた感触でわかる。……あれは聖氣だ。
あの長槍――火廣金製の物で相違ない。
ゴウセンが発揮する特有の効果を、今までの現象などから考察する。
その性能は一定の握力を加えると聖氣が反応して、周囲一帯にある物体の氣流を撹拌して爆弾へと変容させていた。人間には無効だが、槍を突き立てた地面と繋がる植物などには同じ効力を与えられる。
爆破が聖氣ではないからこそ、接触した地面の氣流を操作できた。未然に爆撃は防げるが、有効範囲が広域であり、ただでさえ不規則に変化した氣流を修整する上で全域の主導権を纂奪するのは至難である。
自分に接する部分だけを直し、他は斥力などでしか捌けない。
最初の投擲爆破よりも難物だった。
加えて刺突を延長する聖氣の光線は、もはや槍を突き出した動作から軌道を読んで回避、あるいは邪氣で防御を展開する他に手の打ちようがない。
何より、その光線もまた貫通した物体を爆裂させる。たった一本の素槍ながら、大軍すら屠る戦略的兵器となっていた。
一騎討ちでは、その獰悪さが遺憾なく牙を剥いている。
対抗手段は至近距離に詰め寄って封じるか、邪氣で体を保護しながら体捌きで凌ぐしかない。
ユウタは方向を急転換し、並走するゴウセンに躍りかかった。
顔以外の全身に邪氣を装備する。更に空手に漆黒の短槍を生成して擲った。
ゴウセンが足を止めると、その爪先のやや前に突き刺さる。
ユウタは藪を突き破ってゴウセンの右半身に正対する位置に立つと間髪入れず回し蹴りを放った。闇色に染まった踵が顎めがけて円弧を描く。
ゴウセンは屈んで回避すると、低く回転ながら槍を振り回す。いまユウタを支える軸、地面にたった一本で立つ足を狙い澄ました足払いだった。
機動力を恃みとするユウタならば、ここで足を仕留めてしまえば危険性は氣術だけとなる。ここで彼の武力の支柱たる足を全力で潰さんと槍を握る手に力を漲らせた。
蹴りを放った後では跳べない。
ゴウセンの足払いが直撃するのは確実である。地面に立つ一本の足を――。
しかし。
体を巡らせ、いざ足下を薙ぎ払う槍がユウタへと差し掛かるとき。
ゴウセンは瞠目した――せざるを得なかった。
ユウタの足が宙に浮いていた。
地表から一尺ほども高く、虚空に足の裏を掲げている。無論、回し蹴りの後で片足は未だ振り抜いた後の状態だった。
中空に一本足で姿勢を維持する。
不可能だ……そう考えて、ゴウセンがはたと止まった。
――氣術だ、浮力で体自体を持ち上げている!
こちらの次手が足払いであると判断して、敢えて回し蹴りを実行し、氣術で回避策を既に整えていたのだ。
明らかに相手の意表を衝いた妙技だった。
槍の穂先はユウタの直下を通過し、地面に固定されたままの邪氣の短槍に当たった。やや頭上にあるユウタの顔を睨め上げる。
「や、やるじゃねぇか――」
「まだだよ」
「なッ!?」
ユウタの脚が振り下ろされ、邪氣の短槍とは反対側から足の裏で押さえ込まれた。
障害物と足に挟まれ、上に逃れようとしてもユウタの爪先が覆っている。完全に穂先の動きが封じられてしまった。
握力を込めて、長槍に内包された聖氣を解き放つ。
手元へ全力を注ぎ込もうとして――ユウタの仕込みが抜刀された。片手の手首が断たれ、さらに次いで一閃された刃で肘裏が切られる。片手を失い、残る手は握力が散逸して長槍を取り落とした。
ユウタは油断なく彼の鳩尾を仕込み杖の鞘で打ち、柄頭で首を叩いて地面に据える。
足下に倒れた彼の上に馬乗りになって、首筋に仕込みの刃を当てた。
「……降参、だな」
「僕の勝ちだ」
「二百二十一戦……全敗か。武器を変えても駄目かよ」
「焦って急ぐ癖は抜けたけど、最も警戒すべきだった氣術への対策を怠ったのが君の敗因だ」
戦闘の緊張感から体が浮上する。
全身の邪氣が解除された。
幾許かの安堵を胸にしたユウタは、醒めた微笑で顔を綻ばせた。抵抗しないゴウセンの体は、いま触れると驚くほど冷たい。
死人の体温だった。
判断を誤ってはならない――彼は死人であり何を言おうとも斃して再び死へと還すのが掟。
以前の訣別とは異なり、己が手ずから終の別れを告げる現状に失笑を禁じ得ない。友を殺める覚悟が決まっている自分自身にも憎しみを覚えない。
「あの時は……氣術師にやられたんだよな」
「うん。それで……また氣術師だ」
「皮肉にも程があるが、前ほど気分は悪くねぇ」
ゴウセンもまた柔らかい表情を浮かべる。
先刻までの殺し合いが嘘だったように空気が弛緩した。首筋に刃を押し当てられても、その顔に痛みや恐怖の兆しは無い。
異様なほど穏やか、それを両者が自覚していた。
ゴウセンが刃で切れるのも厭わず、首を巡らせて後ろのユウタを見上げた。血が溢れて襟元が朱に染まる。
「お前は俺の憧れだったし、一番の友だちだった」
「僕にとっても、そうだった」
虚飾無い友情であったと肯定する。
だからこそ、喪失の心痛は堪えがたいものだった。
「あの時、俺はハナエを託したことに後悔は無かったぜ。お前なら……俺の目指す理想の守護者になれただろうからな」
「でも、僕は……復讐を優先した」
「……お前を責めてたが、今思うと俺だって同じことしてたかもな」
「それなのに、あんな容赦なく光線を……」
「お前の実力ならできると信じてた。まあ、当てる気満々だったが」
ユウタは沈黙する。
どれだけ力を培っても。
村を守れなかった、誰も救えなかった。
ハナエさえも絶望の淵に叩き落として、村の焼け跡を背に歩き出す以外の道を進めなかった。その後に得たモノを考えても悔やまれる。
ゴウセンの理想とする守護者、その期待すらも裏切った。
「落ち込むなよ。褒めてんだぞ」
「でも」
「でも、じゃねぇ。……俺としては、やっぱ森を出た後にハナエと静かに暮らして欲しかったけどな。犯人探しもせずによ」
「……ごめん」
「ま、そのお蔭で今度こそ後腐れない別れができるってもんだが」
ゴウセンは快活に笑う。
それが眩しく感じるほど、現実の残酷さが胸を突く。
ユウタは顔を逸らし、悲痛の念に堪えた。彼をこの手で送り出す、それが自身の役目だ。思出話に花を咲かせるのは墓前のみ。
彼と交わし――まだ果たせる望みのある約束の為に。
改めて覚悟を決めたユウタの相に、ゴウセンの顔が一転する。
「ちゃんと墓参り、来いよ……二人で」
「……うん」
「他にも小言は山ほどある……釣りでしかお前に勝てなかった事とか」
「師匠の次に尊敬してたよ」
「はっ!ま、勝ちは勝ちだな、誇るべきか。なら憂いの半分くらいはぶっ飛んだぜ」
ゴウセンの目が細められる。
「だが、不安があんだよ」
「…………」
「応えてくれ、ユウタ」
ゴウセンの瞳に憂いの影が揺れた。
ユウタは顔を険しくし、手元に力を込める。刃に圧力をかけ、彼の首筋にゆっくりと鋭利な鉄を沈めていく。
「――ハナエとあの女……どっちを取るんだ?」
過たず、その首を切り落とした。
物言わぬ死体となったゴウセンは、光の粒子となって崩壊し、ユウタの膝下から消滅していった。仕込みに付いた血だけが微温とともに残る。
ゴウセンの消えた後。
ユウタは血を払った仕込みを鞘に納めて立つ。
頂上を見上げ、それから自身の右の掌中を見下ろし、その場に膝を突いた。
「もう、わからなくなったよ」
救いすら乞うような。
ユウタの弱々しい声音が夕闇にそっと沈んだ。
× × ×
焦土と化した山頂。
溶岩流の起点となる場所では、ムスビが異形の存在へ変わろうとしていた。
ヤヨイの体を、変形した自分の体が貫く。
血を噴いて、彼女の体から力が失われていった。その手応えを噛み締めたムスビの意識が黒く塗り潰される。
脳内では激痛と快楽の錯綜。
体は別のモノに生まれ変わろうとしているのか絶えず変形している。思考力すら奪われた今では、自分がどんな姿であるかすら気にも留まらなくなった。
壊れていく自我、破片の隙間からは途方もない闇が広がっている。内側から別の存在感によって塗り替えられる感触は、本来の容に返り咲く歓喜か、それとも奪われ死に行く悲嘆。
どちらとも判然としない。
そんな“自分”を喪失する過程の中で、ムスビの中に一つの記憶の断片が暗中で輝く。
それは炭鉱町シェイサイトに滞在していた頃。
領主の息子が暗躍して企んだ結婚披露宴を打破し、祝祭の喧騒から隠れるように各々で生活していた。
ユウタやティル、ヴァレンの面々はガフマンによる指導を受けて冒険者について学んでいる。
手加減を知らない破格の強者に人が導けるのかと危ぶむ声が多方向から上がっているが、ユウタ達もまた異質ゆえに耐えられると信頼もとい期待がされていた。
そして――彼らとは別に。
ムスビは診療所にて、ルクスに魔法について学んでいた。体術だけでは危うい場面が必ず来る。
それは迷宮内部で戦った氣術師の戦闘で課題として上がった。
ユウタの掩護があったからこそ存分に拳を打ち込めたが、一騎討ちでは勝敗は逆転していたかもしれない。
戦闘の才に秀でた感性が、予想される敗北と己の実力不足をつまびらかにしていた。
補う為の力――魔法がある。
これからユウタと共に旅――まだ本人に了承を得ていない――をする上で、必要不可欠になるものだった。
診療所の二階。
実験器具などが揃った室内、その端でムスビは魔導書と格闘していた。
魔法の手解きをする内容は新鮮である。そも魔法の概念自体から説き、弁えた上でしか読み進められない。
ムスビは出端から躓いていた。
魔法の概念――自らの心象を外部に顕す手段と記されているが、解釈すると心の中のモノを外に描き出すと宣っているが、ムスビには漠然として無責任な言葉に思えている。
主に心の中の、“何を”具現化させるのか。
それについて全く言及していない。
仮にガフマンのように火炎の魔法なら、心の中に火を思い描けば良いのだとは分かる。しかし、それで魔力が連動するなら造作もない。
ムスビは試しに指先で小さな火を点けようと、心中にて灯火などを想像するも、全く体内の魔力が動く気配どころか、指先に熱が宿りもしない。
上手くいかない不如意と、珍妙に過ぎて理解不能な魔法概念に唸り声をあげた。
『おや、可愛い顔が台無しだぞ』
『うっさいわね、考え事の途中なんだけど』
『全く、それじゃ本当にお嫁に行けないぞ。花嫁装束は美しかっ――』
『だーッ!忘れかけてたのに、人の黒い歴史を掘り返さいでよ!』
ルクスが苦笑しながら諫める。
ムスビは改めて紙面を睨むが、見直したところで突破口が捉めるわけもなく、本を胡座の上に乗せて項垂れた。
初歩の前提である概念を解さなければ、魔法の取得は不可能である。
何においても高い才覚を見せたムスビが、これほどに苦難した経験はなかった。
ルクスが隣に腰を下ろす。
ムスビの頭を撫でるように手を乗せた。
『心の中にあるモノを抽出するのが魔法概念
『わかってるわよ』
『取り出す時に何を描くか、じゃない。何を望んでいるか、だよ』
『は……?』
困惑を通り越し、憤慨寸前のムスビの険相にルクスは可笑しみを堪えて説明を続行する。
『炎を出そう、と考えて魔法を出すんじゃない。意図的に引き出すのではなく、適当に魔法を出そう、と考えた時に頭に浮かんだモノが表出するんだぞ』
『……つまり?』
『考えて出すんじゃない。考えたら出るモノ』
ムスビは暫くルクスの顔を見て、再び手元に視線を落とす。
心象が具現化する。
想像した物を行動で顕すのではなく、行動した際に脳内に浮かんだ現象が顕れる。論理的に説く為の道具として魔導書があるにも係わらず、その実態は極めて反対だった。
――考えるより先に行動せよ、魔力も想像もそこに付随する。
それが魔法の鉄則だった。
簡単なようで、学ぼうとする者としては盲点になりやすい。ムスビとしては悪辣とさえ称するほど理不尽である。
『拍子抜けね』
『でも、これで進めそう?』
『まあね。あといい加減に離れて、近い』
『ふふ、良いじゃないか別に』
『あと息が臭い』
『いやん!?嘘、何で!?』
『途中で性別切り替わるのやめてくれない?』
ルクスは幾度か自身の吐息を掌に吐いて嗅ぐことを繰り返し、己の口臭を確かめている。
ムスビが魔導書の概念から次の頁へと進もうとするが、紙を繰る手を横から彼が止めた。捗々しくなかった勉強に、漸く活路が見出だせた矢先に制止を受けて、不機嫌だった気分が絶頂に達した。
『何よ本当に!?』
『魔法概念はそうだけど、魔法を使う上で最も重要な事がある』
『……何が大切なの』
『また拍子抜けするかもだけど、それは“自分との対話”だよ』
その言葉に。
険が消えたムスビは途方が暮れた顔になる。自分自身との対話、哲学的な難題を要求されているように感じた。
ルクスもまた、自らに言い聞かせるように反芻している。
『魔法は想像されたモノを捻出する。それは魔力量を無視すれば、無限大の可能性に満ちているだろ』
『まあ、そうね。世界も滅ぼせそう』
『そう。しかし、それだと徒に周囲や自分を傷付ける諸刃の剣になる』
ルクスが右手に拳固を作る。
それで小首を傾げたムスビの額を小突いた。
『だから、力の要には自分を据える』
『……はい?』
『魔法として出るのは自分の想像した心象。それってつまり、内なる己が導き出した形って事でしょ?』
『そう、だと思う』
『だから常に魔法は自分の心、と認識していくのが大切よ。魔法と向き合うことは、自分との対話になる……って意味ね』
ムスビは額を押さえて沈思する。
その様子を眺めていたルクスは立ち上がり、その肩に毛布をかけてやった。邪魔だと払おうとするのを肩に手を乗せて上から制し、そっと耳元で囁いた。
『そうすれば、きっと自分を見失わない。君や仲間を、守ってくれる』
ルクスの言葉に、ムスビは目を伏せた。
微笑を浮かべて振り返る。
『やっぱり息臭いわね』
ルクスの悲鳴が屋内に響き渡った。
黒いうねりの中に意識が揺蕩う。
記憶の断片を見詰めていた目が、自分の体を見詰めていた。闇と体の境界線が曖昧になっている。
同じだった、あの夢と。
ムスビは記憶に順うように、溶けて消えかかった意識で考えた。内なる自分を想像――それは魔術師であり、正体不明の影である。
だが、それ以前に。
冒険者を志し、復讐よりも未知と格闘する探究に想いを馳せた日々を想起する。
黒い闇の中で手を掻こうとする。
――腕の容が想像できた。
もがこうと足を振り上げる。
――脚の像がはっきりと浮かんだ。
光が無いかを探す為に視線を動かす。
――前を見据えた瞳、希望に満ちた顔。
暗中に消滅する途中だったムスビの体に輪郭が取り戻される。意識も回復し、周囲の闇が薄らいでいく。
呼吸を整えて瞼を閉じる。
耳朶を打つ鼓動の音に耳を澄まし、次は自分の内側を想像していく。鮮明に思い描いていくと、内面で『ムスビ』を構成する歯車が一つずつ回転した。
緩やかな始動。
内外の容を取り戻したムスビは、ゆっくりと目を開けた。
岩も砂も灰となった黒い焦土。
ムスビはそこで、独り膝を突いていた。
前方には、ヤヨイと思しき肉片が散乱している。自身を見失って迷走する間、怪物と化した己が行った所業の証だった。
一瞬喉を迫り上がった嘔気を堪え、蹌々と震える足で立ち上がる。
夜に染まった空を見上げて深呼吸すると、こちらに向けて歩んでくる人影を見咎めた。
「遅かったわね」
「…………ヤヨイは?」
「斃し……てしまった」
ユウタは惨憺たる弟子の末路に目を逸らす。
道中で伏兵、それも亡き旧友に阻まれたとあって間に合わなかった無念が胸を占める。
それでも、ムスビを責める道理はない。
敵として立った以上、ヤヨイが覚悟した道。
説得する以外にある正しい解決法。
「それでも、納得できない」
「……あたしは……」
「ごめん、ムスビ。辛い役を君に強要してしまった」
「そんな事ない。あんたにも責任は無い」
「そうは言ってられない、彼女は救えた……筈だった」
「……!」
会話が噛み合わない。
意図的ではなく、無意識に。
ユウタとムスビ、両者の根底から齟齬が生じていた。無自覚ながら途轍もない軋轢と、細やかな拒絶が互いを蝕む。
ムスビは先刻、自分を取り戻す為に旅の始まりにあった初志を想起していた。
だからこそ、あの頃に比して相棒との間にある彼我の距離がとても広大で、そこに深すぎる溝を孕んでいると感じる。
「行こう、北へ」
歩み出すユウタの後ろ姿に確信する。
ムスビと世界を繋ぐ歯車が、遂に蓄積した大きな歯車の食い違いによる歪さを顕にしたのだと。
修整するなら。
世界そのものを破壊するしかないほどに大きい。
「……どうすればいいのよ」
彼の後ろに従いていきながら、ムスビは震える声で呟いた。
夜空の下に磨耗した二つの影。
その歩みを空から静観する二人は、中空で胡座を掻いて笑っていた。月を背にした彼らは、その存在感を気取られずに山を焼き、切り裂いた激闘の始終を見て満悦の顔である。
「順調な経過だ」
「オノゴロ島の全人類が救える日も近い」
「今度こそ別天つ神が誕生すれば、神の過ちも正される」
「その為にも、やはり――」
二人の視線は、同じものを見る。
琥珀の眼差しで北の滄溟を見据える少年、黒衣の下に宿運の烙印を持つ存在だった。そこから彼らのみにしか感じられない、異界と繋がる氣の波動がある。
異なる時空に存在し、この神亡曲を画策した銀の乙女と干渉しえると観察できたことで、少年に対する警戒は最大まで高められた。
「あのガキが邪魔だな」
「危険すぎる。仙人になる前に屠らねば」
「あの滑稽なアキラと、忌々しい小娘が誂えた世界で唯一の“新生”だけあって、容易に手が出せない」
「当初の予定とは違うが、存在感をあれは地球に持っては行けんな」
月の中に佇む影が揺れた。
少年への怨恨を燃やしながら、薄く月光の中で透明化していく。
「ユウタを殺せ」
殺意だけを残して。
アクセスして頂き、誠に有り難うございます。
二人が先送りにしていた問題が遂に牙を剥いた、という現状です。……メインヒロインをバッドエンドで終わらせる積もりは一切無いのでご安心を。
次は、漸くティルやジンナの方を推し進めていけそうです。前者は意外と重要だと思います。
次回も宜しくお願い致します。




