その深淵に先客
そこに地獄が誕生した。
天穹が夜より暗い闇に支配される。
その場に居た一同は自身の視界が暗転したと錯覚した直後、大地から放射される赤光によって再び視覚能力を取り戻す。
光の反射によって物体を視認する生物としては、あたかも天地が反転したかの如き現象だった。
ユウタもこの天変地異を訝り、自身に向けられた鏃の脅威を忘れて、全方位を眺め回す。現世にはない異空間の住人と感覚を共有し、極度の疲労に苛まれて霞む視界でも、その世界は不思議と鮮明に見えた。
あれだけ骨身を小突いていた苦痛も和らいだ。
ユウタだけでなく、敵勢一帯にも動揺の波が広がっている。予期せぬ展開に陣形が崩れ、追い討ちのように異界の誕生で判断力を喪失していた。
敵の眼中から外れている。
ユウタは杖を腰に差し、ムスビを抱え上げた。腕に乗る体には、力が無い。肌は冷たく、本当に死んでいるとさえ思えた。
蘇生するにも、状況が状況。
今は離脱を図る以外の手は愚作である。
走り出すユウタの一歩。
しかし、唐突にその肩を誰かの手が摑んだ。
驚怖に振り返りつつ、足を後方に突き上げた。
後のユウタが顧みれば、そのとき氣術の感知が全く機能していないことに気付いていただろう。
しかし、この非常事態にそれを自覚する精神的余裕はなく、変転してしまった世界によって撹乱されていた。
冷静に在れという氣術師としての鉄則すら忘失させる環境とあって、この場で平生の立ち振舞いを行える人間はいない。天地を見回して騒めき、戦いを忘れて立ち尽くす。
果たして。
ユウタの肩に触れたのは、薄く燐光を放つ白い手だった。人肌ではない、形而上の物に親しいと形容すべきか、実体の無い物に干渉される感触である。
余人にはわからない、幾度も世界の理から外れた住人達と精神で接触してきたユウタだからこそ分かる独特の感覚であり、氣の波長だった。
視線を上げると、中空から伸びていた。
そこには、ムスビに酷似した少女がいる。映し鏡の如く、或いは彼女の体を脱した魂の形かとさえ見えてしまう。
ただ異なるのは纏う空気感。普段は隣にいるだけで体の芯を熱で滾らせるムスビの空気と対照的に、感覚が麻痺して凍り付いたように見入ってしまう魅力が充溢している。
「うあああああッッ!!」
戦場の一端から響く悲鳴。
全員の本能が危険を喚起し、身体は反射的に声の上がった方へと注目する。未知の異空間で最初に現れた異常とあって反応が早い。
皆が視線を一ヶ所に集める最中。
ユウタは眦を決して背後の少女の手を払い、その場から離脱を図る。前傾姿勢で戦士達がいない死角を突き進んだ。
迂闊に動くのは危険である。
しかし、ユウタの中枢を司る部分が行動を命じていた。少なくとも、彼女の傍にいるのは危ういと。
集中砲火から免れた今だからこそ千載一遇の好機。場合によっては、これ以降は訪れないであろう。
ユウタは全力を脚に集中させて前進する。
人のいない樹間を、梢が折り重なってできる隧道を潜って行く。敵陣から遠ざかり、次々と増えていく悲鳴の数を背に受ける。
十分な距離さえ取れば、ムスビの状態確認にも専念できる。
ユウタは再び前に顔を向けて。
いつの間にか進行方向に佇むあの少女に、慄然として足を止めた。先刻と違い、手には青白く光る球体を掌握している。
『何処に行くの?』
「……君は、誰だ」
『あたし?――あたしはムスビ』
滔々と応える声。
しかし、ユウタはその存在から放たれる異質な気配に、首を横に振るしかなかった。
真っ向から、本能が否定する。
「違う。君はムスビじゃない」
その言葉を受けて少女の顔から表情が消えた。
同時に、悲鳴が途絶える。
ユウタは背筋を舐め上げる悪寒に身を小さく震わせ、肩越しに後ろの景色を顧眄した。脳が絶叫していた、振り返ってはならないと。
理性が発する警告に抗い、琥珀の瞳が声の消えた敵陣を捉える。
そこでは次々と人が倒れていた。
苦悶する顔のまま固まり、体から青白い発光体が抜け出ると地に伏す。同じ現象が体格差も種族の違いも関係なく起こっている。
赤光に照らされる死体たちには、出血も吐瀉物も無い。
ただ体から何かを引き抜かれた。
生物には重要すぎる、何かを。
倒れていく人の団塊から、苦しみに自身の胸元を強く摑みながらこちらに進むヤヨイが見えた。
足取りは重く、弱々しい。
倒れ込むように、ユウタ達の傍まで来た。武器は途中で落としており、苦痛で声も出ないのかか細い呼吸音が聞こえる。
脅威ではないと断定し、ユウタは彼女の手を摑んで引き寄せると、再度この空間で唯一涼しい顔の少女を睨め上げた。
「これは君の仕業か?」
『欲しい』
「……何が?」
『あんたみたいな、愛情を以て付けられた名前』
ユウタは思わず顔を険しくする。
彼女が口にする要望の意味が要領を得ない。
愛情を以て命名された名――そういえば、ユウタは一度たりともムスビ自身からその名の由来を聞いた事がなかった。
否、今は関係ない。
眼前にいるのはムスビに似て非なる者。
まったくの別人だ。
「何なんだ、君は一体……」
少女の掌から、青白い発光体が空へと上昇した。ユウタはそれから感じる気配で、すべてを把握する。
あれは、先刻ムスビの体から切り離したマキの魂である。
もし、発光体が霊魂なのだとするならば、敵から抜け出た物もすべて……。
ユウタが発光体の正体に脳を働かせる中、距離感が狂う闇の世界ではその高低差すら測れないが、マキの魂が高い位置まで上がる。
しばし上空を旋回した後、南東の空へと消えていく。
それと入れ代わって、肉体を捨てた魂たちが少女の下へと殺到する。赤光を掻き消す数が忙しく少女の周囲を動き回った。
彼女が指を鳴らす。
合図と受け取った魂が、少女の体へと吸収された。赤光が勢力を取り戻し、ユウタの視界を照らす。
マキの魂の行方が気になるが、その思考を遮るように少女が発言した。
『名前、次の時まで考えといて』
また、意味が判らない。
ユウタが途方に暮れる中、少女の姿が闇の中に霧散していく。地上の赤光も光量が弱まっていき、雲が吹き掃われたように漆黒が消えて青空へと戻った。
唖然とするユウタは、ふと手元に感じる熱に視線を落とす。
ムスビの体に体温が戻っていた。呼吸も再開し、肌の色に生気が蘇る。
胸を撫で下ろし、ヤヨイも確認した。
気を失っているが、ユウタの手を握る力は弱まらない。
「……一体、何だったんだ?」
茫然とするユウタの問いに、唐突な終焉を迎えた戦地の静寂以外に返答は無かった。
その頃、天嚴で。
要塞の武骨な窓から雪景色を見ていたハナエ。
見送ったムスビと、この戦争を終えた後に約束を果たす相手のユウタに想いを馳せる。彼らの無事を願い、そっと胸の前で両手を握った。
戦力はない、戦局を指揮する能力も無い。
それでも、ハナエはこの自分に許された最前線たる天嚴に身を寄せていた。せめて彼らの近くで、彼らを思えるように。
その身辺警護に充てられたのは、引退した老兵である。壊滅した諢壬の櫓で見張りを行っていた人物であり、ユウタと面識のある人間だった。
戦争には参加できないが、要人の警備だけは可能とあって天嚴に派遣されている。
「お嬢さん、体が冷えるぞい」
「はい、でももう少し」
ハナエの不安に染まっている相貌を横から見る老兵が朗らかに笑む。
「……安心しなさいな」
「でも」
「何も腕っぷしばかりが役立つ訳じゃない。きっと、お嬢さんの存在が、誰かの心の支えになってる。それこそ立派な力だよ」
老人の激励に、ハナエは頷いた。
――そうだと、良いな。
そんな淡い期待に近い想いだった。
「……あれ、何だろう?」
ハナエは雪景色の中を泳ぐ青い光を見咎める。
それは、ゆっくりとこちらに向かっていた。
× × ×
北大陸の戦場――。
斥候部隊として出たティルとテイ。
その前に現れた女性は、ダンの頭を蹴り飛ばした。路傍の石のごとく無造作に蹴られ、その断末魔まで笑顔だった彼の顔が地面を跳ね転がる。
ティルは目許から血が沸騰するような熱を覚え、それが脳全体を炙って思考を停止させた。
胸を衝く怒りに身を委ねて飛び出す。
遅れて相手も一足だけ前へ。
明らかに先手を取ったのはティル――かに思えたが、女性の短剣が既に彼の首を横から刈り取ろうと走っていた。凶器の閃光を体が気取り、屈み込んで避ける。
初手で先制する積もりだった。
そして先攻を成功させるはずだった。
しかし、ティルの刃が相手への攻撃を意図するよりも断然早く奔った。
風に巻かれて舞う草。
上体を後ろに煽ったティルの面前を漂ったそれが細切れになった。微かに複数の方向から鋭く入り乱れる気流を鼻先で感じた。
黒頭巾の女性の短剣が、視認可能な速度を超えている。
回避したティルの腹部に足が突き刺さる。転倒したところを空かさず振り下ろされた鋼の尖端が追撃した。
苦悶を堪え、横へと跳ね起きて躱す。
攻撃が空振りに終えた女性を、背後からテイの吹矢が背中めがけ放たれた。極小の針には、一刺必殺の猛毒が塗り込まれており、微量で魔族の回復力すら凌駕して死に至る。
目視も困難な凶器が高速で直近より飛来する。
必勝と確信して不遜なき一手にテイの眼前で、片手の短剣の峰にそれを払われた。もはや目すら向けていない死角からの一撃に容易く即応した女性に戦慄する。
「強過ぎる……!」
戦くテイへ短剣が閃く。
踏み込んだ女性による至近距離での斬撃。躱せる猶予も無いテイには死を覚悟するしなかった。
そこへ間一髪でティルが割り込む。
テイの肌と女性の短剣の間隙に漆黒の刀身が滑り込んだ。衝突した金属の火花が散り、柄に伝わる衝撃が二人を次なる挙へ導く。
互いに逆手持ちの短剣で切り結ぶ。両手に駆る得物を、これ以上なく器用に扱い、呼吸すら忘れる間隔なき斬舞を演じる。
テイの眼前では、時を一つ数える間に二ヶ所で刃の輝きが目を焼く。
呪術的な掩護をしたいが、近距離で剣戟を繰り広げるティルには却って邪魔になる。激しく動く現状では弓矢や吹矢の誤射を招くし、短刀では歯が立たない。
ただ傍観するだけの今がもどかしかった。
「貴女は、一体何なんだ!?」
ティルが左の短剣を逆袈裟に切り上げる。
女性は鮮やかに横へと切り捌いて、空振りに終えた手元に一閃する。柄を摑む指を切断される未来を本能的に予知し、ティルはそれを手放した。
甲高い音を打ち鳴らして短剣が飛び、テイの足下に突き立つ。
彼の手には、もう漆黒の一振りしかない。
逆に空手となった左手で女性が振り抜いた腕を摑み、押さえ込む。
ティルが相手の挙動を制限しようと試みるが、それより早く一歩前に踏み込んだ女性が下から頭を振り上げ、黒髪の頭頂部をティルの顎に叩き込む。
鈍い衝撃とともに顔が撥ね上がる。
怯んだティルを、女性が峰で強く横へと払い退けた。再び地面に転がったのを見て、立ち上がる彼への側頭部に振りかぶった爪先を突き刺す。
黄金色の髪に血が混じった。
頭蓋が軋む痛みにティルは小さく悲鳴し、その拍子に短剣を一振り手放しながら横へ転がる。視界の半分に赤い幕が降りた。
「ティル!」
「私の短剣……返せ」
脳震盪と出血で意識が混濁する。
ティルは自分の呼吸音と鼓動、筋肉の微振動の音以外に何も聞こえなくなった。頭の負傷が異常な熱を発して目が開けられない。
ティルは手合わせした女性の体術に記憶があった。
流麗な短剣捌きは幾戦も経た鋭鋒であるが、その基盤となった型は、ティル自信が過去に相手した人間に類似している。
特に顕著なのは体術。
予備動作の段階で次手を看破するヤミビトの流儀に近く、体の部位とは何か異なるモノを視て反応する体運び。
その背に第三の目を有するかのごとく死角からの襲撃にも対処する。
その解は、すなわち。
「貴方は……氣術師、か」
女性の動きが止まる。
手は、地面に落ちた漆黒の短剣に伸ばし中途半端な姿勢で静止した。
ティルは傷口を押さえながら、起き上がろうとする。テイが慌てて駆け寄り、それを支えた。
依然として敵の動きは止まっている。
テイは注意深く彼女を見ながら、ティルの傷も見た。
浅い切り傷だが広く、流血が目を蔽う範囲まで広がっている。一見は軽傷だが、脳への打撃が未だ効果絶大で脳震盪からの回復には数分を要すると予想できた。
テイは呪術で患部の痛覚のみを鈍くする。脳にまで及ぶと戦闘に支障が出るので範囲は傷全体にまではならないが、痛みが引けば大分楽になる。
呪術的な処置を受け、ティルは頭蓋の内側を炙っていた熱が引いていくのを感じた。
「私の短剣……あの人が用意してくれていた」
「貴女の名前は?」
「……み、ミッシェル」
ミッシェルを名乗る女性が頭巾を取り払った。
豊かな黒髪が溢れ、褐色肌の額を露にした端整な容貌の女性の顔がティルを見下ろしている。
ティルとの交戦で攻撃が掠めたのか、肩の包帯の結び目が解けて、肩にある白印が現れた。
ティルはその名に聞き憶えがある。
興味本意でガフマンに昔話を訊ねた際、きっと彼自身も無自覚であろうが熱く語っていた女性の名だった。
双剣使いの女性、パーティで斥候を務めた凄腕で濡れ羽色の髪をした東国出身の女性。
ティルは直截問わなかったが、彼が漆黒の短剣を贈る相手と心に秘めていた相手は彼女だと言葉なく知った。
眼前の女性――ミッシェルが漆黒の短剣に拘る理由も納得する。ガフマンは隠し事が下手なので、短剣を注文中に企みと贈呈品の実態が概ね筒抜けとなっていたのだろう。
そう、云わば。
漆黒の短剣は、皇族でもなければティルでもない。
本来の持ち主の手に帰ろうとしていた。
女性が片手の短剣を放って放棄し、替わりに黒塗りの武具を摑み取る。愛おしそうに刀身を指で撫で、穏やかな笑みを浮かべた。
脳震盪から復調したティルが立ち上がった。
平衡感覚も戻り、爪先まで力が十全に伝わる。
戦闘の再開は可能だ。
「そうですね。確かに、それは貴女の物だ」
本来は、そういう物だ。
ティルは彼女が放棄した短剣と、手放した自前の短剣を拾って武装する。
手に馴染まない。
いま彼女の手元にある黒塗りの刃を、どれほど使い込んでいたか。あれで幾度も修羅場を切り抜けてきた。
最初は、ムスビの結婚披露宴を襲撃したとき。それから冒険者として戦い、ハナエの護衛をした日々を共にしている。
あれこそ、ティルの旅の証でもあった。
「そう、これは私の物」
「ええ。――貴女の物だった」
「…………?」
たとえ本来の送り主でなくとも。
ガフマンから託された物である。
「でも、俺は彼に選ばれてそれを継承した。もう、貴女の物じゃない」
「……違う」
「ただ、今の戦闘では不甲斐なかった。ガフマンさんも認めてくれるか苦しいところだ」
短剣を握り直して構える。
腰に力を入れ、真っ直ぐミッシェルを見据えた。彼女もまた、手にした黒塗りの刃を構える。
流儀は同じ。
ただ確固たる実力差が歴然としている。
ティルが武器を取り戻す術は一つしかない。
「だから、貴女に勝って……改めて俺の物だって証明する!」
ティルは自らを叱咤するように声を張り上げた。
すると、ミッシェルが獰猛に微笑む。
空気が変わった、ティルを包む草原がすべて毒蛇だと錯覚する、何処にも安全は無い。この草原全体が彼女の刃圏だ。
息を呑むティルの肩に、テイの手が乗る。
「今は戦争中、潔い一騎討ちは成立しない」
「テイ、でも……」
「だから、せめて小さな掩護」
テイの掌から、体全体に熱が伝わる感覚。
ティルの全身の触覚が鋭敏になった。足の裏の大地の感触が、平時よりも繊細に感じ取れる。些細な凹凸すらも、掌を見るが如くだった。
「痛覚を鋭くした。いつもの倍反射速度が高まってる」
「ありがとう」
「その分、痛みも倍」
「……ありがとう?」
「頑張って」
テイが退く。
ティルは諸刃の剣となるテイからの加護を享受し、改めてミッシェルと正対する。相手は格段に格上の実力者だ。
勝機は薄い。
それでも、彼女を避けて通れはしない。
「さあ、始めよう」
「ええ、私に勝ってみなさい……後継者」
ミッシェルとティルが同時に飛び出す。
二人の双剣が草原に火花を散らした。
× × ×
遥か昔のこと。
原初の大地に招かれた一族の話。
まだオノゴロ島が三つに分かたれて出雲島へと変わる前である。神聖なる領域は、二神とその系譜に連なる神々以外の入行を阻む不可侵の聖域だった。
オノゴロ島に許容されるのは神と認知される者に限る。――即ち、神と認められるなら誰しも迎え入れられた。
その時代では、未だオノゴロ島にその前列がなく、厳密な原則すら設けられていなかったが為に、彼らにも予期せぬ歴史の転換点が現れた。
それは島の外の世界。
そのある場所に住む部族に、神と崇敬される存在が誕生した。力もさることながら人格、そして機運に恵まれる身は、まさに神の奇跡と周知されることとなる。
やがてオノゴロ島は、天津神及び子息たちすら関知せぬ場所から呼び寄せられた。
この到来を予期していたのは二神のみである。
迎える神無年。
帰還した神々は、この存在を烈しく批判し殲滅すら計画した。当然、戦争になったのは語るべくもなく、しかし彼等はその力で神々と拮抗した。
さすがは神と崇め奉られる存在。
超常の一族と争いながら、彼等はオノゴロ島に外界の技術をもたらし、人々の生活を豊かにした。創成から僅かな時が流れ、それ以来止まっていた島の人々の時代が大きな躍進を遂げる。
間も無くして、恒久とされた文明に変革を成す彼等は別の天地を司る神としてもオノゴロ島の人々に膾炙した。
人々は彼らを――“別天つ神”と呼んだ。
そして、彼らと区分する為に皆が神々を支配者の血族として、これを神族とされた。
今まで至高以上の存在とされ、人には崇めるだけだった神々が、その意味合いを一つの生物という認識に堕とされたのだ。
それを支配者たる神々は許すはずもない。
イザナギはその代償として、『加護』という名の拘束具を与えた。これを所有する者は、島の外には出られない、或いは島を出れば死ぬ一種の呪い。
ただ、彼等を縛るには一つでは足りない。
ゆえに、複数個を一人ずつに付与した。
更には一族でも当代の首領を島の門番に据え置き、以後は同族にすら関与できぬ領域に縛った。
これを受け、彼等は憤慨した。
ただし直接的武力では二神を滅ぼすことは敵わないので、その周囲の環境から侵害していく算段を企てる。
当時、神族とは別にイザナギの力を色濃く嗣いだ三体がいた。
その筆頭たる天隠神から氣術師が生まれたのを知る彼等は『ミラン』を唆し、人ならざる生物にして敵の象徴として生産された怪物、つまり魔物と交配させて“魔王”という神人の仇敵を産出した。
身内からの裏切りは大打撃となり、オノゴロ島の歴史にもない動乱が起きた。
実質、島全体に及ぶ規模で戦役が開始されたのは、これが恐らく初めてである。人としての文明を保持する為に、神によって一時的な戦争行為をすることはあったが、ここまで憎悪し合った争いは皆無。
オノゴロ島の人間が、初めて『人間』として力を揮った戦乱の時代の到来。
イザナギはこれに際して、同様に残るもう一人にも腹心との交わりを求めて魔術師を作った。これは彼等によってイザナギさえも革新を受容せねばならない状況に追い詰められたと人々は確信した。
やがて、この二大勢力が導く姿を見て、人は魔法という術を得る。
これと同時期に、彼等は帰郷を志して神殺しの宝具を収めた迷宮を製作していた。後に、これが更なる戦争の火種となる。
そして、門に囚われの身となった若き首領の少女を救う為にも、入行の代償として少女を強要されたと歪曲した事実を後代に伝承した。
それから途方もない戦局、延々と続く剣戟にイザナギも苦しみ、大陸を三つに分断されて『出雲島』となる。その際に彼等の存在を人々の記憶から抹消し、迷宮への認識を改竄、そして自らの半身たる四聖獣や大陸ごと彼等を切り離したのだった。
これが、ある意味では神代末期だとも言える。
「それが――君たち、カムイと出雲島の歴史」
四聖獣の住処だった山岳部。
その奥地にひっそりと佇む廃れた神殿にアオビは訪れていた。その後ろを蒼緑の髪の少女イセイジンが随いていく。
六枚の花弁の紋様と重なる魔方陣が画かれた境内に入る。遠目では四葉に見えたが、風化して薄くなっただけであり、二枚の花弁が備わっていた。
砂利を爪先で掃いながら本殿へと進む。
ユウタの報告では、既に八咫烏によって神族関連の品々が運び出された後とのことである。四聖獣もいない神殿は、既に無用の長物と化したはずだった。
それでも、そこに意義を見出だしてアオビは中へと入る。
イセイジンは、背後から赤袴の裾に付く砂埃を厭わしそうに払いながら後を追った。
道中で勝手に同行してきたこの少女だが、神族の刺客ならば出会い頭に襲撃する筈なので敵ではないのだろう。口振りは事情を知っているようなので、むしろ他所に行かれるのは面倒だと判断した。
「ここはカムイが四聖獣の為に建造した神殿」
「ああ。――ここが入口だ」
アオビがここに来る動機。
カリーナにカルデラ一族秘蔵書の閲覧の許可申請を行い、彼女の許しを得て彼女も暇がなく手を付けられなかった図書館迷宮七層の蔵書を開架して貰った。厖大な量とあって、『縛られし者』の解放活動と並行しながら戦争に間に合うか限々だった。
詩音による『転移』を使ってカルデラと火乃聿までの移動時間を消しながら通い詰め、遂にそれらしき記録を発見するに至る。
秘密が隠蔽されても、真実を蔵するカルデラの力は偽りではなかった。
本人たちが自覚さえし得ないほどの奥深い歴史がある。
この四聖獣の神殿に――『扉』の伝承がある。
アオビは本殿の中へと入る。
崩壊した天井と左右から傾いだ柱によって狭い入口に滑り込む。中は下へ深くなっており、床に向けて瓦礫の傾斜が形成されていた。
慎重に安定した足場を探しつつ、遥か見下ろす本殿の床まで下りる。あまりの悪路に苦闘しながら、二人でようやく平坦な場所に出た。
上を仰げば円形の天蓋があり、穿たれた中心から光が差し込む。
時代を隔てた客人の来訪を静謐が迎える。
「ここから行けるんだな?」
アオビは仏頂面で隣人に問う。
イセイジンが気の抜けた微笑みで首を竦めた。
「知らない。君が調べたんでしょ?」
「白々しい。俺はお前が何者かを知らねぇが、その立ち振舞いから全部知ってるのはわかる」
「流石、半生を人の顔色窺うことで生き延びてきた男」
「殺されたいのか、お前」
「私は人畜無害なただの女の子で~す」
「冗談も程々にしろ」
アオビは溜め息混じりに悪態をつく。
闇に閉ざされた本殿の奥へと足を進めた。
「北大陸に行かないの?」
「行くぞ、今からな」
「はい?」
崩壊したにも関わらず、瓦礫に封鎖されていなかった。懐疑的になるほどに浩然としており、列柱が左右に林立する。
瓦礫は横へと押しやらた形跡があった。
ユウタの報告では、広間以外に何も無い。
参照した情報との違いにアオビの顔が曇った。
念の為に人の気配を探りつつ歩む。大袈裟に足音を立てるイセイジンに若干の苛立ちを抱くも、努めて前を見るよう意識を集中した。
床や壁面に画かれた絵を見ていると、ここが迷宮の内部と差異が無いことに気付く。
「ねえ、何があるの?」
「四聖獣が守護したここは、北大陸への入口がある」
「へー」
「カムイが秘匿したらしいから、四聖獣も神殿の意味を把握してなくて、ただ漠然と住処だから守っていたから人の手が届かなかったとか」
「それで?」
「カムイはいつか、また此所から攻め入る積もりみたいだが、大軍が入れる程では無いんだとさ」
伝承では北大陸へ転移する扉がある。空間魔法に類似した力によって、二つの遠隔地の空間が触れ合って生じる歪み。
通過した者を別の地へと転移する。
ただ高度な仕掛けとあって、その永久保持も兼ねると入口の大きさには限度があり、大軍で一挙侵入するのは不可能だという。
アオビがここからの潜入を選んだのは、その扉が何処に繋がっているか不明だからだ。
未知だからこそ敵地の只中かもしれないし、或いは相手の意表を衝く地点から発進できる場合も十分考えうる。
「それ、外れてたらどうするの?」
「舟を引っ張ってくしか無いだろ。まあ、元来長期戦に向かない俺が戦地に行くのもあれだし、大人しく帰るってのも一考だ」
アオビは呑気に言いながらも。
その先を見据える瞳は極めて険しかった。
瓦礫が押し退けられた形跡。
つまり、ユウタが来訪した際には無く、誰かがこの通路を暴いた。何者かは見当も付かないが、それがアオビが到着する直前か、それよりも長く前か。
後者ならば幸い、それ以外は災禍。
警戒を促そうと振り向いて、背後のイセイジンが消えていることに気付く。見渡すが、隠れた気配はない。
不審に思いつつ歩を進める。
やがてアオビの行く手に、狭い部屋が現れた。
戸も無いので、室内は露見している。そこに壁の一部が白く円形に歪んだ景色と、それを背に立ってこちらに手を振る誰かの姿。
目を凝らそうとして、横の柱から躍り出る影が視界を掠める。
アオビが掌中から冷気を放出し、隣の空間を氷塊で占有した。大気中の水分を氷結させる力だったが、その速度の高さを求めたために指先の体温が一気に失われる。
それと間髪入れず、逆側からも人の気配。
身を巡らせると、錫杖の先端が迫っていた。慌てて身を後方に反り、そのまま飛び退いて距離を取る。
震える右手を押さえながら、再び前方を見た。
すると、手を振る影との間に割り込んだのは氷結を免れた先刻の襲撃者二名。
銀髪に一対の角、金の双眸を持つ魔族の少女――スズネ。
もう一人は東国の軍部特有の長作務衣を着た人物だった。
「何だよ、お前か」
「……何しに来たの」
「それはこっちの台詞だ」
険相のスズネに、アオビは不平声で応える。
再び構える長作務衣に、奥の小部屋から声がかかる。
「茶菓子さんもスズネも、落ち着いてよ!」
手を振りながら、件の部屋にいた人間がこちらへ駆けて来る。
肩口から袖を切った青い徳利襟の服と、引き締まった黒のズボン、腰には緑を基調にした上着の袖を前で縛った腰巻き、爪先と踵のみを露出した薄手の長靴。
人懐っこそうな笑顔と曇りなき碧眼がアオビを見ており、振った手の動作に連動して一つに結った黒髪が元気よく揺れる。
見知った顔だ。
しかし、意外な人物にアオビは喫驚を禁じ得なかった。
「アオビさんだ、おーい!」
「じ、ジンナ……!?」
不穏な先客の正体。
それは心優しき英雄の少女だった。
読んで頂き、誠に有り難うございます。
アオビについて前話の最後を加筆したので、そちらを見て頂けると話が繋がっています。勝手な行い、本当に申し訳ありません。
次から“あれ”も動きます。
もう同じ場所で足踏みしている訳にもいかないので、どんどん進めて行きます!
次回も宜しくお願い致します。




