世の末
無窮の世界。
水平線と夜空だけに挟まれた異質な空間に、影を作る少女。椅子に腰掛け、木組みの馬の玩具を膝に乗せて愛撫する。
左右で異色の虹彩は、茫と手元を映しているだけだった。水面の上に佇む氷肌玉骨の背後から、彼女の背に刻まれた二頭の蛇と短刀の刻印を見つめる緑髪の男女の集団。
一人の男が前に進み出て、彼女の隣に立った。
「……ジンナ、ヴァレン、クロガネ、スズネ、ムスビ、ウィルトス、ゼーダ、タクマ、マキ、ティル、ユウタ……そしてアキラと、最大の目標のキミが回収出来れば、この世界に用はないね」
男がそっと、耳許に顔を寄せる。
青い瞳が、透き通った白い肌の横顔を注視した。表情の変化は無く、依然として視線を合わせぬ様子に舌打ちした。
「ただ厄介なんだ……教えてくれよ」
「……何を」
「君の兄さん――初代アキラの“魂の核”の在処さ」
「知らない」
男は水を蹴り上げた。
騒ぐ水面、それでも少女は変わらない。
顎を摑んで強引に上を向かせ、自分と正面から向き直らせる。果たして、碧眼から放たれる眼光を滔々と受け容れて無反応であった。
男は彼女を突き放す。
「二代目アキラが魂をあっちこっちに黒印移植法で分散させた中に、キミが混ぜ込んだ“初代の核”がある筈だ!」
「混ぜただけ。わたしは所在を把握してない」
「嘘を付くな。魂の分配ってだけでも大罪なんだ、その救済措置を施すにしても、本人が居ないんじゃ話にならない!」
「わからない」
「ッ……この――!」
「ただ、一つだけ言える」
少女が顔を上げた。
月の傍にあった、一つの星が強く瞬く。
「兄様は帰って来る」
彼女の声に、男は黙った。
ふと、全員が同時に何かを感知して水平線を見遣る。夜と海しかなかった、索莫とした世界の中に、光が差し込んでいる。
夜空の端に昏く、けれど橙色を滲ませて、太陽がゆっくりと昇っていた。
「ユウタが、約束してくれたから」
少女が手を止めて、そちらを見る。
誰にもわからない、小さな笑みを浮かべた。
× × ×
海に面した磯に、冬の波は岩をも砕く峻烈さで叩き付けられる。それ飛沫の一滴までもが鋭利な針のごとく岩の表面を打擲した。
隙間の砂を浚って激湍よりも騒がしく泡立って汀を滑り抜ける。例年にはない強風に煽られた波の勢威に、平生とは異なる風景の磯には、鳥獣すらも身を隠しているほどの厳寒な空気に包まれていた。
やがて、磯に黒衣が転がるように打ち上がる。
波に横っ面を叩かれ、立つのにも苦慮し、這う這うで波の手を逃れたゼーダは裾を絞って水分を落とす。日も差さぬ天下に凍える空気は、瞬く間に体力を奪っていく。
凹凸の豊かな磯を離れ、岩の滞積した場所に腰を落ち着かせる。肩に突き刺さった木片を取り除き、咳くような海水の波打ち際に放った。
手負いで一里も及ぶ距離の遠泳が能うのも、生まれた血筋に由来する体力。ゼーダには皮肉にしか思えず、我ながらの悪運に乾いた笑み。
いまだ水滴る着衣を脱ぎ捨てて展げ、しばし凍気に晒して乾燥するのを待つ。
その間、氣術の片手間に学習していた魔法にて、掌中から蝋燭の先端に点る程度の火を発生させる。可燃性のある枝などは、遠目に窺えた崖上の木から、これまた氣術でそちらまで歩まずに拝借した。
体を温める調えが済み、幾分か息も落ち着いたところで西側の水平線を一瞥する。
敵陣の窺見は、すでに要塞の一つを陥落させ、鹵獲得していた。攻め入る算段の出城として利する目的か、単なる示威行為、或いはその両方か。
どちらにしても強大な戦力の一端に、同盟軍の一員だったヤヨイが寝返った事実は、あまり面識の無かったゼーダとしても青天の霹靂であった。
成長の余地はあれど、その速度や実力などでは二年前のユウタに劣るとあって、ゼーダの中では特段警戒すべき対象にはならない。
しかし、目眩ましとして機能させていた場所が陥ちたとあっては、同盟軍出陣の時機も急がねばならない。
この報告をすれば、カリーナの怜悧な知性が軍の負担にならない程度に出撃準備を完了させ、次なる相手の兇手に先を取れる。
ゼーダが到着寸前で確認した頃、九割の戦支度が調っていると聞き及んでいた。今さらの報告やもしれない。
尤も、報告者はゼーダ一人のみ。最後に仮借ない砲撃を受けた港に、辛うじて生存していて撃たれたか、満身創痍で海に突き落とされたか……全うな死に方ではない。
これが凶報だとしても伝達することが使命。
ゼーダは肩の傷に処置を施す。
濡れ鼠とあって荷物も全滅、専らが氣術に倚籍した手当だが、止血も済んだとあって改めて氣術の汎用性に感心した。
そんな感嘆もすぐに捨てて、体が十分に暖まったので早急に準備をする。要塞から浴びせられた弾雨を受けて幣衣を着て海から離れた。
急峻な崖を登り、南まで手を伸ばす森の中を歩む。恷眞の領土まで届けば、魔物といえどユウタの仲介あって同盟中、一時的に匿ってくれる。
最悪は伝達を彼等に頼める。
魔物は、この世界で神にも人にも束縛されない存在、云わば唯一間者の可能性が皆無な連中。然りとて永らく魔族とは別の脅威として人と対立してきた彼等に、容易な頼み事はご法度だが状況が状況、致し方無い。
南下していく足取りは、能う限り早く。
天候相俟って先行きに暗雲の予感がちらつくが、努めて冷静に己を律する。ユウタが囮として放たれたのはカリーナの差配を見て概ね察していたが、もう既に北大陸の手勢と相見えている頃か。
戦争は始まっている。
ゼーダの配役は報告後、独断で動けとの命令。随時戦況を確認し、必要があればカリーナから最新の連絡が届く手筈である。
「何してんだよ、こそ泥さん」
森全体に響き渡る声に、ゼーダは短刀を構える。洞窟のように林間を反響しており、声の主の位置が性格に捕捉できない。
視線を全景に奔らせるが、それでもなお人影はみとめられず、ただ声は未だに残響として聞こえる。
こめかみを打つような頭痛を覚えた。
潮騒が遠退いていく、周囲の景色が霞んでいく。血を流しすぎたか、それとも恷眞まで道を急いだのが体には酷だったのか。原因を探ろうとする思考さえもが緩やかに停止した。
肩の傷が消え、耳と目を残した五感だけが薄くなる。
篠突く雨を降らせる雲が近付くかの如く、周囲に地を叩く雑踏、空を揺する喧騒が段々と大きく聞こえ始めた。まだ機能する視覚と聴覚だけで、必死にその怪奇現象を分析すべく意識を集中させる。
望洋としていた景色に輪郭が蘇る。
しかし、それは乱立する木々などではない。
ゼーダの周囲で、多種多様な人間たちが四方八方へと歩み去っていく。人種も様々、見た事もない装束、そして高く立ち上がる形状様々な摩天楼。激しく銅鑼を打つような音楽、足下は黒く鈍い灰色の固い地面。
奇異なる店が立ち並び、三色に点滅する街路灯の下では車輪の付いた異様な台車が構えている。
ゼーダが上を見上げると、高さを競い合って擡頭する摩天楼で空が狭かった。
背後から肩を叩かれた。
いつしか、触覚が再生している。
振り返れば、鮮やかな緑髪碧眼の青年が立っていた。ゼーダに対し、悪戯っ子めいた笑みを浮かべる。
「どうだい、驚いたろ。スクランブル交差点って言うんだぜ」
「スクル……シェテン?」
「あー、発音が難しいか」
「此所は何処だ」
「あんたが行き着く先さ」
青年が人波の中へ入る。
ゼーダも慌ててそれを追った、周囲からやや視線が募る。幣衣に包帯の男となれば、確かに清潔感ある服装の彼らからすれば奇態な風貌だった。
隅々まで、異界と称するに値する景観。
それは皇都よりも、自然の中で長い年月をかけて色褪せる遺跡の影が無く、全てが洗練された人工物ばかりで装飾されている。
「お前は、何者だ」
「『イセージン』。まあ、簡単に言えば神様を失った異界で、その役を強制された子供達」
「……子供、達……?」
「君らのいう『約束の子』と同じさ」
遊歩道までたどり着き、青年が顎で一方向を示す。町の小さな住宅街(と思われる家屋の建ち並んだ区画)の一劃に設けられた空間で、子供たちが戯れていた。
玩具を持ち、或いは設置された物を用いて遊ぶ。無邪気なその風景が眩しく、ゼーダは目を眇めた。
迫害された過去を経た身として、差別無く交遊する子供の姿は、何よりも貴く映る。
「これは、未来……なのか?」
「どうしてそう思う?」
「千里眼という未来視を可能にする力がある。他人にそれを見せる物があっても、何ら怪異には思えん」
「まあ……半分は正解かな」
釈然としない青年の物言いにゼーダは顔を顰める、目的が全く見えない。
「終焉に差し掛かって、僕らは準備してるのさ」
「……準備?」
「不幸な人々を救済する、その手続き。それで、第一人者になるであろう、あんたみたいな人間に干渉して先駆けて見せてる訳」
「……何を言っている」
「あんたは、『イセカイ』って信じるかい?」
ゼーダは沈黙した。
イセカイ――やや発音が難しいが、概ね異界に準ずる意の言葉であると推察する。彼らがゼーダやその他の人間、何らかの規定の条件を充たす人材のみに、こうした幻覚を見せているのだろう。
いや、幻覚か?
踏み締める地面も、子供の声も、風も、自然の物に感じる。
「これが、その……それか」
「賢いな」
「救済とは何だ、どうして私の前に」
「僕たちは死人、または死に近い人間にしか見えない」
「……私はまだ、死んでいない。些か体調不良であるのも認めるが、大事ない」
「現状じゃない。未来の話さ」
「……疑わしいな」
「それじゃ、証明……というか予言しよう」
青年が指を一つ立てた。
「あんたは死ぬ、この戦争で。故郷にいる弟の隣で眠ることもできず、ユウタくんの幸せを見届けられずに、な」
ゼーダは身を翻し、青年の首に短刀を突きつける。かすかな怖じ気すら見せない相手の間合いに踏み込むことは危険だが、それでも内容は聞き捨てならなかった。
いま自身の人生で幸福と思えるのは、自分が未熟だったあまり、母と離反させた上に故郷を追放させてしまったユウタへの贖罪、そして彼がいずれ、もう一人巻き込んでしまったハナエと婚儀を行う光景を目に焼き付けること。
これだけでも十分に過ぎないが、過分な願望も叶えられるなら、弟を葬った場所の隣に身を埋めて人生を終えたい。
たとえ無理な話であったとしても、出会って間も無い青年に、不可能だと切り捨てられる覚えはない。
「ただ、あんたに救済は用意してある」
「黙れ、貴様が呈示する内容にある訳がない!」
「じゃあ、見せようか」
青年が片手を掲げた。
その掌中から、二つの赤い発光体が出現する。球状の形で虚空を移動するそれが、ゼーダの面前に降りてきた。青年との間に割って入ったそれが、眩い光を放つ。
ゼーダは短刀を下げ、後ろへと飛び退く。
それでも、前景から発する光は景色を塗り潰していった。鼓膜が爆弾で破裂したかのごとき耳鳴りに襲われて頭を抱えた。
――兄さん!
脳内すら裂く耳鳴りの中に、弟の声がした。
――トオル。
次いで、想い慕った人の誰何。
ゼーダは瞠目して、その場に膝を突いた。周囲の景色を掃討していた光が止むと、以前の森の中に回帰している。
それだも、ゼーダの意識は未だに声に引き付けられ、その事実に気付かなかった。前では、青年が笑みを湛えて見ている。
「カオリと弟、両名の魂は回収した」
「……何をする積もりだ」
「これが救済。安心してくれ、死んだ後は弟とカオリを一緒に、楽園へ案内してあげるよ」
「楽園……まさか、さっきの異界のことか……?」
「それじゃ、また」
「待て!」
青年の姿が林間の闇に溶ける。
ゼーダの制止の声が、突風に掻き消された。梢に乗っていた雪塊が次々と頭上から落下するのを察知し、横へと飛び退いて雪上を転がる。
過去位置で煙る氷霧に吐いた安堵の息が混じる。
ふと、飛び退く際に痛みを感じなかった体の異常を認識して、肩にある傷口に触れた。
「傷が無い……!」
幣衣に滲んだ血痕も消え、体の節々を悩ませていた疲労感が抜けている。遠泳で削られた体力の回復もしていた。
この怪異に、先刻の青年の言動、不可解な出来事の連続に沈思し、やがて今は如何に考えようとも徒労に終えると中断して立ち上がる。
いまは、ただ戦争を終わらせる。
神を討ち、ユウタ達の行く末を見守ることに命を消尽することに変わりはない。
目先の恷眞を目指し、ゼーダは再発進した。
× × ×
北大陸――。
黄泉比良坂を擁する湖。
どこまでも清明に澄んだ湖水は、しかし底の窺えぬ闇を孕んでいた。深すぎるゆえではなく、真の暗黒を湛えていたからである。
内側から炸裂することなく、凪いだ湖面を騒がせぬよう息を潜め、神代の初期から変遷することなく存在した。滔々と死者の魂だけを受け容れる黄泉國の入口にして、その始まり。
その闇の中より出て、湖面に向かって歩む夥しい影が現れる。暗黒から人の形に千切られたようにさえ思えるそれらが畔まで上がった。
身を包んでいた暗黒が泥さながらに皮膚を滑って足元に落ち、覆われていた体が外気に触れる。続々と湖水を脱した者たちは、自分達の体を見て唖然としていた。
黄泉國から這い出て現世に帰還した彼らが、現状に一驚して彷徨いていると、その頭上の宙に黒衣の男が現れた。音もなく、ただその場に生まれた霧の様に浮かぶ。
一同の視線が募る。
男は琥珀色の瞳だけで、何百もの視線を受け止めながら、それ以上に冷たい眼光を返す。
「黄泉より復活せし者よ、私はアキラ……いや、イザナミである」
諸手を広げてみせたアキラ――その体を借りたイザナミが、眼下の一同に向けて真紅の瞳を一周させた。その視線に見竦められただけで、湖から這い出た者たちの体が縛られる。
奇怪な拘束力、抗える者は一人もいなかった。
何人たりとて異を唱えさせない、力を揮って独裁するイザナミに、しかし全員は精神までをも支配されたのか、全く反感を抱かず、ただ彼女の言葉に耳を傾ける。
「協力しなさい。いつかの故郷へ還る為に……この『籠の中』を、いやもっと外にある全ても破壊する!!我々を縛り付け、のうのうと生きる高天原の老害ども、そして私を裏切ったかの主神も滅ぼす!!」
イザナミが足下を指差すと、全員がその場に跪いた。ある者は湖面に顔を伏せることにもなったが、それすら気に留めず頭を垂れる。
ただ彼女への忠誠のみ誓う。
生前から信心深き者、或いは神を断固として心の寄す処としなかった無神論者も、呉越同舟の面々で構成された復活者たち全員が平伏した。
アキラの顔を借りた彼女が、凄惨な笑みを浮かべる。
離れた林間から窺っていたシュゲンとカーゼは、復活者たちの有り様に嘆息する。
元から歪だったアキラの意識が消滅し、いよいよ肉体の中枢を支配してイザナミが動き出したのは、つい一月も前のことである。タクマへの刺客が全て失敗に潰えた数日後、カーゼ達が花しかけると別人になっていた。
女性の様な口振り、傲慢な立ち振舞い。
彼らしからぬ言動に、作戦の悉くが失着に終えて狂気の沙汰かと哀れんだのも束の間、本性のイザナミが表出したのだと悟って以来、距離を置いている。
「どうすんでい、シュゲン」
「まあ、ボクらの雇用主はアキラだ。彼から初めに受けた命令を全うするだけだよ」
「……確かに、オイはあっち側に参加すんのは少ぃとばかし嫌気がするってもんだ」
中央大陸最強の刺客と称される三人。
世間にそう嘯かれ、いつしか隠居した面々は、それぞれが愛情を手に入れた者たち。殺しの果てには、結果として己の罪深さを知ること以外に、それしかなかった。
特にアキラは顕著だった。
誰よりも強いからこそ、誰よりも早く境地に達し、殺しの戦いに幕を下ろした。計画の準備が完了するまで、心痛忍び堪えて一刀をふるったのだ。
そんな彼の意思が色濃かった、二人の復活当初の頃に受けた依頼。
憧憬にして友人のアキラが、最期に遺したもの。
イザナミから背を向けて歩き出す。
二人に仕えるべき主はいない。
ただ生前と変わらず、請け負った仕事の内容を完遂すれば、後の戦や問題などは管轄外。そんな事に労力を蕩尽する暇があれば、他に有意義な事は沢山ある。
「なあ、シュゲンやい」
「ん?」
隻眼のカーゼが、仕事道具の糸を束ねながら尋ねる。先を歩むシュゲンは顔を向けず、声だけを返した。
「……いや、何でも無ぇ」
「何だよ、気になるじゃないか」
「執念ぇ。ただ子が可愛いって話しようとしただけだい」
「君の口からそんな言葉を聞くとはね。世も末だ」
「実際に世の末に直面してるがな」
シュゲンが朗らかに笑った。
「うん、確かに我が子は可愛いよ」
「世も末だな」
「全く、遺憾ながらね」
二人は森を抜けて丘に出た。
黄金色の草原が続くそこに、二人で水を掻きわかるように進みながら、遠くに窺える神殿まで向かう。後方の森から自らを鼓舞する鯨波が聞こえる、邪悪な指揮者の下で怨念じみた戦意が林間を騒がせる。
「さて、始めんとな」
「ああ」
歩きながら装備を調えた両名が、方向転換して草原を南下する。
各々が特殊な武器を携え、緊張と殺意の均衡が取れた瞳の光で先を見据える。二人の影を追って、森林限界から黄金色の草原を蹂躙する戦士たちが躍り出た。
彼らを率いる足先は南西、中央大陸の手勢が上陸すると思しき海岸である。
「――開戦だ」
シュゲンの一言が耳朶を打つ。
カーゼもまた、南の空へと意識を澄まして加速した。
読んで頂き、誠に有り難うございます。
次の更新は木曜日か金曜日です。
次回も宜しくお願い致します。




