堕ちた羽
スタートは緩く。
目に見えて辿り着けぬ桃源郷とも謂われる。
遠くの海面上に霞んで窺える大地の姿は、誰しも一度は足を踏み入れたいと願う。葩が躍り、常に蒼天の頭上からは神の祝福足る光が差し込む。
最も高貴な血族が支配し、その地に滞在を許された者は世に一つとない栄誉を賜るとの風聞。
その真相を探るべく旅立ち、けれど無情にも撥ね付けられた者もいれば、二度と帰らぬ者もいた。
神の許可を無しとするなら、入行に必要なのは神の血。彼等の親類、またはその支配下に属する者のみである。
数千年と人の世から隔てられし神聖な土地。
開かれる筈のなかった門が、いま開こうとしている。かつて切り分けられて大地の裂目に、導きの橋が架かる。
それは磐石の体制を整えた彼等の鷹揚なる待遇か。
ただ一つ、確かなこと。
それは神が、自らの破滅すらも受け容れる覚悟を決めたというのである。
軍配がどちらに挙がろうとも、それは間違いなく、一つの時代の終演であるのに相違ない。
神は座して待つ。
哀れなる人間たちの抵抗を。
× × ×
数多の慟哭と剣戟の音を聞き、生命の息吹を吸い込む氷雪は、次なる時代の音を待つ。人の踏み入らぬ深山では、磨かれた氷面さながらに美しい雪化粧が山麓まで続いた。
それは月光すら跳ね返し、闇夜を静かに呑み込む。凍てつく空気は、明るい夜の中でますます鋭く研がれ、眠りについた生命を死の際まで誘った。
景観に宿ったのは、生死の転換を象徴する魔性であり、これを乗り切らぬ者に明日はない。云わば生存を望み、強かに生きる者とそうでない弱者を選別し、次へと進ませる自然淘汰の儀式。
自然が太古より生命に求める試練である。
そして、明くる年の始め。
山蔭より出る日の足音、雪を照らす曙までもが洗練されたかのような空には、後退していく闇を広がっていく光の漣が洗い、群青と黄金が淡く混じる。
果たして、呑まれるのは悠久と思われた神代か。
それとも、長い年月を経て漸々萌芽した人の時代の幕開けか。
雌雄を決する鬨の声は、冬空の彼方に轟く。
暁光を称する者に宣戦を布告され、今やいつ烽が上がるのかと、万人の視線は緊張の色を宿して奔る。神々の齎らす夜を淘汰する人、確固たるモノとして永遠なる威光で照らす神。両者の相克に、間もなく決着が付けられようとしていた。
炉で火が爆ぜる。
赤熱の錬鉄に槌が振り下ろされると、薄闇の工房で何尋も深い谷底を響くような音、次いで火の飛沫が上がった。暗中を照らす灯となった鉄は、その身を焦がす熱と槌の操り手にすべて委ねる。
叩くと煌々と一瞬の閃光を散らした。
透き通るような金属音は、鎖された工房の壁や床などを跳ね返って、中心へと収斂する。鼓膜へと一斉に殺到する音、しかし心を乱さず槌を振り下ろした。
工房の中に浮かぶのは、赤熱の光を直近で受ける鍛冶の姿のみ。矮躯に似つかわしくない隆々とした筋骨の躍動は、さながら脈動する岩塊の集合体であった。
手に駆る槌は、渾身の力で叩き下ろされているようで、手元に幾分かの繊細な気配りと、錬鉄よりも熱い意志が宿っている。
皮膚に浮かぶ珠の汗、滲み出たそれらが光を照り返して星のごとく燦めいた。それは鍛冶の小人を彩った宝石の装飾となって、暗中に厳然と佇むその出で立ちを一層厳かなものへとしていく。
だが、工房に在るのは彼のみではない。
それを少し離れた位置で、壁に凭れて見守る黒い影がある。闇に同化し、息を潜め、気配を殺し、ただ鍛冶の集中力を削がぬよう努めて見守っていた。
手元で錬鉄から火花が奔り、鉄の息吹なる熱風が拡散すると、合わせて影の持つ琥珀の双眸が黎明の太陽の如き色彩を帯びる。
無言で佇立する影の正体は、その歳に似合わず凛とした空気を纏う少年だった。端麗な面持ちの醸すそれは甘い芳香すら漂わせる。
癖のある黒髪は熱風に戦ぎ、襟髪を紐で結わえて露出した首筋に汗が滲む。
右を五分袖にした袷、袴から覗いた足袋、染色された草履までもが同色。鍛えられて細く引き締まった体を黒で統一した装束で、その気配と共に秘匿して闇に潜んでいた。
断続的に照らされる右腕には、螺旋を描いて絡み合う蛇、服に隠れた肩の位置で一振りの短剣によって頭を束ねられた、痣のような黒い刻印があった。自らの酔狂で刻んだ刺繍とも異なり、真意を識る者以外にも伝わる異様な気配を発する。
それは、その者に宿命づけられた呪いか、或いは見た者を不幸に導く凶兆か。
仕上げの作業に入り、少年もそちらへ寄る。
刀身は鎬地までもが澄んだ鏡面となる白銀。炉で幾度も熱せられた後、水に浸して引き上げられると、柄本から鋒まで冷たい光を反射する。
一種の芸術品と称するに価するそれは、けれども少年の手に渡ることで最も剣呑な凶器へと仕上がるのだ。
その意味を弁えながら、鍛冶は恭しい手付きで渡す。深く一礼し、跪いて両手に乗せた刀身を掲げる。
それは太古から、彼等のみが本能に刻み込まれた為すべき儀式。これを忽せにしては、鍛えられた刀身から輝きが失われてしまう。
対する少年もまた、深く一礼してから丁寧に受け取った。
「決して闇に生きる神の剣に非ず。これは人を守る剣なり」
厳かな声で告げられる。
「誓いましょう、これは神意の剣ではありません。愛する者の禍を断つ剣です」
応ずる少年の声が響き渡る。
二人の間で誓約が交わされたとき、手にした刀身が翠の光を纏った。触れた手元から伝わり、全体を舐めるように広がって霧散する。
そうして、漸く二人は深く息を吐いた。
これまで、飽くことなく繰り返された儀式。一人の鍛冶と、幾世代もの闇と交わされたそれは、しかし現今には形を変えている。
前者は、新たな継承者を得た。
後者は、無謬の剣たらんとする闇に背く者。
相身互いに新たな道を征く、その健闘を祈る言葉であり、その道を踏み外さぬ為の忠告である。
「俺が課したのは――『不撓不屈』。次こそは折れぬ最高の刀になってくれぃ」
そして少年――ユウタは無言で肯く。
奈落の底を低徊し、仲間によって救われた。自ら抗うと標榜した信念を屈し、望まぬ己を受け容れて傷んだ刀。それを戒めと共に鍛え直し、見据える先を再設定した。
手にした刀身に、紫檀の柄を填める。撚りを加えなければ挺けぬ仕組みであり、数か月前にある里の職人と共同で作業し、習得した技術で再現した物。予て製作したが、実物に確りと小さな支障もなく適合した。
そして、同じく自身で拵えた紫檀の鞘に音もなく納める。素早く閉じ込められて刀身が隠れると、外観は完全に杖そのものへと変容した。
全長三尺の仕込み杖――師から継承され、一度は折れても、再び宿った信念の再燃によって鍛えられた刀身である。
もう過たぬ意志を象徴し、本人の心揺らがぬ限り、以前にも増した強度を誇る業物となった。
最上の業物であり、然れど無銘。
闇に葬る刃に非ず、闇を断ち斬る光なり。
その誓いを立てられた刀は、いまユウタの手に納まり、杖の中にて密かに解き放たれる時機を待望している。
鍛冶の小人――ドゥイは、頭に巻いた手拭いを取って体の汗を拭う。手元は薄く火傷を負って、皮膚が赤くなっている。
工房の外へと二人で出た。
曙光を浴びる雪原を前に、二人で遠い空を眺めて白い息を吐く。茆だるような熱の籠った工房から出た二人には、常人が針で刺されたと叫ばんばかりの寒気も快い。ドゥイに関しては、胴の生肌を寒風に晒していた。
「一本打つのに、半端無ぇ集中力つかうわ」
「そうですね。何だか凄かった」
「ったく、ゴン爺はこんな仕事を延々としてたんだな」
「……ええ、僕らじゃ到底信じられない時の長さを、ずっと」
ドゥイは手拭いを肩にかけ、近くにあった薪割りの土台に腰を下ろした。彼自身が熱を放射しているのか、薄く煙が立っている。
不意に、ユウタが雪原へ。
何処とも目的もないような足取りで進み出ると、工房からやや離れた場所に止まる。光を一身に浴びた黒装束が、ドゥイの足元まで濃い影を伸ばした。
ユウタはその場に体の芯を据える。
肩幅ほどに足を開き、背筋を伸ばして頭を垂れると瞑目した。新年の日に黙祷を捧ぐような姿勢は、美しく荘厳な冬の景色の一部として遜色ない佇まい。
左手に持つ杖が微かに揺れる。右手が上部へと緩慢な動作で伸びていき、緩く杖に絡められた。艶のない腕の黒印が陽射すらも呑み込む。
薄い唇から細く吐かれた白い息が溶ける。
ドゥイは何事かを予測し得なかったが、緊張感に固唾を呑んで見守った。光を前にした彼が如何なる挙に出るか……。
それは一瞬だった。
ユウタは仕込みを抜刀した。
前方から横へと円弧を描いて薙いだ刃先は稲妻めいた速さで閃き、最後に日の光を終端にて照り返して鞘に納められる。
ドゥイには手元の動きなど捉えられなかった。
ただ、一瞬のみ刀が反射した光に目を焼かれた。刀身が宿した美も鞘より抜かれるのが瞬間のみとあらば無為に陥る。否、ドゥイは瞬間の輝きだからこそ、それが昇華されたかにさえ思った。
納刀したユウタが駆け戻って来る。
杖を両手で胸前に持ち、深々と一礼した。
今度は儀礼としてではなく、彼自身が自発的に示した謝意である。その所作の隅々までが鋭く正確で、ドゥイは無意識の内に見惚れていた。
体の奥底に染み付いた習慣、それによって起こされた本能の瞬き。
「ありがとうございます」
「……行くんか」
「ええ。……終わらせて来ます」
決然としたユウタの相貌に一片の迷いなし。
朝日を照り返した刃の如く、彼は曇りなき剣として成立していた。これからの戦場で、鋒を向ける先を過たず、必ずや宿願を果たしてくれると信じられる。
不安定に感じたあの日の少年から、斯くも逞しく、その名に相応しき名刀に育った。
親心にも似た感慨にドゥイは笑い、彼の肩を摑んで揺する。これが自分なりにできる、精一杯の送り出しであった。
「んじゃ、帰った時ゃ……ただのドゥイと」
「闇人でもない、ただの優太として」
「最後の“つとめ”、果たして来い!」
肯いたユウタは、背を向けて駆け出した。
ドゥイから遠ざかる背中、足跡は確りと雪上に刻印されている。
彼の行く先にある戦が終われば、その右腕に刻まれたモノも消える。血に宿った因果も、これまで交わした約束も成就する。
待ち望んでいた旅路の終わりは近い。
余計かもしれない。
けれど、ドゥイはその背中に――。
「負けんなよォォ――――――ッッ!!」
精一杯の声援を送った。
これから進み出す彼に、振り向かせるような真似をするのは失礼なのかもしれないし、もしかすると躓くような先行きを不安にさせる暗示にもなりうる。
それでも彼は、振り返った。
足を止めずに、手を振って雪原の奥へと小さくなっていく。止まらない、更に前進する。
ドゥイも必死に手を振った。心配ない、彼ならば大丈夫だ。
遠くで彼が躓いた気がしたが、ドゥイは笑って見送った。
× × ×
天嚴のやや西方には、狭く入り組んだ湾が密集する海岸がある。それぞれが海面へとめり込むように急激な斜面となっており、船を隠して停めるには絶好の適所だった。
だからこそ、狙われ易い。
かつて神威を恐れた東国にとっては天然の要害となっており、下に小さな港を築くことで、この場所でも漁港として機能していると外敵を欺く。
そこへ停泊した敵船を、傾斜に設置され地中に半身を埋めたような砦から攻撃し、一網打尽にするのが岌戴港の常道。
東国の各地には、岌戴に似た軍事的要衝が幾つも点在する。狡猾に身を潜め、確実な敵の壊滅のみを企図した物ばかり。
東西の諍いが自他共に認める終戦を迎えて以降、残る敵対勢力が北邦のみと判断して、天嚴に戦力が集中するなか、ここにも密かに兵が派遣されていた。解放軍の暴動が起こる最中も、同盟軍の勝利を只管に信じて監視を継続した。
母国が邪な神々によって侵略されるのを食い止める、その使命感に稼働している。
そして、解放軍を打破した後に漸くカリーナ達の中枢が改めて各地の現況を確認していく中、たとえ内容に変化は無くとも報告を怠らなかった岌戴からの連絡が途絶えた。
手段としては、『魔力郵送』の技術を心得ていなかった東国民の為に、飛脚の詩音を幾度か往き来させていたが、既に解放軍の問題が勃発する頃には普及している。
生きていれば、焦眉の急であっても何らかの伝達が可能である筈だった。明らかに不審、情報伝達に全く余念のない彼等の現状が判らぬとなれば、それ即ち全滅以外に考えられない。
岌戴が攻め陥とされた――その一報は、彼等からの直接の伝達でなかったにせよ、中枢の各々に隠然と伝わったのである。
現状確認の為、早くも一人が派遣された。
同盟軍随一の間者として、実力は赤髭すら認められた人物。必ず岌戴の仔細を持って帰還すると強い信頼が寄せられた。
しかし、彼等も把握し得ない脅威があるとは、カリーナも赤髭も認知しておらず、それはまたゼーダ本人も然りだった。
任務を受けて赴いた地は凄惨だった。
常緑樹と針葉樹が乱雑に入り混じり、海岸を見下ろす位置で互いに高さを競っている。薄く谷間を移動する狭霧は、揺るかに崖の傾斜を降りて薄く溶けていく。
ゼーダは朝靄の濃く煙る無人の漁港を歩んだ。静寂の冷気に充たされた海岸は波の寄せて打つ音だけである。陽射しが未だ射し込まず凍えるようだが、既に頭上は黄金色の中に薄く空色が混じる晴天だった。
海面に木で組んで港を形成した場所。
床板を軋ませずに進むゼーダの足元に、とうとう支柱が崩れて倒壊した小屋の木っ端が散乱した。
漁港の張り出した板組みの停船場も、偽装工作の為に配置されていた軍艦の何隻もが破壊されている。駐屯所の小屋は、中心から断ち割られたように内側に拉げていた。付近の海面には、人が浮かび上がっているが、誰も彼も動かず、既に事切れた死体である。
酷烈な様相に異界とさえ感じたゼーダは、床板に染み付いた血痕を見咎めて屈み込む。手套の指先で触れると、まだ赤黒く乾ききっていない物が付着した。
湿気で乾き難いといえど、冬とあって空気は乾燥する。それでも未だ水気を残すとなれば、経過時間もそう長くない。周囲の荒れた現場のそこかしこに、戦闘の痕跡がみとめられる。
ゼーダの目には、明らかに襲撃を受けたとしか考察し得ない光景だった。何者がどういった理由で襲ったのか、その理由を思考する必要性がないほどに既に瞭然とした敵影が脳裏に浮かぶ。
いまや同盟軍管轄であり、攻撃すれば中央大陸および南大陸の総意に反する行為であると弁えた以上、そんな無謀な事を仕出かす人物が身内である可能性は断じて低い。
即ち、神族である。
岌戴の報告完了すら未然に防ぐとなれば、綿密な奇襲作戦を講じるか、圧倒的戦力による迅速な制圧。神族ならば後者の強引な策でも通用する筈である。
ただし、違和感があった。
漁港に倒れる死体たちを確認すると、背中に刺傷、頚に刃傷、胴にも同じ傷などが目立つ。どれも急所のみを狙った、最低限の攻撃。それも相手が回避行動に出ようとも正確に損傷させるとなれば、正確な手捌きを要する。
これはまるで暗殺者――否、闇人の太刀筋。
殺し屋でも、ここまでゼーダが既視感を覚えるとなれば、もはやユウタの剣以外に憶えがない。
ところが、ユウタは先日から火乃聿を離れて天嚴要塞付近にある雪原、その端に工房を構えたドゥイの預かり。現に、岌戴の報告が途絶える前からも、欠かさぬ待機報告が本人から届けられている。
それも、今日出立との情報。
もしユウタ以外に闇人が存在するなら、それは復活したアキラに他ならない。だが、彼は北大陸で皆を待つと布告した建前、襲撃などの野暮な策に出る訳がないのである。
傲岸なる神族と共同とならば、痺れを切らして攻め入るなどという行為を自尊心が許さぬ高貴な血族がするわけがなく、従ってアキラの出動も許されない。
ならば――何者が闇人の剣を模して、襲撃の沙汰に出たのか。
思量を巡らせていたゼーダの耳に、水を打つ音がする。波とは違い、水面を垂直に叩き下ろした音だった。落下した木っ端でもないし、魚の跳ねて再び着水したのとも違う。
平らな物が叩き付けられた……これは、人の掌が落とされた音!
ゼーダは慌ててそちらへ向かった。
破壊された停船場の内の一つ、崩れた支柱に縋み付いて、沈まぬよう努めている男がいる。即座に氣術を発動し、港の上へと静かに移動させた。
ゼーダは床に降り立って倒れる男の傍へと駆け寄り、ゆっくりと抱き上げた。
肌が冷たい、よほど長時間を水に浸って過ごした筈である。震える唇は青紫に偏食し、異常に白くなった肌がそれを克明に語っていた。
「待っていろ、直ぐに温める」
濡れた男の服を剥がそうとした時、胸元に一文字の切り傷があった。覗いたそれは、深さが胸骨まで達している。
傷の具合から察するに……助けようが、ない。
男がゼーダの肩を弱々しい力で摑んだ。
「俺は……逃げたが……駄目だった……あのガキは……何処までも……追って、来やがる……!」
「ガキ、子供か。何をされた?」
「北側の海から……航って、来て……神族の部下を名乗る連中と、一緒に……ここを……」
途中で、男はぱったりと動かなくなった。
ゼーダは彼を床に下ろしてから、その開かれた瞼を手で閉ざしてやった。冥福を祈り、暫し黙祷をした後に彼の最期の言葉を思索する。
北側の海から――神族の部下を名乗る連中と一緒に?――口振りから、まるで神族とは別の勢力であるその“子供”が手を組んだようであった。
つまり、その“子供”は神族の勢力でないと判明している人物名……同盟軍の誰か、か?
推理していたが、その背後で空気の破裂する音が鳴る。小屋の一部が直下から噴き上がった水柱によって爆発していた。
懐中から匕首を抜き、振り返りながら構える。その瞬間には、既に面前に銀に煌めく凶刃が迫っていた。
首を横へ煽りながら、そのまま床を転がる。翻った外套の裾が切り裂かれた。
過ぎ去った影が静かに着地し、ゼーダの過去位置を占め、短刀を床に突き立てて静止する。
体勢を立て直し、急襲の敵を見詰めるた。
「あれ~?さっきの、氣術ですよね、ですよね!?っていう事は、先生と同じ、ですかっ!」
海岸に意気揚々とした少女の声が響く。
いつの間にか波のなくなった海面には、先刻天に向かって衝き上がった水柱の余響として、あえかな波紋が拡がっている。それはゼーダの胸中に拡がる動揺のようでもあった。
眼前に降り立った影は、短い裳裾の服を着た少女である。紺碧の瞳と、左右で軽く結わえた髪、そして短刀を手にして無邪気な様をした異様な襲撃者の姿に、ゼーダは最大まで警戒心を高めた。
その顔立ちなだから、直ぐに誰だかを察する。
「問おう、誰の命で動いている?」
「んふふ、命令じゃないです。全部ぜーんぶ、先生を想っている弥生の気持ちですよっ」
彼女は【太陽】でも若くして重職に就き、その力量を皆に認められたヤヨイという少女だった。
ユウタとムスビという、危険な組み合わせを師事することで既に有名だったが、よもや同盟軍直属の自分に牙を剥いた存在への一驚ばかりがゼーダの胸中に先立つ。
「先生……ユウタの事か。ならば、いま仕方その刃を私に向けた行為は、先生を悲しませるはずだが?」
「嫌だなぁ……ヤヨイは、先生が好きだから……大大だ~ッい好きだから、先生に纏わり付く虫を叩き落としてるだけですよ?」
至極当然の事を口にしたかのようなヤヨイに、ゼーダは戦慄を覚えた。
この少女は……何かが壊れている。
彼女が持つ難儀な禁断症状については聞き及んでいた。一定期間だがユウタとの別行動が続くと、無性に猜疑心や恐怖、焦燥に駆られて暴走する。現状として、安定剤は彼本人に来て貰うか、或いは彼の身に付けていた何か(それもまた一定時間内の物に限定される)。
ゼーダは先刻の男の遺言を想起した。
神族の手勢と結託し、岌戴を襲撃した子供。その異質さ際立つ情報と、目前の存在が妙に合致する。勘違いではない、脳裏に浮かんだ敵影の正体であった。
「ユウタを独占したい。その想いに都合が良いから、神族と組んだ……というわけか」
「えへへ。契約したんです、協力してくれたら、先生は弥生の物にしていいって!だから、貴方も殺しますね!」
「……所詮、包丁の扱いを覚えた程度の子供に、殺されるほど柔ではないのだがね」
ヤヨイが床を蹴って飛び出した。
その挙措は無音に近い、ユウタから鍛練を受けたとあって、闇人の性質が幽かとはいえど組み込まれている。接近する為の動きも、武器を隠しながら斬りかかる姿も彼を彷彿とさせた。
ゼーダは義手を装着し、迫り来るヤヨイの攻勢を短刀で巧みにいなす。
剣術の技量は高いが、その太刀筋は忠実、師事した者の型を再現しようとする劣化品の域である。二年前に対峙したユウタの方が、まだ強かった。
相手の鋒を上に弾き上げた直後、空いた胴へと突き出した足を叩き込む。一撃で昏倒させることを念頭に置き、容赦ない力で打つ。
鈍い音と共に矮躯が飛ぶ。
追撃に駆け出そうとしたゼーダは、しかし目前の虚空に浮かび上がる火の球体を見て、即座に後方へと飛び退った。
それぞれが矢の形となり、空気を弾けさせて飛来する。後退するゼーダの足元を、幾度も掠めて着弾した先に孔を穿つ。
背転倒立を猛然と繰り返して全弾を回避したが、着地と同時に頭上から躍りかかったヤヨイが直近まで来ていた。彼女の手にした武器は、刀身が発光している。
異様な力の波動を氣術で感知し、ゼーダは受け太刀に回らず、身のこなしで躱した。軽快な転身で刃先を幾度も遣り過ごし、再び攻撃直後の無防備な体へと打擲を見舞う。
再びヤヨイの体が後ろへと床を跳ね飛んだ。
「他愛ない」
ゼーダは義手に仕込ませた鋼索を射出し、ヤヨイの体へ幾重にも搦める。錘で確りと固定され、彼女の体が静止した。
捕らえた相手を注意深く観察しながら、ゼーダは慎重に歩み寄る。先刻の一撃も、寸前で華麗に衝撃を殺された。
彼女は、胴をゼーダの足の裏で強打されるや、後方へと自ら飛んで衝撃を和らげたのである。攻撃で夢中になっている中、咄嗟に回避へ移行する判断力は並大抵のものではない。
「大人しく投降しろ。さすればユウタも――」
「んふふ。勝った積もりですか?」
「!」
やはり、まだ意識を失っていない。
ヤヨイの体から、火花の弾ける音。
ゼーダはすべてを察し、瞬時に義手を取り外した。その直後、義手が木っ端となって爆散し、抜けた床の間に落ちて着水すると、一瞬だけ眩い光を放つ。
鋼索を外したヤヨイか不敵に笑っていた。
彼女の体はいま魔法によって帯電状態にある。金属類はおろか、生身で触れても感電して即死に至る。
なれば、と氣術を発動せんとしたゼーダの後方で山間に発砲音が轟いた。不安定な現在の漁港を芯から揺するような衝撃が空気に伝播する。
ゼーダが驚いて山を振り仰ぐと、斜面に設置された砲台から硝煙が上がっていた。続いて、港の一画が水柱と共に砕け散る。
発砲している――この港を!
襲撃した神族の手勢が砦を占拠し、こちらの戦闘を悟って砲撃を開始したのだろう。砦の内部も途中で確認したが、誰一人として居なかった。
戦闘の音を聞き付けて、戻って来たのかもしれない。
ヤヨイの方へ向き直ると、狙われた漁港に立ってなお笑みを崩さず、ゼーダへと肉薄する。もしや、ここで相討ちにでも決め込む算段か!
ゼーダは氣術の斥力でヤヨイを弾き、砲弾による脅威を避けながら水へと飛び込んだ。着水の飛沫が上がり、僅かな波紋を残して姿を消す。
それでも、砦からは漁港周辺にかけた無差別砲撃が継続された。
蹂躙される岌戴の港に、ヤヨイは一人佇んで大笑する。
「あはは、あはははは、あはははははは!!待っててくださいね、先生?」
破壊の騒音に満ちる空間のなか、狂気を孕む少女の声が囁かれた。
アクセスして頂き、誠に有り難うございます。
涼しい季節になって来たので、もう衣替えを本格的にしようとタンスを弄ったら、ご……ゴッキーが……。
泣きました(怖いのではなく、ヤツが出てきたという事実に)。
次回も宜しくお願い致します。




