不滅の皇都(参―4)/仁那対優太
次回、最大の謎解禁。
・暁がチートな理由。
・言動の悉くが未来を変える響。
・計画の始まり。
いつか、そこにたどり着く。
けれど、そこに行くのは一人じゃない。
その人と一緒に行くと、約束したから。
だからわたしは、いつまでもあなたを待つ。
× × ×
優太は改めて敵を観察する。
皮膚や頭髪まで白銀に変化し、羽衣を帯びた様は正しく神族でありながらも、その神聖さは彼等以上の尊ささえ相手に懐かせる神々しさがあった。
体の各所に伸びる黒い線、背には四葉と中心から広がる波紋模様のある羽織は袖が短く、裾に炎を模した紋様をあしらっている。
一対の角の先端で揺らめく七色の炎と、その下で決然と強く光る黄昏色の眸。数多の惨禍を目にしながらも、それでも初心を貫いた者しか得られない無垢が宿っていた。
手足は最大まで練られた聖氣が金属に似た光沢を持ち、薄い天色の滲む鉄の如き外観。攻撃を最大限まで強化するべく付加された聖氣が光を照り返す。
神族と聖氣の融合――そんな破格の要素を兼有する仁那ならではの芸当である。
一つであっても肉体への反動は想像を絶する。その濫用は己の危険を知らぬ蛮勇か、それとも覚悟の上に講じた果断の武装か。
物体を溶解する『破魔矢』が極限まで聖氣による掩護を受けて、邪氣であろうと何であろうと阻む物なき絶対攻撃の矛へと変容する。
邪氣で幾らか威力を減少させたとしても被害は甚大。氣術での回復も見込めるが、一度の戦闘の最中では果てしなく時間が足りない。
闇人の体捌きに対する策と練習を積んだであろう仁那を仕留めるには、もはや物量戦しかない。聖氣を纏おうとも関係無い、圧倒的な質量を伴う邪氣の一撃を叩き込む。
仁那は対峙する優太の気配が変わったのに気付いた。
数多の命を屠って得た力を束ねて身に帯びた姿は悪鬼そのもの。彼が必要な犠牲と断じた中にも、きっと救えた命があった筈だと感じる。
それすらも無視して、貪欲に戦闘の日々に溺れて、己の帰るべき場所を忘却した本性も、その姿に遜色無い悪魔のような姿に違いない。
師の示した道を辿り、それでも避けられぬ戦いに明け暮れた。磨耗する心の傷に自らの目を塞いで目的完遂の為に猛進する余り、いつしか本当に大切だった心の拠り所からも目を逸らしてしまったのだ。
だから迷い、遂には戦いにこそ成長があると見出だして、掲げていた夢も、自覚していた師の想いすらも眼中から消えた。
連れ戻さなければならない。
再び、あの皆に愛された氣術師の少年を。
交わす言葉はもうない。
あとは剣と拳以外の対話が通じぬと弁え、両者の意識が相手を沈める一手にのみ集中する。
双方は異色の光沢を持つ鋼の如き四肢に力を漲らせ、その場から跳躍した。
誰の目にも捉えられない速度の領域へと踏み込んだ両者の姿は、都市のそこかしこで衝突の火花を見せるだけである。
勃然と地面が捲れ上がり、建物は風の過ぎた後に瓦解した。
殆どの邪氣を武装に変換した優太の斬撃と、神族の力に加えて聖氣を全開放した仁那の打撃。
都市の景観は、間断無く押し寄せる疾風怒濤の衝撃波で微細な塵へと分解した。
空間の弾むような怪音、摩天楼の一階のみならず全体を空間圧縮の制限すら食い破って震動される。
幾度も幾度も互いに食らい合う激突が繰り返される中、遂に二人の姿が中空で停止した。
鬼の如き様相の優太の足を、仁那が交差させた両腕で止める。
翼なき彼らは、その身に宿した不条理の力で滞空を可能にし、空域にて遺憾無く力を揮う。
優太は突き出した足を戻すやいなや、片手にした抜き身の仕込みで一閃する。間一髪で上体を反らして回避した仁那の背景が歪んで家屋が爆発した。
巻き上がった数多の瓦礫が宙で静止すると、七色の焔を滾らせる背中を目指して殺到する。
優太の脚を摑んで投げた仁那は、直後に背面で炸裂する弾丸の嵐に押され、天井に埋もれた。それでもなお、未だ下からは理不尽な暴力の連打は続く。
彼女によって飛ばされた優太は、氣術で後方へと飛んでいく体にかかった運動量を操作し、逆に前へと加速する力に転換した。
両手に大気中から収集し、その氣を圧縮した砲弾を擲つ。光の緒を引きながら射出された二弾は、天井に磔となった標的へ間も無く命中し、仁那の体に致命傷を与えられる一撃。
しかし、弾雨の集中する地点で天井から巨大な七色の火柱が立ち上がり、飛来する瓦礫を総て溶解させた。尋常な炎熱ではなく、物質を分解してしまう力を有した炎を纏って仁那が現れる。
夥しい弾を撃ち込まれ、弾痕が巨大な窪地を形成していた。
中心に立つ仁那は、相手から放たれた氣の砲弾を一瞥すると、手刀にした両手を突き出す。肘で皮下から滲み出すように純白の氣が膨張し、振りだされた指先から鋭利な鏃となって解き放たれる。
砲弾を『破魔矢』が撃墜し、衝突してなお余りある威力は、貫通して接近する優太を正面から殴打した。聖氣で強化された神族の力は、幾ら大量の氣を圧縮した凶弾といえども相殺できない。
両肩を貫いて発光すると、体内を焦がす炎となって爆裂した。稠密な邪氣の装甲すら容易く徹す威力に、優太は勢いを失って直下に転落する。
急降下で猛追しながら、仁那は更に聖なる矢の一撃を射出した。
いま被弾して怯んだ優太には不可避、畳み掛けて勝負を終わらせる算段で、何度も次弾を装填しては放つ。
降下する優太が宙で翻身し、両の掌を打ち合わせると、仁那の左右に巨大な麋の蹄が出現した。純粋な邪氣で生成された雄々しい脚が、地面から吃然とせりあがる。
愕然として両側を顧眄した仁那は、避ける暇も無く自らが放った『破魔矢』の連弾もろとも蹄によって挟撃を受けた。
物質ではなく、物質に内在する氣のみを圧迫する神威の攻撃は、聖氣であろうと威力を防ぎ遂せるものではなく、仁那の全身を平らな面にせんと潰す。
着地した優太の頭上で、蹄が消散した。
血を噴きながら落下する仁那は、瓦礫の山の上に激突して、路地へと転がり落ちる。
神経を毒のように冒す邪氣の攻撃が筆舌に尽くし難い苦痛を延々と味わわせる。回復力の殆どを無効化され、止まらない出血に力が失われていく。
立ち上がった仁那の眼前に、優太が降り立った。彼もまた、聖氣の力が直撃した箇所を手で押さえて苦しんでいる。倒れた相手を見下ろし、手中に邪氣の槍を作って投げた。
避ける力も無く、仁那は背中に命中する凶器によって口から苦鳴を漏らす。体内に侵入した邪氣が、内側から聖氣の鎧を崩していく。
血中で励起した神族の能力も打ち消し、次々と仁那の戦術を無に帰さんとする。
激痛に堪えて固く目を閉じていると、瞼の裏に不思議な情景が浮かんだ。
草木の生い茂る林間で、木組みの玩具を手にした女児が木の幹に背を預けて寝ていた。樹冠を貫いて差し込んだ一条の陽射しに照らされた姿は浮世離れした美しさがある。
その子の下へと、琥珀色に黒髪の少年が歩み寄った。
寝顔を検めてから、両腕でそっと抱き上げる。
『風邪を引くぞ』
『……兄様。視えた、これからの事』
『……突然どうしたんだ』
『……兄様と、ずっと一緒にいたい』
女児が瞼を開いた。
白い円の浮かぶ真紅の双眸は、虹彩に幽かな虹色を帯びる白い円を湛えている。強膜は黒く染まっており、そんな奇異なる瞳に下から覗かれて、少年は困惑して沈黙する。
無言で歩み出し、草を爪先で掻き分けていく。
少年はまだ答を探していたのか、立ち止まると腕の中の女児に顔を向き直らせた。
『よく判らないが、俺はお前を一人にしない』
『うん』
女児は眠りに付いた。
杣道を進む背中は寂寥と、奇妙な安堵を背負って遠ざかる。微風に靡く草木に紛れ、少年の姿は消えた。
映像が途絶した時、出血が止まっていた。
地面を叩いて跳ね起きると、腰元に引き絞った左の拳固で前景の敵に打ち付ける。伸長した天色の腕が流星となって迸り、路地に立つ障害物を壊滅させていく。
氣術で予知した優太は、低い前傾姿勢で飛び出した。頭上の空気を薙ぎ払って直進する腕を掻い潜り、仁那の内懐へと更に踏み込む。
後方の空間にて破裂音が連続で鳴る。
優太は不審に思って振り向いた瞬刻に、その右頬を奔走する蒼い鋼の拳が強襲する。躱した筈の脅威による再攻撃を受け、横へと体が弾けた。
瓦礫の上を轟然と回転しながら吹き飛ぶ。
砲弾じみた速度で遠退く優太を、一度撃ち抜いた拳打が更に高速で追走した。低く馳せた腕は暴風を纏い、辺りを破砕しながら突き進む。
「無駄だよ!わっせの拳は必ず届く、届くと信じてる!!」
宙で背転して体勢を立て直し、鋭利な邪氣の鉤爪を持つ足を地面に突き立てて静止した。
脳が脈動するかの如く頭部を内側から乱打する鈍痛に苛まれながら正面を向くと、既に仁那の拳が至近距離まで突進を繰り出している。回避する猶予もない、最大まで邪氣を練り上げ、硬化させた両腕で受け止めた。
防御の上から、優太の後ろにある総てを撃砕する暴風と衝撃波が唸った。轟いた雷鳴のような音は、物理法則では測れなくなった領域の威を受けた空間の絶叫。
仁那は遠い場所で手応えを感じ、前へと更に一足踏み出して、腕を捻り込む。その行動は終端である拳まで、一切の損耗もなく伝達し、優太をより強く圧迫した。
「『聖拳突き』――!!」
「氣道――建御雷神ッ!」
拳圧に耐える優太の総身から翠の雷が放たれた。伸びる聖氣の腕を媒体として伝い、本体まで威力を全く損なわずに光速で伝導する。
仁那は突然の電撃を受けて思わず力を緩めた。
単なる魔法の電雷とは異質な、変質した邪氣による現象。痺れではなく、全身の肌を狂犬に噛まれたかの如き激痛を受ける。
仁那は腕を戻し、その場に膝を屈した。
同時に、優太もまた地面に踞った。
前者は所々で血管を切断され、後者は左肩を脱臼する重傷を負う。互いに発動していた能力が解除され、天井一帯に揺れていた極光も消滅する。
彼等にとっては果てしなく長かった攻撃の応酬であったが、世界の時間では僅か一分に相当する短さ。その短時間で負った傷は多く、都市は台風の過ぎ去った後よりも被害激甚だった。
周囲の時間の流れだけが停滞していたかの様に、次々と多方向で瓦礫の落ちる音がする。
肉を焦がす痛みに堪えて立つと、前方へと延びていく道の先に黒い影が現れた。
そのまま、こちらにゆっくりと歩む姿は時に右に左に蹌踉めく。左腕は力無く垂れており、姿勢は前に傾けなければ前進も儘ならない状態。
仁那も跛行しながらでもそちらへと赴く。
距離が縮まるに連れ、優太の変化を知った。
眼下の『隈』が顎まで伸びる一本の線を書き加えたような形に変形している。
拳と剣が届かない間合いで立ち止まった。
「優太さん……お願い、戻って来てよ」
「……戻る……何処に?」
「優太さんが帰りたいと望んだ場所だよ」
沈黙した優太は、自身の右手を見詰める。
自分の物以外が混じった血が貼り付いた掌を握り締めて、己の帰るべき場所を想像した。
死後の魂が次なる存在意義を与えられて現世に帰るまで留まる黄泉國、そこに擁された『輪廻の環』。黄泉國の最奥たる先代闇人の霊が鎮座する伊邪那美の懐、在るべき赭馗深林の闇人の育て小屋か。
それとも、事の始まりだった神樹の森の、師と過ごした家。
そこでは花衣が笑って待っている。
仁那の脳裏にまたしても誰かの記憶が甦った。
先刻視た女児は美しい少女に成長し、それを机越しにやや離れた位置で見守るのは兄様と彼女に呼称される少年――暁だった。
海の近い小屋には、二人しかいない。
『不安なのは俺も同じだ。何処へ逃げても奴等は追って来る……それでも』
『兄様、もう止めよう』
少女の一言に、暁が愕然として動きを止める。
直接、その声を耳にしていないにも拘わらず、仁那はそれをずっと聞いていたいとさえ思わせる澄んでいて心地いい声だった。
凝然と見詰める暁に、両目を閉じた無表情の相貌を向ける。
『どうして兄様が苦しまなければならないの。戦わなければならないの?』
『どうして……?俺は、お前が……!』
暁が怒声を上げ、椅子を蹴って立つ。
しかし、即座に我に返ると己の行いを顧みて再び腰を落ち着かせた。机上で頭を抱えて、その背は微かに震えている。
少女は無言で見守っていたが、やがて窓の外の海を眺めて囁いた。
『兄様、今から始めよう』
『……何を……?』
『兄様が夢を叶えて、幸せになれる世界を創る』
『……そんな壮大な理想を叶えるには、須く大きな対価が要る』
暁は立ち上がると、少女を抱き締めた。
少女も甘んじてそれを受け容れ、また自分の腕を彼の背中に回す。
『俺に払える対価など限られている』
『……』
『そんなもの、対価としてお前を差し出せと要求されるに違いない』
少女の体を掻き抱く。
暁は腕の中の彼女以外に、何も持っていないのだと感じさせた。
『お前は俺が守る』
『……兄様』
『だから、俺を独りにしないでくれ』
情景が薄く、遠く、白くなっていく。
仁那はまたしても途切れる映像にもどかしくなり、無意識に唸ってしまった。
あの少女は誰なのか、響でもなければ誰でもない、暁を兄と呼び慕う存在など聞いたことがない。
「貴女は……誰なの?」
仁那の疑問に応じるように、左手の刻印が微光した。
× × ×
優太は異変を悟っていた。
仁那の様子は、明らかに既視感がある。
いや、自分にも経験があると言うのが正しい。
他人の記憶を“想起”する時、痛みや眩暈などの症状が生じる。黒印は闇人個人の成長と共に変化していくため、云わばその人間の成長の証であり、記憶すら宿しているのだ。
彼女が何を視ているのか、それは気になる。
しかし、今はそんな事を問う場所ではない。
優太は改めて自問自答した。
いま、自分が戦う理由は師に追い付くこと。
何の為に、この場所まで来たか。
出発前の自分は、花衣の救出を最優先にしてカリーナの命令も無視して里を飛び出したのだ。そうまでして守る価値が、花衣にはある。
ならば、彼女は自分にとっての何か。
答えは一つ――約束したからだ。
全てを終わらせたら、花衣と今度こそ安寧の日々を過ごす。愛し合う二人で家庭を築き、いつかは子供を作り、その成長と巣立ちを見届けた後、あの森の小屋へと帰る。
そう、自分の居るべき場所は、そんな未来を共に歩んでいく花衣の隣だ。
「帰るべき場所は……花衣の隣だ」
「……そうだよね」
「僕の夢は、彼女と平和に暮らすこと。その為に、自分の因縁を片付ける戦いに出た」
優太は左肩を摑むと、脱臼を強引に治した。
腕を動かして動作確認をする。多少の痛みを伴うが、戦闘でも十全に動ける範疇の怪我だった。
聖氣と神族の力の同時解放で肉体的に反動を受けている仁那は、再び回復力が低下している。悲鳴を上げる全身を僅かに揺らすだけでも激痛が奔った。
どちらの損耗が大きいかなど愚問だった。
仁那は呼吸で痛みを緩和する他に手立てが無く、悔しげに優太を仰ぐだけである。
「確かに忘れていた。師匠の居る位階に到達する事には憧れていたけど、戦いは好きじゃない」
「……なら」
「それでも、僕の方法では誰も救えない。敵性ある者を確実に処分しなくては、平和なんて夢見物語になる。誰かがやらなくちゃいけないんだ」
大陸を平定するまで数々の戦があった。
当然、鎮めるには言葉では通じぬ場合の方が多く、勃発した戦争の数以上の不幸が生まれる。奪われるばかりの弱者を守るには、誰かが穢れなくてはならない。
綺麗事を標榜する者が厭う手法を採る執行人の存在が不可欠。
その役に、いつしか自分が最適だと悟った。
人を殺めるほどに花衣との距離を感じ、それでも敵を斬らねば夢は遠くなる。何事も不殺では徹せぬ道なのだ。
闇人として不要な殺戮や戦いを避け、能う限り己を見失わないこと。
それが優太の信念である。
「信念を捨ててでも、進むんだよ」
「信念を捨てて、貴方はどうなった?」
「……それは……」
「現に、主人の無い闇人に宿命付けられた、不要な戦闘と殺傷を積極的にやってた。理由が修練や何であれ、それは信念を捨ててまで果たすべき事だったの?」
仁那の言が鋭く胸を穿つ。
優太は血濡れた掌を隠すように拳を握った。
次に仁那が紡ぐ言葉を聞けば、何かが決壊すると確信した。
これまで自戒し、それでも推し進めなければならなかったから本意でなくとも人を殺した道程。積み重ねた努力を否定される事の辛さに心は堪えられないだろう。
優太はしぜんと、腰帯から抜いた鞘に仕込みを納刀して構える。抜刀の姿勢で、かつて無いほどの怒りの情念を手元に収束させ、狙いを仁那の急所に定める。
仁那は瞑目し、膝に手を突いて立ち上がった。
数秒と直立が維持できるかも不安な体を強引に動かし、優太の前に対峙する。
「皆を守れても、皆が愛して、貴方が貫きたかった“優太”を捨ててまで叶えなきゃいけなかったの?」
「…………」
「優太さん、貴方は進み過ぎたんだよ。環境の所為もあるけれど、振り返る事ができなかったから、道を外れたんだよ」
「黙れ」
「これまで歩いた道を顧みてよ。貴方の背中を押してくれた人まで忘れて進んだ道なんて……そんなの、全く価値なんて無い!!」
殺意に押され、足が稼働する。
鋭い踏み込みを決めて、仕込みを抜刀した。
迷わずに相手が仲間であろうと関係なく切り捨てる一刀は、杖との摩擦音すらさせずに抜き放たれた。
直近では手の初動すら捉えられない速さ。疲弊した仁那ならば、一刀必殺を確約できると踏んだ攻撃だった。
異例の可能性を微塵も残さぬ為、刀身は満遍なく邪氣を帯びている。
だからこそ――。
「だから、ここで止める!!」
無造作に振り上げられた仁那の左拳に、側面から叩き折られて驚愕した。
自らの道を諦めぬ限り、絶対に刃毀れもしない『不屈』の加護を受けた剣が破損する。その事実は言葉よりも、己の過去を顧みるよりも明瞭に解答を告げた。
走馬灯の如く脳内に、森を出て以降の旅路を想起する。記憶を遡って行く中で、今まで忘れていたことが愚かしく思えるほど大事な仲間の言葉や顔が浮かんできた。
過去へと疾走していく記憶が原点に辿り着くのは必然。
優太の脳裏に、あの遣る瀬ない気持ちを抱えた師の微笑みがあった。
『わしのようにならないでくれ』
弟子の拓真など、大切な人間を捨ててまで計画を推進しようと図った己の非道さを悔いての言葉。
これまで知った彼の経歴から察すれば、そこに深甚なる意味が込められているとわかる。
優太の眼前を、折られた刀の破片が過ぎていく。宙を回転しながら飛んだそれが、自分の頭を超えて遠くへと舞う。
手元に残った柄と僅かな刀身を目にして固まった。
その間も、仁那は止まらない。
振り上げた左拳には、聖氣を装備していた。
「そんな苦しい顔で説かれても、判らないよ。貴方はどうしたかったのさ!」
「……ぼ、僕は……!」
「汚れ仕事の代行者だとか、誰かの為とか関係無い。貴方自身が誇れる道を貫いてよ――」
今度は仁那が踏み込む。
完全に停止した優太は、ただ攻撃の予備動作を見ても回避へと移行しない。まるで体は、それを粛々と待ち構えるように、体の芯まで叩き込まれた戦術すらも峻拒した。
仁那は最後の力を振り絞った。
過たぬその拳で、優太を打つ。
「――その先にしか、花衣は待ってないから!!」
義憤の一打が顔面に突き刺さった。
無防備な状態を貫通し、優太の体は緩やかな円弧を描いて宙を飛んでいく。振り抜いた仁那はその場に勢いで倒れた。
遅れて地面に背中で着地した優太は、暫く天井を仰いで自嘲の笑みを浮かべる。
二年前の首都襲撃戦に限らず、人に進むべき道を説きながら、今や自分が目標すら見失っている始末。現状の滑稽さに、ただ呆れるしかない。
その時、周囲の景色が変転する。
途方も無い蒼穹と、果ての無い海面が続く世界に優太と仁那は居た。二人を中心に波立つ波紋が交わり、体の内側まで吹き込む風となって浸透する。
驚いて起き上がった優太は、自分の体を見下ろして驚いた。戦闘の傷は消えており、体を動かしても痛みはない。
振り返れば、朧気な水平線と空を背景に折れた仕込みの刃が水面に突き立っている。
ここは『還り廟』の番人が居る場所に似て非なる空間であり、外への扉も無い。
倒れている仁那もまた、状況の奇々怪々さに驚いて忙しなく周囲を顧眄した。
驚愕で固まっていた優太は、突如として横から伸びた手に襟を摑んで引き寄せられる。誰かと手元から辿って見ると、そこにゴウセンが怒りの形相でこちらを睨んでいた。
二年前の春に死んだ守護者の親友が、健全な姿でそこに佇む。
周囲を見れば、そこには長作務衣のクロガネ、双子の氣術師ビューダ、八咫衆若頭のセイジ、鍛冶のゴン爺、他にもこれまで失った人間たちが自分を囲っていた。
唖然とする仁那の後ろにも、カリーナ使節団のヴェシュ、侠客の老人、呀屡と飜が寄り添って立つ。
優太はゴウセンによって更に強く引かれた。
『お前、無理してんじゃねぇよ!』
「……ゴウセン、すまない」
『約束、まだ果たしてねぇだろ!二人で墓参りに来いっつーのに、この阿呆めが』
ゴウセンに突き放され、後ろに尻餅を突く。
すると、背後ではゴン爺が腕を組んで首を横に振っていた。
『お前さん、あの誓いは嘘だったのか?』
「違うッ!僕は……」
『“闇人”ごときに惑わされてんじゃないぞい』
クロガネが進み出て、錫杖を鳴らす。
広がる音に呼応して水面にまた波紋が生じた。
『私を撃ち破った貴様は何処へ行った?』
「僕はただ、皆を守りたくて……」
『そんな惨たらしい貴様に守られて、心落ち着く者などおるか、戯けめ』
八咫烏のセイジが黒い翼を広げた。
何事かとそちらを見れば、羽で優しく頬を叩かれる。
『憎き闇人といえど、そこだけは認めていたのだがな』
「理想の裏には犠牲が付き物なんだ」
『その犠牲を無くす為に、貴様は戦っていたのではなかったのか』
優太は俯いて水面を見下ろす。
映った自身の顔は、情けなく、傷付いていた。
語りながら胸を張ってはいない、正しいと主張しながらも心が踏み込みきれていない。曖昧な境に立ちながら一方を叫ぶ己の醜さが浮かんでいる。
己の不甲斐なさで沈んでいく優太の面前に、手が差し伸べられた。
見上げると、そこに笑みを浮かべる煌人がいる。
逡巡した後、手を摑むと水面から引き上げられた。立ち上がった優太の肩を叩くと、腰元に手を当てて昂然と胸を張る。
『俺がお前を守った理由、忘れたか?』
「…………」
『お前に自由に生きて欲しかったからだ』
「兄さん、ごめん」
『自分で自分を縛るなよ。お前は充分に頑張ってるじゃないか』
煌人に肩を押されて踏鞴を踏む。
突き飛ばされて止まった先には、晩年の師が静かに立っていた。
その姿を目にした途端、優太の胸裏に今まで覚えたことのないほどの罪悪感の重圧が乗しかかる。心臓を鎖で縛ったような息苦しさと、胸を刺す悲哀が混じった。
師は優太の背中に腕を回して抱き寄せる。
「師匠、僕は……名前の通りに出来ませんでした」
『案ずるな。今ここで立ち止まれたのが僥倖、まだ手遅れではない』
「……はい」
『すまない。全てを任せてしまった、愚かな師を許してくれ』
優太もまた彼を抱き返そうとした瞬間、腕の中の姿が花弁となって散った。周囲に立っていた実像が、次々と葩となって消えていく。
仁那と二人で取り残された空間で、優太は水面に立つ刃を持ち上げた。
赤黒く錆ついた刀身が、少し指に力を加えただけで砂となって足元の水に溶ける。掌に残った僅かな破片を握り締めて、仁那へと振り返った。
「ごめん、僕が間違っていた」
「……もう、本当に迷惑な人だよね!わっせと皆がどれだけ心配したことか!」
「ああ……もう、見失わないよ」
優太は最後の欠片を空に向けて撒いた。
「改めて誓う。僕は花衣の隣に居る為に戦う、もう誰も死なせはしないし、殺意だけで剣を振らない」
決然と告げた声が世界に響き渡る。
その時、仁那の姿もその場から消失した。
驚いて一歩踏み出し、孤独感ではなく奇妙な可笑しさが胸の内から湧いて笑む。
空気を吹き払う強風が吹いて、優太は傾いてしまいそうな体に力を入れて踏ん張る。横から吹き付ける風は、どこか人の温もりが宿っていた。
風が過ぎた後、左に収斂する波紋が水面を騒がせる。
不自然な波を訝って、優太の意識もそちらに引き寄せられた。
視線の先では、銀の髪に二色の瞳を持つ少女が居た。椅子に座り、手には馬を象った木組みの玩具を抱いている。
彼女は面を上げて、優太を見詰めた。
「君は……誰だ?」
『わたし?わたしの名前?』
少女は小さく首を傾げる。
答えを待つ優太の前で、彼女は自らの名を口にした。
『――わたしは響』
それは、優太の知る人の名である。
ただ、それを名告る者は全くの別人だった。
アクセスして頂き、誠に有り難うございます。
次回『あなたは暁の光となって』です。
次回も宜しくお願い致します。




