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森出身で世間知らずな少年の世界革命  作者: スタミナ0
五章:優太と道行きの麋──下
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蛭児の歔欷



 松の麓に土砂が頽れ込む。

 砂の楼閣を手で払ったかの如く、山頂が大きな音の轟きに打たれて爆発した。吹き払われた瓦礫の数々が地面を駆け降りる。

 山腹で倒れていた蒼火は、霙混じりの風雨に晒され伸びていた所を横合いから岩石が強打し、宙へと弾かれた。それが幸いし、その下を流れる土砂の氾濫に巻き込まれずに済む。

 崩落した山の傍で、土石流に委ねていた身が松の樹幹に引っ掛かり難を逃れた。

 反吐を散らした跡も雨で流された後ではあるが、その表情には憔悴と敗北が刻まれている。萎えた手足を投げ出し、余力は朦朧とする意識を辛うじて繋ぎ止めるしか無い。

 咳き込んだ喉の奥は、吐き損ねた滓が貼りついていた。蒼火は不快感と頭を打たれた衝撃に催された酩酊感に揺れて、立つことも儘ならずに伏す。

 ――四肢はある、首と胴の泣き別れは間一髪で避けられた。

 自身の生存の実感を確かめつつ、脳震盪から復調するのを待ちながら、現状に至る経緯について記憶を遡行する。


 諢壬を襲撃した饕餮(とうてつ)と同じく、言義の学院長を懐柔して製作された解放軍の戦闘兵器。

 つまり、兄弟とも呼べる。

 トライゾンの意向にのみ従う忠実且つ獰猛は、命令を受けて直接に蒼火を討ち取る為に赴いたのだ。強大な力は人間ひとりに太刀打ちなど不可能であり、南方の平野の騒音は闇人を強襲した別の怪物による仕業。

 細心の注意を払った道程だったが、所在地が露見していた。

 敵が常に視線を標的――自分と闇人を常時捕捉し、観察する優秀な目がある。その秘訣とは何かを知る前に、蒼火は戦闘中ひたすら怪物の迫る歯牙に襲われ続け、紫陽花たちの方へ一切の気配りをする余裕すら奪われた。


 蒼漸う平衡感覚が安定し始め、蒼火は縋り付いていた松の幹から降りる。

 斜面を降りきって停止した瓦礫の上に着地し、その衝撃で揺さぶられた内臓の痛みに踞った。戦闘中に人間の悲鳴を聞き咎め、その隙に巨獣の拳を叩き込まれてしまった。

 直撃は逃れたものの、相手を一撃で昏倒させるには充分である。

 体内を執拗に駆け回る打撃の余響で苦悶していると、目前の地面が弾けた。


 面を上げた先で、怪物がこちらを見ている。

 侮蔑すら含む視線は無数にあった。一つの面貌を埋め尽くすほどの眼球が、それぞれ他方向を見遣っている。

 頭髪が薄く生えた頭頂部と、全身が褐色の巨躯を支える脚は三本あった。節々では人の口が開閉を繰り返しており、言葉にならない呪詛を唱えるかのように低く唸り声を上げる。

 顎の下に発達した巨大な口が垂涎で岩を上から塗り潰す。

 魁偉な醜貌は弱った敵影を即座に殺すのではなく、品定めをする様に睨むだけだった。


 あらゆる攻撃を想定し、高く作られた頑強な耐性は、多彩で強力な蒼火の『加護』ですら撃ち破れず、悉く痛手を負う反撃に遭う。

 能力の差を覆せぬ以上、単騎では心細い。

 さらに守るべき紫陽花たちの逃走が完了していないとなれば、殿を務める身を途中で放棄する訳にもいかず、それが却って窮状に押し込まれる一因となった。

 単独ならば、傲慢でもなく怪物を避けられただろう。諢壬での失敗を経験して、反省を活かした機転で敵を回避した。

 奴隷とその弟、長く独りだった自分に紆余曲折を経て傍に居付いた奇妙な人間に、自分も心のどこかで惜しみ、その死を慴れていたのかもしれない。

 そうでなければ、“他人を守る”などという甘い選択肢は採らない。


 絶命にもたらされる永久の暗黒は今かと蒼火が諦念し、安らかに瞑目する中で、地面を叩く蹄の音がする。

 怪物が首を巡らせた先に、騎馬がこちらへと接近する姿があった。蒼火は鞍に鎮座した奇異なる服装に、異端審問機関の構成員であると察した。

 そちらへ灼熱の蒼炎で迎え撃つと掌中に滾らせたが、叩き付けるように放つ寸前にて彼等の後ろに乗せられた人影に動きを止めた。

 鞍の背凭れに縛り付けられているのは、泥吉と紫陽花の二人。彼女には外傷が見受けられないが、泥吉には痣や小さな出血痕があった。

 自分と離別するまでは無かった負傷である。

 崖を踏み外して転落したとも推測が付くが、それでも蒼火の目には別の物に映った。

 阿吽の屋敷の地下牢で虐げられた奴隷が受けた打擲の痕跡に酷似している。


 手中に灯す蒼炎よりも熱い怒りが胸裏を焼く。

 感情が全身の氣を燃やし、その熱が蒼い火炎となって充溢する。硬い岩の表面を穿つほどに踏み込んで飛び出し、異端審問機関へと飛び掛かる。

 しかし、怪物の腕が頭上から全身を掌で無造作に押さえ付けた。万力の如し拘束力で捕らわれ、脱出しようと足掻く。

 水を瞬時に蒸発させる炎の熱源である蒼火に触れてもなお、その皮膚を焦がす事は出来なかった。耐熱性の優れた化け物は、蒼火の抵抗をまたも蔑んだ瞳で見下ろす。


 異端審問機関の構成員たちは、蒼火へと視線も向けず、南方の平野を遠目にして会話をしていた。


「あちらは失敗したらしい。あの『零零肆・窮奇(きゅうき)』を討ち取るとは」

「闖入者が出現したそうだ。何でも、翠の炎に身を焼く白馬とか」

「いま奴は既に恷眞西部の我々の本拠地まで二日と経たずに刺客と激突する」


 彼等は漸く蒼火の方へと向き直った。

 足下で必死に巨獣の掌中で抗う姿を見ると、鞍に乗せた二人を目の前に移動させる。やはり泥吉は重傷であり、直近に来て生々しい傷痕が見えた。

 蒼火はもう手段を選ばぬと決断した。

 諢壬で発動した自滅覚悟の炎熱を集中放射した熱線(レーザー)を発動する。掌を怪物の方へと翳し、全身を発火させながら発射した。

 耐熱性が秀逸であろうと、万物を燬き裂く刃が怪物の腕を肩口から切断する。


 全身から蒸気を発して、解放された蒼火が彼等へと駆け出した。

 異端審問機関は呪術専門の戦士であり、呪術を主体とした戦法ならば、相手の視線に合わせて暗示をかけ、或いは空気中に撒布した毒で相手を惑わす。

 ならば、中距離まで接敵し、集中砲火で撃滅できる。目を見ず、大気に毒が瀰漫する前に熱線で燬き掃う。

 相手は近接戦闘に向いた武具を装備していない。ならば、己が恃みとするのは魔法と呪術に限る。

 俯きながら唸り声を上げ低い姿勢で走る。獣の如き獰猛な疾走で肉薄する蒼火を前に、異端審問機関の面々は狼狽えた。

 しかし、一人が腰から急いで取り出した一冊の本に蒼火は視線が吸い寄せられる。


「なぜ、それを……!?」

『茶番だねんッ!!』


 寸陰の隙――そこを怪物が容赦無く撃つ。

 地を薙ぎ払うように振るわれた巨大な腕によって胴を打たれ、蒼火は空中へと投げ出される。吐息の代わりに血反吐が溢れた。

 瞬間的な意識の喪失によって視界を閉ざされ、瓦礫に叩き付けられた衝撃で復調する。

 岩の割れ目に挟まった蒼火を彼等が足で踏み押さえた。

 一人が手にしている書を眼前で弄ぶ。


「これはカルデラの館から盗んだ物。二年前の夏、西国港町で魔物の活動を活発化させた物だ。

 カリーナに術式の一部を破壊されたが、まだ機能する」

「実在……してたのか……!?」

「識っているとも。トライゾン……否、神豪はカムイについてよく知っている。その部下である我々もな」


 蒼火の胴を踏み締める足に力が入る。


「この呪術書『蒼鬼(そうき)』が、貴様に所縁あるのもな」

「貴様には死ぬ前に、残る二つ……『(あか)』と『(みどり)』の所在を吐いて貰う」


 蒼火は苦し気に、しかし嘲りを含む笑みを浮かべた。この窮地においても、全く媚び諂うことはせずにいる。

 その態度がなお彼等の苛立ちを増長させた。

 さらに冷たさを帯びる敵意に、蒼火は不敵な笑顔で対する。


「生憎だが、それを暴露して二人の助かる可能性が無いからな。母さんが言ってた、今さらカムイの誇りだの掟だのは無いが……お前らの喜ぶ顔が見たくねぇ」


 彼等は暫し睥睨を続けていたが、やがて足を下ろして泥吉と紫陽花ごと馬上へと引き上げる。開放された蒼火の目前で、怪物もまた地中へと体を沈ませた。

 彼等は後ろに乗せた紫陽花の髪を摑んで面を上げさせる。


()り返しに来ると良い。そこで貴様らの『三種の神器』と呼ぶ物の在処を吐けば、二人も助かるだろう」

「戯れ言を……待てッ!!」


 意思に反して、蒼火の体は動かない。

 現場から去り行く彼等の後ろ姿を、ただ無力感と共に見送る他にできなかった。






  ×       ×       ×




 恷眞の西部では、既に戦端が開かれていた。

 本拠地が近くなるのもあり、警戒として伏兵の員数もまた軍に相当する。怪異な能力を備えた者ばかりが面を並べる手練れの集団。

 そこに本当の修羅場を体現し、不用意に侵入した者は潜む修羅の供物となる。

 近付くことすら愚行と断じ、誰もが寄り付かない鉄壁を築いたトライゾンの布陣。侵害など不可能だと嘲笑する編成だが、それでも世には修羅を食らう鬼も在る。


 疾風となって馳せる麋鹿の魔物ムジカの背に乗り、怨敵までの間隙を踏破する勢いで進撃する優太は、早くも解放軍の警備網と激突していた。

 馬上からは届かぬ仕込み杖の代わりに、入手したばかりの妖刀『緋鬼』を使用し、立ち塞がる数多の敵を斬り伏せる。

 接近する兵が優太の処し得ぬ数となると、ムジカが発する竜巻に煽られて斥けられる。聖氣を源として発生する逆巻く風の中は、鎌鼬の如き風の刃を含んで立ち入る事すら儘ならない。

 死の乱気流で大地を荒し、優太とムジカは悉くを血の海に沈めた。

 漆黒の刃が血を貪り、斬る数に比例して薙ぎ払った剣閃より現れる威力は増していく。


 同じ騎乗兵や歩兵を切り裂きながら進む優太の前に、猛々しい黒馬に跨がる大剣の男が相対する。

 この警衛の隊長の一人と思われる男は、手合わせの前に実力を誇示するかの如く、大剣を軽々と振ってみせた。

 闇そのもの、黒く大きな翼を持つ怪物と嘯かれる……噂に違わぬ魁偉な容貌かと思えば、トライゾンが警戒するのは、ただの少年ではないか。

 拍子抜けとばかりにくつくつと嗤う。

 奇異なる馬を駆って、包囲網の深部まで侵入した攻勢は称賛に価するが、斯くも頼り無い刀剣では、この大剣の錆になる末路の他無し。

 受け太刀すれば、刀身もろとも膾斬りになる。あの黒刀が一見しても業物と見えるが、仮に初手を防いでも攻撃の圧力に耐えられず落馬するのは自明の理。

 慈悲として一刀で終わらせると決定し、勝利を確信した笑みで構えた。

 しかし――目前に正対した少年から吹き荒れた凄まじい殺意の波動に全身が萎縮する。

 感情の圧力が心臓を摑まれたと錯覚させ、己よりも一回り小柄な少年の体躯を巨大な壁に見紛う幻覚を催した。


「退いてくれ」


 怯んで生じた僅かな隙。

 地面を蹄で抉って飛び出したムジカが、彼の隣を通過した。周囲で一騎討ちの終戦を待ちわびていた兵は、あまりに短い間に起きた出来事に理解が追い付かず当惑する。

 ただ視覚からの情報だけが無意味に流れた。

 ムジカの跳躍と同時に刀を揮った優太の一閃により、大剣の男の首がゆっくりと胴から転落する。鈍く、生命感の無い無造作な軌道を描いて泥に落ちると半面を埋めた。

 唖然とする戦線の中、硬直した軍の中で一騎のみが躍動する。その足跡を敵の血で染めながら獰猛な迫撃を再開した。

 優太の落馬を企み、弓兵が一斉掃射でムジカを狙うも、意思を以て生み出された乱気流が強風の渦巻く暴風域に到達すれば折られて弾き出されてしまう。

 魔力感応金属の重甲冑で風の刃を防ぎ、優太の下まで辿り着く者はいるが、その刃圏から少年の首級を持って凱旋する英雄はいない。

 敵前にて恐怖で馬を降りた兵も、戦意喪失を認めずムジカが雄々しく掲げた前肢で踏み潰した。


 優太を左右から挟撃する。

 右の兵が大上段から振り下ろさんと長剣を掲げるが、寸前に突き出した黒刀の刃先が脳髄にまで達し、悲鳴を上げる暇もなく潰えた。

 しかし、その犠牲を無駄にしまいと左側から攻め入った兵が、まだ刺突を繰り出したばかりの無防備な優太を攻撃圏に収める。

 たった今殺められた同志を弔う一撃に全力を込めて、同じ様に烈帛の気合いを乗せた剣先で突いた。

 間違いなく敵を仕留めた、そう確信させる見事な攻撃は――虚空を切り裂いている。

 その虚しい手応えを脳が解析する間も無い時に兵の頭上では、ムジカの背を蹴って高く跳んだ優太が刀を振り絞っていた。

 落下に合わせて空振りをようやく認識した兵の脊髄を断ち、斬った勢いでもう一回転からだを煽って回し蹴りを放つ。

 絶命して抵抗も出来ず蹴り下ろされた兵の代わりに、主を失った馬の上に降り立った。


「黑氣術――黒颯(くろはやて)ッ!」


 優太はムジカの居ない位置へと体を向けると、大きく開いた五指で空を掻くように腕を振り抜いた。もはや死神も同然の少年の挙動一つずつが攻撃だと意識している兵は、それだけで立ち竦んでしまう。

 恐怖で足を止めた兵隊は、優太を中心に吹き抜ける黒い風が自分を過ぎると、全身から邪氣の杙が体内より突き出して倒れる。

 邪悪な風に体を捫でられれば、分け隔てなく生物は自身の体内に有する邪氣に肉体を食い破られて命を落とす。

 一度の攻撃に数十名を始末する脅威。

 皆が震えて武器も握れぬ時、短剣を両手に握り締め、俊敏な動きで騎兵の足元をすり抜ける小さな兵が果敢に背後から優太へと飛び掛かる。

 尋常ならざる跳躍力で馬上の優太の後ろに飛び乗ると、右の短剣を彼の頭頂めがけて振り下ろした。

 優太は素早く翻身し、颯然と切り出された凶刃を妖刀で受け止める。至近距離で交錯する殺意の視線が衝突した。

 交じり合った刃からもまた、互いの烈しい戦意を表すように火花が散る。

 予想外の膂力に両手を塞がれた優太へ、続けざまに相手の左の短剣が走った。


「邪魔だよ」


 妖刀を回し、鍔で受け止めていた短剣を搦め取る。

 片方の得物を奪われても、やはり敵の手は止まらない。一秒の後には喉を刺し貫いて流れる血を恍惚と飲む金属の閃きが目を焼くことになる。

 相手の攻撃の加圧から逃れたことで自由となり、妖刀から放した右手で腰の後ろに差した杖に伸ばす。

 切っ先が届く直前で上体を傾けて紙一重で躱した。左の短剣が肩の上を擦過した刹那、仕込みの柄を捻り抜いて相手の急所に突き立てる。

 勝利の手応えではなく、己が命の終わりを感じることになった兵は、無念に顔を歪めながら馬上より摺り落ちた。

 血の付着した仕込みの刃先を払って鞘に納める。

 優太が馬の背を蹴って中空に飛び立つと、兵士を薙ぎ倒して戻ったムジカの背に着地した。背に跨がり、再び『緋鬼』を振り下げる。


 優太は改めて戦場を顧眄した。

 幾ら迂回しようとも警戒網の強度が変わる箇所は無く、弱点とならぬようトライゾンによって差配された部隊編成は、目論見通りに優太の足を留めていた。

 敵地の何処に標的が現れても発見し、後衛部隊が本拠地に伝達すれば、常に武力を供給して確実に討伐できる。

 疲弊した相手を仕留めるには大袈裟な策だが、敵が闇人や狡猾に世を生き抜いた男ならば適宜であった。

 優太としては、単騎で動く本来の目的――敵の意識を大きく引き付け、別行動の【鵺】に宛がわれる勢力を限り無く削ぐには充分な働きを果たしている。

 ここで敵を討ち続ければ、トライゾンはこちらに兵を送り続けて弱体化するか、或いは【鵺】の一掃の為に優太討伐の為の武力供給を中断するしかない。

 前者でも後者でも、相手の喉を刈るに足る。

 戦場に不条理は常識、いつ如何なる場所で襲われるか、その覚悟を決めておかねばならない。優太に関しては、危殆に貧する事態そのものの規模が大きい。

 その異常事態が――いつ発生するか。


 予測不能の危険と遭遇する。

 思考がそこまで及んだ時、優太は足下から脳天まで伝播する蟻走感に襲われた。腕の肌に粟立ちが生じ、額から汗が伝う。

 頭の中に啜り泣く声と、怨嗟が響いた。

 馬上で固まった彼とは別に、ムジカは地底から伝わる奇妙な気配を感じ、反射的に後方へと飛び退く。


 二人のみが知覚したモノが、地表に溢れ出した。

 血に汚された土を、墨汁が染み出すように黒い汚泥を浸していく。屠られた死体を飲み込むと、その大きさと範囲は拡がる。

 戦場を端から端へと、優太の全方位を塗り潰そうと蠢く。死体のみだった泥は、次々と生者さえも呑み込んだ。

 ムジカが顔を顰め、聖なる竜巻で防壁を作る。


 優太は知っている。

 諢壬の人口を半数まで減退させた怪物と酷似しているのではなく、同一と見て相違無い。

 闇人を座標として黄泉國から溢れ出した怨念の団塊であり、世界の底で蓄積した大海の如き尨大な敵意の渦。

 一度は兄と対峙した際に、少量でありながら優太を怒りで錯乱させた邪悪の根源が、いま再襲撃を仕掛けて来た。


 警戒で周囲を睨む優太の脳裏に声が響く。


『“約束の子”よ!気をつけろ!』

「ば、番人様……?」


 世界の果てから、還り廟の番人の聲が届く。

 驚く優太を差し置き、彼女の強く焦りを含んだ声が響いた。


「こんな時に何ですか……?」

『伊邪那美も焦っておる。“蛭児(ヒルコ)”を寄越して来よった!』

「ヒルコ……?」

『端的に云うなれば、貴様の先祖だな』


 先祖――……?

 優太が頭を捻る中、目前の泥から脱け出した人の影が浮かび上がる。全身から液体化するほどの濃密な邪氣を滴らせながら、ムジカの展開した暴風域に歩み寄った。

 俯いてはいるが、その人相に既視感がある。

 次々と泥から這い出る人間の体に刻まれたあるモノを見咎めて優太は頭が真っ白になった。


 泥より出でし者達の先頭を歩む人物が、太刀を振り掲げる。

 優太はその姿を知っている。

 自分とは切っても切れぬ、血の繋がった実の家族であった。


「……兄、さん……」


 優太が戦慄で硬直する中、残酷に番人は真実を告げた。

 これが主を定めず、親たる伊邪那美に背馳する闇人に課せられた試練であり、“楽譜”を完成させぬ限り延々と続く地獄の深淵である。


『あれは――亡者の躰を借りて現れた、先代の闇人の怨念だ』







  ×       ×       ×




 首都火乃聿天守閣の門前。


 北に向けて出立の準備をし、身の回りを調えていたカリーナは、自室で人知れず文机に顔を伏せた。

 失敗は断固として許されない。

 戦役にならぬよう神豪(トライゾン)との交渉を円滑に進めるのが己の使命。一手が崩れれば失策となる修羅場であった。

 予断は禁物、相手は話し合いの最中でも刺客を遣わす事すら予測しうる凶暴な軍団。


 内側に侵入したゼーダによる情報提供により、敵情を大体把握している。

 やはり、歴史の裏で闇として生きていた業は秀逸しており、悉く同盟軍を出し抜いてみせた解放軍の懐に入って情報を入手し次第、随時報告する態勢を崩さない。

 西国の走狗から解放された後とて、優太の傍を離れて同盟軍の為に尽くすのは、迫害された過去があるとはいえど故郷を滅ばされた返報か。

 拓真の件を終え、優太やシェイナからの報告を受けて、また多くの謎が浮上した。

 報告書のみであり文面でしか判断できないが、優太自体はまだ腹の奥底になにかを秘匿している。伝えるべきでないと判断した故であろう。直に判る事でもある。

 それよりも最も注視すべき事柄は一つ。


 “約束の子”の一人――カムイ。

 勇者、聖女、賢者――この『御三家』が輩出されるのは、血の濃淡を問わず必ずカムイの血筋でなければならないという。

 そして、中央大陸全土に散在する迷宮もまた彼等の産物。

 名は聞き及んだ事がある。

 神樹の村よりも外部との干渉は多いが、それでも内情を明かす徴憑は無い。

 迷宮の最奥には、神代の歴史を書した記録や兵器が隠匿されている。ガフマンを初めとする猛者によって開拓され、その都度に歴史学は発展してきた。

 神代の遺物を隠す機能を目的として作ったなら、カムイは神族たちと深い縁を持つ。

 何の意図があって迷宮を作ったのか。


 カムイについて知りたいが、情報は少ない。

 西国西端に位置する山岳部に隠れ住み、神族天照を至高神として信仰し、純潔ならばその身に複数の『加護』を有する。

 しかし、約二十年前に焼失してしまう。

 東国の歴史書では赤髭の命に背いた部下の独断だと記され、西国では先代国王の命令を受けた騎士団により壊滅させられたともある。

 真実の食い違いが、明らかにカリーナの猜疑心を掻き立てた。

 何者かの不都合を隠す為に消されたのだ。

 それは東西合同か、それとも神族の手か。

 カムイ自体は、恐らく矛剴や獣人族に位列する長い血族である。誰かの悪意によって忽然と歴史から姿を消すなと有り得なくもない。


 迷宮の最奥には、何があるか。

 幾つもそれらを制覇したガフマンを尋ねれば、彼等に縁深き品物が発見され、また歴史の闇を暴く事が可能かもしれない。

 最後のカムイ純血の人間。

 行方が知れないのは、恐らく転々と身分を変えて周囲を欺いているからである。真偽は兎も角、東西に隠蔽されるならば誰もが処分すべく首を狙って刺客を寄越す。

 過酷な世渡りの中で生き抜くには、幾つも名がいる。己を詐称で塗り固め、狡猾に生き存えていく術に長けた彼は、然るべき時に表舞台に現れるのだ。


 カリーナとしては、トライゾンが標的とする『阿吽一族当主の腹心の男』が同一人物であると考えている。

 諢壬の阿吽一族の屋敷を調査した時、そして優太からの現場状況などを勘案すれば、屋敷内部に囚われていた泥吉という男児の姉ロイヤを連れ出していた――蒼火と呼ばれる男が該当した。

 奴隷のロイヤを連れ出したのは如何なる酔狂かは捨て置き、自分の痕跡を消していた。

 トライゾンが同盟軍に彼の身柄を要求するのは、彼さえもまだ捕らえていないことであり、ロイヤが消えているのも重ねるとより彼がカムイであると現実味を帯びる。


「……本当に、ここまで来たのか」


 神代から続いた歴史は数千年に及ぶ。

 生物が幾度も進化を重ねた時代と比すれば、革命の起きた半世紀など些事も同然。然りとて小さな兆しが誰にも計り知れぬ多大な波を呼んで、恒久の定型を破壊しようとしている。

 トライゾンを倒せば、あとは神か人か、雌雄を決するのみ。


 彼女は出立の準備を終え、迎えの者が来るのを待った。

 優太ではないが、瞑目して人の近付く音に耳を澄ませる。あの愚かな従弟も、卑劣と蔑まれ悪魔と畏れられようと自分が守りたいと思う人間の為に身を擲っていた。

 彼の従姉(あね)としても、カルデラ当主としても自身が手を抜いて戦う余地などない。


 時折躓きながら、廊下を駆ける跫がする。

 その正体はカリーナの書斎前に立ち止まると、叩扉さえも忘れて扉を開けられた。


「ジーデス、どうした」

「たっ、大変です……!」


 蒼褪めたジーデスの面持ちに、カリーナは首を傾げる。


「仁那とロイヤが捕縛されました。残るカリーナ様との会議は一週間後の予定でしたが」

「……何だ」


 カリーナの脳裏に不穏な予感が訪れた。

 ジーデスは図らずも、その答えを口にする。


「それを待たず、奴等は――戦争を始める積もりです……!」







アクセスして頂き、誠に有り難うございます。


久し振りに結が主戦に参加すると思います。

次回も宜しくお願い致します。

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