仁王の屋敷/零零伍番:饕餮
書き方を少し変えました。
何か誤字、または読み難いなどがあれば、感想欄でご指摘お願いします。
襤褸の絨毯が敷かれる広大な空間。
窓から射す月光に床の無粋な亀裂が暴かれる。太古には磨かれていた支柱も、今や主の管理下を離れた沈黙の時が如何に永かったか、埃に塗れて純白を失っていた。蔦の這う壁面は太く、長く成長して樹海の如く室内に蔓延る。
支柱の間に蟠る薄闇の中を奔るのは、闇よりも濃い黒の貌。緒を引く暗黒の流星に追随して屋内の闇を吹き掃うのは、天色の春雷を纏う拳であった。縦横無尽に馳せる黒に、幾度も屈折して執念深く従いて往く。
軌道の壁面や床は、その速度と威力に爆ぜて砂礫を飛散させた。暗中に躍る黒梟の影へと手を伸ばし、摑み取ろうと更に加速する。それでも尚、黒い閃光は止まらない。
闇夜に妖しく剣呑な紅の双眸が光り、対する碧の双眸が強く瞬いた。柔軟に躱して次第に接近する暗影の疾走に、後者が生命の危殆を悟って眇められる。拳と一定以上の距離を引き延ばしながら、音もなく間隙を着実に潰す。
――速度で勝らない……どうする?
不敵に尋ねる相手の瞳に天色の赫耀は、より一層空間全体の影を塗り潰した。暗中に潜む黒梟の姿を審らかにし、もう一方の拳も放って挟撃を仕掛ける。それすらも回避し、直線で疾駆する翼の羽ばたきに速度を捻り出して己を叱咤する。
「直ぐに――追い付くッ!」
交差して背後から再度の挟撃。
地面を蹴爪で叩いた梟の急上昇によって虚空を切るに終えた。戦慄で身が凍り、伸長した天色の腕を即座に引き戻す。もはや逃れる術も猶予も与えられぬとなれば、耐える他に生存の途は無い。
隣に着陸と同時に踏み込んだ黒梟の片翼が魁偉な変貌を遂げる。歪に筋肉を隆起させた肱となって、天色の星へと振り翳す。渾身の力を急所へと叩き込まんと、梟が身を捻った。
手先の動きすら見えず、踏み込んだと認識した途端に全身を襲う強烈な打擲に、天色の肢体から血飛沫が舞う。禍々しい流星の衝突に打ち拉げた星の足下より遅れて衝撃が奔って足下の床が盛大に爆散した。振り抜かれた闇色の腕に打ち飛ばされ、轟然と回転しながら敗北した天色の残滓が壁面を穿った。
両翼を収納した黒影は、殴打した対敵の居る方向を見据える。既に頭部や切れた唇から出血した相は、凄然とした戦意を滾らせていた。油断なく相手の様子を窺う。
埃と相俟って濃霧の如き土煙が噴き上がる壁の孔。煙幕に匿された先から、黒金の拳が直進で迫撃する。無音かつ予備動作で放たれたそれに一驚し、黒影は邪悪な闇を纏った両腕を交差させて受け止めた。全身に伝達される衝撃に踏み堪えられず、暗中を切り裂いて孔とは対岸の壁に激突。
互いに土煙を脱し、空間の中心へと進み出る。損耗としては、明らかに天色が劣勢の様相であった。対する黒影は、痛痒すら覚えておらずに涼しい面持ちで居る。膝を突いた天色の星を、瞬時に肉薄して放つ足でその顎を撃ち抜き、再び壁に沈めて睥睨した。
打ちのめされても、瓦礫を押し退けて再び立ち上がる星の輝きへ煩わしいとばかりに嘆息を吐く。
「まだ戦るのか」
「そんな顔してたって……誰も救えないよ……!」
真紅の瞳の奥に憤怒の色が揺らぐ。
黒影の全身から翠の雷が迸り、床を抉りながら敵を呑み込まんとする。寸前で跳躍して柱に縋り付き、難を逃れた星は叫んだ。悲憤の訴えも届かないと知りながら、それでも声を絞り出す。
もう既に身体の限界を超えていら。悉くの一撃が急所なる部分を射抜き、単純な破壊力よりも悪質に星を内側から粉砕した。相手に説く言葉も喀血混じりである。
言葉に意識を傾注していた所為で、脚を摑まれた事も気取れず、叱責の最中に別の支柱に叩き付けられた。如何に強靭な肉体を有していようとも痛撃となり、血糊を残しながら柱を摺り落ちた。
冷徹な紅の眼差しに萎えた筋肉に鞭を打って立った。自分が折れてしまえば、この闇は更に深くなる一方である。
天色の光は危機的状況にありながら、更に最期の力を捻出するかの様に閃光を散らす。黒影が警戒し、圧し潰して消滅させんと、天井に展開した夥しい闇の凶弾の雨が降り注がせる。
それよりも迅く、天色の拳が解き放たれた。一点集中で全力を込めた一打は、暗闇を劈いて黒影の胴を穿つ。寸前で肉体に張り巡らせた闇の鎧に防がれても衝撃だけは伝播しており、黒影は吐血して数歩後退した。
頭上の弾雨が停止し、空かさず星は前方へと疾く馳せる。利き腕を振り構え、血を吐いても止まらずに突き進む。
「叶えたい夢の為に非道も尽くすんじゃなくて――」
「敵対するなら君も――」
黒影も腰に帯びた漆黒の杖を摑み取り、柄本を捻りながら前傾姿勢で対する。
急迫する眩い光りに烈しい怒りを向けながら、対照的に凪いだ湖面のような冷静を孕む相貌で前を向いた。
「なりたい自分も、その道も諦めるなよ!」
「安らかに去ね」
交錯する太く逞しい天色と、鋭尖とした闇色。
周囲一帯の瓦礫を寄せ集め、二人を中心に収斂する衝撃波は、物理法則の埒外にある力の証左。心臓の鼓動に似た怪音が大気を圧し、窓が内側に向けて割れ、柱の亀裂の末端は二人を目指して進む。
数秒に亘る拮抗の後、星の光は途絶した。
凶刃が閃いて腕を裂き、肩を抉って過ぎる。鮮紅の散華と共に、脱力して倒れた相手を見下ろして黒影は血を払い、剣を鞘に納める。不可解な現象を発生させた相克は、断固として拒絶を徹いた闇だった。
左腕に深傷を負い、その場で血の池を作る星の残骸を冷然と見下ろして進んだ。その先では、割れた窓の先から屋外の雪へと転がり込み、必死に逃げ惑う男の後ろ姿。憐憫すら湧かず、獰猛な微笑を浮かべた黒影の手に、再び剣が執られる。
片足から噴く血で雪原に道を残し、次第に五感の薄れて行く感覚に苦しみ喘ぐ男は、黒影によって傷口を踏み躙られて、とうとう絶叫した。背に受けた殺意に凍る眼差しが、辺りの空気よりも冷たい。
涙も堪えず命乞いをする姿が滑稽だったのか、黒影の相貌に侮蔑の兆しがあった。
「なりたい自分……か」
男性は振り仰いだ先で、黒影の手元が微かに動いたと認識した瞬刻に視界が反転した。僅かに走った激痛も、急速に失われて行く意識の中では痒くもある。しかし、掻く腕のある胴とも切り放された現状では適わずに眠りに付いた。
黒影は無造作に男の胴を蹴って退かし、闇夜で鎖された城の中、光を喪失した星に振り返った。既に出血は止まっているが、回復の兆候は無い。
「誰しも、君の様には在れ無いんだよ」
口笛を鳴らすと、頭上から月を蔽い匿す巨影が舞い降りる。その背に乗り込み、崖の狭間にある城の前から去る。眼下へと離れ行く景色を見下ろし、腹部や顔に疼く拳の感触に顔を歪めた。
行動も言葉も直截的で、真に内側へと響かせる打撃こそ相手の真髄であると、今更ながら想起した。
しかし、自分は星になれない。その諦観に気を改め、厳冬の寒気に澄んだ夜空を見上げた。人の穢れすらも、太陽より鮮明に明かす月光に目を眇めて鈍く痛む傷口を押さえる。
意識を失いかけて、切れた唇を噛んで堪えた。隣では治癒の恵みで傷を治す掩護を仲間が発動し、見る間に体に刻まれた戦闘の痕が消失して行く。完治すれば戦闘前の調子で再び行動可能だろう。
俯瞰する戦場は、各地で凄惨な景色を催していた。一片の救済すら無く、跋扈する人と魔の悪意が雪原を果てしなく汚す。かの星と同じ輝きを放つ者など、一人として見受けられない絶望の景観だった。
悲嘆と諦念に微笑んで、やはり黒影は意識を失った。
× × ×
優太とサミは、阿吽一族の坐す館に隣接した家屋の軒木に腰掛けていた。塀を見下ろす高さにある場所は、翻って敵の視線を寄せる。
身を寄せる物陰すら無く、僅かに屋根に隠れる素振りすら見せぬ大胆な二名は、門の脇侍に構えた長槍の番兵を観察した。高い門構えは、荘厳な佇まいとあり、兵を付加すれば更なる偉容。
小さく設けた切戸を、街へ放っていた偵察の部隊と思しき人物が潜る。既に約束の時刻を示し合わせていたのか、番兵はそちらを一瞥するのみでその入行を許可した。
広い敷地を擁する阿吽一族の屋敷は、甍の郭に囲われた内側に何棟も建ち並び、母屋は楼の造りとなっている。長く続く縁側は襖を閉め切って内装すら秘匿し、灯籠を手にして歩む女性や兵の影が幾らか巡回した。
庭園には八方に物見櫓を建設し、多方面からの襲撃にも備えた厳重な警固。大きな敷石を粗く敷いた足許は、僅かな加圧で硬い音を鳴らす。
災禍の過ぎた僻地であり、街に侵入した野盗などを警戒するにも、些か過多な警衛の数。不自然で優太からすれば、一体何者の襲撃を想定しているのか、それが確実であって設えた物であるか、ありありと窺い知れる風景だった。
泥吉の情報が正確ならば、母屋には二層構造の地下空間が広がり、人質などを捕らえる牢獄は最下部にある。寝ず番が見張り、狭い道が続く先に泥吉の姉とナタスの人質。
優太は侵入の算段を脳内で再検討した後、首飾りの水晶を胸前で握り締めて瞑想する。瞼の裏に映る子供達や響花、ゼーダや仲間達、結と花衣を投影して深く息を吐いた。
「行くぞ」短く告げる潜入開始の合図。
サミは肯いて大弓を手に取った。
闇夜に蠢く【鵺】が鬨の咆哮が上げる。
鼕々(とうとう)と戸口を叩く音。
何気無い物音が番兵に緊張感を促した。兜の庇で匿した面には、籠った熱とは違う冷や汗が伝って膚を撫でる。
予定に無い訪問者の叩扉は、懸念されていた侵入者の大胆な作戦。しかし、平生より敵対する勢力を何度も退けた特殊部隊すら出動した。幾ら強敵と雖も撃滅されている筈だ。
扉の向こうにあった喧騒も過ぎた。批判運動を発起した町人達は避難を始め、もう屋敷前から退散した後である。ならば何者、そして何用で屋敷を訪れたのかを探り、疑心暗鬼となった。
敵だとしても、今いちど正体を検めるのが賢明と判断して、番兵が槍を中段に構えながら訊ねる。
「何者だ、何用で此所を訪ねる?」
返答は無く、気を張るのも無為な沈黙が続く。
諦めた番兵が槍を引き下ろそうとして、扉の奥から掠れた小声が洩れ出ていた。耳を澄ますと、言葉とも付かぬ音で紡がれた肉声が囁いている。
訝って耳を寄せた番兵は、正確に聞き取ろうと更に門へ耳を寄せた――その頭部を側面から矢が貫いた。
愕然として仲間を見ていた一人もまた、飛来した鏃に喉元を刺し貫かれ、悲鳴も上げられずに膝を屈して草臥れる。
塀を越えて、優太が入った。方形に入口を包囲する高い棟瓦の屋根を見回す。番兵の声を何処かで聞き取り、駆け付けて潜む見張が居るかもしれない。
サミも後から続き、足下の死体から矢を抜き取り、武器の状態が再利用に適するか否かを吟味し、再び矢筒へと容れる。赭馗密林の植生でしなやかで折れ難い枝を都合し、響花との共作で拵えた矢であった。
本来なら、彼女に呪いを掛けた悪党を射る為に用いる予定だったが、その標的が既に亡き者となれば、それを招いた外道儕を射撃する所存。死した同郷の友、異種族すら厭わぬ響花に酬いる為の戦いだ。
切戸を開けて、眞菜と西吾が入った。
門の隙間から、相手の五感の一つのみを選択して鋭敏にし、他を疎くさせる感染呪術で番兵の聴を引き寄せる。その間にサミが射る手筈だった。
見事な成功に、しかし一喜するには早いと慢心せずに周辺を睨む。物陰に隠れた気配ならば、誰よりも敏く優太が看破するが、それを理由に眞菜達が奇襲に備えて構えない道理は無い。
泥吉は四人の手際に驚き、言葉を失った。此処で不用意に言葉を発してしまう浅慮は無いが、驚嘆に値する四人の姿に舌が動いても声は喉から出ない。
腰帯から杖を抜いた優太が先行し、三名も跫を忍ばせて後続する。泥吉も努めて気配を消して、その背中へと従いて行く。
主が不在といえど、敵陣の真っ只中。刹那の油断で項に刃が立つ殺伐とした状況である。その緊迫感で充満した郭の中で、母屋の影が敵対者を飲み込まんと地底から隆起した魔の如く聳り立つ。
優太は耳目を夜闇に澄ました。布擦れ、呼吸、床の軋み、凝然とした暗中で僅かに動く物体。それらを知覚すべく、全身の機能が外界の幽かな刺激すらも求めて傾倒する。
次いで氣術を発動し、屋敷内から入口付近を探る人体の氣を感知した。己の氣を自然と同化させて、空間認識能力を高める技能だが、それすら免れる矛剴には無効。相手はそれも加えているとあって、普段の工程に一工夫を加えて精密に索敵を行った。
現状で悪弊が無いと確認してから、優太達は庭園を邪氣の絨毯で横断する。吹き抜けの通廊の階を踏み越え、母屋の前にある庭園まで一気に駆け抜けんとした。
しかし、門を潜って通過した直後、背後で聴こえた物音を察知し、空中で翻身しながら庭園へと飛び降りて身構えた。杖を片手に来た道を睨め上げる。
足場として生成された邪氣で、着地の音を殺した四名。眞菜と西吾、サミが櫓に配置された全員を遠距離から仕留めてから、優太の警戒する方向に視線を向けた。
通過した門の脇に立つ、二つの像。
一対の象徴として、筋骨隆々とした大男の石像が厳めしい相で構える風体。人が岩より削り出した貌でしかない物が、地響きに似た音を立てて震え始める。
氣術で感知したが、生命では無かった。無機物で稼働する、それも原動力に氣を用いないのだとすればあり得る。しかし、今までの旅路では対峙した事の無い例だった。
動き出した石像が跳躍し、庭園に居る優太へと拳を突き下ろす。行動を予測した泥吉は、顔を蒼白にさせて息を呑んだ。
「少し驚いたよ」優太は囁いて手を挙げた。
翳した掌中から発生する強大な斥力に圧し負けて、石像の全身が砕け散った。石という擬装を失い、石像を稼働させていた骨組みが明らかとなる。
門を守護する仁王だった物が庭園に降り立った。一行は思わず眉を顰めている。
「何だよ、これ」
泥吉の呟きは、正しく一同の胸裏を代弁した言葉だった。
【鵺】の目前に在るのは未知の存在。
金属室の光沢を放つ体は、節々に螺旋状の螺を填めており、体幹の役割を果たすと思しき太い金属の管。露になる臓物や血管――否、それらも太さが様々な管だった。
異様に小さい頭は、眼球は無い円盤状の物で代替されており、細い頚と多数の管が支えている。動く度に敷石とは別に関節が騒々しく音を立てた。
魔物とも人とも付かぬモノ。理解の届かない、人工物である事は確かだが、それ以上に探り様の無い未知の警備――機械なのか?四人は深思の余り硬直していた。
困惑する四名の前で、再びそれらが跳躍する。手首が音を鳴らして回旋を始めた。飛び退いた泥吉の過去位置の地面を、錐の如く砂や石を掻き出しながら穿孔する。
その機能美に唖然とする一同だったが、掌を握り締める優太の挙止を合図に、敵の一体が拉げた鉄塊へと変わる。再び五指を開いた時には崩壊して地面に転がった。
優太はもう片手で、同じく残る一体を処理する。彼の氣術の圧力ならば、今や岩を砕く事すら造作もない。残骸をできる限り静かに落としてから嘆息した。
「最新の機械の一種だろう」
言これらの類いを一同だけ目にした優太は、然して四名と比して驚かなかった。無論、その起源は言義であり、かつて仁那と共に工場を見学した際は甚大な衝撃を受けたからだ。
四名が未だ愕然とする中、優太は母屋を指し示す。
「行け、僕とサミが此所で戦う」
「おい、闇人?私を巻き込むのか」
「殿が多ければ良い。それに、君の弓矢だと屋内ではあまり機能しない」
「……最後の一言は余計だが、納得した。承ろう」
眞菜、西吾、泥吉は母屋へと駆けて行く。
床框を踏み越えて廊下を進む姿を見送った後に、二人もまた襖を開けて別の位置から侵入した。殿が能う限り、屋敷内で殺戮を続けて注意を惹き付ける。
作戦の内容を再確認して、剣を執り、矢を矧ぐ。再び屋内に現れた機械二体を優太が打ち砕き、通りすがる巡回に悟られる前にサミが仕留めた。
「討ち損じるなよ」
「勿論だよ」
仁王の屋敷を、刺客が駆け巡る。
× × ×
瓦礫の下で足掻く町人は、倒壊した支柱から脚を抜くのに苦心していた。凄まじい熱と衝撃に見回れて生きていた事は僥倖。然れど、それから身動きが取れずに悪戦苦闘を既に一時間も続けていた。
瓦礫を持ち上げんと、手を差し込んで雄叫びと共に力を解放する町人。無論、もう三人ほどの人手が無ければ動かない見込。孤軍奮闘も空しく、それでも観念できずに抗った。
力を入れる余り空を仰いでいた面。
その前に卒然と現れた巨大な怪物の醜貌が視界を埋め尽くす。唐突な出来事に困惑と恐怖の最中とあって、体が固まってしまった。
一瞬の笑みを浮かべた怪物は、そのまま異様な顎で町人の上体を噛み千切らんとする。
すると、後頭部を硬い感触が襲った。痛覚を刺激する程に足らない、小さな衝撃。興味を示した怪物が振り向くと、其処に黒馬に跨がった女性が居た。片手に小石を蓄え、厳しく睨め付けている。
「蒼火を、何処に遣ったの!?」
『サ、サッ、先刻ノ女』
怪物は笑ってそちらに体を巡らせた。
蹌踉と歩き出す蒼火は、瓦礫に躓いて倒れ掛かった。隣で飜が支えた時、触れた彼の身体の異様な熱を感じ取って思わず奇声を上げる。
蒼火は押し退けて、それでも前に進んだ。
「指導者殿!アンタ、もしかして……!」
「まァ……ちと頑張り過ぎたな」
炎熱の能力を酷使した影響である。普段なら一撃で相手を消滅させる故に、乱発すれば身体的な影響を与えるのだ。魔法とは違い、『加護』は身体機能の一つ、臓器の一つでもある。
何よりも、重篤な火傷で汗腺すら焼けてしまった蒼火は新陳代謝の循環も難しく、人よりも熱などに耐性が無い。体温が急激に上昇して、凡そ意識を保つのも精一杯だった。
呆れた飜が抱えて、強引に瓦礫の上に座らせる。
「どうしたんスか、そんな焦って」
「あの怪物が、俺の奴隷を食ってる可能性がある」
「え、指導者殿って奴隷買ってましたっけ?」
「成り行きでな」
難を逃れていたとしても、仁那が吹き飛ばした先で遭遇しているやもしれない。紫陽花の性格ならば、逃亡を諦めて立ち向かう危険を冒す。それが如何に無謀だと弁えていてもである。
飜を見上げて、蒼火は俯いたまま指示を出す。
「そこの小娘を殿に、鷹小僧は黒馬に跨がった麻色の髪の女を、探せ」
「奴隷の一人くらい、良いでしょ別に」
「良いから、行け……燃すぞ」
「う゛……そんな上物なのか……」
蒼火が能力の負荷で行動不能に陥る状態は稀である。常に戦闘では短期決戦で事を為して来た彼だからこそ、幾つ特殊な生態を備えているか判らない相手に出し惜しみする訳にもいかず、全力を投じた。しかし、怪物の能力はそれらを凌駕して有り余る。
四肢の具合を確かめる仁那に、蒼火が忠告した。
「奴に気を付けろ。奴……饕餮は、危険だ」
「饕餮……?」
「あの怪物の名だ。アジーテの野郎が、阿吽一族にも秘密にし、科学者を丸め込んで造ろうとしてた兵器」
「何で貴方は知ってるの?」
「確信は無かった、手合わせするまではな。前に忍び込ませた間者の決死の調査から得た。ありゃ質が悪いぞ、間違いなく強ぇ」
蒼火の忠告に小首を傾げた瞬間、怪物の暴れる方角で轟音が上がった。
疾駆する仁那を先頭に呀屡、上空を飜と抱えられた蒼火が移動を開始した。怪物は戯れの如く人命を蹂躙する。未だ生気の火が灯る街の北部等を目印に動いているのだろう。
仁那達は、数分間に亘って戦闘した蒼火から得る情報を脳内に叩き込んでいた。
「腕の変容・伸縮・複製・分裂の自在化。灼熱すら遮る皮膚の耐熱性。肩部の空気噴射機構による飛行と加速補助。衝撃・熱の吸収と放出、致命傷を即時再生する回復力。竜族を模した高圧な氣の蓄積・砲撃――……挙げたら限ないっスね。指導者殿もよく、こんな奴相手に生きてるわ」
「死にかけたがな。他にも幾つ持ってるか判らん。」
仁那は屋根伝いに跳躍して先行し、その目で既に家屋を薙ぎ伏せる怪物の輪郭を捉えていた。片手に人間を握り締めながら、他の区画を狙って移動する。黒い猩々は、角で路地を抉り上げ、足の裏を叩きつけるだけで周囲を爆発させた。
破壊行為を楽しむ様子に仁那は静かに憤慨し、握り込んだ右拳を放つ。拳の軌道を延長し、黒金の腕から天色の線が迸った。高密な氣で生成した更なる腕は伸長と加速を続け、怪物との間隙が僅かとなる位置で屈折し、地面を低く走る。
攻撃を気取った怪物が振り返ると、下から仁那の拳撃を頚部に喰らって空を仰いだ。撃ち抜いた後のそれは、再度折れ曲がって関節を作り、次は胸を強かに打つ。
間髪入れずに畳み込まれた連撃に怪物は倒れるも、手に摑んだ人間を離さない。顔を上げて、傍の屋根に着地した仁那を見遣る。
『オ前モ腕が伸縮可能、カ??』
漸く到着した蒼火は、怪物の手の中に捕らえた物に瞠目する。揺れる麻色の頭髪が目に焼き付き、彼の両腕から烈しく火炎が溢れた。
失神した紫陽花を片手にしながら、蒼火を見た怪物が笑う。玩具の様に振るって見せる。
『オ前、貴方、君ッ、こいつ欲シイだろ?なら、戦エヨ、コレ返して欲シイなら!』
「人の物に手を出すとは、余程躾がなって無い様だな」
蒼火は両腕に滾らせた熱を、右手一本に収束させた。隣に居た飜は、足場の石畳すら熔解させる熱量を感じて悲鳴を上げ、屋根上に退避する。空気を炙り、景色を歪ませる蜃気楼を周囲へ発生させた姿に怪物も笑む。
一足前に踏み込んだ蒼火は、右腕を前方へと振り抜く。束ねられた熱は、一筋の直線を描いて怪物の手を貫通した。視覚の許容範囲を簡単に逸脱した――光速の剣、熱線攻撃である。
手元を捻りながら振り上げると、空を一条の蒼い線が切り裂いた。怪物の腕は焼き断たれ、紫陽花を摑んだ手は地面に落下する。最大まで圧縮した熱量を操作した影響で、蒼火は肢体から蒸気を立たせ、その場に倒れ伏した。
飜が即座に紫陽花の元へと滑空し、呀屡の拳が強固に絡んだ五指の骨を折り、拘束を振り払って抱え上げた。紫陽花を胸に、飜と呀屡は速やかに離脱する。
怪物が身を乗り出して蒼火を捕らえんとした刹那、頚を傾げて横合いから強襲した天色の流星を躱す。
「相手は、わっせだよ。――来い、饕餮!」
『違ウ違う。だカら――グラウロス!!』
アクセスして頂き、誠に有り難うございます。
今回は、中々楽しんで書けた話だと思います、次もこの調子で行きたいですね。
皆さん、花粉症対策はしましたか?私は絶賛くしゃみが止まりません!苦しい……。
次回も宜しくお願い致します。




