街を賑わす泥の笑声
バレンタイン特別編。
登場人物
・ユウタ(17)――ベリオン学園高等部三年生。
・ティル――(17)ユウタの友人、以下同文。
・サーシャル(17)――ユウタの友人、以下同文。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
昼休みは食堂が非常に混む事は、ベリオン学園では当然の常識であった。簡単な理由として、卒業生の量胡が振るう料理を挙って食すべく生徒は競争する。尤も、食堂の席の数は全生徒に適しているので座れる事は出来ても、材料切れで量胡メニューにありつけぬ者も居るのだ。
そこで、三年のとある教室に残るのは三人のみ。教師陣では最も強い三学年主任ガフマンの気に入る問題児である。
談笑する彼等の話題は、今日のバレンタインについてだった。
サーシャル「俺は、ムスビのチョコが欲しい!」
ユウタ「……それはまた、酔狂だね。僕はハナエ」
ティル「どっちも学園屈指の美女……。あ、俺は朝にミミナから貰ったよ。あと、クロガネさんとか」
ユウタ「あの人、作るんだね」
ティル「味はチョコでは無かったけど」
ティルが苦笑した。朝に味わった物はチョコではなく、未知の物質なのだろうと思考が処理する。
サーシャル「俺はてっきり、もう貰ってる物かと」
ユウタ「本当は朝、一度手渡そうとしていたのを知っているんだよね」
ティル「?何で受け取らなかったの?」
ユウタが腕を組み、満面の笑みで朝の出来事を説明する。
ユウタ「玄関に迎えに来てくれていたんだけれど、恥ずかしくて顔を真っ赤にしていたんだ。後ろに隠して、後はどう渡すか言葉を選んでいたみたいだね。結果的に、遅刻するから先送りにした」
サーシャル「いや、気付いてるなら受け取れよ」
ユウタ「最高にハナエが可愛かったから、あと少し味わっていたい」
ティル「もはや趣がチョコじゃなくハナエ……」
ユウタの様子に若干引いていた二人だったが、扉の前で待つムスビとハナエの姿を見咎めた。震える様な歓喜にサーシャルが駆け寄って事情を聞けば、二名ともユウタに用事があっての事。
些か消沈したサーシャルからの言伝てを受け、ユウタは二人と共に廊下へ出ていった。歓談の声が響いて、室内の空気が冷たくなる。
サーシャルは机に拳を叩き付けて顔を伏せた。
サーシャル「アイツ、何なんだよっ!!」
ティル「……さ、サーシャルだってモテそうだよ?もう既に、ムスビさん以外から貰ってるんだろ?」
サーシャル「ん?ああ、後輩からな。出身地が割と近所な奴だからさ」
ティル「あ、セリシアさんか」
サーシャルは鞄の中に入っている複数のラッピングされたチョコの中から一つを取り出す。綺麗に包装されているが、本人の丁寧さがありありと窺え、好意を示すチョコというよりは義理を通し友人へ贈られた物に見える。
サーシャル「確か、朝に家を訪ねて来てさ。『このチョコを差し上げますので、放課後は私の商店街食べ歩きに同伴して頂けますか?』だって」
ティル「返事は?」
サーシャル「ムスビから貰ったら、って考えて断ろうと思ったけど……。アイツ、意外とモテるし目を放すと頻繁に軟派されてるから心配なんだよ」
ティル「仲が良いな」
微笑んだティルは、教室に戻ってきたユウタの様子を見る。
両手に一つずつ持ち、嘆息していた。
ティル「どうした?」
ユウタ「ムスビの奴、執念く義理チョコだって説明してきて、売ったら殺すとか、他の奴に渡したら公開処刑とか……。了解した、って伝えると何故か殴ってくるし、何なんだよ本当に……」
サーシャル「地獄に堕ちろ!!」
ユウタ「本当だよね」
ティル「二人の間で認識の齟齬が……」
席についたユウタは、やはり一つを抱え上げて嬉しそうに眺める。
ティル「それが、ハナエさんの?」
ユウタ「うん、『美味しくなかったら捨てて良いから』って言うから、『本当に嬉しい、幸せだよ。大切に食べる』と返した」
サーシャル「……して、反応は?」
ユウタ「襟巻で顔を隠してた」
ティル「萌え……んん!!何でもない」
三人はそれぞれのチョコの包装を解く。
サーシャル「貰えるだけマシか」
ティル「感謝しよう。……クロガネさんにも」
ユウタ「食べるのが勿体無いな」
三人で一口目を堪能する。
ティル「甘い……!」
サーシャル「ムスビのチョコ寄越せ」
ユウタ「僕が殺されてしまうから嫌だよ」
ティル「サーシャルもいい加減にしなよ」
完.
諢壬より、赭馗密林を離れて更に北西部。
来年には撤廃される国境神城付近には、険しい岩崖に形成された要害がある。戦争中は密偵の好み、獣道の途上に見受けられる洞穴には、その名残と思しき道具や寝具が取り残されていた。今では旅人すら迂路を選んで避ける難路であり、人目からは隔離された場所。
四方を高い崖に囲われた低地があり、平坦な地面を新雪が厚く覆う。中央に佇む屋敷、低い石積の塀で囲われた庭園は、鉄格子の扉を抜けても花壇を一つ所有する程度の索漠とした景趣。北と南に見張り塔のある母屋と厩舎を二棟、納屋を備えた外観であり、山中に貴族が設けた秘密の別荘の様相。
屋敷には生物の気配は厩舎に留められた馬のみ。これを除いて騎乗した人間は兎も角、屋敷に住まう者さえ不在で、耳を澄ませば降雪の音が聴こえるかと錯覚する静謐。訪ねる足跡は既に数刻も前に抹消されてしまった。
己の所在を晦ませて、邸に身を寄せたのは数名。中でも異彩放つのは竜胆色の長髪をした容貌秀麗な男性。背広姿で絨毯敷きの廊下を毅然と歩む様は凛々しく威厳があった。
隣には、媚びた姿勢で付き添う小柄な白衣。二つに割れた顎、頬には小さく点綴とした潰瘍の痕がある醜貌。屋内すらも呼気が白く凍る寒さにも、脂汗を服に滲ませる。男性に蔑視されているとも知らずに付き従う。
その後ろを襟巻きの老翁が静かに後続する。二人の様子を、起きているかも定かではない薄目で望洋と見詰めていた。窓の外の風致にも興味は無く、後ろ手に組んだ手を握って温める。護衛を業とする強者といえど、老身に軽装では寒さには弱い。
この邸に居る全員が、この三名だった。
男性にとって傍に置くのも厭う人種だが、この白衣の技術力は紛れもなく本物であり、替え難い価値がある。過去数十年に亘り、軍事開発を裏から支えて赤髭と結託し、様々な先進的武具を生産した頭脳。生体の解明について知識では、大陸でも無類の科学者だ。
数ヵ月前までは砂漠の地下に営まれる学術都市の枢機・時計塔の支配権を恣に、人造人間の大量生産で堅固な体制を築いていた学院長。突如として都市の秩序を破壊し、封印されていた秘密を暴いた刺客の優太、侠客の仁那の所為で辛酸を舐める羽目になった。
逃竄の先で力尽きる前に、この男性と出会ったのだ。あの赤髭の数十年もの間に完全な防備を拵えた策謀も、仁那の“革命力”とでも称すべき能力、或いは運命の前には脆く崩れ去った。支援も望めず、希望も喪った状態で縋れる存在が他に無い。
魂すらも売り渡す気勢で、男性の為に知識と技術を注力した。西国のある土地を治める彼の故郷に無い科学力は、瞬く間に老翁の地位を確立させたのである。学術都市の過去には戻れずとも、新たな形で再建可能ならばと進む足に澱みは無い。
男性が新たな目的に進む為に、絶対的な武力を欲した。平生は内容の如何に興味は無く、自身の力が要求されるならば嬉々として応える構え。然れど、闇人という存在が関与した途端に背筋が凍った。亦しても、栄光の路を阻まんと現れるのか、数ヵ月前の出来事を想起し、曾て無い必死さで開発に尽力したのである。
今回は、邸の地下にて学院長にとって最高傑作と称える提供品が保管した。対敵は一軍千兵に対抗する機能を搭載した生物兵器。己の科学の粋を剰さず投じて完成させた化け物だ。
機能等の諸事項について簡潔に説明し、男性は疑問を懐いた部分にのみ、詳細な情報を求めて質問する。老翁は黙視を続けていたが、進む都度に感じる異様な氣に身震いした。敵では無いが、微かな隙さえ見せれば飼い主にも牙を剥く狂犬の如き気配をまだ見ぬ相手に直感し、警戒心の糸を緊張させる。
「完成しているんですね」
「えぇ、えぇ、そりゃあもう。最初に貴方様を見れば、親と認識して命令には絶対服従は間違いありません」
竜胆色の髪を捌いて、了解した男性が鉄扉の前に足を止める。学院長が押すと、観音開きに開け放たれた扉の向こう側で地下への通路が闇へ続いていた。老翁が幽かに目を瞠り、一振りの小太刀の把に手を添える。
瞠目は一驚に付した故のもの。感情の発端は邸に創設された地下ではなく、通路の中心に立って待ち構えていた少女の姿であった。
軽く編まれ、腰まで届く金色の長髪は薄闇でも艶を帯びる。光の無い虚ろな橙色の双眸で三人を見上げており、矮躯や顔立ちのあどけなさから、齢十三前後の若輩と推察された。漆黒に金の釦などを使用した高襟の軍服に、膝上までの短い裙子を穿く。
手に携えた黒い傘は、西国の婚儀で女性の纏う礼装の裳裾の様な生地、石突は長く先端が筒状。床には突かず、両手で斜に握り締めて持っている。
白衣が指示すると、一礼して先導を始めた。男性は好奇心に尋ねる。
「この娘は?」
「此れは戦場で躰の各所を失っていたのを保護し、作り替えた物です。余興の積もりではありましたが、此方も中々用途があります」
男性が改めて少女を見ると、首筋に青い痣を発見した。靴で少女の臑を蹴って、嫌らしく笑む白衣に得心した。成る程、用途がある、とはそういう事か……。
四名は重厚な扉の前に辿り着いた。
示し合わせ通り、老翁と少女は通路の端へ寄り、扉の封印を解錠して白衣もまた退く。頷いた男性が、左の目許の黶を撫でてから扉を押し開けた。強い抵抗力があったが、ゆっくりと目の前に空間が広がって行く。
まず纏わり付く様な鈍い血臭が充満しており、一瞬顔を顰めたが男性は前に踏み出す。靴底で叩いたのは、硬い床に薄く張った臓物の肉片。暗中では如何なる惨状が繰り広げられているかと己の役目に辟易しつつ、男性が灯籠に火を灯した。
明かされる部屋の全容の一部、その中心には黒褐色の皮膚をした巨大な生物が、中腰の姿勢で膝を抱えて居る。長い頚部をした人型であり、筋骨粒々としているが背骨が著しく大きく、丸めた背の皮膚を突き破らんばかりであった。
顳顬で左右へS字に向く一対の角、頭頂は扁平な形状である。面貌は鼻梁もまた平らで下顎部が突出し、目許まで歯牙が伸びた異形。眥から皮膚が剥落した痕が二本の線を模した様に見える。
裾が襤褸となった股引を穿いているが、脚部とは不釣り合いに長大な腕で躰を支えた姿は、体毛の無い猩猩。単衣を諸肌脱ぎにし、裾を鬱陶しそうに肘で払う。
振り向いた異貌で、室内に現れた男性の貴影に首を何度も傾げる。呼吸は荒く、手で床を叩きながら接近した。至近距離まで来ると、昂然と立つ姿を凝視した後に恭しく頭を垂れた。
その頭頂を軽く叩き、男性は踵を返す。
この時、怪物の視線に誰も気付いていなかった。その双眸は作品の成功に安堵して笑う白衣、静かに待機する老翁、そして背広姿の男性でも無い。通路の端に控えた少女を見詰めていた。
遠ざかって行く白衣が肩越しに指示した内容に従い、鉄扉を閉ざす少女を、怪物は完全に消えるまで見ていた。
『…………ア、ソボ』
× × ×
諢壬の中心街では、日の没した夕闇にも人々は募り、開拓作業の進められる地下闔を見守っていた。阿吽一族の差配により、戦争沙汰から離れて平和ではあれど退屈な日々の続く彼らは、大きな物音や些細な変化も鮮烈に思えて目敏い。
秘密裏に事を遂行したい夬にも御し難く、思惑とは反する形で周囲の注目を集めてしまう。その群衆が町人のみならば然したる問題は無い。しかし、間接的に人の動きを見た行商、又は旅人によって各地へ伝播する可能性。
最悪は、諢壬の非協力体制に懐疑的な“新体制一派”からの使者が直截に目の当たりにしたならば、不穏な企みと悟られ断罪の斧は頭上に振り翳される。この危惧を和らげる為にも、一刻も早い完遂を欲していた。
しかし、夬の恐れていた事態へと進む。
市井には、既に使者として黒頭巾で面相を匿した男――上連が紛れていた。彼が街の騒動を目にし耳にし、中心街の地下闔を観察に来るのも当然の理である。
群衆の中を器用に掻き分け、歩を止めずに囲う環の最前線を滑り抜けて闔に近付く。町人達は特に彼の様子に目を留める訳でもなく、闔の枠を掘り拡げる男達の手元に視線を固定していた。
今さら地下との通行口を改装する意図、必要性を感じないからこそ、不穏当な予想が脳裏を過る。これから阿吽一族を訪ねる上連としては、以前から訝しんだ存在へますます猜疑心深まる光景だった。
上連が作業員の一人に尋ねんとした時、闔が軋みながら開き始める。何の示し合わせも無かったのか、作業員の面々が驚いて飛び退いた。拡げてしまったばかりに、不安定になって震動する闔の隙間に地下の闇が覗いたと思えば隠れる繰り返し。
衆目が募る中、闔の空隙から溢れた閃光に嫌な予感を掻き立てられ、上連は横へと体を煽って跳んだ。戦禍の中にあった彼は経験があったからこそ、眩い光に剣呑な意味を見出だした。知らぬ群衆の反応が遅れるのも無理は無い。
数瞬の後、闔は木っ端となりて四散し、轟音を散らして一帯を光が呑み込んだ。逆巻く爆風に煽られた瓦礫の散弾を受け、町民のみならず兵士や作業員が藁屑も同然に宙へ舞う。
鉄爪を突き立て、身を低くして猛威を回避し、猛然と空間を撹拌する風圧に堪えた上連は、土煙の中を睨め付けた。作業速度の鈍重さに焦慮し、爆薬による開拓を講じるにも準備が杜撰。抑、火薬の類いで発せられる威力や光ではない。作業員は退避もせずに従事し、町民は集団の環を解く様子も無かった。明らかに彼等の無知、突然の出来事であるのは当然だった。
上連は立ち上がり、覆い被さった木片や埃を払い落とす。手甲に爪を収納し、土煙の上がる中枢へと摺り足で進み出た。魔力感知などの手法に精通しない彼にも伝わる、中心から広場全体を圧する氣の放射。恰も仁那を前に居ると錯覚させた。
破壊された闔の縁まで接近する心積もりだったが、確認していた闔の幅を更に拡張した孔が開かれている。摺り足で爪先が地面を離れた感覚で察し、中を覗いて暫く耳を澄ませた。
落下した瓦礫が底を打つ音が響く。上連が身を乗り出した時、土煙が目前で急激に渦を巻いて荒れ狂う。驚いて飛び退いたが幸い、孔を突き抜けた巨影が上空へと躍り出た。その輪郭を捉えて、上連は苦笑する。
不測の事態が立て続けに起こる事自体が最悪でもあるが、目前にある光景にただ思考を放棄する他に無かった。羽ばたく雄々しき巨躯は鉄色は所々に負傷の痕が見られても、地上を睥睨する眼光はその姿態の品を損なわぬ強壮さがある。
「竜族……幻覚かっ!?」思わず上連は叫ぶ。
聞き咎めた竜族は、己が咆哮にも耐えた男の姿へ微かに警戒心で目を眇めた後、直下に穿たれた孔を眺望する。粉塵の稼働を静観し、両翼はより高空へと体を移動させた。
離れ行く竜族の警戒の眼差しを感じ取り、差し向けられた孔の方へ上連も振り向く。煙幕の中央では、水底の圧力から解き放たれて水面に浮上した泡に似た音を立て、泥が地上へと上昇していた。
上連は足下の縁にも、泥が伸びている事を寸前で覚り、その場を早急に離脱する。より高所を目指し、一先ず壁面に爪を突き立てて屋根上に攀じ登った。
孔から湧く途方もない悪意や怨念の塊と形容すべきモノが、ゆっくりと顔を覗かせた。
『来て、妾の元へお帰りィィ……!!』
女性の肉声を発し、泥の一部が人間を象る。
上連の背後の路地では、溝板の一枚が上空高くに撥ね上がった。そちらを顧みれば、両脇に闇精族の少女と小汚い男児を抱えた少年が、一対の黒い翼で空へ上昇している。
上連は思わず奇声を上げた。現れた少年は、彼の友人であり、曾て死線を前にし共闘した仲である。二年振りの再会に喜ぶ舞台としては、あまりに残酷な景色ではあったが、歓喜に両腕を衝き上げて叫んだ。
「お――――い、優太っ!俺だ、上連だ!」
いちど上空で静止した優太は、滑翔して上連の隣へと着地した。地下街で“泥”に急襲を受け、これを苦しくも回避しながら逃走するサミ達を救い出し、未だ泥の奔流から遠い地上への通路を全速力で抜けた。優太の気配を機敏に察知し、追走する泥に打ち勝ったが、地上も安心は出来ない状況である。
両脇の意識を失った二人を安置し、顎に伝う汗を手甲で拭う。邪氣の翼を解除して、再会した上連へと向き直った。
上連としては、二年前に見た大人びているが、どこか愛らしい少年の印象だった。だからこそ、過去と現在の差異に驚愕して頭を抱える。印象が薄く人に顔を記憶されない事が苦痛である上連は、一貫して女性にも恵まれない。
対して、現在の優太は道中で声を掛けずとも異性を惹き付ける秀麗な容姿に成長、否、進化を遂げていた。二年前から妬ましくはあったが、よもや斯様な成長を見せられては清々しくも思える。花衣の憂慮も納得がいく。
歯噛みする上連に、優太は怪訝に眉を顰めた。
立ち居振る舞いは以前よりも刺客然として、至近距離に在りながら気配を殺し、一度姿が視界から失せれば捕捉するのは困難。時の経過と相応に修羅場を幾度も潜り抜けた風格を纏っている。
「久しいな、小僧!」
「ええ、本当に。息災で何よりです、上連さん」
「お前以外、俺の事は大分杜撰な扱いするよな」
「……そうなんですね」
憐憫に苦笑する優太の肩を上連が摑む。
「大きくなったな、狩還爺さんも喜ぶぜ」
「有り難うございます」
気を改め、二人で目前に聳え立つ人間を模した泥を睨む。未だ不安定なのか、伸ばした指先が崩壊と組成を繰り返す。今は優太達を捕獲するまでの力は無いのだろう。
しかし、目鼻立ちの輪郭などが時間の経過と共に明瞭になって行く。これが人の貌を完全に模倣するまでに成長すれば、届かなかった手も優太達まで射程圏内に収められる。
周囲を観察すれば、建物の内部まで泥は侵入せず、道路のみを奔っていた。恰も人家を避けているが、街路に立つ人間は容赦無く呑み込む。泥は最も付近に捉えた命の気配に食い付いている。
壁や遮蔽物があれば、恐らく人間を感知出来ないのだろう。それでも、外の騒ぎを聞き付け屋外に飛び出す町民も少なくない。捕食対象とも知らず、泥の前に躍り出る人の姿が遠くにあった。
優太は腰帯に差した黒檀の杖を引き抜き、上連達を庇う様に立つ。
「上連さん、僕が護衛するので諢壬を脱出して。二人は任せました」
「これだと、夬の野郎も……」
「それなら、此方で捕縛しました」
「何してんだよ!?」
優太が振り仰ぐ先では、月光を背にし上空を旋回する巨影。その正体が竜族であり、背には西吾や眞菜、二人の拘束した夬が居る。サミは保護したので、諢壬を脱出する準備は既に整っている。男児は、後々役立つと想定して連れ出す心算。
響花の契約呪術を解除し、外部と連携して優太を襲い、陥れる矛剴の内通者を炙り出す。だからこそ、此処で立ち止まってはいられない。
サミと男児を担いだ上連を、薄く扁平な円状の邪氣を生成して乗せる。優太が指先を軽く振り上げると、平衡を維持したまま足場となって竜族の居る高度を目指して上昇した。須佐乎命との戦闘で学習した邪氣の性質に、衝突・接触した物体が氣を含有していれば質量や運動力を無効化する。
肩までしか邪氣を装備していなかった故に、剣戟では武器が交差する都度に衝撃を感じていたが、『加護』を宿さぬ小太刀は破損せず、腕の組織や骨に異常は無かった。上連を持ち上げて行くのも造作ない。
女性の貌を成した泥が、上連達へと腕を夥しい蛇へと変形させて攻撃する。先程よりも存在の確立に成功しているのか、形状を崩さず、勢いもそのままに伸びて行く。
優太は全身に氣道・建御雷神を発動し、翠の雷光を纏うと電光石火で仕込を抜き放つ。その一閃が刃圏の遥か外に在る泥の腕を肩口から切断した。飛沫を上げて落ち、頭上では上連が唖然としている。
「邪魔をするな」
『おおおおお帰りりりり……!』
× × ×
少し時を遡る。
遠くに轟音を聞いた呀屡は、胸の内に憔悴した同胞を路地に座らせ、中心街の方へ少し歩く。闇人という天災に遭った後で、衣服は血染めの悍しき風体。しかし、命の安全を最優先に行動した故に主を置き捨てた身とあって、悔恨と不安に人目も憚らず体が動く。
路地を覚束無い足取りで進む呀屡の視線の先に、無人の十字路で右往左往する人影。高く結った漆黒の髪を軽やかに揺らし、襟巻きに徳利襟と洋袴の少女の姿に旅人と推測。今は気にすべき事ではないと視線を外す寸前で、振り向いた彼女の碧眼に硬直した。
薄暗い夕闇にも輝く様な瞳が呀屡を認めた。駆け足で寄った少女は、血濡れの彼に驚倒して慌てふためく。容態を確認すべく眺め回していた。
呀屡は驚愕に硬直していたが、やがて口を開く。その美麗なる蒼い双眸、漆黒の髪と噂に違わぬ容姿は、愛らしく磊落な人柄に温かな雰囲気を纏って彼女を神々しく光らせる。過去の想い人と重なる風貌、一向に再会を希って叶わなかった、あの時はまだ無く称呼も出来ない彼女の名を呼ばずにはいられなかった。
「…………仁那?」惑う声音が呀屡から溢れる。
苦笑して後頭部を掻く少女――仁那は、己の素性が邂逅して間も無く露呈てしまっていると悟って、内心は顔面蒼白と恐慌一色であった。首都で厳重な監視体制の中に保護されていたが、困窮に思えた城郭を秘密の暗渠を利して脱し、北方の僻地にまで誰にも知られず赴いていたのだ。
恐らく、今や首都は驚天動地の騒ぎだろう。中央大陸、否、世界史でも最大の戦役となる舞台で最も活躍を期待される少女の自由奔放さは、他者の制御下に容易く降ったりはしない。だからこそ、各地で成し遂げた偉業がある。呀屡とは程遠い世界の住人になってしまった。
呀屡が生き別れた人とは雰囲気も違う、しかし拭いきれない面影が重なって本人であると判る。立ち居振舞いは、施設で育てられた片鱗が微かに窺えた。幾ら脱出の後に数奇な運命を辿ろうとも、染み着いた陰惨な過去の傷は癒せない。
呀屡は身を粉にしても守りたかったモノが、今や斯様に幸福の道筋を歩んでいる事実を目にし、感泣に震えるのを堪えた。屈み込んで顔を覗く仁那の顔は、昔よりも豊かな感情の火を灯している。
忠義を誓った呀屡と、自由な旅を選んだ仁那。其々の生き方を違えども、再び巡り会えた奇跡に、人の世にも少なからず救いがあると心底想い知らされる。喩え、闇人の様な災禍に遭遇しようと翻と生存した幸運もまた、与えられた救済の一つ。
物陰に居た飜が這いながら、仁那の方へと接近する。完全に修復していない傷を石畳に擦り、血糊が惨たらしい道筋を引く。呀屡を路傍へと移動し垣に凭れさせてから、片翼を損失した飜を抱え上げる。
二人の負傷具合から推考すれば、対敵は圧倒的な実力者である。どれもが一刀で深く急所を衝き、又は切り裂いた刀傷。強力な魔法に拠って撃退され、或いは狡猾な呪術の罠に嵌まったのでもない。敵へ刻み付けたその人の純然たる強者としての力が判然とする痕跡。
仁那が傷の手当として、左の掌を患部に押し当てる。手背から溢れた縹色の燐光に呀屡は包まれ、酷使された筋肉が疲労に弛緩していた躰中へと活力が漲る。未だ塞がらず滔々と皮膚を滑り、地面を濡らしていた流血も止められ、裂けた肉体が互いに引き付け合う。
体内時間を加速したかの如く自然治癒力が向上した。鬼の血が有する生命力も弱りつつあった躰を回復させる謎の力。片手で触れた飜にもまた、同じ現象が起きた。救済の御手とは、正にこの事を言うのだろう。
仁那の手によって快癒した二人は、仁那を見て破顔した。久しく出会っていなかった旧友、仁那が記憶していなくとも、飜と呀屡にとっては鮮烈に焼き付いている。
「仁那、憶えてる?ぼくら……とても小さい頃は君と一緒に“孤児院”で“師範”に稽古を付けて貰ってた」
「え……」
「こいつは呀屡、そして俺は飜。憶えてないなら、一回殴らせろ。俺なんか、お前を何度も逃がしてやったってのに、帰って来んだぞ。少し謝って欲しいモンだぜ」
二人の言葉に始終困惑し、仁那は表情が忙しない。気分が弾み、呀屡は過去から続き、事の経緯を語った。孤児院から続いて阿吽一族の特殊部隊に所属し、今は作戦中であると機密事項も易々と口外し、飜に横から手刀で咎められる。
孤児院の僚友と逢えるとは思いも拠らず、仁那は半ば放心状態で相槌を打つ。自分が侠客としての旅路を歩む間、彼等は別の奇縁に恵まれて生きていた。言祝ぐべきでもあるが、それよりも先に現在その二人が請け負う任務内容に関心を寄せた。
地下街に出現した闇人の討伐――小隊【鵺】を率いた【梟】こと優太の始末を命じられた二人は、交戦した末に深傷を負って撤退する。仁那の記憶では、矛剴と接触した優太は赭馗密林の奥深くの里で過ごしている筈だった。呀屡達と敵対している要因は兎も角、今は彼が地下に居ると知って動かずには居られない。
仁那が駆け出さんとした時、脳裏に鋭い警告が響く。相棒――祐輔の物珍しい焦燥を含む叱咤。足を止めて心を澄ました。
『やめとけ、今地下に行くなッ!!』
「どうして!?」
『拙いぞ、本当にテメェと闇人が一ヶ所に集うと碌な事がねぇ!!』
悪し様に吐き捨てる祐輔に首を傾げた。
祐輔はまだ見ぬ地下街の様子を感じ取っている。彼が警戒する程とあれば、異常な氣の波長を仁那でも感受出来るが、全く危機感を掻き立てる気配は微塵もしない。中心街の方角に聞いた轟音に起因しているのかもしれない。
優太と合流し、今は問い糺すべき事柄がある。記憶の欠如と、赭馗密林を襲撃した盗賊や傭兵の大量失踪について。真相を恐らく彼は識っているに違いない。何よりも、言義で見た冷徹さは今後の危うさを垣間見せた。優太の現状が如何なる者かを把握する必要がある。最悪は――戦わねばならない。
『仁那ッ、テメェに対処し得るモンじゃねェ!』
「韜晦せずに応えてよ!何が危険なのさ?」
『死ぬから止めとけ!』
不意に視界の隅に蠢く物体を気取り、仁那はそちらへ視線を巡らせた。地下への連絡経路を匿う溝板が下から押し上げられ、僅かに生まれた間隙から黒い泥が滲み出す。
回復した飜と呀屡は、目にしたのみで総毛立った。本能的に拒絶感を催す泥に、三人で街路の中心へと飛び退く。溝板を押し退けて滂沱と溢れ出したかと思えば、瞬く間に量を増し決河の勢いで街路を呑み込む。屋根上に避難した仁那達は茫然と見下ろした。
此処のみならず、四方の遠景に泥の柱が湧き立つ。探り当てられた源泉より噴く水の様に、高く上がって飛沫を街中に振り撒いた。人々の悲鳴が連鎖的にそこかしこで共鳴したかの如く寒空へと谺する。駆け出さんとする仁那を、呀屡と翻が必死に両腕を摑んで引き留めた。
やがて街を満たした泥は、人の形を織り成して大人や子供、多様な声音で笑声を上げたまま道路を低徊する。外にも、様々な動物が大量に生成された。悍しい風景に言葉を失う。人智の及ばぬ類いだとしても、これは明らかに破格の力によって作られたのだと本能的に悟った。
仁那の持つ『四片』、或いはそれ以上の禍々しい力の奔流。観察を続ければ、何処か邪氣に似た液体である。しかし、断続的に微弱に赤く発光するものは仁那でも見た事が無い。優太の邪氣には同様の光が無かった。
地下から湧き出たとなれば、優太の身が危うい。彼は別の手立てで脱出し、安全地帯へ一時避難して居るかもしれないが、一刻も早く合流したい。それでも、祐輔の警告通りなら仁那であっても不用意に動けば命を落とす。
両翼を展げ、呀屡を抱えた状態で飜が飛翔する。仁那もまた『朱雀門』の能力を開放し、夜空へと舞い上がった。問題の原因を把握しなくては、対処法も講じれない。街の全域を俯瞰する高度まで達した時、仁那は中心街の南東部に最も高い“泥の柱”を見咎めた。
夜気を叩いて急降下の姿勢を取ったが、祐輔に再び止められる。
「何さ!」
『触れるな!触れたら終わりだぞ……こいつは、“泥の柱”を破壊した程度で消失する様な生易しい代物じゃあねぇ。
暁の時も同じ現象に二回は遭ったが、仙術でしかこれを消滅させる方法は存在しない。半日経てば消える、遣り過ごすのが一番だ』
「一体……誰の力なの?」
祐輔は忌々しげに告げた。
『あれは――黄泉國の使徒だ……!』
アクセスして頂き、誠に有り難うございます。
漸く処理すべき問題が片付いたので、一話が更新できました。今回は爽やかな気分で書いた割に、暴走してしまった氣がします……。
よし、春に向けて更新頑張ります!
次回も宜しくお願い致します。




