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森出身で世間知らずな少年の世界革命  作者: スタミナ0
五章:優太と道行きの麋──中
229/302

地底に湧き立つモノ


 呀屡がまだ、自己の名を持たない幼い頃。

 周囲の風景は無常――共同生活をする子供達は、過酷な鍛練の最中に儚く踏み躙られる。今を生き存らえても、次は死ぬかもしれない。その予感が脳裏から離れず、忌まれるべき地獄の住人に堕ちた己の身分に諦観して眠る日々が続く。

 少年兵の中でも、呀屡は生存率の高い部類であった。孤児院と嘯いて、実態は兵舎である施設に保護した子供を統率する“師範”にも有望と言われていた。飜を含め、呀屡は施設でも稀に見る苦行の修身に在りながら、強く生き残った人物として周囲からも羨望の眼差しを寄せられた。

 ある頃、“師範”が飜や呀屡を捨て置き、一人の少女に対して稽古を注力する様になる。苦行からの解放とは裏腹に、何事かと訝って探れば、そこに居るのは年端もいかぬ、己と同い年の少女。

 呀屡たちから見ても明白、最初の稽古は覚束無いといえど、吸収速度は迅くあたかも“師範”の映し鏡が如く、僅かな時間で他より秀でる兵となった。

 少女は基本的に趣向に欠け、およそ年頃の子供ならば関心を懐く物事に目もくれず、鍛練以外の事柄に取り組んだ例がない。思考の隅々も戦闘に染められ、“師範”が調練した子供の中では、先ず筆頭にして即戦力として、戦地に輸送する話まで持ち上がった。

 飜は憐れと正視に堪えず、時折だが孤児院の外へと連れ出し村へも届ける。鷹人族としての能力を十全に活用し得るだけ己の身体の原理を弁えたからこそ、“師範”を出し抜くにまで至ったが、努力は水泡に帰す。

 少女は幾度と無く孤児院に帰還した。飜の所業を密告する事は終ぞ無かったにせよ、想い遣りは無下にされ、殺傷される危険すら冒して外に追いやった行為すら徒労に潰えた。それ以降、飜は彼女を救う事も無い。

 呀屡は純心で少女に興味を示した。

 円らな目は、蒼い宝玉を填めた様に美しく、生々しい傷痕を除けば綺麗で精悍な顔立ちである。梳ればより美しく映えるであろう黒髪も、他とは異彩を放つ光彩を帯びていた。

 血腥い世界に居た時期が長いとあって、呀屡もまた周囲とは全く異なる雰囲気を持つ少女に、惹かれつつあったのだ。人間性に欠いた部分がまた人形の様であったが、それでも少女は美しく逞しい。

 意を決して歩み寄れば、全く相手にはしてくれなかった。鍛練以外の時間帯は蛻も同然の少女に、諦めず何度も話し掛ける。普段はどんな声で話すのか、この無常なる面貌に笑みが兆した時、胸の中に疼く不自然な動悸もはっきりと感じられるのではないか。

 呀屡は期待を込めて、明くる日も対話を求めて少女を訪ねる。次第に返事をしてくれるにまで成長したが、未だ笑顔を見れた事は無い。一緒に細やかな遊戯に興じた、それでも笑顔は無く、淡々としている。

 果たして、この娘に一片の情すらあるのか。

 そんな事を考えた呀屡は、ある日に少女の涙を流す姿を見た。“出品”と子供に言われ、赤髭総督の為に稼働する一兵としての成熟を意味するそれは、“師範”が見定める。少女はそれが特に近く、より過酷な鍛練を強いられていた。

 崩れた少女の表情に唖然として、呀屡の中に初めて――殺意が生まれたのである。庇護欲と恋慕が相俟って、少女を汚し虐げる“師範”への際限無い害意を懐いたのだ。

 孤児院を経営する人間達の会話を盗聴し、近辺の戦場より送られた西国の斥候部隊が迫っているとの情報を入手して、遂に作戦を決行する判断に至った。

 手敵国の仕業と称し、日々の努力の成果で“師範”を殺め、孤児院に火を放った時、他の子供など念頭にすら掠らず、あの少女でさえ浮かばなかった。動機の始点は彼女だった筈なのに、脳内を憎悪の泥だけが満たす。ただ轟々と火勢を増すばかりの建物を睨め付けており、はたと少女の存在を想起して悲嘆した。

 過ちを悔いても仕方なく、帰る家も無くなった呀屡としては、もはや以前の少女と同じ蛻に成り果てる寸前である。気概など見出だす気力すら無い。

 不穏な空気を察知して外に逃げ果せていた飜とは後に合流し、少女の安否や行方は知れずとも、いずれ会えると信じて、近隣の里を訪問していた夬に引き取られた。彼には、孤児院を何者が破壊したか、真相は告げていない。それから少女の事を忘れ、ただ夬に報いる為に動く。

 人としての生活を取り戻し、彼の為に働く日々の末路。これから、何かが始まろうとしていた。飜の幸福と、少女との再会を夢見た先が――暗澹とした闇に蔽われてしまった。

 隣で力無く倒れる飜、人の貌をした闇。

 自分の未来を亦しても阻む悪弊を前に、今まで奥底で封印していた途方も無い害意、普段は他が為に力を揮う呀屡が、己すらも忌避して匿していた、彼の内包する底無しの悪意が噴き出す。


 それは――膨張し、破裂した心の悲鳴だった。


「あああああああ――――――ッ!!!!」


 呀屡の全身が紫電を纏う。

 高々と振り上げた踵を地面に振り下ろし、床を踏み抜いた。轟風が周囲一帯を一掃し、目前に佇んでいた闇をも吹き飛ばす。否、一瞬それよりも迅く躱していたのだ。

 優太は回避したが、凄まじい威力に生じた風圧で後方へ飛んでいた。氣術で強化した脚力を存分に行使し、爆風に煽られ中空に躍る身を背転で立て直した。優太は瓦解した屋根上に脱し、足下の景色を見下ろして嘆息する。

 黒檀の杖を片手に構えた刹那、眼前の中空に紫電となって出現した呀屡が拳を振り翳していた。優太もまた抜刀し、(すむ)やけし剣閃にて迎え撃つ。

 剣の残光と拳の軌道が交わる時、屋根上の空間が木っ端を辺りに撒き散らして破裂した。先に優太の刃先が相手の肉を斬り断ち、突き出された腕の断面や裂けた装束の間から鮮血迸る。

 確実な絶命の手応えを得たにも拘わらず、相手の行動は止まらず、優太への突進を続行していた。返す刀で旗を翻すように避けて、その胴を撫で斬りにする。更に赤い血潮を湧き立たせ、地下の景色に紅い花弁を散らして墜落した。

 小さく刃先をふるって血を払った。次はあるかと振り向けば、屋根に伏して痙攣している。鋭敏な感覚器官を総動員し、精細に相手の予備動作を捉む優太だからこそいなせたものの、相手の狂気は絶対の死へ導く猶予すら延長させた。あと少し攻撃が出遅れていたならば、血で屋根を汚すのは自分だっただろう。

 鼻先を掠めた死の臭いに息を吐き、納刀して遠景に移る鉄色の塊を見据えた。【鵺】の初陣、襲撃は全滅させた今、今度は彼等の能力が知れる。今から合流を図るよりも、悠然と観察に徹して体力回復もすべきか。

 瓦礫の崩れる音、屋根を伝う流血に激しく手を付く音。

 優太が振り返った刹那、轟然と肉薄する鳥影と人影。


「まだ――」

「終わってない!」


 起死回生の一撃。

 瀕死の戦士が奮い立ち、その叱咤が優太の耳朶を打った。




  ×       ×       ×



 高速で通過する拳固と翼に、身を屈めて回避した。勢い止まず、対岸の建物に激突した後ろ姿を見遣って、優太は頬に滲んだ冷や汗を拭う。

 壁面に沈んでいた体を起こし、奇襲に失敗した二名の顔が歪む。

 闇人の身体能力は、人間の範疇を出ない。ただ、生来から耳目敏く、機敏な体捌きで動く生態を持ちながら、それを余念無く鍛練でより研ぎ澄ました――それでも、ただの人族。

 氣術や邪氣、それらの特異要素が優太の存在を際立たせるが、これを封じれば素早いだけに過ぎない。貧民街に寄生する人間を盾に裏から闇討ちをすれば他愛ない、そう甘く観ていた。

 仕込み杖から放たれる高速且つ正確な剣術。それらを成立させ、外的攻撃を躱しながら相手には必殺必滅、不可避の一刀を揮う。これほど桁違いに殺人に特化した化け物はいない。

 二人の墜ちた街路を眺め回し、人民の立ち位置を把握する。騒音を聞き付け、静かにだが集り始めた。これでは氣道・建御雷神を使用しての制圧は被害が甚大となる。二人の身体能力から推察するに、尋常な勝負に臨めば周囲の建造物や一般人の保護、騒音は免れない。

 狙うは急所、より迅速に狩る。為すべき事はいつも変わらない。

 ――頸部か、脳の撹拌……だな。

 冷酷な判断を下した優太は、建物の上から軒木の隙間に手を差し込み、垂れた体の揺れが収まってから降りた。対敵が魔族の如き者なら、急所を数箇所だけ損傷させ、それでもまだ生命力を滾らせるなら邪氣で処理する。

 石畳を草履で擦る跫すらさせず、しかし俊敏に奔り、彼等へと迫る。闇人の本質を受け容れ、もはや外敵屠殺に微塵も躊躇を覚えぬ優太は、敵側にとって災厄。

 飜の肩口にあった傷は、ゆっくりと治癒している。鷹人族の羽根には、治癒の『加護』が付与されており、戦乱では戦傷を癒す神の使徒とさえ謳われた。しかし、その効能に戦役としての価値を見出した赤髭や各地の部族に狩られ、翼を奪われて絶滅寸前に陥ったのである。

 飜自身は氣道・建御雷神の直撃に耐えられたのは奇跡ではあったと思ったし、再生力が普段よりも遅効である事に警戒心をより掻き立てられた。相手には『加護』の持つ強力な回復力すら阻害する猛毒がある。より注意しなくてはならないと、翼を広げて構えた。

 呀屡の右腕もまた、断面の肉が奇怪に蠕動して肘を形成し、前腕を成す。人族には有り得ぬ再生力である。

 呀屡はただの人間ではない。かと言い、魔族や竜族の如き生命力の強い種族にも該当しないのだ。彼等の出身は、云わば魔物――厳密に追及すれば、魔物と人の混血――半妖。それも、(オグレス)が強引に生殖相手として求めた女性を親とする出身。

 北の迷宮に生息する鬼に襲われた女性の胎内から吐き出された呀屡は、暫くして冒険者に拾われた後、付近で子供を引き取っていた孤児院に引き取られたのが経緯である。

 人と魔物の中間的存在、魔族と同視されてしまう傾向があるが、彼等と区別するにあたって重要とされるのは“母胎に居た期間”。

 鳥族や魔族、大概の種族は三ヶ月以上の長期間を母の体内に保護される。魔族自体は起源が魔物と人の間だが、母体の中で容を形成するのに十ヶ月を要する。

 対して、半妖と区別される呀屡達。魔物の種を孕まされた母胎で、二ヶ月以内に出産された場合が該当する。寿命は人と変わらねど、定期的に人肉を摂取しなくては生命活動の維持が困難とされる生体から、醜悪な生物と卑下された。

 呀屡は取り戻した腕を動かし、神経の具合を確かめる。細胞が記憶した通り、筋肉も鍛え上げられた状態で再生していた。それでも、未だ安心できる状態ではない。

 接近する死神の気配を漠然とながら、しかし犇々と身に感じた飜と呀屡の総身が武者震いをした。獣じみた五感を有する闇人に、奇襲は事前に感知されて無意味となる。あの反射神経では出し抜く事すら至難の業。

 行動速度は無駄を徹底的に省いた体術を含め、飜と互角以上。膂力ではどちらにも勝らぬが、補っても有り剰る剣術に致命傷は必至。曾て無い難敵、世界を恐懼で震駭させた刺客の遺産。

 路地裏の闇から、闇色の焔で象られた矢が飛来する。飜は辛うじて上昇して避けたが、呀屡は肩を深く抉られた。傷口から体内の氣を大量に削り取られる感覚に呻く。

「八咫烏の方が疾い」優太の言が闇で響く。

 高所で旋回した飜は、横合いから宙を滑空して迫撃する屋根の瓦礫の雨に慄然とする。氣術で操作され、弾丸と化した物体が横合いから鷹を撃墜した。再び建物の壁に打ち据えられ、更に乱射される瓦礫の砲弾で押し潰される。

 仲間の窮状に顔を上げた呀屡だったが、その横では既に路地裏に蟠る陰気から躍り出た優太が接近していた。気配すらさせずに馳せ、その晒された喉へ一閃する。

 呀屡は視界の隅に閃いた刃に寸前で気取り、慌てて面前に交差させた両腕で庇う。鬼の頑強さを継承しており、ただの刀剣では断てない。

 優太の仕込自体は、『不屈(おれない)』という『加護』が付加されているのみで、それ以外は単なる業物の剣。然れど振り方次第では鉄すら断つ、成立条件は扱う者の手練にのみ託される。

 両腕を刈り、流水を刃先で斬るが如く何の抵抗力すら優太の手元に呈さず、喉へと到達させた。鍛冶の打つ刀剣を、真に最強の武具たらしめるのは遣い手次第である。

 命脈を断つべく趨る秋水の閃きに、呀屡は死の瞬間を確信する。防御体勢になりながら、反射的に回避を選んだ上体が反り身になったのが幸いし、顎先の肉に裂傷を負う程度に収まった。

 腕を損失した呀屡が踏鞴を踏むと、空かさず優太の剣閃は右膝を切断する。支えを失って地面に転倒する前に、眼窩に刃を突き立てて脳組織の破壊を試みた優太は、頭上の建物の壁面が爆ぜた事に手を止める。

 新たに形成された孔の中から、瓦礫を突き飛ばし、飜は急降下して優太へ翼を叩き付けながら、呀屡を両腕に抱えて離脱しようとした。いざ右翼の殴打を喰らわせんとした時、相手の指先に長三尺の光線が出現した。彼の虚空を斬る様な手先の動作に合わせ、中途で途切れた一条の光を閃かせた峰打ちで羽翼を焼き斬る。

 空気抵抗を自在に操る事で飛行を可能にした種族、その生命線ともなる翼を片方でも奪われてしまえば、その失墜は必然。猛然と地面と衝突して転がる衝撃から飜は呀屡を抱いて庇った。

 優太の指先からは、氣巧剣の光の刀身が出現している。しかし、そこに媒体となる把は無い。

 これは、優太が独自に開発した氣術の応用――氣展法である。媒体を必要とせず、その場に圧縮した氣を想像と操作技術を以て形状を授け、様々な現象を引き起こす魔法や呪術への対抗とした特技。

 把を指先と決定し、高圧な氣を集束させて長短、大小の云々を変える。氣展法が困難とされるのは、集中力――その力場を常時固定し、意識下にある限り形状保持と効果を持続、この過程をすべて滞りなく遂行しなくてはならない。

 一つでも支障を来せば発動しないのである。氣術師では誰もが為し得ない行程を、優太は実現化し遂せた。

 今になれば、師が幼き優太へ氣術師の異称を“仙人”と伝えたのは、氣術師が『仙術』を体得する位階に到達する唯一の要素を持ち合わせていたからなのである。完全な“仙人”となったのは、暁のみ。実際に氣術の基本しか学んではいなかった優太は、日々の鍛練でその段階へと近づいていた。


「存外にしぶとい」


 優太が悪態をついて見る先。

 片翼を損傷した飜に起こされ、呀屡が憤怒の眼差しを敵へ向ける。身体能力の差異では、圧倒的に此方が有利。その状況を覆し、常に戦局を支配するのは優太の精細な戦技。

 二対一の利点を全く活用させない。種族の恩恵が無ければ、二人は屋根の上で既に戦死していた。ここまでの経緯で加えるなら、幾度も死に果てている。


「容赦無い……ぼくらを本気で消す積もりか!」

「情報通りだぜ。美しいモンほど毒があるわ」

「……悔しいけど、一旦退こう」

「そだな」


 飜を担ぎ、呀屡の全身が電気を纏う。

 背を向けて街路を疾駆した。地下街を出るまでは安心など出来ない、闇人の刃圏は広範囲にまで及ぶ。今の自分達では勝てない、しかし次こそは。

 優太は彼等の後ろ姿を見ながら、納刀して杖を腰の後ろに差す。討ち損じた事について、二人は後々の脅威となり得る懸念を抱えつつ、夬の捕縛に向かった三人の成り行きを見守る。

 優太が地下街の天井を見上げて立ち尽くす路地、石畳の敷き詰めた隙間から音も無く泥が滲み出した。黒く、時に紅い燐光を帯びて溢れる。次第に地面に薄い膜を張ると、水面には蠢く数多の人相。

 闇人が常に五感で知覚するのは、不確かな神懸かりや魂という形而上の物でなく、実体を持つ物体が提示し空間へと作用する物理現象のみである。それら以外を覚るには、己の中に有る特殊な力のみ。

 しかし、仮に体内に保有する物と同類の物が吹き出た場合、混ざり合い、溶け合う感覚か、或いは馴染み深いという危機感と警戒心を刺激しない 事象がある。即ち、今この路地を包まんとする奔流は、優太の中に在るモノと同質。

 だからこそ、反応が遅れた。

 優太は足首に蟻走感を覚えて見下ろす。邪悪な意思が澱みを作る中に、いつしか立っている。踝まで浸す水嵩、浸かっている部位を決して離さぬ抵抗力があった。


「これは……邪氣?いや、僕の力じゃない……!」


 泥の一部が細い腕を形成し、優太の顔へと手を伸ばす。次第に水底から起き上がる魔の如く、水面を破って肩部や頭部が生まれ、余計な泥を排した部分に人の鼻梁までもが完成されていく。

 爛れた肉の様に崩れた表情は、歪すぎる笑顔だった。優太は心底から凍てつかせる恐怖、そして体内に肉の隔たりを容易に越えて流れ込む汚物と、自分の肉体の親和性が酷く心地良い事に、更なる嫌悪感を催された。

 優太は邪氣の手を生成し、側にあった建物の屋根の一劃を摑んだ。伸縮を自在にした己が腕の延長を巧みに操作し、確りと捕らえた屋根の上に()()()()()()()()

 泥の中から引き抜かれ、優太は屋根の上に膝を付くと、体の中を這いずるモノの感覚に眉を顰めた。僅かではあるが、あの泥が入ったのだ。

 振り向いた少年を呑み込まんと、泥は更に路地に溢れ出す。石畳の上の総量が厖大となって優太を捕まえ損ねた肱は、より太く長大になって襲い掛かる。一軒を覆い尽くす様な掌を見上げ、優太は真っ先に隣の家屋へと跳び移った。

 数瞬の後に破砕され、過去位置は無惨な瓦礫となって泥に沈殿して行く。僅かでも移動を迷っていたなら、今度こそ脱出不可能な深度へと引き摺り込まれていた。

 水面に浮かぶ歪んだ笑みに、優太は身構える。


『おいで……――――!』





  ×       ×       ×



 夬を追跡する足は、既に天井扉へ続く階段前に突入していた。一段目を固める警衛の兵士達により、一般人すら不用意に近付く事を許されない。元より地上から追いやられた群衆の住処であり、日の光を浴びる事はあまり無い。

 往来が無いからこそ、現状では階段に迫る者の素性が知れてしまう。しかし、終戦から一月以上が経ち、長槍によって武装した警備も鎧の下に強い警戒心は無く、阿吽夬の護衛という重責を担いながらも心構えは不相応。早々に任を解かれて後日の予定に思い馳せる。

 夬の側にありながらの警備意識の低さ、だからこそ、急襲に弱体化した警衛など、手練の刺客である眞菜と西吾にとって、環を崩し突破するなど造作も無い。何よりも、遠距離からの心強い掩護がある現在は、より迅速に夬に辿り着ける。

 飛来する黒曜石の鏃は、甲冑で固めた衛兵の身体を隙間から射抜く。正確無比の射撃は、次々と警備の足を挫かせ、肘を貫いた。無力化を第一にした一射は、凶悪でありながらも未だ迷いが見られる。

 段差を駆け上がる二人は、頭上から敢然と武器を執って迫り来る警衛を撃破した。二人の特異な能力に翻弄、或いは即殺されて進撃を一秒たりと阻止し得た者は居ない。恐らく、この事態を既に頂上にいる夬も承知しただろう。

 それでも、この高所に退路は階段のみ。刺客によって封鎖され、更に外部からは凄腕の弓使いで安全の一切が奪われた。【鵺】の襲来は予期していた、それ故に地下街に配置した奇襲部隊だったが、足止めにすら効かなかったのだ。

 警衛を蹴散らした眞菜と西吾は、もう既に目前まで迫っている。


「眞菜、先に忠告するが殺すな。主命に背くべからず」

「わかってる」


 段差を上る二人の頭上で、扉が開き始めた。

 まだ拡張作業の途中であるが、夬のみでも逃す計らいであろうと踏み、二人は更に加速する。背後では主が単身で襲撃の行く手を阻み、自分達に本命を任せた今、任務遂行を失敗させるのは忸怩たる失態。

 響花の契約呪術を解除する為に必須とされる重要な情報源、口を割らずとも『天眼通』で解明ができる。その身柄を最低限でも()()()()()()()()()()()で捕獲し、主に引き渡せば良いのだ。

 障害物を薙ぎ倒し、猛進する二人の姿を見下ろし、夬は戦慄していた。扉が一人のみ通過できる隙間を設けた途端、直ぐ様滑り込もうと駆け寄るが、その瞬間に足首に矢が突き刺さった。

 しかし、ただの射撃ではなかった。威力として、足首の肉を刎ね飛ばし、それでもなお勢い止まず壁を抉る。明らかに風の魔法を付加した一撃であり、夬は支えを失い堪らず転倒する。

 サミの位置からでは、階段の最上段を狙撃するのは困難。距離も高度も勘案して、幾ら調整しても射程圏内に収める事は不可能。

 時間魔法による事象の加速――敵の目視、そして防御をすり抜けて撃つ高速化。風魔法による距離の延長――気流操作と推進力増強による射程圏内の拡大。二種の魔法を同時に操るのは魔導師でも難しいが、一方が身の一部も同然の『加護』となれば当人には片手間でも行える。後は本人の技量次第。

 自らが放った矢の命中を見届け、サミは思わず歓喜に胸前で拳を握った。以前よりも魔法の応用力が上達した、その確信がある。闇精族の里を離れた数日間、主にゼーダや眞菜の助言や優太との実践訓練が大いに己の技術を飛躍させていた。

 発揮される物が敵、それも憎むべき仇ともなれば命中の爽快感は鍛練時と比するまでもない。最悪、生きていれば良いとなれば、四肢を千切ろうが目を潰そうが、心臓の鼓動さえあれば問題無い。

 続く第二射を衛兵へ、狙い澄ました一矢を放たんとした時、屋根を擦る音に振り返りながら鏃を突き出した。翻身の先に在ったのは、意識を復調した少年であり、突き付けられた矢に怯えている。

 サミは弓矢を下ろした。


「あ、えと、あ……?」

「邪魔をするな、其処で大人しくしていろ。我々は今、阿吽夬を捕縛する為に交戦中だ」

「え!あの野郎を……!?ちょっと待てよ、姐さん達は何者だ!?」

「喧しい。貴様を保護したのは、奴を取り逃した場合、夬の所在や内情に関する情報を得る為だ」


 細く鏃を研いだ物を使用した二射目、衛兵の鎖帷子の隙間を(とお)した。夬の動きを封じる為の射擊を楯で凌がれては無意味となる。徒に本命を狙うよりも先に、その防護を剥落させるのが先決。大抵の護衛が階段に集中している今、サミにとって狙い撃つ事は然して難しくない。

 天井扉前の階段で起こる騒乱を遠景に見る少年は、感嘆の吐息を漏らす。恐らく複数名での実行、見た事の無い珍しき種族の少女は、自分の保護とあの夬の狙撃を兼任しているのだと直ぐ了解した。

 紛れもなく、彼等が夬に敵対していると判る。


「な、なぁ!俺も協力させてくれよ!」

「何をだ?」

「俺の姉ちゃんが、アイツの屋敷に捕らわれてんだ!俺の持つ情報なら幾らでも渡す!だから……」

「……姉の為、か。成る程、彼奴が外道であると益々心得た。後で私が闇人に仲介しよう」

「ヤミビト……?」

「私達の頭目みたいなものだ、お前を保護する一存も闇人だから……まあ、感謝しておけ。名を訊こう」

「此所いらでは泥吉だ!信用してる奴にしか本名は明かさねぇ!」

「それはまた……不思議な通称だな。私はサミだ」


 次なる一弾を番えながら応えたサミは、不意に階段下の物陰に蠢く物に手を止めた。一瞬は視界の隅に過る物体が与えた錯覚かと思ったが、次第に家屋の影を飲み込み、肥大化して瞭然と変化が判る程に違和感は確信へ成長する。

 眞菜達の駆け上がる段差を、下から黒い泥が這い上がって行く。目を凝らせば、泥の波頭とも言うべき先端部分は、段差を摑んで身体を持ち上げる様に人の腕の形をしていた。

 優太の邪氣に酷似した何かの集合体、けれど禍々しさはそれを遥かに凌駕する。地下街に蔓延る奴隷の怨嗟や呪詛を収束させた力なのか。夬の衛兵をまた一人、射抜いてから泥の根源を辿って視線を奔らせる。

 背後から轟く音に後ろを顧みると、街の一劃では泥が巨人を形成し、建物を破壊していた。その下では、屋根上を跳んで駆ける優太が居る。闇人の力が暴走した訳でも無く、彼とは全く別の力。

 次いですぐ傍に居る泥吉の悲鳴。素早く振り向くと、闇に紛れて軒を越えた泥が寸前まで迫っていた。泥吉が屋根の一部を手で剥がした物で叩くが、微かに鈍く重い飛沫を上げるだけで全く進行を阻む効果はない。

 サミは泥吉をに担ぎ、屋根の際に立って下を見下ろす。路地にまで泥は満たされていない。泥の手に捕まる前に退避する必要がある。

 屋根から飛び降り、路地裏の道を疾走した。眞菜達も気付いているかは判らないが、兎も角優太すら動けぬ今、この未知の襲撃を自分で凌がなければならない。


「泥吉、しっかり捕まっていろ!」

「お、おう!」



 階段の警衛を制圧し、足首を断たれた夬に辿り着いた眞菜と西吾だった。接近すれば、鉄色の塊は夥しき鎖の束縛によって封じられた竜族。所々に杭を打たれて苦しんでいた。夬の止血を施した後、両手を縄で堅く縛る。

 上げさせた夬の面前で手を振って虚空に奇妙な模様を描くと、西吾が小さく唱えた。


「支配呪術《幻縛》。――これで良いだろう」


 西東が呪術に嵌め、夬の感覚を奪った。これで移動や尋問までの間、暴れる事は無いだろう。

 ふと、眞菜は敵の追手を確認して振り返ったところで、その泥の波に気付いた。音も無く、しかし傾斜に逆らい這い上がる物が、本能的に二人を警戒させる。

 既に階段下も埋め尽くされ、人の顔らしき物を模した島が浮かんでいた。退路は無い、いや、ひとつあるとすれば天井扉。

 頭上で大きく乾いた音が鳴る。仰ぎ見ると、天井扉の稼働部まで泥が覆って侵食していた。これでは十全に開かない、人力でも可動域が広げられるか。


「扉を破壊するまでだ」

「どうする……?」

「拵える。眞菜……奴を解き放て」


 眞菜は肯いて、夬の血液や衛兵の体液を氣道・熯速日神で刃の如く鋭い高圧噴射を繰り返し、鎖を切断して行く。泥の勢いは鈍重、退路は無いが逃亡の算段を考案する時間はある。何より、発案が早ければそれは用意の時間に転じる。

 西吾が杙を引き抜くと、両翼を拡げた竜族(ドラゴン)が起き、尻尾で階段を一薙ぎした。段差の一部を平坦な地面に変え、振り落とされた衛兵は泥へと落下する。

 西吾は竜族の前に立った。彼等は呪術の効かない体質ゆえに、説得以外に協力を乞う手段は存在しない。獰猛な怪物を相手に覚悟を決し、西吾は声を張り上げた。


「竜族、解放した公館条件とし、今から一つ協力を願いたい!」

『条件はする前から約する物だろう?』

「今は時間が惜しい、お前も死ぬぞ。背後から迫る泥から逃れるには、お前の力で天井扉を破壊して貰わねばならない」


 竜族が振り返ると、其所に段差を呑み込んで進む黒々とした汚泥。時折微弱な紅い光を放つ漆の様な物に目を眇めて、嘆息した。

 現状、体格の所為もあって階段から離れるにしても泥に触れるのは必定。外貌からしても、接触すれば害以外に何ら考えられぬ闇の塊を前に、己の矜持も立場も意味を為さない。


『ならば、交換条件は……其処の外道に囚われた姫を救って貰いたい』

「事情は後に聞くが、心得た。――頼む!」


 首を擡げた竜族は、鉄色の全身に光を纏い始める。拡げられた翼の下へ夬を移動させ、其所に屈み込んだ二人が頭上を睨んだ。


『備えたか?』

「やってくれ」

「ぉ……ぃします」


 目映い銀光が階段の最上段を埋め尽くす。






アクセスして頂き、誠に有り難うございます。

響花の契約呪術・解除に取り組んでいる一行ですが、これはまだ中盤ですね。自分でも何話で五章が完結するかも想定出来ません。

終着点は見えているので、そこまでをゆっくり書いて行こうと思います。


この一週間、寒くて雪が降るなんて地方もあるそうなので、皆さんも暖かくして下さい!


次回も宜しくお願い致します。



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