表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
森出身で世間知らずな少年の世界革命  作者: スタミナ0
五章:優太と道行きの麋──上
224/302

眼球の胎動/夬の悪辣な陥穽



 響花を左脇に抱えたまま、優太は片膝を地面に突いた。氣術による気配感知を中断した途端に、身を潜めていた伏兵による一刀を受けた。

 先んじて敵する者の臭いを嗅ぎ取った。回避に移ろうとしたが、身体は意思通りには働かぬほど体力を消耗しており、足が縺れた隙に受けた。普段ならば痛痒にもならない負傷だが、不覚の一撃は精神的にも摩耗した優太には痛打である。

 全身に付着した血が黒く変色して乾燥し、摑んだ刃物の柄も膚に貼り付いてしまっていた。呼吸は荒く、もう戦闘行為を続行すること能わぬのは自明の理。響花を拉致した魔物を斬り伏せた時点で、限界寸前まで自身を研ぎ澄まし、感覚を統御していた緊張の糸が破断した。

 破損した刀で体勢を整えるのも難しく、苦し気に面を上げた優太の鼻先に、小太刀の鋒が翳される。見えずとも迫力を犇と身に感じ、響花を庇って左半身を後ろに引く。

 元より視覚が封じられ、苛烈な戦闘で五感が薄れた今、前に居る相手の正体が人間か、それとも人為らざる者かも判別できない。至近距離に凶器が抜き身の状態で突き付けられている現状、遁れられず、防ぐ事も叶わず、眉間から脳を貫通する惨殺された己の情景だけが鮮明に思い描ける。曾て無い死への確信が優太の中に芽生えた。

 小太刀を携えたその死の正体――老人は襟巻きで匿した口許に微かな笑みを浮かべ、鋒を退けて鞘に納めた。足下の血溜まりを一瞥すると、両の拳を握り込み、腰を低くして構える。

 納刀の音を訝って優太が立ち上がった刹那、正確且つ強烈な拳打が腹部を命中した。唸りを上げた渾身の一撃が腹腔の空気を伝播し、五臓六腑を激しく震撼させる。先刻受けた刀傷も余響で間歇的に飛沫となって少量の血が噴き出た。

 吐血の間も無く、拳を打ち込まれて数秒後、氣術による斥力を受けたかの如く、体は後方へと衝撃で吹き飛んだ。響花を胸に抱き、血の水面に水柱を立てて落ちた。自身が殺めた敵の臓物が浮上する池で苦しさに(もが)く。

 呼吸が出来ない、体内を刃物で撹拌されたかのような激痛と熱を感じて、優太が声無き悲鳴を上げる。体感して理解した、たとえ盤石の体制で臨んだとしても、相手は自分よりも格上の武人。

 老人は腰の後ろで手を組み、苦悶する優太の様を朗らかな笑みで眺めた。面貌に加齢で増えた皺の柔和な線が描かれ、笑顔は穏やかな雰囲気を持つ反面で狂気を孕んでいる。

 血の水面を騒がせる少年から視線を外し、背を向けて生存した鉄笠の黒鎧を率いて歩き出す。渋々と後続する盗賊や傭兵は、時折振り返って下卑た笑顔である。

 老人は去り際に背後へ言い放った。


「娘の奪還を遣り遂げたと、思っておるのか?」


 血の池から岩の上に避難した優太は、明滅する意識で相手の声を拾う。無防備な所に喰らった一撃の重さ、未だ本気では無い。加えて、何よりも優太の気を引いたのは、人体を内部から破壊する流儀――仁那と酷似した拳法だった。

 折れた刀一振りで、再び背後から斬り掛からんとする優太の腕を、冷たい手が握る。感触に驚いて振り向き様に突き刺す寸前で、それが意識を取り戻した響花と知って停止した。

 攻撃体勢に入った優太の体が再び苦鳴を上げる。先程の拳撃の効果と“眼球の胎動”が重なり、血反吐を池に吐いて倒れた。


「その娘、呪いをかけた。契約呪術とかいう、仲間の技だ。他の呪術師には解けん」


 契約呪術――一度だけ身を以て経験した優太だからこそ判る。南方諸島原住民族(ニクテス)の秘技であり、両者の合意の下で発動し、仮に条約に反する行為を働いた場合、遅効性の毒など契約内容によって多彩に致命の効果を発揮する。優太の場合は、違反の場合に即刻の死だった。

 敵勢に強力無比な呪術師の一族がいる。強力な剣術と拳法の老人、闇人の天敵でも極めて危険な呪術師の手練(てだれ)……優太には難敵ばかりだ。冷たい汗が頬を伝い、戦慄(おのの)いている優太の様子を見ずに悟って老人が笑った。


「子供を拉致して暫し後、その娘には『矛剴と我々の双方が害する事無く交渉する為の人質となる』、此で契約した」

「…………ッ!」

「無論、儂等にそんな気は毛頭無い。契約後に直ぐ眠って貰い、後は追手を少し待つだけ。奴等は勝手に此方の手勢を攻める動き……これで簡単に娘の契約違反が成立する」


 子供を庇うべく、身を挺して契約呪術を代行して受けた響花の良心を逆手に取って、優太への人質とした策謀であった。山村の育ちである彼女には、戦場に跋扈する詐術などを見抜く素養までは備わっておらず、結果として見事に彼等の策は完成している。

 優太は錯乱しそうな精神を努めて切れる寸前の意識で制御し、響花の手を握りながら耐えた。内容が理解(わか)らない、それでも此方の不利を告げる事に相違無い。今追わねば、後の劣勢を招くだろう。

 瞼の下で暴走する眼球との軋轢に喘ぎ、優太は脚から脱力して池に浸かる。胴の傷口が発する熱がより増して、正常な判断を下せる冷静さが奪われていく。

 老人の隣に居る人物は、手に提げた樫の長杖を優太へ差し向けて、小さく何事かを囁いた。虚空に仄かに光を帯びた線で描かれる幾何学模様――魔方陣が展開し、湾曲し渦の模様を模した先端と触れると、大気を温めて火の球体が発生する。小さく振ると同時に射出されら進行方向に在る物体を薙ぎ掃い直進した。

 氣の波動を感知し、優太は氣術で火の弾丸の氣流を操作し、空中で霧散させた。魔法とは、体内の然るべき氣の流動と量、そして言葉で体外に放出して形を固定化し発動する技。凡ての氣術師は大気にある氣であるなら、喩え他人から放たれた魔法であろうと操作可能である。

 尤も、氣術には魔法よりも集中力が要る。疼痛に苦しむ優太は、敵の攻撃を消滅させた後に再び倒れ、魔導師が感嘆の息を漏らす。


「そこな娘は、十曜後の日に息絶える。救いたくば、諢壬へ来い。手法は戦争、降伏……どちらでも構わん。待っているぞ」


 老人達の気配が完全に途絶えた。

 それからの優太の意識は朧気で、最後に合流した仲間に響花を預けた後からの記憶は無い。強敵と相見えた後の疲労で休みたいのは山々だったが、優太としては気絶も睡眠も忌避していた。

 また“あの夢”――響とは別に内在する“何か”との会話を拒んだ。眠ればまた会う、そんな予感に厭うていた筈だったが、優太が歯を食い縛って耐える間もなく、僅かに緊張の糸が緩んだ瞬間に眠ってしまった。






  ×       ×       ×



 優太が意識を失った二日間で、矛剴は混乱した。闇人の住居を襲撃した外部の手際から、内部に間諜が居る事は誰もが容易に推察した。

 容疑者としてゼーダ、優太が指された。煌人の弁解と響花や子供からの事情聴取を経て疑惑は晴れたが、中でも優太への悪印象は変わらない。

 闇精族のサミから受けた報告内容に皆が顔を顰めた。異端とはいえ、矛剴の人間二人を道具然にし、戦死した彼等の遺骨すら持ち帰ろうとすらしなかった冷淡な人物であると巷に広まる。

 故に、優太を皆が先代闇人に衍い――“悪鬼”と密かに呼んだ。本人が知れば、寧ろ喜んだ事であろう。師の暁を敬愛する優太からすれば、それは得難かった称号の如きものである。

 到頭、容疑者の追及は続いている。一族の強固な絆を信じて疑わなかった彼等に、初めて同族を懐疑的に見る視線が生まれた。里の空気は殺伐として、以前にも増して森の空気は冷たくなり、皆が安心して眠れぬ夜を過ごす。

 双頭や眞菜、これら外様の人間の存在は煌人と闇人の住居滞在中の人間以外は認知しておらず、誰も口上にしていないが、犯人もまた彼等ではない。思う所があって、ゼーダが煌人に協力して捜査に参加している。

 三日目となる朝、優太が目覚めてすぐに判る範囲の敵の情報を開示した。敵の本陣は、此所より近い東方辺境の諢壬である。罠の可能性を危惧し、先に窺見(うかみ)を放って報告を待つ。

 そうして、響花の余命四日にして、矛剴はまたしても変化を迫られていた。

 

 曙光に白む空の下、優太は桟敷で瞑想する。

 隣では寝惚け眼の響花が身を寄せて、肩に寄り掛かっていた。寝台から持って来た上掛けを羽織り、優太と自分を包んだ。体温を互いに感じ合う距離で、彼の手を握る響花だったが、相手から握り返したり顔を向けるなどの反応は一切無い。

 この一ヶ月の生活の内で、響花は子供に慈悲深く、怨敵としていた矛剴にも真剣に向き合い、仲間を裏切らぬ彼の姿勢に、本当の信頼を向けていた。

 優太が少し顔を巡らせると、双頭と眞菜とサミの三人が小屋を出て来た。起床した彼等は、桟敷を振り仰いで一礼、或いは手を振り、そして睨め上げるといった其々の挨拶をしてから、井戸に向けて杣道を歩く。

 響花が苦笑してから上掛けの中から出て、三人の後を追った。その背を肩越しに振り向いて、暫く音が遠ざかるのを聞いていた。

 響花奪還の戦闘から二日が経過し、漸く覚醒した彼は微睡む意識でも、決して瞼を開けない。全員が心配する中で傷も癒えたので特に問題は無く、体調を懸念する響花を安心させるべく一日中は軽い体操と運動のみで過ごした。

 六日目にして、眼球の胎動は未だ続いているが、それでも初日と比較して、発作的に起こる激痛などの症状も無い。具合を見ると、『千里眼』は完成は要一日である。

 療養中とあり、響花による行動制限が厳格化した事で、優太の修練は専ら氣術となった。縢と瀧、そして仂から伝授された鍛練法を実践し、己の氣術を基礎から叩き上げた。

 しかし、彼女の目を盗んでは、優太は双頭や眞菜、サミを伴って森で武術の調練も行い、満遍無く自前の技術を磨く。復調した状態でも、諢壬に座する敵の実力には太刀打ちできない。より練り上げる必要性を痛感した。

 仕込み杖の抜刀術、居合術の練磨も欠かさず、寧ろ夜半には双頭の複製する分身を相手に実行したが、これを悪戯で起きていた子供に出て行くのを見咎められており、響花の耳にはすぐ届く事となった。

 まだ開眼への調整で不安定な体を追い込む作業に対し、響花から説教を受ける優太だったが、改善の意は無く、また繕わず顔に反省の色も窺わせない事から修行の中断は無いとゼーダは察している。

 立会人としてゼーダが付き添う事で響花も渋々と認めた。本来ならば、彼女こそ契約呪術の呪縛があって不安に震えても可笑しくは無いが、そんな気配を他人には見せなかった。しかし、夜中に優太の自室を訪れ、これまで三度も塒を共有した。

 気丈に振る舞う響花の精神状態は、裏では絶命の宣告による恐怖で軋んでいた。心中を察しているからこそ、彼女には大変世話になった優太、双頭と眞菜、この数日間を不慣れな生活の中で彼女に支えられたサミは漫然と日々を過ごさず、其々の技術を昇華する独自の特訓に励んだ。

 必ず契約呪術を解除させる――矛剴殲滅の意向に変更は無く、されど優太は白印の影響を受けない貴重な存在である響花と、里に居る何名かを把握して生き(なが)らえさせる心積もりである。純血に拘泥する同族を無慈悲に根絶させる前に、響花を救わなくてはならない。

 煌人が放った諢壬の窺見の報告に依るが、基本的な部隊構成は優太、サミ、双頭、眞菜の四名である。敵勢が有する強者に対抗するには、現存する面子で最たる実力者を連ねる事が必須条件。ゼーダは手薄となる闇人の住居、子供や響花の警護として宛てる所存である。

 着々と下準備を済ませ、計略を組み立てる優太の脳内は、やはり不穏当であった。以前ならば全員の生還を第一とした案を念頭に置いた思考回路は、今や冷徹に敵を討つ為の犠牲を問わない方向で機能している。

 生活の節々にそれらは顕著になっており、戦法の指南役を担うゼーダは、優太の発想などを耳にして、内に潜む冷酷さに心底から戦いていた。少し離れていた間に、劇的な変化を果たしたのは容貌のみではないと悲痛に感じている。

 優太も薄々その感情を読み取っており、いつか見た夢と、響花の契約呪術の事案を考えて、暗鬱な胸中の蟠りに苦い顔をした。だが、それを嘆く事は決してない。己の最善を尽くしているだけであり、悲しむべきなのは矛剴の惨状だろう。

 桟敷を軋ませる足音に振り向く。

 気配の探知に反応しないのなら、里の氣術師である。ゼーダは小屋で子供達と眠っている、ならば現状では優太以外にその芸当が可能なのは里の矛剴であるのは必然。


「何の用ですか?」

「当主様からの召集だ、貴様も来い」

「判った」


 十二支『辰』の康生に答えた。

 優太は傍に置いていた杖を手にし、腰帯に差して段差を降りる。煌人の召集とあらば、例の件以外に話題は無い。敵陣への偵察が成功したなら重畳、後は具体的な作戦を練って抹殺する。

 下では帰って来た響花が待機しており、優太へと水で満たした桶に浸からせた手拭いを差し出す。優太は顔を拭って清めると、彼女へと返して骸取り草の方へ歩んだ。

 小屋からゼーダが現れ、隣へと合流して同行する。本人は朝から冴えぬ表情で、手足に抱き着く子供達を起こさず起床するのに骨が折れた作業だったのだろう。その労苦を知って、優太も静かに微笑んだ。

「優太、具合はどうだ?」ゼーダが静かに問う。

「良好だよ、これは良い」優太が目許に触れた。

 ゼーダは慄然とし、隣の少年から反射的に一歩を退く。優太の全身から、狼煙の如く濛々と立ち上がる邪氣の禍々しい放射に、身内でさえ警戒させる。

 案内として先導する康生は、振り向いた。

「この――悪鬼めが……」怨恨を込めて康生が独りでに呟く。

 優太は含み笑いを溢し、瞼の向こうで自分を蔑視する相手にも邪氣で威圧した。以前なら、こんな狂人じみた恐ろしさを感じる事はなかった。しかし、前回の襲撃者を統計しても多量の邪氣を吸収したのだ。優太が体内に保有する量は、訪問前とは比較にならぬ位階にあった。

 蓄積する程に、優太の人格が変容していく。行き着く先が如何なる極致であるか、ゼーダは愚か、康生や彼を良く知る人物、そして本人でさえ窺い知れないものであった。

 里まであと僅かの地点で、優太は立ち止まって左右へ邪氣の矢を連投する。突然にも行われた機敏な動きに、ゼーダが一驚して飛び退く。葉叢を掻き分け、樹上に上昇して消えてから数秒後、梢を騒々しく揺らして次々と黒装束の男が落下した。

 康生が小太刀を抜き放とうとして――聞き手が無い事に総毛が立つ。地面に落ちた自身の腕を踏み締め、抜き身の仕込の刃先に付着した僅かな血をふるって納刀する優太が居る。早業だからこそ、断面から出血が始まるのも数秒遅れてだった。

 腰帯に鞘を残したまま、優太は抜刀したのだ。腰の後ろに差した状態から、柄を逆手に摑んで剣閃を放つ。邪氣の矢を連射してから康生が翻身するまで一秒、その間で実行し遂せる攻撃ではない、いや卓越した戦闘技術を持つと矛剴分家の皆に言わしめる康生が不可能とする技。

 襲撃したのは、康生の部下である。彼らの独断ではなく、康生の意向に従っていた結果だった。無様にも弓で射掛ける直前に感知され、思わぬ逆襲を受けたのである。


「どうやって、我々の位置を捕捉した……!?」

「簡単だよ、僕は従来の氣術師の感知法を応用して、邪氣感知に特化した手法を編み出したのさ」


 体内の氣を総て邪氣で構成された闇人として独特の感知だった。魂を司るが故に、どんな生命にも微量だが含有されていて、如何に氣術で自然と一体化したとしても、個体を一つずつ判別してしまう。

 人類が叡知を幾代にも亘って磨き、発展させて来た隠匿の術理を無に帰す能力である。隠密では他の追随を許さぬ氣術師を暴き、容易く殺傷するとなれば、もはや手の付けられない正真正銘の怪物。

 康生の首が胴から滑り落ちた。

 優太は再び血振りをしてから納める。かちりと閉じた仕込は、杖として本性を隠した。ゼーダにすら見えない手捌き、少年が仕込を手にすれば、普く凡ての種族でも豪傑とされる戦士を列ねても、大概は首を刎ねられると言われても、荒唐無稽な話ではないと信じられる。


「案内人が死亡したが、どうする?」

「兄さんに報告するよ。僕に傷害の意図を持つ時点で、滞在時の契約を違反している。咎められるのは僕ではない」


 無感動に死体を横へ足で押し退け、優太は樹冠の麓に広がる草原の中を再び前進する。

 朝のまだ光届かぬ林間の暗黒に、少年の影がゆっくりと溶けていった。




  ×       ×       ×



 諢壬の地下には中央大陸分裂の時、即ち二国体制の黎明期に創設された裏街道があり、毎年恒例の奴隷商の祭典が行われていた。発祥としては、この地で祀る神への供物として生贄の人間が選出され、代わりに奴隷を献上する慣習があった。

 それ故に、大陸でも奴隷を特に購入する人間の多い諢壬では、自然と奴隷商が密集し、街道付近で盛んに商売を切り盛りしたのだ。しかし、約二十年前の大戦で、カルデラ当主の使者により奴隷商を全滅させられた過去があった。壊滅以降、地上での客寄せは危険と見なし、地下にて継続する体制が整い、地下街は反映している。

 祭典の日になり、地下街へと向かう人集りに紛れ、屋敷から少し離れた広間の隅にある井戸へと、阿吽一族当主の夬が身を投げ出す。

 井戸の壁に設置された凹凸に手を差し込み、下へと降りる。確かな足取りで降下して行くと、地中を掘って開拓した世界が拡がる。

 これは要人の為に作られた抜け穴であった。毎年、彼や地方から訪れる人物は、これを利用して人目を避けながら会場に参加するのである。地位ある者が奴隷を欲する理由など何ら不思議ではない。しかし、盗賊や政敵から使嗾されし刺客の目を避けるには好適であった。

 夬は塀から地下街道の様子を見詰め、機を見計らって絡繹に飛び込む。会場は街道の終端、天幕を張った大きな空間内部。

 今回の祭典に参加し、奴隷を購入するには見据える先の未来を確立する為の道具としてであった。辺境とはいえ、使用人も経済も充実している身分だが、飽く事無き欲の滾りが野望へと導く。

 夬は先日の拉致作戦の報告を受け、空身で帰還した部下に激昂したが、敵勢の闇人が存外強敵であるとの注進があり、相手からの攻撃を迎え撃つ軍備を調える必要性を感じたのだった。

 天幕の中へ入れば、仮面などを拵えて正体を隠匿する怪しげな者ばかり。夬も懐中の仮面を装着し、その一団に参加した。

 中央には広い円形の舞台が作られ、そこでは黒装束が盛大に声を上げて、次々と運ばれる奴隷商品を紹介する。入り口で配られた番号付の札を掲げ、競りを始める客も会場の熱で昂っている。

 夬は椅子に腰掛けて待った。

 奴隷は主に二種類に区別される。

 身売りの人類、そして捕獲された魔物。前者は特に世間では流通しており、昨今の労働力や生活を支える補助器となる。

 一方で後者は、入念な調教によって躾られた物から、未だ鉄杭で拘束しなければ暴走する個体まで分かれた。それでも、軍部としては有用な魔物が多く出品される場合があるのだ。

 夬は魔物の部門になるまで、黙々と人の手に渡って行く憐れな奴隷の姿を見届ける。それでも嗤嗤する事は無かった。今回の作戦が潰えたなら、新ベリオン皇国体制の要人、カルデラを中心に裁かれ、現在の地位からすら失脚し、奴隷となるのも免れない。

 前半が終了し、遂に魔物部門が開催される。

 夬も本腰を入れて、舞台の上に視線を注ぐ。

 次々と運ばれてくる商品、凶暴で屈強な魔物の割合が多かった。闇精族の里に嗾かけた時もそうだったが、人の行動が活発化した現今では人間の臭いに敏感な魔物も興奮する。人に従わぬ魔物の傾向もその影響だろう。

 人外を飼うには、相応の覚悟を要する。

 主人の喉元を噛み千切る狂犬を受け容れ、如何にその敵意を意図した方向へ差し向けるかは、飼い主の技量に託される。本来なら魔物など使役した経験の無い夬だが、今は懐に呪術師を招いていた。幸いにも、御せるだけの機械は備えている。

 幾つかの商品が過ぎた後、舞台上に巨大な魔物が現れた。

 重厚な鎖で縛られた巨体は、毛を逆立てた猫の如く隆起した鱗に包まれ、照明されて艶やかで鈍い鉄色の光沢に濡れる。下顎から前の胴、腕の内側や尻尾の下は茶色で、鱗の防備が無い皮膚とはいえ、その下で筋肉が憤怒に膨張していた。

 眇められた鳶色の瞳、一対の湾曲した山羊の黒い角、爬虫類の頭部に長い首と人の胴、太い尾の姿形を客が眺めて呼吸を忘れた。


「――竜族(ドラゴン)か……!」


 会場が歓声に満ちる。

 竜族とは、遥か高い山脈に生息する種族。天空を我が物とする支配者であり、神族に次いで神聖、或いは彼等に仇為す魔物よりも邪悪と見られ、下界の他種族を無差別に攻撃する事から魔物の近縁種と分類される。

 個体数は少ないが、中央大陸最強にして獰猛無比、数々の迷宮の最奥に潜む主の魔物は、大概が長寿の竜族である。年齢を重ねる毎に個体の強さは増していく、二千年以上も生きる種。

 体内には特別な器官――“始源炉”と呼ばれる物を保持している。外気の氣を吸収し貯蔵、任意の下で砲撃として発射する生態。

 これが熟練の冒険者を苦しめ、彼等の界隈では“竜の息吹き”と称される災厄の一種。優秀な魔導師を束ねても、その威には決して届かない。呪術も通じぬ特殊体質を持つからこそ、人類は彼等に悪戦苦闘を強いられてきたのである。

 そんな竜族が、何故に此所に居るのか。


『舐めるなよ、人間風情がァッ!!』


 古い東国の言葉で怒号する竜族。

 天幕の内包する空気がそれだけで歪み、圧力に主催者までもが失神していた。会場全体が自他共に圧倒的な強さを身を以て知る。

 体格からして、齢十八年とまだ若い。それでもこの威圧、仮に従えられたのなら、どれだけ心強い事か!

 ふと、竜族の足下で踞る少女を見咎めた。

 長い頭髪で目を角し、一重の貫頭衣に身を包んでいる。鉄の首輪が施されており、彼女もまた奴隷なのだ。

 夬は奇妙に思って立ち上がる。既に人の部門は終了しているのに、竜族に伴って舞台に居た。更には、人間を威嚇する彼が、時折だが足下を気遣う視線を投げ掛ける。

 事情を察した夬が札を上げる。誰もが手に余ると諦観した中で、唯一名乗り出た男に一同が騒めく。


「良いだろう、私が有効に使ってやる……」


 己の前途に光を見出だし、喜悦に歪む相貌で、夬は舞台の上に在る奴隷に目を光らせた。








アクセスして頂き、誠に有り難うございます。

忙しくて更新が遅れました、大変申し訳ありません。二月中旬まで続きますが、その間も暇を見付けて執筆・投稿したいと思っています。


次回も宜しくお願い致します。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ