その報せを受けて
闇の胎動は鎮まらない。
あの日を境に、既に母胎は完成して中身も充分な機を窺っている。
器は鮮血に、汚物に、邪念に、怨嗟に、呪詛に、禍に、黒に、苦痛に、怨恨に、後悔に、侮蔑に、悪意に、腐敗に、憎悪に、……満たされ、満たされ、満たされ、満たされ、満たされる。
もう充分に眠った、もう夢なら醒めても良い。
余興はこれまでだ、誰かの指図は受けない。鎖も鐐も砕き、スベテを喰らって放つ。抑制された分、身の内に沸々と限りなく湧く衝動に駆られる。
皆が最も愛した尊く、美しかった運命は――触れうるスベテを穢す邪悪な濁流となって溢れる。果たして、前身の殻は如何に強靭であっても崩れる時は一瞬の、儚く散り行く風前の灯。
誰が望もうとも関係ない、渇きが満たされる日まで、ただ目前の命より滴る甘美な滴で繋ぐだけだ。それまでこの身は道化に甘んじるとしよう。
だが、後に気付く――それが己の真の容だと。
「……僕は君の様にはならないと思っていた」
『どうして?』
正面に向き直って、楔に縛められたのは、梟の面甲に、禍々しき両翼を拡げて釘に打たれた異形の怪物。皮膚は黒く、双眸は深紅であるが、瞳孔と別に虹彩に浮かぶ三角を示した黒線の模様。
椅子に座する静かな対話者の少年に、食いかかる勢いで暴れる。
『師にも夢にも近付けはしない!そんな世界にどんな希望を懐く!?また誰かの為に犠牲になるのか、無為な自己犠牲を重ねた果てに幸福が待っていると?戯れ言を抜かすのも大概にしろ、欺されているだけだ、お前に意志なんてありはしない!!スベテ、奴の筋書通りだったんだよ!!』
「君は諦めるんだね」
『それが存在意義だ!!お前を諭し、正しき道へ導く事こそ使命!その為に生まれ、その為に生きてきた!今さらその条理を、信念を捻じ曲げる事なんて出来やしない!!』
「君だって自分を最初から棄ててる。棄却した選択肢の真の価値すら見ずに。君の導く先だって、畢生母なる神への回帰だけだ、ただの逃避だ」
『黙れ――――――ッ!!帰る所すら無い放浪者が、今さら何を言うんだ!!我々が還るべき場所は、既に定められている、今さら抗って何になる!?』
怪物が吼えた。
それでも、少年の表情は凪いだ湖面の如く穏やかだった。
「僕も長らく、君から逃げていた」
少年は椅子を立ち上がって、怪物の前に屈み込んで、目線の高さを合わせる。
「今なら受け容れられる……さあ、来るんだ」
『…………僕は…………』
× × ×
優太は寝台から跳ね起きた。
不可解な夢だった、誰かの記憶でもない。ただ様々な感情が胸の内に蟠って、複雑な苦しさを作り出していた。
上掛けを剥いで、自身の体を検める。長手甲も無く、麻の肌着と股引に着替えていた。茫然自失し、思考回路が正常に機能せぬまま、周囲の様子を眺め回す。
寝台の横に置かれた桶の縁に濡れた手拭いがあり、未だ滴を垂らさぬ程度に水分を含んでいた。先程まで何者かが使用していた事の徴憑を発見し、自分が失神してから事後処理を他人が行っていた事も察する。
居間に向かうべく、上掛けを畳んでいる途中、横に安置された抜き身の刀身を見咎めた。先刻に柄元と鞘を破砕された師の形見である。幽かに青い光彩を帯びた漆黒の鎬地、それに添って続く穏やかな刃紋、光に翳すと陽光を鋭く照り返す刃先。外気に晒された刀の本性は、茎から鋒に至るまで汚れ一つ無く、一種の芸術品の如く戦場とは縁遠き美麗な貌をしていた。
背嚢から未使用の長い布を取り出した。文机の上を濡れた手拭いで拭いた後、清潔にした箇所へと展げ、両の掌に持って移動させてから刀身を包装する。
新たな柄と鞘を拵える必要がある。不注意による鞘走りを防ぐ為の仕掛の構造は記憶しており、優太が自分自身で木を削り出して製作する他に無い。こればかりは他人へ委任は出来ず、何より幼少より師に倣って物作りを得意とする己の本領を発揮する機会。自信の程は微塵も揺るぎ無く、培って錬磨した精巧な技術力を恃みにすること深甚である。
優太は礼拝堂で祈祷するかの如く刀を前に合掌して瞑想した。擬装の杖を破壊された訪問者の蛮行に矛先を定めた痛憤も、過去を顧みる今では胸の片隅からも霧散している。寧ろ、負傷した相手を想い遣る思案、次いで脳裏に浮上する己の不安定さ。
氣術師の心得とし、最重要事項は常に冷静であれ――その訓辞を受けた筈ではあった。しかし、師の名と来歴を侮辱し、嬉々として嘲弄する悪口雑言を宣う卑劣な輩には例外無く死を以て処す。師を蔑む感情の端緒が何であれ、優太が蛇蝎の如く嫌厭するのだ。
仮に暁を深く憎悪する者が師を悪鬼と貶めんとした時、その経緯が如何に残酷で、道理が通っていたとしても、優太はその誹謗中傷の言を耳にした途端、己を統御する基部が喪われる。喩え地の果てに遁れようとしても、執念深く追撃し確実に息の根を止めるだろう。
崇敬する師の面影を汚される、それを何よりも認めはしない。だが、冷静に己の一面を洞察すると、これは固執に親しい依存。自分への侮蔑や流言蜚語には、全く心動く予感すらなく、如何に己に無頓着であるかという証左であった。
あらゆる事象にも動揺せずに統覚する精神力が必要である。守る処を過たず、殺めるべき者を誤らず、己の本分を手の届く可能な最大規模で完遂する、それが理想像たる師匠に近付く重要事項。
自分を細分化して分析し、その心理を審らかにして弱点の再確認を行って修正する。闇雲に氣術師としての技量を鍛えるだけでなく、その要素を覗いた自己の本質と向き直らなくては、誰かを教えるのも甚だ身分不相応だ。
己が信念を常日頃の規矩としていた――しかし赭馗深林を訪れて以降、元来より持ち合わせていた大切なモノを見失っている。この自覚さえもが、内側より微弱だが確かに記憶を蝕む毒に奪われる危惧があった。
千里眼の反動と記憶の欠如、前者はまだ矛剴の本質を見極められていない故に処理は先の事だが、後者を繙くには優太の思慮ばかりでは厖大な時間を要する難題である。解決よりも完全な記憶の抹消が早いのは掌を見るが如く瞭然としている、ゼーダの見解を加えて思索するしかない。
兆しもなく進行する症状、密かに拉げて悲鳴を上げる心。諸悪の根源を絶つ為には、明快に己の異常を糺して矯正する事が前提であり、その段階を完了しなくては目に捉えるのも至難。
瞼を開けてから、文机の端に置いていた匕首を手に取って鞘から抜く。結って垂らした襟髪を摑み、根本から躊躇い無く断ち斬った。紐が弛緩して滑り落ち、僅かに溢れた毛と共に床に落ちる。
刃先を小さくふるって鞘へ納め、少し涼しくなった首筋を掻いた。握り締めた毛髪を窓から外へと投げ捨てる。風に浚われていくのを見届けた後、優太は深呼吸を二度も行ってから、眥を決して居間へ足を運ぶ。
騒がしい物音を廊下に反響させている、音源は明らかに居間であった。訝って歩調を強めて入ると、其処には四名の子供に応対するゼーダと、部屋の隅に膝を抱えて座る訪問者の二人。
部屋の隅にある竈では、前垂をした響花が火勢を調整している最中だった。足音をさせない優太の姿に、まだ誰も気付いていない。彼女の後ろ姿を凝視していた優太は、それが誰かと重なると眉根を寄せる。
視線に気付き、響花は振り返って驚くと、慌てて狭い室内を駆けて、優太の傍に寄った。
「大丈夫?」
優太が黙って頷くと、安堵と嬉しさに口許を緩めて微笑んだ。惹き込まれてしまいそうになったが、その背後で救援要請の信号を身振り手振りで発するゼーダの下へと向かった。
新たな玩具を見付けたと、ゼーダを苦しめていた手勢の半数が押し寄せる。優太は子供達を窘めて、少し彼等の児戯に興する事にした。
その間、子供の悪戯から救われ、憩いに懐から手紙を出す。外部からの返信ならば、ここで書を検めるのは拙い。連携していると疑惑を持たれ、煌人まで伝達されたならば、この森は敵陣の真っ只中であり、脱出も至難を極めるだろう。
ゼーダは紙面の内容を見て、穏やかな笑みを浮かべるだけであった。
「誰からですか?」
「一年以上前、西国で少々厄介な事件に遭遇した際、世話になった者達からだ」
「どんな人?」
「そうだな……私を師と仰ぐ女児、飲み仲間とする男、是手と仲睦まじき仲の子供達、私が罰し今は改心した元罪人の奴儕……過去の旅路からだ」
「叶からは?」
ゼーダが押し黙り、静かに一通を取り出す。
読まれたくないのか、些か手が震えて躊躇いが見られた。颯爽と奪い取り、優太は内容に目を通す。紙面には最近の世界情勢、そして遠隔地に在る想い人への追慕を綴った甘い一文が混在していた。序盤は時勢の挨拶を簡単に述べ、次に己の身辺にある状況、そしてゼーダへの質問。
優太は口許を緩ませる文書に、必死に笑いを堪えた。普段なら羞恥を誤魔化すべく叱責するゼーダだが、異様に彼は気拙そうに余所を見遣っている。
後半へと入り、世界情勢を順序立てて説明された内容になった。遂に赤髭の悪政に終止符が打たれ、中央大陸に再び安寧が訪れたとの一報。東国の内乱を平らげたのは、曾ての仲間達であった。筆頭として挙げられたのは、相棒と従姉、人智を遥かに超えた神代の巨獣と人の心を通わせた英雄、そして花衣だった。
優太は最後の人名に着眼し、指先で撫でる。文字を視認した途端、胸の内より全身へ伝播する安堵と喜悦の正体を解明する為に記憶を遡った。
食器を運ぶ響花の顔が不安げに優太を見詰める。子供達に背や肩を叩打されても無反応になり、床を睨め付けて一人沈思していた。再生される記憶の断片達の中に、一つ不自然に消えた痕のある欠片が脳裏を過る。
早々に優太に飽きた子供達は、再度ゼーダを強襲する。知人からの文を安穏とゆっくり読み進めていた彼は、突然の再開に虚を衝かれて怯み、遊び道具と化していた。
傍に膝を畳んで座り、顔を覗き込んだ響花を一度だけ見遣る。
「どうかしたの?」
「少し……ね」
優太は欠けた記憶を取り戻す手懸かりを早くも摑み、希望に瞳が輝いていた。喪失したモノは二度と戻らない、その摂理の範疇ではなかった。まだ喪われていない、今も自分の中にあって、消えかかっている。赭馗深林を訪れて以来の不安定さから思量すると、この記憶の中に最も大事にしていたモノが隠されている。
師との記憶にも並ぶ、或いはそれ以上に貴い何かだ。後述に詳細は無いか探って、文面に視線を走らせて暫くし、ある一点で優太は硬直した。
「え……師匠……が、復活って……」
ゼーダの方を見遣ると、子供達すらも離れる程の険相になっていた。情報が理解できず、優太は文面と彼を交互に確めて困惑する。
第二次大陸同盟戦争の宣戦布告、敵勢の筆頭勢力として挙げられたのは神族、そして世に隠然と膾炙した伝説の刺客暁――即ち、優太の唯一無二だった師である。彼の死を看取ったのは、世界で優太のみ。
その生涯を終える際で、ただ一言を遺して去った育て親の死相を想起し、何度も首を振って否定した。歴代で最も優れた闇人は、黄泉國より甦って現世の破壊を宣告する。それは、優太の愛する世界との敵対を示唆していた。
手紙の情報に依れば、万物を大いなる計略の道具と見て暗躍した邪神とも破壊神とも形容し報道され、世界が敵視する最大の脅威とされる。優しき師の面影が、全く重ならずに更に優太の脳は否認を続けた。全世界を同時に殲滅する戦力を持つ、たった一騎で神に匹濤する化け物。
しかし、後の文に優太は目を瞠った。
“――彼の者が愛するのは、今は亡き盟友響でも無く、世に遺し先を憂いし我が子の優太のみと明言していた。
ゼーダ殿、せめて世の風聞が弟子の優太に誤解を植え付けぬよう、この真実を伝えて欲しい。”
優太はゼーダへと振り向く。
「私の知る限りの人格は、擬装だったやもしれん。だが、闇人暁は……優太が生きる世の為に、己を最後の敵として立ち回る演技をしている、としか推考出来ん。
あれだけ強力無比な存在が、果たして戦線を催す必要などあるか?その力ならば、直ちに改革を推し進めるのも容易。
明らかに矛盾している。だから……お前の知る師は、最後に誰かに討たれる事を望んでいる。もしかすると……お前に」
ゼーダが自身の手中にある手紙を全て優太に手渡した。
「これらからも、世間では暁を討つにはその弟子――二代目闇人、【梟】の異名で今は知られた優太だと期待されている」
炭鉱町で闇人の弟子と世間に伝播し、後の争乱から「白き魔女」と崇められる結と行動する事で確かに名声もあった。最も、かなり世に誤認を吹聴されて、怪物や実体の無い闇とまで言われる。
師は今までの優太の旅路も既に知っている。何れは神樹の森に帰り、自らの口で語ろうとした事も先刻承知しているのだ。それには些か落胆してしまうが、師がまだ自分を愛する感情を有しているのなら、その期待を損ねない道を歩んでいるのは確かである。
「……師匠と……会って話がしたい。喩え、今は僕が知らなかった頃の姿だったとしても、きっと過ごしたあの日は、あの人の中にも生きてる……」
「お前は愛されていた、そこだけは何があっても変わらない。努々、忘れるな」
旅先で彼の知人と会う際、いつも言われていた。「冷酷な刺客が愛情を注ぐ」と、意外そうに語って笑う。狩還や嵌是に戦かれるほど、万民に慴れられた剣の寵愛を受けた子である誇り。世界が敵意を向けても、優太は父として永劫に敬愛するだろう。
今は世界と対立する師の苦境と、自分を愛していると確かに知れた事で、目頭が熱くなる。涙を堪えていると、響花に隣から優しく背中を撫でられた。子供達が食器をそれぞれ前に運び、箸を手に取って食事を始めた。
合掌し食前の礼を済ませてから、優太も誤魔化すように口内に調理された食材を掻き込んだ。
「美味しい?」
「……うん」
「……ゆっくり、食べてね」
「ありがとう」
ゼーダが子供に作法などを注意し、隻腕であるが故に少々周囲と異なるため、それを揚げ足を取られたりして、奇妙な阿呆劇の様な遣り取りが繰り広げられている。
表情の固かった隅の二名や、優太も自然に笑みが溢れた。いずれ心中の憂いは晴れ、箸先も軽快に動き、笑声の絶えない温かな団欒となった。
× × ×
響花の振る舞う昼食を糧に、賑々しかった居間の様子は満腹感に催される睡魔に子供達は倒れ、今や食器を片付ける音だけである。束の間の休息を得たゼーダの苦労を慮って、暫く優太の寝室で休む事にした。
彼の部屋には現在、負傷者を保護していた。響花の申請で、煌人の代役として後に康生が此所を訪れ、里へ回収する予定となっている。意識が回復すれば謝罪の一言を入れたい優太だが、果たして場を設けたところで穏便に事が済むか否かは判らない。
室内に踞る二名――つまり、優太を訪ねた生徒。煌人から指導する対象として送られた人物であり、一族内でもある一点に偏った能力や奇矯な言動が際立つ異人。その稀少さ故に分家の枠組みより除外され、当主直轄の養成を受けている。
分家『辰』の康生に勝利した実力を見込み、以前から紛糾していた指導を、帰郷した弟に委任したのである。矛剴とは全く異なる環境下で鍛えた視点から、彼等を更に高められるという期待が裏に隠されていた。
優太が過去に誰かを教育した経験は二つ。
剣術と称するには些か不遜な闇人の刀剣、その流儀を叩き込んだ弥生は、魔法や呪術と多岐に渡って才覚を見せる有望な素質があった故に、その成長させる方向性を定めたに過ぎない。
次に鱗瞳の慎には、優太が信ずる氣術の基礎と、独自で開発した氣巧法の伝授。元来、武術に関しては雑兵と揶揄されても相違ないと彼が自称する程だが、氣術に於ける潜在能力は類を見ない。実質、優太が修行に付き添った短期間より以降、慎が独りでそれらよりも強大な技を編み出している。
現状と前例の共通点があるとするなら、概ねその一点。長所となる部分をより昇華させる為の助言と、稽古に付き合う程度しか出来ない。解答を隠す苦難や苦悩を取り除くのに、優太なりの客観視で与えるモノが役立つだけだ。何が秀逸しているか、その初期開拓は既に煌人が済ませてある。
だが、屋敷で告げられた事柄はそれのみではなかった。際立った一点が敵を盲目にさせるが、転じて優勢が過ぎた自負を抱かせ、己の弱点さえも眩ませる。不意に敵から受けし不慮の一矢で致命的な損傷があれば、それを立て直すだけの蓄えも無く、集中打撃に見舞われると仮想すると、それは何としても回避したい。
優太に課せられたのは、彼等が不得手とする技術面の援護と成長促進。これこそ、最大の難物である。
問題解決に当たって、まず相互関係を良好にする事が第一目標だったが、先刻の暴走した一件で、優太の第一印象とも呼べる邂逅が凄惨な記憶として刻まれてしまっている。師が己を完全に掌握していない危険物となれば、果たして純心で力を鍛える志が育まれるのか。
生徒の一人からは、今後剣呑な雰囲気になり兼ねない。容体は回復の途上、ゼーダの氣術による掩護あって数日中には動ける体となる。最も、後遺症が幾らか残り、生活面に僅かな支障を来すと予測された。まず顔の形は以前の形にまで快癒しない。
あの異常と称する他に無い氣術――自然界に於ける自身が掌握しうる氣が広範かつ緻密である故に放てる強い斥力。優太の数倍以上はあるであろう、それもまだ相手を弄ばんとした状況だからこその加減であり、仮に全力を発揮したのなら、想像の可能な範疇を逸している。
優太も一人の氣術師として、彼に学ぶ必要があった。以前に神族を弾き返さんとして氣術を行使した際、攻撃の間合いより僅かに退かせる程度である。あの少年に比類する位階に鍛えれば、仁那の様に強大な氣の塊である怪物を宿さなくとも、神族と正面から刃を交えて対抗できるだろう。
それが生来の才能に依存するのか、或いは彼なりの見解で発見し、必要最低限な条件下である手法に則り発動する技の類かに左右される。仮に後者ならば、是が非でも教授を願いたい。
己の知る氣術のより深層を垣間見て、密かに探究心と向上心に火が点る。学習能力の高さには、誰をも愕然とさせる優太は、云わば無知であるが故に貪欲であった。対象が氣術であるという珍奇な趣向にさえ傾注されていなければ、また違う可能性の未来を歩んでいる。
優太はまた自分の世界に入り浸っていた事に気付いた。肩に顔を乗せて眠る響花を一度見てから、訪問者二名を囲炉裏の近くへ招く。恐る恐る躄って寄る様子から、その畏怖がありありと窺われた。
「自己紹介をお願いします。僕は闇人の優太、血縁上は煌人……様の実弟なんだ」
二人は顔を見合わせ、小さく頷く。
「あだぢは瀧。元は分家は躬錠の出身で、『丑』の卓の甥どぅあ」
「わっちは縢!分家殻咲の出身で将来『未』候補が夢だった!」
先に名乗りでた青年――瀧は、額当をしており、鳶色の瞳は焦点があっておらず、左は別方向へ不自然に向けられていた。腫瘍の様に下唇が厚く、それが口を塞いでしまうため、言語による意思疎通に不自由となるからか、大きく口を開けて発声する癖がある。
紺の単衣と袴、腰帯には砂嚢を吊るしていた。護身用の短刀を一振り、両刃の斧を携える。言義で共闘した卓の甥とあり、顔立ちが似気無いが、性格の面では共通するものを感じて、優太の表情が曇った。人柄は悪くなくとも、やはり苦手とする部類には相違ない。
隣で快活に笑う少女――縢。健康的な黄褐色の肌に赤銅色の瞳をしている。太い眉と眦のつり上がった面差しに加え、素肌に臑当をし、半股引の上を諸肌脱ぎにして下着の腹掛を晒す凛々しい印象を受ける姿であった。
武装は肩紐のある台箱になっており、小さな曳斗が幾つかあり、下部は最も広く収納する空間を設けて、其処にあの夥しい短刀が保有されている。巧な氣術による連射で魔法じみた攻撃を繰り出していた秘密の種を知り、優太も驚嘆に思わず見入っていた。
縢の笑顔が少し含意を変え、優太と眠る響花の様子を見詰める。険しい杣道を荷物を持って往復させ、子供達の面倒を見る他に昼食の用意まで任せた故に蓄積した疲労で眠ってしまったのだろう。本来なら里に帰ってやるべき事もあった筈だが、此方を優先して行う姿勢がたとえ命令に従っているのだとしても、優太には純粋に嬉しく感じていた。
優太は近くにあった自身の外套をその肩に掛け、胡座を掻いた腿の上に頭を移動させた。起きる気配はなく、少し身動ぎと呻き声を上げただけで、無防備に情けない寝顔を縢に嗤われているとも知らずに寝入る。
「響花姉とは、随分仲良さそうだね?」
「もしかして、姉妹?」
「そうなんだよ、響花姉は立派な姉でしょ!煌人様のお気に入りなんだよ」
優太は心底意外に思えて、響花の顔を二度見した。確かに当主直属の命令を受けて、過去には秘中の秘とされ、現今には怨敵とまで言われる闇人を繋いでいる。その重責を担うのは、大抵が信頼する十二支とされるのが普通だが、響花に一任された理由は煌人の念慮にあった。
優太には、裏切者には冷然と遇する人間だと思われた。過去には、結を誘拐し殺害にすら踏み切った凶行に至っている。罰せられるべき罪人にも寛容な処置を施す当主の像を作り、人身掌握の具とする為の仮面なのかもしれない。
未だ信じきれず、優太は眉を顰めた。
「兄さんが……そうか」
「ほら、殻咲ってあれじゃん?だからよく迫害の対象になり易いからさ、一家と周囲の関係を仲介するのが響花で、労働力としていつも扱かれてんの。それを不遇に思った煌人様が、従前通りの農業に従事する傍らで、自分専属の使用人にしてさ」
「…………そう」
過去に敵対した者を輩出してしまった分家への厳しい処遇を下すと優太は予想していたが、響花へ行った煌人の行動は思いの外、矛剴の関係を平定する当主としての務めを果たしていた。子供にすら徹底した原則を強いる厳かな部分があるが、煌人は響花の中庸な態度に罰責されるには理不尽と感じたのか。
昨今の矛剴劣勢を産み出した根源たるカルデラの響の起源、まだそれ以外にも理由が隠されていると感じ、優太は兄の顔を思い浮かべる。自身とは違い、他者から好まれやすい柔らかな面差し、中途半端な警戒ならば、その場で懐柔されているだろう。
「でも意外だね、響花姉は煌人様にぞっこんかと……まさか思わぬ伏兵がいたなんてね」
「…………?まあ兎も角、君達の調練係を担当するにあたって、まず君達の実力を知りたいんだけど……一つ、注意しておく事がある」
優太は左手を差し出した。
「僕もきっと君たちから学ぶべき事がある。だから、師弟の関係ではなく、切磋琢磨し合う関係を築けたら良いと考えているんだけれど……どうかな?」
先程の事件もあって、自分の意に応えるか疑問であった。優太は若干引き攣った笑みを浮かべていたが、二人は僅かな沈黙の間すら置かずに、優太の左手に自身のそれを重ねた。
「よろしく、優太兄!」
「お願いどるわ!」
「こちらこそ」
安堵に胸を撫で下ろした優太は、自室からこちらへ駆けて来るゼーダの気配に振り返った。居間に姿を現した彼は、鋭い眼光を放っている。
「どうかしました?」
「………………瑕者と穢人が――脱走した!」
アクセスして頂き、誠に有り難うございます。
寒い、指先が冷えてしまって、よく誤記が無いか不安ですので、確認も重ねて修正が多いと思います。
皆様もお体に気を付けて、良い年末にしましょう!
次回も宜しくお願い致します。




