瑕者と穢人
樹影に匿された正体に優太は目を眇める。
邪氣で生成した漆黒の刀と同じ、闇の中に色濃い影を作る存在の気配であった。背後に倒れたゼーダを見遣り、周囲を眺め回す。倒木した樹幹によって半円状に鎖された空間の脱出口は、襲撃者二名の立つ方向のみ。増援など望むべくもなく、要請する手段自体が無い。
木々を薙ぎ倒した者が、果たして襲撃者かゼーダかは、この際は思考する必要は無いのである。闇人の住居である深林に侵入を可能とし、ゼーダを倒した事実が紛れもない実力者の証拠。優太は消滅させた謎の追跡者も、彼等の手下であると推測する。
月光によって仄かに照明された場所に踏み入る二名を睨んだ。神族関係者による急襲が途絶えて些か油断していた。矛剴当主に庇護される立場上、自分を暗殺する暴挙に出る過激派の矛剴がいる可能性も否めないが、眼前に現れるのはそれらと明確に異なる勢力より嗾けられた者だった。
樹影を一歩踏み出して、襲撃者は立ち止まる。獣のごとく夜目の利く優太は、既に二人の人相を視認していた。両者の間に立ち込める空気が音を立てて凍てつく。厖大な氣の躍動とそれを封じる邪氣の対抗で軋みを上げた空間に亀裂が入る様に、樹影と荒地の中央を切って断層が起きた。
優太は一歩だけ摺り足で前に出て、刀を逆手持ちに変える。前傾姿勢のまま、相手の初動を逃さんと心を夜の世界に澄ます。
樹影から躍り出て、月下に姿を晒す二人組。
夜空に射す曙光を連想させる金色の総髪、陣羽織を着て腰帯の両脇に壺を提げた男性。晒された額には、錘状の角が一本空へ向けて突き立っており、先端部は膨張して歪になっていた。朱色の甲冑を装備し、その面甲は犬を模した長い鼻先の形状をし、口許には鋭利な犬歯がある。
そして何より、特筆すべきは――頚が分岐し、もう一対の頭部が付いている。人相が全く同一、複製された物と思われる顔が別の方向を見た。其々が独自の思考回路を有しており、恰も他人同士の様に体の繋がるもう一つの顔と会話を成立させている。
奇々怪々な身体をした異形は、面甲の奥を低く震わせる小さな笑声を上げた。武者震いに揺れる甲冑の音が騒々しく、笑う二つの頭が互いに見合う絵面に、ただ作者の悪戯に生み出された醜い生物が命を得て実体のまま眼前に現れたのかと錯覚する。
その隣に立ち、昂然と直立し自分を仰ぎ見る少女にこそ、優太は目を惹き付けられてしまった。相棒を彷彿とさせる出で立ち、既視感と違和感に瞠目して言葉を失う。
耳介の尖る一対の獣耳が生えており、枝葉が風に触れて鳴る些細な音にも反応して動く。水縹の頭髪は、襟足を無造作に束ねて背中へと流している。警戒と闘争心に燃える茄子紺の双眸は、夜空を背に佇む優太を映した。瞳孔は縦に一筋であり、獣の性質を垣間見せる。
薄い下着一枚で臍を出し、腰帯に短刀と柄の短い鍬を携帯している。膝の上までの丈に切られた裙子に脚絆を穿いた軽装。裸足で折れた枝を踏み鳴らす。
明らかに獣人族の容姿であった。結ともう一人以外に全滅したとされ代々魔術師を輩出した、主神の信頼を最も受け加護を授かった部族。矛剴による虐殺を免れた者がまだいた現実は、これまで何度も否定されてきたが、優太の目の前で実像を帯びている。
しかし、それでも――優太の為すべき事に何ら変更は無い。ゼーダを襲撃した者がどんな存在であろうと、己にも危害を加えんと敵対するなら迅速な排除を意図するのみ。相棒の数少ない同族であろうとも一抹の情すら無く、優太の瞳は鋭く殺伐とした剣呑な光を放つ。
対峙した敵の殺意を知り、二人組もまた武器を手に取る。双頭の男は、前に進み出て深々と一礼した。慇懃な態度で面を伏せたまま、二つの頭が勝手に会話を始める。
「美しい顔、早く欲しい。――穢人の東吾」
「慌てるな、急いても無駄。――穢人の西吾」
一つの頭に固有の名が与えられている。
やはり機会な風貌に、優太は眉を顰めて出方を窺う他になかった。如何に言葉を弄しても、敵対関係を覆す策は無いだろう。適当な説得で懐柔を試みるならば、実行前にその命脈を断つ。
双頭の自己紹介に続き、ふんと鼻を鳴らして他方向へと顔を逸らす獣人族の少女。振る舞いまでもが相棒と重なるが、口から漏れた声はあまりに小さく覇気が無い。結に似気無い部分を発見し、優太も我知らず安堵した。
東吾と西吾がその歪な首を傾げ、耳を近付ける仕草をすると、少女が憤慨してその後頭部を殴り付ける。目尻に涙を浮かべ、羞恥に赤面していた。
「瑕者の眞菜――って言ってるでしょ!?ちゃんと聞き取ってよ!」
優太は踏み出す足を止めて、体を後方へと引いた。
「キズモノ……ケガレビト……?」
「無知は醜い、ねえ西吾」
「それが先代の教育だ、東吾。
私達――穢人は、魔王一族の中に生まれる希少な個体。云わば矛剴でいう闇人と同様の特異体質。死術を行使し、他と一線を画する能力がある。
そして彼女――瑕者は、獣人族に生まれる魔術師の亜種。正当な魔術は不可能だが、それに追随する魔法の才と特殊能力を有するのだ」
説明され、獣人族の少女は前髪を指で弄りながら体を背けた。
瑕者と穢人、主神の『業』を継承する一族から稀に発生する例ではなく、闇人同様に各代に一人現れるのと些か異なるという。
穢人は死術師一族の中で、先代の死と共に生まれる。神族は出産と同時に肉親から記憶を削除し、北大陸で戦士として育成されるのが風習。魔族としての圧倒的生命力と身体能力に加え、死術と特殊能力を生来から持ち合わせる。
瑕者は魔術師と同時に出現し、神族の管理下で訓練される。擬似的な魔術を行使する能力がある故に、厳重な規則で育てるのだ。主に魔術師とは近親間に当たる関係の家庭から出る。
闇人が『伊邪那美の器』ならば、瑕者と穢人はその補助器とされた『神の異物』。
「それが何か用?」
「あ、アンタを……ぉ……って……その……」
「「んん??」」
「アンタを殺せって命令!ああ、もう!」
沸騰したかの様に紅潮した顔で喚く眞菜に、双頭が目元を悦で歪ませて嗤い続ける。これから命の遣り取りを行う雰囲気とは思えぬ二人の振る舞いに憮然とした優太だったが、邪氣で生成した武器を改めて握り直して構える。
問題は無い――結果的に、ただ新たに知識が増えただけ。記憶に刻まれる程の時間を許さず、今日此所で仕留める。
「余談はもう、要らない……」
三名の様子を、叢の影から見物する者がいた。
頭を軽く振るって、角に引っ掛かる葉を振り落とす。四肢を音もなく駆動させ、森を移動するが、やはり視線は荒地に固定されたままであった。
角が樹幹に衝突し、目許に辟易した表情を浮かべながら身を捩って避け、前へと再び進み出す。付近にあった屹然と立つ岸壁を駆け上がり、その頂より優太を見下ろす。
『さて……どんなモンかねぇ』
× × ×
優太の手中で邪氣が蠢く。
眞菜と双頭が変化を察知した時には、その手中に弓矢が形成され、漆黒の弦を張って禍々しい矢を矧いだ闇人の姿が断層の上にある。師の薫陶を受けた優太は、武具全般の技量においては熟練の兵士にも劣らない。それを戦場での経験にて磨き、今や剣のみならず殆どの技能が熟達している。
迅速且つ正確に照準を合わせて放つ――所要時間は二秒に満たず、高速で標的を射る絶技は、如何なる戦闘でも凶悪無比であった。手元に焦燥も期待も無く、必中が当然といわん自負を持つ優太は、敵の回避行動に集中する。よもやこれだねなら、ゼーダを倒せる訳が無いのだ。
双頭が携えた二つの壺の口を前方に向ける。矢を受け止めるには粗末な陶器、粉砕される上に仲間に向けて射出した矢とは明らかに距離があった。だが、彼が執るならば素朴な壺であろうとも武器に相違無い。
壺を中心に大気の氣が渦動した。内部へと飲み込もうとする颶が発生し、邪氣の矢を二つ同時に吸収する。強力な吸引力を以て敵前に立ち、害悪を封じる能力が壺に付加されていた。
双頭が今度は飛び上がると、壺の底を膝で同時に蹴る。陶器の空洞音が響いた直後、邪氣の矢が内側から突然震え出し、優太へと放出された。鏃は蛇の頭部に変形し、より獰猛な姿となって還って来る。
優太は弓を盾に変えて防御した。弾かれず、激突した矢は一部となって盾に同化した。
相手の攻撃を壺に封じ、死術で生命を与えて操る。魔導師が相手であれば強力な双頭の異能が知れたが、優太の邪氣自体に命を吹き込んでも長時間は持続せず、本体に接触すれば失効してしまう。性質から推測すると、徒に攻撃しても反射されてしまうが、邪氣による手は双頭の能力を封じる意味でも有効である。
邪氣の盾を分解し、再び手中に刀として再構築する。双頭が相手の攻勢を利して反撃する戦法でも、至近距離からの一撃までは吸収不可能である筈だと推察した。何より、他に相手を斃す戦術があるとしても、開始よりも先に制圧する早期決着が好ましい。
眞菜の方向を一瞥し、優太は脚力を氣術で強化し、低く頭を下げて断層の壁面を蹴った。直線軌道を描き、双頭の直近へと滑り込む。鋭く踏み込み、相手が動くより先に振り上げた刃先で壺の一つを粉砕した。
戦慄を誘う素早い一閃に、双つの頭が同時に目を瞠る。魔族の視覚能力で捉えるのも難しい、手の動きばかりが相手に速く見せているのではなく、無駄な動作を省く事で成された一太刀だった。
西吾が歯軋りと共に、瞬時に肥大化させた右腕を振り下ろす。肉体変形速度は、明らかに魔族の中でも秀逸した早業。急造でありながら、威力も強度も敵を潰すには事欠かない凶器である。
闇人暗殺の任を完遂する拳を轟然と振り下ろした刹那、優太の片手が脇腹に軽く打ち込まれた。五臓六腑を震撼させる膂力も無い、だが押し付けた掌底をより深く捻り込んだだけで絶大な効果が発揮される。
体内の氣の流動が乱れ、血管内を激しく暴れた。特段、右腕の関節部では屈筋、橈筋の氣流が遡行を始め、然るべき運動とは別の力が体内で発生した事で筋繊維が耐えきれず破断し、その軋轢によって肘関節から上腕骨の複数箇所に骨折が生じる。
皮膚を突き破り噴出して上がる血飛沫、血涙や吐血に塗れて面相は赤く染められ、膨張した怪腕は歪むと自重で地面を盛大に叩き割って落ちた。腕に引かれ、双頭も空を仰いで倒れる。か細くも呼吸を必死に続けていた。
「しぶとい……」優太は敵の生命力に驚嘆した。
それでも、完全に生命活動が停止していないのであれば、己の次の行動は決定している。双つの頭を繋ぐ頚椎を切断する為に、邪氣の刀を振り下ろす。強靭な肉体でも、急所を大きく損傷すれば無事では済まない上に、体内の氣が乱れた今ならその回復力も無効化されている。
刀が双頭を根本より切断する直前、優太は背後から大きな氣の動きを覚って、その場から飛び退った。
背後を急襲し袷の袖を掠って針葉樹の一本を切断したのは一条の光線。否、優太は直近で見たからこそ正体の判別が出来た。それは――水だった。布間へ針を通すかの如く鋭く束ねられた高圧で噴射された水である。人体はおろか、岩石や金剛石を立つ威力は有する凶器。
優太には水が金剛石を砕くとまでは識らないが、それでも人間を容易に両断すると読んだ。邪氣での遮断は可能か否か、実験するにも相当の危険が伴う。警戒に背後を顧みると、短い杖を揮り、先端から水滴が滴っていた。
優太は邪氣の刀を長槍に変換して擲つ。魔術師の家系出身であるとしても、魔法では邪氣を凌ぐ術など皆無。単純な体術か、双頭の壺の能力しか躱せない必滅の一手。結の同朋でも、敵ならば息の根は止める。
投げ放った直後、優太の聴覚が後ろで微かに鳴った跫に反応した。反射的に身を翻しながら手を突き出し、氣術で発した斥力で無差別に後方の物体を弾く。木片や砂塵、落葉と共に空中を舞うのは壺を手に抱えた双頭であった。
眞菜に向けた邪氣の槍は方向転換し、壺に一瞬で吸収される。宙で背転し、優太の方向へ封印した槍を放出した。
優太は動体視力だけで軌道を予測し、回避と同時に飛来した長槍の柄を摑み取り、眞菜の方へ向き直って地面に突き立てる。長柄が数倍に広く盾の形状に膨張し、不意打ちで発動された氷の矢の数々を防ぐ。
優太は前後を確かめ、邪氣の槍を引き抜いて構える。致命的な損害を与えながら復活し、詠唱せず魔法を発動する技量。今まで相対した者とは明瞭に異なる強者だった。首を揺すって鳴らす双頭と、杖を小さく振るった眞菜が躙り寄る。
優太の講じる高度な戦闘技術に圧倒され、血塗れの双頭は感嘆と痛みに呻き声を上げる。近接戦に持ち込まんとする戦法は予想していたが、行動速度と特異な力に不意を衝かれた。こちらが行動する前に、急所を狙ってくる痛撃でそれらがすべて封殺される。伝聞以上に手強いと認識を改めた。
眞菜は己の魔法を悉く遮る邪氣の性質は事前に知っていたとはいえ、その汎用性と優太自身の応用力の高さに純粋な賛嘆の念を懐く。北大陸の教育も無く、師には規定の齢十二にも満たない間に先立たれた筈なのに扱い熟している。双頭と同じく、少年への警戒を高めた。
優太は相手の手の内を分析する。
穢人の双頭の戦術――相手の外的攻撃を壺に吸収して保有し、任意で解放する。尚、この時に死術で生命を譲与し攻撃自体に自我を持たせる変則的な反撃。氣を吸収及び遮断する邪氣による攻防で対処可能。
肉体を自在に変化させる、またその速度も瞬間。魔族としての強靭な肉体と生命力により、耐久度が高く肉弾戦では拳足を受けるのは危険。邪氣による損傷、或いは体内氣流の操作による身体機能の死滅が効果的だが、急所を的確に破壊しない限り再生する。
瑕者の眞菜の戦術――結とは対照的な氷結、吸熱魔法。氷塊を生成し、弾丸にして敵を制圧する。しかし火力は高く、無詠唱でも魔法の枠を逸するまではなく、邪氣による防御と攻撃で無効化すれば問題ない。
高圧の水噴射による切断を主とした魔法は、邪氣による防備で処し得るか不明だが、氣を用いた魔法であるから展開が遅れる事が無ければ可能と推測。瑕者特有の能力については、未だ相手が秘匿している故に油断は禁物。常に念頭に置いて行動する他に対処法は無い。
双頭が破損した陶器に触れると、地面に散乱した破片が集合し、空に掲げた掌の上で修復された。再び二つの壺を脇に抱え、面甲の下で曇った笑声をあげる。
眞菜が杖で軽く円を描くと、その軌跡に水滴が発生し、空中で浮遊する。先程飛び散り、地面に染み込んだ双頭の血までが水の円環へと滴となって加わった。
「私の能力は氣道・甕速日神」
「う、うちは氣道・熯速日神」
優太は次の攻撃が来ると身構えた。
眞菜の秘匿する能力は、液体を操作する可能性がある。水のみならず、地面に吸収され乾燥した血を再び液体化させて手繰り寄せた。液体を自由自在に扱うとすれば、水圧の刃も、その能力の一端だろう。
優太が有効打となる次手を脳内で模索する間、双頭の東吾と西吾が同時に自身の角を掴んだ。握力を強め、皮膚から剥がすように引くと中程で折れた。断面から伸長し、短槍へと変じる。
更に両の肩部を根本に、奇妙な繋がりを見せる新たな腕が生えて槍を持つ。壺を抱えながら、槍を持つ異様な四臂の姿へと変貌した。まだ真価を発揮していないのだとして、優太は戦況を推し量って再び分析を始める。
慎重な優太の姿に初めて東吾が怒りを顔に顕にする。
「お前も出せ……建御雷神を。我々に勝つには、邪氣のみでは対抗が難しいだろう」
「さあ、どうかな。僕としては、手応えからしても、アンタらに出すまでもない」
優太は平静を装って彼等に言い放った。
建御雷神――その能力に思い当たる節など微塵も無いが、これ以上の無知を晒せば敵の攻勢を助長してしまう。何よりも、まだ敵の全貌を把握していない現在で、自身の戦法の限界を知られる事は大きな災いを招く。
他人から強要された設定を前提とした演技では、優太は途轍もなく不器用になる。結の婚約者と彼女が言い回ってから、それが誤解であると周囲が察するのは開始から優太の反応を見て間もない頃。戦闘では大胆になれる故に、持ち前の頑固さと度胸でこれを不自然なく見せていた。
しかし、双頭には見え透いた虚勢であると看破されている。ゼーダに比類する洞察力ではなくとも、優太ごときの心情を読み解くには充分の器量を備えていた。
「ただ心の中で唱えるだけで良い……手本を見せてやる」
「唱えるだけね、なら要らない」
優太は両の掌を二人へ向けて突き出す。
囁くだけ、唱えるだけ、名を呼ぶだけで発動するなら容易いだろう。この襲撃者二名に対抗し得る強烈な力ならば、惜しんでいる場合ではない。今は一刻も速く、仕留めてゼーダを介抱する必要がある。
「氣道――建御雷神」
優太を中心とし、半球状に展開したのは邪氣を雷に変換したかの如き黒い電撃。地面を荒々しく破壊し、激湍となって全方位を蹂躙する。黒雷と称呼すべき邪悪なそれは、瞬く間に領域の内側に在る総てを呑み込む。防御体勢に移行する寸前の眞菜、氣道・甕速日神で先んじて吸収を行うよりも迅く、優太の周囲に存在する物質へと奔る。
黒雷が迸った優太の周辺は焦土と化し、樹木が黒く煙る虚空に舞う灰塵となった。金属器で打ち砕くのも至難の業とする硬質の断層の岩盤さえも一画が瓦解している。焦臭く濛々と煙り立つ中に、優太は膝を着いた。
体内の邪氣が普段とは慣れない急激な運動に駆り出され、虚脱感と疲労感が四肢を蝕む。仁那が放つ青空を思わせる縹色とは程遠く、結の操る清浄の白い火焔とも対極である。
黒雷は物理法則などの概念を逸した超常の力。魔法による体内氣流の決まった流動、放出する際の然るべき操作などを受け、擬似的な自然現象を目前に発生させる。黒雷はそれらと明らかに異質だった。
優太はふと掌中に焼けるような痛みを覚え、自身の腕を見下ろした。皮膚の所々が煤汚れてはいたが、その下に軽微な火傷を負っている。右腕の手套は完全に焼尽し、小さい襤褸布となって地面に落ちた。
まだ力の制御が完全ではない所為で、本人にまで牙を剥くが、周囲の惨状から鑑みるに支配下に置けば圧倒的な威力がある。魔法や氣巧法、氣展法でも再現し得ない破壊だった。
生命を勦討した黒雷の爪痕で、優太以外に生存する気配が二つ動く。物音に優太の感覚が危険信号を発し、痛む全身を奮い立たせた。
優太よりも深傷を負った双頭と眞菜が立ち上がり、瓦礫に身を寄せてなんとか立っている。
「まさか……試行段階で、最大威力とは……いや、単に御せないだけか」
「だが奴も疲弊してる、今の内だ西吾!美しい顔、今!」
「美しいって……うちからしたら、あんなの……」
眞菜が優太を睨んで、視線が合って暫く経つとゆっくり俯いた。
「ぁ……ぇ……わ、悪くもない……かも」
「主様に申請すれば、死体にした後に私の死術で別の命を吹き込み操り保管が可能だぞ」
「……ぇ……く……」
「「んん??」」
「考えとくッ!!」
優太は目前で行われる会話に辟易した。
自身の首級や死後処理を玩具、奴隷に転じるか否かを相談する内容に、果たして嫌悪を示さず、況してや恭悦する者がいるだろうか。更に、彼等はもう優太に勝利した積もりでいる。歩行すら困難な満身創痍の状態で、勝機などあるのか甚だ疑問だった。
優太の損耗は軽度の火傷――その程度で戦闘に支障を来す訳は無く、問題は建御雷神を初めて行使した後の体内環境が芳しくない。次の策を十全に遂行するだけの体力を大いに削がれ、回避行動すらも危うい。
外見には無い重傷を抱える優太の苦痛を知らずとも、攻撃を再開すべく前に踏み出す二名。このままでは、彼等の夢想する未来図通りに死後の体を自由に解体されてしまう。邪氣の棍棒を片手に構えた優太に、二人が飛び掛からんと地面を強く踏み締めた。
優太へ突撃する為の跳躍の予備動作――しかし、彼等はその場で停止してしまった。全身の硬直に当惑の色を顔に浮かべる。標的の少年さえも判らず、交互に二人を見遣っていると、断層の上から飛び降りて現れた新たな影に全員の視線が募った。
「人間の擬死など、所詮自然界の獣と比すれば拙い児戯。北大陸の遣り手ともあろう者が、生死を司る死術を持つならば尚更、私如きに欺かれる様は滑稽だったな」
「ぜっ……ゼーダ!?」
義手を嵌めた包帯の男ゼーダが、その場を支配した。
× × ×
ゼーダが指先で二人の足下を指し示すと、そこに文字が浮かび上がった。微弱に発光しており、東西の表意文字にも通ずる優太でさえ判らない、これは呪術が中央大陸に航る前、即ち呪術の源流たる南大陸で使われた古代文字である。呪術師が発動の術式に用いるのは、主に旧ベリオン皇国時代の中央大陸文字。
呪術の効力は描かれる文字に依存するため、人伝に普及して行く内に本来の力が失われてしまう。故にゼーダは魔族の呪術師から得た知識で、他の呪術師より秀逸した技が使用できる。
尤も、魔法も呪術も心得の無い優太には、理解を呈する事は無く、ただ頷くだけだった。闇人としての特異性なのか、試行で魔導師や呪術師からの教育を一時期受けたが、元より体外の氣の操作を基本とし、人体においては代謝機能促進や身体能力活性化の術しか持ち合わせないため、基礎知識を教授しても、実技で修練は紛糾し始めた。
闇人の能力である、他者の体内氣流の操作を応用し、辛うじて擬似的な呪術を再現したが、微々たる効果しか無く、加えて過って殺害する場合が多かった。結果、優太は氣術師としての鍛練を積み、それらの弱点を補って氣展法を編み出したのだ。
優太の苦境を知って、擬死を中断したゼーダだったが、その助太刀が些か遅く、優太は恨めしそうに睨んだ。
「……死んだふり、ですか」
「そうだな」
飄然とした応答に、優太も嘆息する。
反省の念は、欠片たりとも無いのだろう。
「僕の危機に、ですか」
「優太ならと、盲信していた。現に瑕者は堕としたみたいだな」
「堕とす?」
「無自覚とは末恐ろしい」
ゼーダは隣で岩に腰掛けた少年を盗み見る。
二年前と比較すると、成る程たしかに変化は大きい。まだ無知で無謀で無邪気な子供の印象が強く、それ故に周囲から人が寄り易く、年の上下関係なく可愛がられている。
ゼーダの守護者時代、闇人暁が村へと優太を伴って訪ねた際、大人から村の子供まで多くから好意的に交流を求められた。恰も、曾て矛剴の皆に愛された薫の様である。
しかし現在はまだあどけない部分はあるが、陰鬱な雰囲気と二年前よりも凛々しく鋭い印象を纏った所為で、可愛い子供よりも美々たる貌に変わった。闇人暁を彷彿とさせ、二年前の印象が強い知人が今再会すれば、その変化に動揺は必至だろう。……花衣が憂慮絶えない理由を心底理解した。
「済まないな、騒音が続くと矛剴の疑念を寄せる。此所は死体に成り済まし、穏便に事の解決を図ったのだが……私を心配して帰路を急いだが為に襲われた優太を見殺しになどできん。無論、勝利すると信じていた。途中までは優勢だったしな」
「どうやって見てたんですか」
ゼーダが指差す樹上、張り出した梢に留まった鳥が目に入った。
「私が通信などを用途に仕込んだ鳥だ、矛剴の里を出てから愛用している……右目は私、左はビューダだ」
呪術による別個体との感覚共有――中でも、ゼーダが過去より愛用するのは、鳥と言うには少々奇怪な容貌だった。全身に茶の厚い羽毛は鷹に似るが、眼球は前方部分に向けてやや飛び出している。外敵を先んじて視覚する為に、鳥の目は広範を見回す為に頭部の側面にある。しかし、この個体は人と同じく、距離感を正確に測る為に前方向きとなっている。
そして、どちらも双子の守護者の隻眼をはめ込んでいた。拒絶反応による絶命を避ける為に、死体から己の欠損部分を補う習性を持ち、如何なる体質にも適応する鳥形の魔物――骸鳥を選択し、呪術による調教と訓練を重ねて実用した物。
優太は奇態な鷹の姿に、以前出会った優雅な輸慶の美容を想起した。
「輸慶とは大いに掛け離れた感じだ……」
「露骨に残念がるな。道具に拘泥すれば任務達成を妨げる。あの羽毛は、葉叢や建物にさえ紛れ易い体色だ。更に危急の際にも、素早く離脱する為の機動力がある」
「適当な事言って、僕を力尽くで納得させようとしてません?」
「……そんな事は無い。――兎も角、襲撃者の処理を如何とするか。即刻、始末するべきか?」
短刀を構えるゼーダを制止した。
瑕者と穢人、八咫烏以外に差し向けられた刺客としては初めての例である。出自も極めて異質、闇人と同様に神の『業』を継ぐ三つの種族から出る稀有な存在であり、彼らが持つ情報には重要性があるだろうと推考した。
「いえ、“向こう”の使者なら……少なからず、神族の趨勢や北大陸の内情にも詳しいでしょう。ゼーダに尋問を任せても良いですか?」
「優太も立ち合った方が能率的だが」
「少し休憩が欲しいし、それに…訳あって、明日から里の子供達の面倒も見なくちゃいけなくて」
「……何があってそうなる?」
ゼーダは凝然と前傾姿勢を維持する双頭と眞菜の眼前で、小さく唱える。優太には再び理解不能な言語で構成されていた。
二人はそのまま瞼を閉じて項垂れる。呪術《強制止》の暗示を三重に受け、ゼーダの解除があるまで昏睡状態に陥った。体を樹幹に、特殊な縄で縛り付ける。これも、南方海峡諸島の原住民族ニクテスから伝授され、魔法同様に丹念に呪術を付加した縄――呪装の道具。
氣術の技術は誰よりも優れ、魔法や呪術にまで精通し汎用性に長けるゼーダに、羨望の眼差しを向ける優太だったが、やはりまだ助勢の遅れた彼への怒りはあった。
「此所に保存しておく、突破しようとすれば、自動的にその動作なども俺に報せられる。何より、上には鳥の監視がある」
「一先ず安心ですね」
「心配を掛けたな。……右腕の手套も、台無しにしてしまった」
優太は自分の右腕を見て、珍しく悄然とするゼーダに慌ただしく手を振った。
「だ、大丈夫ですよ!また新しいの拵えれば」
「なっ……優太……?でも、それは……」
「翌朝に響花が来るので、新しい包帯と手套……布製の手甲が良いかな、注文しておきましょう」
優太は先に森の中へと入って行く。
ゼーダは茫然自失として、その場に立ち尽くした。襤褸布になった手套の残骸と、少年の後ろ姿を交互に見遣る。何よりも大切な婚約者から贈られた品を、まるで使い捨ては普通だと道具然に扱う。森に踏み入ってからそうだが、何かが可笑しい。
ゼーダの違和感は胸中で不穏な影を膨らませて行く。
彼の心情も知らず、下草を踏み分けて進む優太は、ふと進行方向に佇む獣の影を見咎めた。雄大両翼を拡げたかの用な角を掲げた体躯は、泰然と優太の到着を待っている。
「……麋?」
優太の声に、その麋が静かに口端を持ち上げた。
アクセスして頂き、誠に有り難うございます。
次回から子育て+問題児の登場となると思います。優太の修行描写も書ければ、と考えていますが、どうなるか判りません。
次回も宜しくお願い致します。




