矛もて剴る者
北大陸の中央部には、虹色の色彩を咲き誇らせた絢爛たる花園があり、穏やかな風に舞う花弁が空中で折り重なって、一匹の蝶へと変化する。あまりに強い生命力を含有する土壌は、根を張る植生に影響を与え、葉や茎の隅々まで行き渡って小さな命にすら異様な力を宿らせる。
大気を常に緒を引いて過る発光体は、黄泉比良坂を目指し、世界各地から集う霊魂。その経緯は天寿を全うした安らかな死、身辺を急襲した理不尽による死、歩んだ道が如何に紆余曲折として違えども、辿り着く場所は等しく定められている。北大陸は神々の住まう場にして、魂が昇華され、世界を管理する要所。
何人たりとも不可侵とされる清浄の地は、今や戦場となる予定である。然れど、そんな殺伐とした未来を約束されながら、穏やかに草木は風に憩い、蒼天に馳せる霊魂の往航に寸分も乱れは生じず、これから血や肉塊で穢れ、蹂躙の限りが尽くされる戦野とは縁遠い安寧を湛えたままだった。
あらゆる生死や清濁の混沌を避ける管制を敷くのは、花の咲き乱れる野原を北に抜け、弧を描く奇怪な水晶の先に建つ巨大な神殿。林立する支柱に迎えられ、前庭の段差を越えて奥に入れば、普く総てを統べる神族が拠点とする都――シラス国が広がる。
一条の中央道が神殿内部の宮殿へ続く他、多数の区画に繋がる基幹となっており、神代より仕える部族の他、多種族などによる文化を内包する風体であった。人々の諍いに裁定を行う裁判所、北大陸の豊富な氣を用いて加護を授かる武具や道具を製作する工業区画など、それぞれの特色を持つ区域が点在する。
北大陸周辺の海域に展開された空間圧縮の結界と同一の力は、この神殿自体にも付与されており、外観を裏切り都を収納する空間となっていた。無論、その根源は神々の力であると語るべくもなく、己の安寧は至高の存在によって与えられた恩恵なのだと居住者は信仰と忠誠をより強固にする。
だからこそ、高潔な大地に侵入する不埒な輩を断固として赦さず、神の加護を受ける種族は目先の戦に何よりも闘志を滾らせていた。士気は充分あり、如何に敵軍が善戦しようとも損なわれず、血の一滴まで神の勝利に捧ぐ、その狂気じみた志の下に団結力もまた比類なき強靭さとなる。
街に鳴り響く喧騒は、敵を討滅する者の戦支度。神聖な才力のある存在が種族の長となり、神族直属の臣下となって使命を帯びる。彼等は神を護る者――守護聖天と畏れ敬われる。
召集を受けた臣従する部下達は、宮殿前に参上して主の登場を一切の焦りも高揚すら見せず、沈黙を保って面を伏せて待機した。強壮な戦士の相が列する宮殿前は、市街とはまた異質な空気を醸し出し、目には見えずとも劃然とした線を引いている。
彼等の思考は、神の成す事こそ世界の望む形と信ずる使徒。喩え自分達が消滅するのであっても、神が示す未来に不適であるとするなら、それは摂理であり粛々と承るべき厳命。故に別の大陸より押し寄せる猛者の戦陣より轟く鯨波の声にも、一抹の畏怖すら抱かず、我が剣は神意の矛と解釈して邀撃に出る。
種族間の確執や軋轢という些末な問題など愚の骨頂、昨今の遺恨を棄てたとはいえ、北大陸の威と比すれば烏合の衆と冷嘲するのが当然。だが侮るべからず、武器を執るならば生殺与奪に性差も異種も考慮の内には不要。偏りない視点で相手の実力を推し量り、相応の力を充てて滅する以外を意図せず。
骨の髄まで兵としての心得を備える武力こそ、この世の勝者としての真理、強者としての摂理、覇者としての条理。守護聖天の面差しに翳りは無く、世界の命運を握る一端として相違ない気迫を持ち合わせていた。
忠誠心の篤き臣を待たせ、宮殿の奥にある礼拝堂の入り口で、純白の衣冠を纏う神族の長兄――軻遇突智が静かに佇んでいた。右方に天隠神を象徴する瀟洒な祠が建ち、対面には魔術師を祀る祠が同様にあり、そちらに掌を合わせて祈る男の後ろ姿に視線を注ぐ。
礼拝堂に射す光の作る陰影すら呑み込むかの様な闇を纏う黒装束の男――暁は、もう数分もこうして瞑目して、合掌をやや俯かせた面前に持ち上げたまま静止している。脳裏に何者を思い浮かべたが、誰を想い黙祷するのか。その詳細は把握できない。
漸く立ち上がった暁へと歩み寄る。軻遇突智は一瞬だけ後方にある天隠神の祠を一瞥し、嫌悪で顔を歪ませた。暁の祖先でもあり、自分にとっては死別してなお未だ払拭しきれぬ憤懣を懐かせる存在だ。
暁はその心情を知るも、諫言も嘲笑も見せず冷淡な面差しのまま、礼拝堂を後にしようと黒衣の裾を翻した。
「貴様の弟子――たしか優太といったな?」
暁が足を止め、肩越しに軻遇突智を見遣る。反応は希薄だが、どこか真意を探ってその瞳の奥が揺らいでいた。黄昏色の複眼と、琥珀色の双眸が静寂の中に鋭い光を放つ。
礼拝堂の重々しい空気をさらに緊張させており、居合わせる者が在ったなら、呼吸を忘れる処ではなく早い解放を望んで自害すら選ぶ圧力があった。此所には世界の頂を掴む二名、その衝突によって生み出される被害規模は、一つの大陸にすら及ぶ。
軻遇突智は僅かに口端をつり上げる。暁が生涯で唯一、誰にも与えなかった寵愛を剰さず注いだ愛弟子。云わば、彼にとって最高傑作であり至宝に等しきモノ。
「叛逆の徒なる矛剴の住処に行ったそうだな。此度の戦でよもや我が敗けるとは思わんが、貴様と同じ闇人となれば油断はならぬ。此方で手を打っておいたぞ」
「……刺客」
「天照も須佐命乎も通用せぬとなれば、彼奴しか無いと考えた」
軻遇突智が言外に滲ませる存在、それを読み取って口にする。
「瑕者、穢人」
「そうだ、闇人の建御雷神に対抗する甕速日神を宿す。奴ならば、貴様の弟子との相性も考えて、神族より悪戦苦闘は必至」
愉悦に笑う軻遇突智は、しかし感情の色すら見せぬ相手の反応が気に入らずに、直ぐ様その形相に不快感で皺を刻む。我が子も同然の弟子を今から狩りに行くと宣告しても動じぬ態度の真意が知りたい。
振り返った暁の目が真紅の輝きを灯す。軻遇突智の母が黄泉國で主神から収奪した力、虹彩に顕れた変化に自然と警戒してしまう。共同戦線を張る者とはいえ、背を見せる事は躊躇った。
「優太が敗北する事は無い。軻遇突智、お前が講じたのは敗着の悪手。闇人の真髄は与奪、甕速日神を敵に譲与する愚策だ」
「……勝敗は決していない、予断は許されぬぞ」
「如何なる難事にも挫けぬよう育てた、過信でも期待でも無い。これは必定、あの子が成長する試練」
暁は礼拝堂を先に出る。遠ざかる後ろで、軻遇突智が荒々しく床を踏み鳴らす音がした。
優太は闇人でも稀有な学習能力の高さ、何事に於いても始点は誰かを師事し、しかし独学で修練したかの如く独自の技巧を発展させ、何れは師に追随するまでに熟達させる才を秘めている。暁が武具の手習い、体術や狩猟などの生存に必須とされる技術を叩き込んだ時も、その著しい吸収速度と高い実現精度を持つ高性能さだった。
闇人としての実力は平均的であっても、習熟と実用性に関しては秀逸している。単調な作業も決して驕らず、怠らずに行える姿勢は、それこそ感情を取り除かれた闇人の機械作業とは些か異なり、それでいて優太唯一の強みだった。
無論、本人が真面目な気質であるのもそうだが、何よりも師である暁に認めて欲しい、誉めて欲しいと一心に思うからこそである。
暁は微かに微笑み、遠い地の弟子に健闘を祈った。
× × ×
赭馗深林の奥深くに豁然と切り開かれた空地で、件の里は営まれていた。厳寒期に耐える為の準備がそこかしこに施されてはいるが、扉の無い粗悪な家屋の建ち並ぶ集落に似た景色。
里をぐるりと丸ごと呑み込む樹林は、里に面する部分が伐採され蘖の顔を覗かせる切り株ばかり。北の方角には、大蛇が頭を擡げる様な崖が立つ。麓には洞穴のあり、内側は墳墓などを有する石窟があり、岩盤を砕き拡げた玄室と墓守の住居が併設している。
山里とあって、整然と区画整理がされている事は無く、道脇に雑然と家屋が建ち、一軒と隣接する家屋との間隔はどれも不規則である。広い場所には田園が設けられ、既に麦の収穫が近い実を見せる小麦色の柔らかい絨毯が生まれていた。
国の援助を受けていないにも係わらず、川水を引いて敷設した水道により、作物の成長に欠かせぬ水の供給を行う灌漑農業を成立させている。外界と接していないが、効率的な技術を持ち合わせていた。任務で出た矛剴がその過程で密かに知識も収集しているのだろう。
しかし、道々に賑わいを見せるのは、子供が児戯に笑声を上げて駆ける音。赤熱の錬鉄に鎚を打つ鍛冶、粗朶を背負子いっぱいに載せて斜面を進む屈強な男達が居る。一見して誰もが平穏な村だと解する眺めであった。
所々に躓きを誘う隆起した岩石などを足場に利して、急な山道に生い茂る下草を踏み分ければ、里を横断し複数に分岐する道の始点となる入口に到着する。
街に済む人間で死期迫る老身には厳しき地勢だが、この里に居る老人等は難なく坂を往来しており、普通ならば他人に預けて目的地までの荷運びを任せるであろう重量の物さえ軽々と運搬した。それは山地に住む民が環境に適する為に自然と鍛えられたからか、或いは彼等の秘する特殊な技術の効果かと考え、優太は恐らくその両方であると察する。
日々の生活の根底にも、氣術が関わる風土は初めての来訪といえど、優太の奇妙な親近感を誘う。幼少を此所と同様に外界と隔絶した環境となる森林で暮らしていたからこそ共感を得られる。否、その感覚も優太自身が氣術師である事を端緒としているのだ。
里の各所には形は個々で異なるが、地表に魔石と思しき水晶体が突出していた。七色の色彩に瞬く光を内に宿し、人が近くを通過する度に淡く発光する。迷宮の照明に用いられる魔石にしては、しかし大きすぎた。
透は里の様子を見渡し、何かを訝って目を細める。数年も不在にしていた故郷に些か変化を感じたのだろうと優太は思ったが、そんな素朴な感想とは大いにかけ離れた、もっと別の違和感に捕らわれていた。
優太を伴う一行が里の道を歩けば、周囲の人間から微かに騒めきが起きる。予想に違わぬ光景に二人はただ里の風景を目に焼き付けた。二度もこの地を襲撃し、甚大な損害をもたらした悪敵こと闇人の存在を目の当たりにして、平静を装える心構えのある人物は居ない。
何より、優太の携える杖を見咎め、怖じ気を震って元来た道を逃げ帰る者さえあった。先代の暁が刻み付けたモノは確かに大きく、後継者である優太の代にまで効果が持続している。里を偏見無く見定めに来た優太としては、出始めとして幸先の悪い様相だった。
尤も、慴れる以前に怨恨の眼差しと呪詛が、此方を見詰める者達の影より暫々(しばしば)覘いている。いつ奇襲を受けても可笑しく無い、始めから先の苦難を予測させた。
一行は里の東端――道の終端にある矛剴本家の住居が構える領地で、道の途上には石垣を設えた高い段差があり、傾斜路を登れば一際大きな屋敷が佇立する。二階より張り出しとなっている長い縁側は欄も無く、列柱が下から支えた外貌。玄関には、この里では唯一の引戸の扉が付いている。
当主への挨拶は、到着してより暫し後だと漠然と考えていた優太は、もう既に面会の準備をあちらが済ませているのだと了知して驚いた。ゼーダに変化は無いが、恐らく前身頃を閉じた外套の内では短刀の把に指を軽く絡めている。
優太はここに来ていつになく緊張した。
今回、お互い敵視する関係でありながら、その遺憾などを取り払い、寛容に優太を招聘したのは、生誕と共に僅か三週間で生き別れた兄であった。今は矛剴当主の座に坐す者であり、此所に来る以前ならば優太にとっては当面で最大の敵だと見なしていた存在。
今の矛剴は周辺で未だに燻る戦火の種を育て、大陸で起こる事の推移を静観する姿勢を維持している。優太に西国首都襲撃の策謀を阻止された挙げ句、相棒の結や蹶然と現れた仁那によって、更なる隠謀は悉く蹉跌に終えた。反乱軍の幹部や赤髭総督と連絡経路を持っていたが、唐突に擡頭する異例の勢力が先の劣勢を運ぶ不慮の一矢。
優太を里に呼んだのも、何らかの企みの一端かもしれない。血を分けた兄弟としての情を巧みに利用し、手駒にと率いれる好機と見るなら、その時こそ矛剴とは訣別を即断させられる結末だ。
屋敷に入れば、案内人は玄関で去ってしまった。警護及び監視の名目で付けられた数名の離脱、これから優太達が屋敷を強襲しても鎮圧できるという示唆か、警戒は無いと内懐に招く体勢がなお懐疑的に思わせる。
この放置された状態で幸い、ゼーダが屋敷の構造について知っている。恐らくは屋敷の二階の奥にある当主の一室で迎える積もりだと推測した。
「奴等に感知は無為だ。身を潜める物陰は多いぞ、罠の可能性は十二分にある」
「大丈夫……視てみます」
「……あまり酷使するな」
優太は杖を握り締め、右の瞼を閉じた。
千里眼の能力を行使すれば、物体に遮蔽されても容易に潜伏する敵影を暴く。右の眼球に集中する体内の邪氣が視神経で独特の運動を開始する。血管内で異物が蠕動する様な感覚に耐えて、ゆっくりと眸を開く。
黒い眼の内で深紅に光る虹彩が、優太の視点を合わせた部分の壁を透過した。遠隔地の視認以外に有する力で、屋敷の全景を確かめたが敵意を滲ませる暗影は別段見受けられず、瞼を下ろして千里眼を解除する。
首を横に振る優太は、この警備体制も刺客も無い歓迎の真意は何かとゼーダに見解を求めた。自分を籠絡する為に、快く招き入れる為ならば不思議である。玄関で説明も無く警護は解散し、屋敷の案内もせず放置した。
ゼーダは、己が矛剴に所属していた時期、優太を出産する薫の護衛として勤務する都合で屋敷内の構造を記憶していた。それを死って自分に案内役を言葉無く一任したのではないか。裏切者にすら寛容に遇する、その底意が全く読めない。
優太は先に、草履を脱いで上がった。背後はゼーダが警戒しつつ、前に進んで行く。無音の屋内に響くのは後ろの――ゼーダの足音のみ。それ以外に敵の動きを示す手懸かりは無いか、目耳を鋭くさせた。我知らず闇人の感覚器官をより繊細にする訓練を師承し、微かな物音、火薬の臭いやあえかな水の濁りを精緻に看取する術に長けた己の力量を存分に行使して探る。
ゼーダの指示があって進む通廊は、依然として敵に遭遇する事態も無く、二階へと無事に上がる。不気味な静寂が、今しも破られて襲撃者が現れないかと気を配った。未だゼーダは、この無警戒で待つ当主の魂胆について思料する。
此方がただ邪推しているとは到底考えられない。床に設置し接触した足から効果を発揮し幻覚を見せる感染呪術、または足を踏み入れた事すら実感させず対象を幻惑させる高度な迷彩結界でも仕込んであるのか。矛剴にも呪術に精通する者がいるとは、自分もその例に当たるから判る。
だが、優太の如何なる陥穽も看破する千里眼の透視能力で、予め確認した際に結界や呪術の仕込があれば異変として視覚に訴えられる。二階に上がった際も千里眼を発動したが、また罠と見受けられる怪しい反応は無かった。これを欺ける呪術など存在しない。
ゼーダの足が止まる。
一枚の襖を隔てた場所が、どうやら当主の間。優太は襖の引手を掴み、一度だけゼーダの方を振り向いて頷くと、そのまま横へ勢いよく開け放った。乾いた音を立てて全開し、その瞬間に短刀を抜き放ってゼーダが前に出る。
閾に踏み出して止まり、周囲を見回す。
一室には、一人の少年だけが待っていた。座布団の上に胡座を掻いていた足を叩き、悠々と立ち上がって来訪者二人を迎える。その緩慢な所作にもゼーダは眉間に深い皺を刻みながら、どこか悲しげな情念を瞳に映す。
「遅かったね、でもご足労頂いて感謝するよ」
優太が進み出て、室内で自分を待っていた相手を正視する。
梳かれた綺麗な黒の短髪だった。此度の面会の為に急遽手入れを入れたのではなく、普段から施されている青みがかった光彩を帯びる。
兄弟であるため似ているが、目付きは優太よりも柔らかく誰からも好意的に見られ易い面相。
白を基調とする装束であり、紋付袴は臑から足の後部を包む辛子色の脚絆で裾を絞り、矛剴を象徴する烙印の模様が同色で羽織の背に刺繍された物を着る。
腰に帯刀するのは、赤い把と鞘の太刀。相手の剣を一合で損壊させる、云わば剣圧の重さに趣を置く紫電清霜の武具である。
優太とは好対照な印象を受ける瀟洒な出で立ちであり、ゼーダは数年も別行動であった故にその成長に複雑な心境だった。
「初めまして――俺は煌人。今回のお招きに応じてくれた事、そして再会出来た事を嬉しく思うよ……弟」
兄――煌人より差し出された手に戸惑った。
彼が伸ばすのは右手――即ち握手の求めに応じるには、自分もまた右手を出さなくてはならない。優太は神樹の村で嫌厭されていた所為もあり、こうした友好の意を示す接触でも黒印のある右手を自然と避けてしまう癖があった。
相手に右手で触れてはならないという怯懦、旅の中で幾分か緩和していたが、相手から何気なく差し出された手が右であると解した途端に固まってしまう。
しかし、煌人の右腕の肩から手背にかけて伸びる白印を認めた。経緯も意味も違う上に異色といえど、同じく神から受けた烙印。同じく数奇な運命を背負う人物なのだと心底から感じた。
逡巡した末に優太は握手に応えた。
「こちらこそ」
× × ×
広い室内に現在は四名が座る。
黒装束の優太、全身包帯のゼーダ、矛剴当主の煌人の他、煌人の従者として新たに入室した男性である。
矛剴分家は隱影――十二支の一柱『辰』を務める康生。小太刀を二振り背刀した美丈夫。空色の毛が混じる黒髪、頬に青で菱形の模様を入れている。目鼻立ちは整っており、煌人の側で粛然と構える姿は騎士であったが、血色の悪く死体かと見紛う灰色に黒ずんだ肌がその美貌を相殺する。
襷で青鈍色の袷の袂を絞り、中に七分袖の鎖帷子を着込む。灰色の袴の帯状に捲った裾を紐で縛り、臑を覆う長い足袋を履いていた。
ゼーダに冷たい眼差しを送る彼は、時折優太にもその冷然とした感情を向け、無言のままに嫌悪を示す。成る程、矛剴当主の護衛として一室に招かれる程の信頼を置かれるのは、矛剴の矜持に心酔し、それが紛れもない正義だと掲げる者だ。だから裏切者二名を前にして平静を装う積もりは毛頭無く、予め煌人の注意がなければ今にも斬り掛かっていただろう。
優太は胡座の状態で落ち着かず、脚絆の土踏まずに掛かる部分を指で弄んでいた。その態度がなお気に食わないのか、康生の眼光は益々厳しくなるばかり。ゼーダは仮に主命に反してでも、優太に危害を加えるならば即座に討ち斃そうと観察している。一触即発の空気の中で、煌人だけが悠長に茶を啜った。
「優太、二年前より男前になったな。言い寄ってくる女の数も増えたんじゃないか?ああ、俺は兄さんと呼んでくれて構わないぞ」
この碎けた姿勢に優太は若干気圧されながら、ゼーダと康生の雰囲気を横目に応答する。この状況で気儘に雑談を交わそうなどという煌人の精神を疑うが、自分の命令には逆らわないという絶対の自信があるからこその余裕綽々とした態度なのか。
そうだとしても、康生の気迫は果たしていつまでも抑えられるものとは思えない。今にもこの裏切者を糾し、罰したいと小太刀に手を掛けん勢いがある。
「あき……兄さんは、僕に矛剴の現状を識って、どうして欲しいんですか?」
まず訊ねたい本題を口にした。
矛剴を見て欲しい、その希望に応えて訪問したが、果たして優太に彼等の実態を見聞きして何を感じて貰いたいのか、何をすれば良いのか、その点の説明については全く無かった。
簡潔な伝言であったのもあるが、言外の含意を察するには些か事足りない内容である。
「簡単だよ、ただ知って貰いたい。その上で、優太が俺達と対立を改めて選択するのか、それとも我々と共に来るか、或いは大陸と我々に協定を結ばせたいのか。
闇人という特異な身分とはいえ、同じ矛剴であり我が唯一の兄弟。だからこそ、今回は優太に故郷を見て、その先にどんな回答を得るか、単なる俺の興味だよ」
「……あれだけの事をやって、僕に報復される可能性は考慮しなかったんですか。こうして至近距離で顔を合わせた瞬間を狙うと」
「それなら、康生と全力で迎え撃つさ。ただ、優太もどちらかというと、矛剴の事実を知りたいだろうから、俺達を害する事は無いと思っていた」
あれだけの事――花衣を自身の手で殺害させる兇手を繰り出した矛剴。未遂といえど、後一歩という際疾いところまで追い詰められ、優太は愛する人を喪失する寸前だった。内懐に招かれるは好都合、当主の首を獲る返報に凶刃を振る未来がまず危惧の一つとして浮かんだ筈だが、煌人は危険と見なしていない。
弟もまた好奇心、矛剴の真実を己の目で確かめに来るという動悸で訪れると確信していたのだ。自分の安全を確固たる自信を持って迎えていたのが些か業腹ではあるが、優太は隣に安置した杖に手を伸ばさなかった。
それから暫くは一方的な質問攻めに遭い、優太は引き気味に対応し、ゼーダと康生は依然睨み合う姿勢を維持する。牽制し合う護衛の両名を会話の途中に盗み見て、煌人は小さく笑っていた。
一通りの会話を終えると、自分の疑問を大方解消したのか、快活な笑顔で膝を一度叩くと、優太と康生を一瞥する。
「さて、次に優太の現状――現時点の実力が知りたい。この康生と今から闘って欲しい、無論手加減抜きだ」
唐突な提案に、三人が驚愕する。
此所で戦闘、それも手加減抜きとは優太達を激しく憎悪する康生にとっては、虐殺を許可されたも同断の言葉であった。獰猛に微笑み、即座に座布団から立ち上がって優太を催促する。その手は既に小太刀へ伸びていた。
此所で戦闘を催すなど狂気の沙汰、再会した弟の死傷すら仕方無しと判定する危険な試合である。実力を知りたいとはいえ、安易に提案しうるものではない。
ゼーダが代行を務めると申請する前に、優太が制止する。杖を片手に部屋の中を移動し、康生と三丈の間隔を空けて正対する位置に立った。十二支の『辰』を担う猛者、得物は見えているが強敵となる実力者と想定して構える。
康生は小太刀を抜き放ち、戦闘開始の合図を待つ。煌人の裁量で行われるが、そこに不満はなく優太も杖に手を添えて低く身構えた。突然実力を測るといった煌人の突飛な行動に動転したのも束の間、既に二人は静かに相手を見据える。
純粋に十二支の実力を把握したい優太と、過去に先代の非行によって生まれた一族の怨恨を晴らさんと、もはや生かす余地無しと息巻く康生。殺意を滲ませる『辰』の戦士にも、少年は極めて冷静な面持ちである。
矛剴分家の一つであろうと太古より連綿と続く武術の一族で、最強の一人と認められた人間。軽視して剣を打ち合わせれば敗北は確実。
固唾を呑んで静観するゼーダの前で、煌人が二人の様子を交互に確認した後、大きく開いた手を面前で打ち合わせた。
「よーし、始めっ!」
床を強く蹴り、優太の直近まで間合いを詰める。間隔を潰す速度は目を瞠るが、その敏捷性は高い訳ではなく、一足の距離を調整し長短や速度の緩急を僅かに交える事で相手の感覚を幻惑する工夫であった。
それらを看破し、敢えてその場を退かず優太は泰然と芯を据えて迎える。小太刀と仕込の刃圏は殆ど同じ、互いに敵を滅する一手が有効となる距離が一致しているとなれば、接近を拒絶したところで勝機は無い。
康生が左の小太刀を連続で突き出す。間断無い刺突の嵐が正面から襲う。貫通を意図しながら、引き戻す際に小さく振るって外傷を加えんと別の攻撃を織り混ぜる。間合いを錯覚させる接敵、相手の予想を裏切る奇策が『辰』の真骨頂であった。
対して、優太はそれを悉く上体のみを柔軟に動かして躱す。鼻先を迸る紫電にも怖れず、淡々と常に変化する攻撃速度に洞察している。最速の刺突と、初動で体に現れる敵の僅かな偏りや癖を目敏く、凶器を振り翳されながら強かに見極めんとした。
康生は自身が軽くあしらわれていると悟って憤慨する。半身だけを晒す構え、的が細い上に速い。幾ら工夫したとしても、単調な刺突では困窮してくる。横薙ぎに振れば、相手は防御か或いは後退以外に選択肢は無い。前者ならばこちらがもう一刀で仕留め、後者の場合は即座に踏み込んで体勢も立て直させる隙も与えずに追撃可能。どちらに転んでも自身が有利だと確信する。
面前で斜に交差させた二刀を一閃する――その直前で、内懐に電光石火の踏み込みで滑り込んだ優太に、突き出された杖の石突に下から打ち抜かれた。厳密には顎をやや斜め下より強か打擲されており、軽度の脳震盪を引き起こす。
膂力は自分よりも弱く、体格の差は即ち耐久力の差に転じるため、尋常な肉弾戦での拳撃や武具による打撃でも容易に脳を震動させられる例は少ない。だが、この少年は偶然ではなく事もあろうに、瞬時に相手の姿勢や重心から、相手の身体に多大な効果を与える要所を判断し、適度な力に加減し正確に衝く。それが例え、達人の振る剣の猛撃に襲われていたとしてもであった。
それでも、まだ腕を振り抜く余力はある。歯を喰い縛り、攻撃をそのまま放たんとした時、またしても少年に打撃を加えられて止まる。今度は小太刀を掲げる両腕の肘窩。右は手刀を叩き込み、左は杖。攻撃を開始寸前で阻止された。
康生の戦闘経験では該当しない不可思議な敵。どの型にも分類されない戦術、大翔の片足を切断し、十二支で最も強いとされた『巳』を撃滅した強者の本性が、今になって垣間見える。
顔が撥ね上がって見えなかったが、優太はその場で小さく飛んで身を翻しながら振り上げた踵で、康生は再び顎部に追撃を喰らう。今度は上下に大きく揺すられ、頭蓋の内で震えていた脳が更に暴れ、もはや意識すら半ば薄れる。全身にうまく力が入らない。
優太はその反応を敏く察知し、着地して康生の膕を蹴り抜く。後ろに崩れる体に手を添え、その襟を摑んで床へ叩き下ろした。後頭部を激しく打つ鈍い音が響く。康生はこの時、完全に意識を断たれ、膝立ちのまま上体だけを後ろへ倒した様な体勢で眠った。
理解の追い付かぬ戦況、それを加速させる優太の戦法に終始惑わされ、何の抵抗も出来ずに敗北する。意識を回復した時、慚愧に打ち震えるか、だが含羞で自害すらも考えられる。
しかし先の事など関心の外にあり、優太は倒れた康生を介抱せず、杖を軽く一旋させて煌人に視線を投げ掛ける。即座に試合終了の合図が出され、勝敗は完全に決した。
ゼーダは瞠目し、瞬きを繰り返す。白眼を剥く戦士の無様な形相があまりにも機会だったからではない、一族の内でも高い実力を誇る一人を優太がたった数秒の内に気絶させた事である。如何に強力でも、規格外と称される怪物でなければ、僅かな時間内で矛剴十二支を倒すなど荒唐無稽な話。
煌人は拍手を送りつつ、凄然と微笑んだ。
「成る程……ね」
これが優太の実力。本気を引き出すには足らなかったが、確かに戦場で練磨された身は、二年前に大翔と一騎討ちを果たした時分とは遥かに違う。
矛剴の名に相応しき、その全身を武器に変換したかの如き戦闘技術であった。
優太はあまり乱れてもいない服の襟を正してから、再び座布団の上に戻る。その意中に康生は無く、煌人を真っ直ぐに見詰めていた。
「これが僕です。次は何をすれば良いんですか?」
煌人は朗らかに笑んで、ゼーダを斜視すると観戦の熱そのままに語り始めた。力量は申し分無し、これで他の十二支も優太に余計な行為を働かない。身の安全を保証する為に康生は護衛ではなく、生け贄として選出された。
優太に討たれると予想していたが、本人が殺さずに放置しているため、煌人もそれ以上の無粋な手出しはしないと決める。
矛剴を視察しに来た弟へ、次なる願望を口にする。
「実は優太に――人材育成を頼みたい」
アクセスして頂き、誠に有り難うございます。
突如として勃発した優太対康生ですが、少し早すぎて内容が浅薄だった気がします……が、物語を進めていきたいと思います。
次回も宜しくお願い致します。




