祐輔の昼寝~忘れられぬ日~
西国南東部の山地。
山岳都市ロブディに居を据える知慧の一族。その邸宅の屋根上で陽光に蒼い魚鱗を濡らして安眠を貪る龍――祐輔は、口端に涎を垂らしている事さえ気付かず、鼾を掻いていた。
連日の曇天から姿を見せた太陽は、祐輔を昼寝に誘い、周囲に集る鳥獣を威嚇で斥けて寝床を作らせた。他の生物が憩うのも許さぬ蛮行に及んだのは、すべてが天に坐す暖かき光源の仕業と妄言を宣う。
カルデラの邸宅、その屋根の建材は祐輔には快適な居心地があり、祐輔は人間が自分を襲撃している端で研鑽を積んで量産した物だと揶揄しながら、嬉々として昼寝場所に選らんでいた。此処からは植物園のある裏庭を眺められ、暁が出立する前に気付いて行ける。
欠伸をひとつして目を醒まし、首を回して軽く体を解す。眼下の景色に二つの影が歩を進め、植物園で何やら騒いでいた。否、騒音の如き声を立てているのは一人である。
黒衣に身を包む女性――響は、背景を陽炎で歪ませんばかりの怒気を全身から漲らせ、目前に跪かせた男にその矛先を定めていた。
説教をウケる男――暁は、反論抗論異論を一切許されず、その場に頭を垂れているが、気拙そうにする。
――また、か……。
祐輔は呆れ半ばに、自分は屋根に隠れて静観する。怒声でありながら玲瓏とした声音、しかしそれが本能的に、この祐輔でさえも怯えさせた。今はただ、それを一身に浴びる男を憐れむ。
「ねえ、何度言ったら判るの?」
「…………」
「勤務時間外だから、その間の修行も許可したけれど、場所と時間を考慮してってあれほど厳命した筈だよ。それなのに……また……」
「……済まない」
響が気に入った植物を育てる、云わば趣味の場でもある植物園は荒れていた。恰も嵐の過ぎ去りし後であるかの様に、其処に根付いて成長の過程にあった生命が散乱する土と共に無惨に倒れている。
暁が修行で氣術を展開した際、それは彼の不注意ゆえの事だったが、残酷な事件は起きた。折角入手し、後少しで花を咲かせる筈だった物が吹き飛ばされてしまった。これを己の能力で再生させ、証拠隠滅を図った暁だったが、響の書斎はこの植物園を見下ろせる位置であり、その行為すら見咎められたのだ。
取り繕いも、保身の為の欺瞞すら通用しない。潔く受けると覚悟した暁だったが、彼が最も恐れる響からの説教は、やはり精神的に堪えている。
「折角……植えたのに」
「響、俺の能力で……」
「それじゃ意味無いよ。純粋にわたしで育てた達成感を得たかったの」
厳しく睨め付ける響に、その先の言葉を飲んで消化する。自分の罪は何を以てしても贖えない。この失態を清算する術を他に探りたいが、響が喜ぶ事に関する考察で、彼が得られる解答は無かった。如何に自分が他人の趣味や私生活に興味が無いか、それを痛感する空しい試みに終える。
しかし、暁は一つだけ響が僅かでも機嫌を直す方策を知っている。使用頻度は多いが、それでも効果が薄れた例は無い。
「………………響」
「何?許してあげないから」
「もし、業務に差し支えが無いのなら、今度の休暇を俺との時間に充ててくれないか?」
「え、え……な、何で……っ!」
矢庭に顔を赤らめ、響は勢いよく振り返った。
そう、祐輔は知っている。暁との何気ない外出や散歩を何よりも楽しみにしている彼女の性質、それを逆手に取った、暁唯一にして絶対の一策。これが無効だった事など一度たりともない。
しかし、業務以外の約束事に関して暁が守れた事も同様に無かった。喜んでは空振り、それが一連の流れであると何度も経験しながら、暁も響も学習しないのである。
響が灰色の双眸を揺らし、所在なさげに組んだ両手の指を何度も動かす。暁はその反応より効果覿面と知って目を眇めた。
「服の丈が合わなくなってきた。採寸をしに行く、同行して欲しい」
「う、うん!絶対だよ、厳守だからね?」
「約束する」
「暁、黒服しか着ないんだから。もう少し見映え好くなる様にお洒落しよう」
「…………善処する」
「守れない事になると、そう言うよね」
祐輔は微笑ましい二人の雰囲気にも鼻を鳴らし、二度寝を始める。
結果的にその約束がどうなったか、言うまでもない……。
× × ×
春が近付く頃、いつもの様に眠ろうとしていた祐輔の下へ暁が現れる。屋根上で龍と人間が会話をする奇妙な絵面が完成していた。
「祐輔、外出するがお前は来るな」
『理由無く言われるとカチンと来るぜ』
平時の汚れた黒衣ではなく、新調した黒い詰襟の服に着替えていた。彼にしては珍しい。
その様子に瞠目する祐輔の反応は予感していたのか、暁は改めて自分を眺めて嘆息する。
「結婚披露宴に行く」
『誰のだよ、まさかテメェじゃねぇだろうな?』
「響の友人だ」
『オレ様、行っても大丈夫だろ?』
「来る理由が無い」
『肉が食える』
「観るだけだ」
『チッ』
舌打ちする祐輔を見下ろしていると、響が下で待機していた。何やら屋根上で誰かを会話をする声がある、しかし響からは祐輔の姿は目視出来ず、暁の独り言にしか見えない。黒衣の裾を翻し、跳躍して隣へ軽やかに着地した随身の姿を見回す。
暁は足許や袖を鬱陶しそうに引く。普段は袴や単衣の彼の体格が判る服装となっており、響としても見慣れぬ姿形に相好を崩す。強引に結婚披露宴に誘った甲斐があったのだ。護衛として求めると、渋りはしたがこれを受諾した。
「結婚披露宴、何で行きたく無さそうなの?服の所為だけには見えないけれど」
「……危険性がある、それだけだ」
「何の?」
怪訝な響に答えず、ただ沈鬱な面差しほ暁の足取りは重く、しかし音はしなかった。
『それ、見た事か』
結婚披露宴が行われる屋敷の上より、祐輔が会場となる庭園の景観を見下ろす。その一劃では女性が集まって黄色い歓声を上げている。その正体が何であるかは、祐輔の予想に違わなかった。
普段は目立つ事の無い暁の隠密性は、東国風の黒衣あってのもので、身嗜みを整えて人前に姿を晒せば、生来の秀麗な容貌が明るみに出てしまい、異性としては興味を惹き付けられてしまう。
更に、あの響の随身とあって肩書も充分であり、既に庭園では彼を争奪する静かな戦端が開かれていた。こういった貴賓も集う宴での処世術に疎い暁は、終始この自分に詰め寄る女性の気迫に圧され、無表情ではあったがその掌には冷や汗を掻く。
響はその様子に頬を膨らませるが、次々と会話を求める高官の対処を丁寧にこなす作業で手一杯であった。
『何であんなのがモテるかね……』
祐輔の眼下で、暁は猛攻を受けている。
「失礼ですが、年齢は幾つなのですか?」
「……二十、です」
「カルデラ当主の右腕、さぞやお忙しい事でしょう!因みに、恋人などはいらっしゃるの?」
「いえ、そんな暇は」
「なら私と今度お食事にでも」
「ぬ、抜け駆けはなりませんよ!私とご一緒に」
「いえ、私と!」
「私と!」
「…………」
逃げ出そうとする暁を捕らえる女性の包囲網が益々固くなり始めた時、新郎新婦が現れて一時解散となった。解放と同時に脱力し、響の隣へと移動して疲労に溜め息をつく。響は膨れっ面の反面、どこか嬉しそうにしていた。
おそらく、自分の傍が最も落ち着くからこそ、暁は疲弊した状態で迷わず戻って来た。それを堪らなく嬉しく思う響の心情を悟るのは、祐輔以外にこの宴会には居ない。
新郎新婦の挨拶が終了し、響も立会人としての言葉を言い終えて戻った。
舞台上の彼らを眺める暁を横目に響は呟く。
「わたしに気遣わず、暁も好きな人を見付けて結婚しても良いんだよ……だって、暁は家族が欲しいんでしょう?」
「為すべき事がある」
「わたしは……暁に幸せになって欲しい」
響の懇願にも似た悲痛な声音に、暁は横へ頭を振った。
「許されない発言だが……俺は響の隣に居るだけで、充分その幸福を享受している」
二人の眼前で新婦が花束を掲げた。首を傾げる暁には、どうやらその知識が無いらしく、優しく響が補足した。
あれは新婦が手にする花束――運命の相手との邂逅を意味するそれを放ち、受け取った宴会の出席者に、次の廻り合いが訪れるという願掛けの行為。礼儀として避ける事は禁じられており、また取り損ねるのも失礼だと言われる。
これが二回程行われ、新婦から受け取った者が投げて、これを手にした者にも余りの福がある、という謂れ。
些か強迫感めいた物を感じ、暁は微かに顔を顰めた。新婦の手から放たれた花束が宙を舞い、ゆっくりと弧を描いて宴会の出席者が集う団塊へと落下する。
祐輔が視線で追い、その終着地の奇縁に笑った。
花束は暁の胸の中に収まった。歓声を上げたのはやはり女性で、今まで彼を見てもいなかった男性陣も端然とした容貌の彼に気付き、次なる幸福の兆しとして拍手を送った。
手元の花束を見て複雑な暁は、ふと屋根上に視線を投げ掛ける。祐輔が自分に向けられたものだとは察したが、その真意までは読み取れずに奇声が口から漏れる。
暁が微かに微笑み、直上にそれを擲った。祐輔は漸くここで彼の意図を知って蒼褪めた、いや元より青の鱗であるため、変化は判らないがそれでも背筋を恐怖が撫でる。
自分に向けて投げられ、だが受け取らなければ失礼。暁の周囲はその落下地点を見定めようと後退し、広い間隙が生まれている。あれでは地面で無惨な事になるのが落ちだ。
祐輔は屋根を蹴って躍り出ると、高速で滑空し横から花束を奪い取った。そのまま庭園を抜け出し、遠くへと飛行する。唐突に頭上で何かに盗られてしまった光景に唖然とした一同は、落ち着きを取り戻すと暁を慰めた。
「え、何だろう?というか、どうして上に投げたの?」
「いや……この先、良い出会いがあると願って」
「だ、誰の?」
「……秘密にしておこう」
暁は龍の消えた空の彼方を振り仰いだ。
× × ×
ベリオン歴二〇六〇年――春。
東国の小屋で昼寝をする祐輔は、瓦葺の屋根の居心地悪さに終始険相のままである。随分と懐かしい夢を見たものだと欠伸した。
結局、あの後に屋敷に帰って来た暁へ散々怒りを訴えたが、何処吹く風と相手にして貰えなかったのである。花束は結果的に響の植物園に放り捨てた。果たして、自分に良い出会いなどあっただろうか……。
祐輔の隣では、仁那が自作の弁当を用意していた。勿論、中には祐輔の大好物(だと仁那が勝手に思っている)の燻製肉もある。
特段、祐輔は粗末な肉でなければ不満も無い。ただ単純に、手間の掛かる燻製肉を相手から取る事に意義があるのであって、別にそれを好んでいるのではないのだが、仁那は知らずにいつも用意する。
その浅はかな思考を嘲りながら、渡される肉を一口で頬張った。
「ちゃんと噛んで食べるんだよ」
『何だ、その爺みたいな扱い。少なくともオレ様の顎はテメェより健康的だっつの』
「ふふん、わっせは良く食べる方だからね!もしかしたら、祐輔にも負けないかもよ」
『試してみるか?布を噛んで引っ張り合えば判るだろ、単純な勝負でも決着が目に見える』
「あ~、でもそうなると、間違ってわっせと接吻しちゃうかもね」
『ほざけ小娘が』
祐輔は冷笑し、仁那の冗談を流す。
確かに、良い巡り合わせではあったかもしれない。こうして誰かと旅をするのは二度目、果たしてこれが真に自分の幸福の在処なのかと問えば微妙な所だが、少なくとも悪い気はしない。
仁那は完食すると掌を合わせて食後の礼を静かに告げ、雑嚢の中に弁当を戻した。
「少し休憩したら、行こっか」
『次はどんな町やら』
「今度は変な旅館じゃないと良いね……」
『あれは旅館じゃねぇ、娼館だろ。オレ様が居なきゃ、今頃別の世界の住人に生まれ変わってたな』
「んなっ……失敬な!わっせはそんな人じゃないし!」
『ま、いい加減学習してくれ』
「いや、もう少しこのままで良いかな。だって祐輔が守ってくれるし」
『……フン!』
祐輔が鼻を鳴らして顔を逸らす。
仁那は軽く体を伸ばしてから、立ち上がって屋根の上から降りた。その首元に祐輔が塒を巻いて襟巻きとなる。
「それじゃ、行こう」
『おう』
仁那が歩き出す。
祐輔はふとまた夢の内容を想起した。次はいつ、あんな夢を見る事になるのだろう。あの花束の効力は、果たして一度きりなのだろうか。
仁那は人間、いずれ死に行く。その先もまだ自分は生きていて、きっと彼女の老いて土に還るのも見るのだろう。
『……ま、どうでも良いか』
祐輔は思考を打ち切って眠る。
終わりを考えても仕方がない、いずれ来るならその結末も粛々と受け容れよう。どうせ、この人間との日常もそこそこに終わって行くのだから。
そうして、祐輔にとって最も輝かしく貴い記憶の中の一日が、また始まったのである。
祐輔の夢、でした。




