影と光を切り分ける
四章完結。
千極の城下町北部の広場にて、その儀式は恙無く行われた。妨害に放たれる刺客や、反感を未だ胸裏に匿す反乱軍の過激派の襲撃を危惧していたが、カリーナの提案で城郭の内ではなく、国民の目が直接届く城下町が選ばれた。警備体制の厳重な中、様々な種族が入り乱れる市井は、開始前からおよそ混乱している。
数十年前より中央大陸に姿を見せなかった怨敵の魔族が堂々と立ち、巡回に街路を歩行する姿は奇異の眼差しを受けること必至。無論、過去の戦歴より彼等に悪印象以外を受けない者が糾する声もあり、時折混ざる罵声にも決して魔族は反抗の姿勢も見せず、厳かに無言の圧力で制した。
この儀式を観に集まる者は、千極に限らず西方辺境地から訪れる者まで居る。その理由としては、概ね北大陸という未知数の戦力を秘めたる敵に果たして対抗しうるかを信じられるか否かをその目で判断する為だ。
あらゆる問題点でも団結力の有無が問われる。故に、ここで仮に些末な事でも言い争う場面が見受けられたなら、その信頼と期待は地に墜ちるだろう。所詮は烏合の衆と嘲られ、この世に希望は無いと北大陸の思想に恭順する勢力を生んでしまう。それを鎮静すべく行動すれば、今度は別の形で内乱へと発展する危険性さえ無視できない。
様々な危惧が重なり、参加する誰もがいつになく緊張に身を引き締め、顔を強張らせてはいたが、カリーナを主催にして大事なく終了し、壇上に上がる魔王アグナ・ゼンデンギス、この日に首都来訪を果たした西国国王ギュゼナ・ヴィルゼスト、そして監禁を経て今は総督との連携で国内の問題処理に尽力する当代の千極帝夏京。この面子に加え、「白き魔女」の結、ベリオン皇国復興の立案者であるカリーナ・カルデラと錚々たる顔触れ。
謎の緊張感の中に奇声と、そして英雄と人を呼び称える声が反響する。その原因とは、彼等と共に壇上に立つが、恥ずかしげに隅に隠れようとする救国の英雄――仁那の姿である。首都を救った勇猛果敢な戦士の実像を前に、興奮冷めぬまま儀式が完了する。
「それでは、此所に南大陸及び中央大陸の共同戦線と、以降の共和を目的とした同盟を締結する」
カリーナの宣告に、忌み合う勢力の長たちが握手を交わす。この現場に立ち会った人間は、誰一人として現実とは思えず、しかし夢想した事すら無い光景が実現した場所でただ観衆の熱をさらに盛り上げる。
勇者セラは終始、魔王を凝視していた。本来ならば、神から得た加護に従って、アグナを抹消すべく剣を執って闘うのが本分である彼女は、その神に抗うべく宿敵と協定を結ぶ。傍に居るジーデスがその様子を落ち着き無く見守っていたが、事が大事なく済んだとなって、誰よりも安堵の息を吐いていた。
儀の後は宴会があり、その手配として仁那の隣に居る夜影は、従者となった茶菓子(個人を指す名を有していない為、仁那が勝手に命名)に会場の設営に向かわせる。面子としては、曾て港湾都市で苦楽を共にした面々であり、急用とあってゼーダが欠席しているものの、その他が揃う宴席となっていた。直ぐ様首都へと踵を返した夜影も含めてであり、仁那としては待望したものでもある。
後の再会を祝う宴にこそ想いを馳せる仁那の感知しない場所で、壇上より降りたカリーナに忠臣の赤髪ジーデスが駆け寄る。魔王達がそれを訝る気配を悟りつつ、彼の注進に耳を傾けた。儀式の後でも、折角生まれた絆が崩れてしまうのは自身らの身の振り方で決する。
ジーデスと舞台裏の影に隠れた。三々五々と其々の日常へと戻る観衆が通過して行く喧騒の脇で、二人の声はそれでも互いの耳に届く。寧ろ興奮の混じる声と雑踏が、その会話を掻き消していた。
「何……北の森を野党が?」
「正確には、同盟軍の正規部隊を自称する輩であり、構成員は傭兵出身や過去に暗殺を生業とした経歴のある盗賊……実力としては、確かに同盟の下にある信憑性を周囲に持たせる程です」
「拙いな、今は無名が居る。誰かが矛剴の本拠地を密告したやもしれん、概ね犯人は見当が付くが、まだ早計の可能性もある。そちらに回せる部隊の手配は?」
「既に用意が。しかし、距離としては一週間を要するかと」
「構わん、確認の為だ。必要とあらば、無名に文を送れ」
「承知致しました」
カリーナは北の晴れやかな空を見上げる。この首都の暗雲を切り裂いた四聖獣の威光が、再び人々を新たな方向へと導き出した世界を象徴する清澄な空気。もはや街路が天が国民の代わりに流す悲泣の涙とは違う。
しかし、彼女の見えない市壁に隔たれた遠い彼方には、鬱屈とした曇天が広がっている。それは、いつも己の視界に映る物だけが世界のすべてではないのだと、厳酷に語っているかのようだった。
静謐の空気を宿す深林では、夥しい死が散乱していた。樹幹に貼り付く赤黒い肉片、根本を浸す鮮紅の泉が土に泥濘を作る。自然現象や動物による闘争とは明らかに異なる事象によって生み出された惨事の光景。
踏み出す足が粘着質な水音を立てる。森の血池に濡れる者達は、太く張り出した樹木の根で直立する少年を包囲し、摺り足になって躙り寄る。凶器を片手に迫るその相は、弱者を虐げる幸悦ではなく、恐懼で顔面の筋肉を硬直させていた。およそ多勢で一人に対する戦力で生まれる表情ではない。
統率者と思しき女は、頬を伝う冷たい汗を指先で拭いながら、不自然に緩む口許に当てて唇を濡らす。寒気に硬く凍える草木が風に騒めくと、少年はそちらへ振り向いた。女の背後にある人影を睨んだ後に、敵の頭となる女へとその眼光が次なる標的として狙いを定める。
片手には短刀と短槍、どちらも欠損しているが、把にまで血を滴らせていた。手荒く扱われ、壊れる前まで人の命を理不尽に刈り取っていた証拠である。武器とは別に、単衣の肩から手先まで、返り血が濡れていた。
周囲を一瞥した瞬間、素早く投擲して集団の斥候二名の眉間を正確に射抜く。鮮血を風に散り行く花弁の如く振り撒く二人に、他の者が恐慌で絶叫を上げる事も出来ずに後退る。
少年が手を虚空に伸ばせば、死体の一つから武器が滑空して、その掌中に収まった。次なる得物は太刀、少年の身の丈にも並ぶ刃渡りである。彼にとっては扱い難いように見えても、本人の目は相手を殺める事を意図して選んだのだと物語っていた。決して狂気故に無作為に選択したのではない。
統率者の女は頬を紅潮させ、昂る感情に外套を脱ぎ捨てて剣を執る。恍惚とした表情のままに前に進み、少年と正面から対峙する位置に立ち止まった。刃の如く凍てついた視線を向ける秀麗な面差しは、頬に付いた血糊で相手を戦慄させるに事欠かぬ凄然としたものだが、それでも女には魅惑的に映える。
「実力的に申し分無し。それによく見ると、情報通り……やっぱり良い男ね、闇人」
「邪魔をするな」
「此方に来る気は無いかしら?」
「その後ろに居る子達を返せ」
会話の途中に気配を消し、少年の背後から奇襲を仕掛けた数名が瞬く間に首を刎ねられ、根の上から血達磨になって地面に落ちる。武器を振り抜いた後の姿勢で、視線のみを女へと固定していた。
女の背後に居るのは、まだ齢十となる五人の子供だった。怯えるその顔は、自分達を包囲する集団ではなく、自分の為に闘う少年に向けられた感情に歪んでいる。普段は優しい彼が見せた冷血さ、慴れに震えながら別人ではないかと疑うのは心理として当然であった。
女は小さく嘆いて、剣を軽く振るってからゆっくりと前進を始める。すると、少年を取り囲む兵の輪が収斂した。
全方位を見回そうとした時、少年は両目に激痛を覚えて頽れる。目を押さえて項垂れる姿に、子供達がその場から走り出すが、一兵に取り押さえられた。吐血し苦悶する様子に女は眉根を寄せる。返り血の所為で外傷は確認できないが、恐らく誰も触れられていない。
以前から患っている病、或いは傷なのか。未だ冷めぬ痛みの熱に苦しみ、それでも立ち上がって口許を腕で拭う少年は、やはりまだ足元が覚束無い。
「お、お兄ちゃんっ!」
「……大丈夫」
子供達の声に、少年は一度だけ微笑むと、根を飛び降りてその視界から消え失せた。同時に、向こう側で上がる鮮血の飛沫、断末魔の悲鳴が少年の行動を見えずとも伝える。現実から逃避すべく、小さな手で己の耳を塞ぎ、頑なに目を閉じた。
これが夢であると――目が覚めれば、次に瞼を開けば、いつものように少年が笑って迎えてくれる。
遮蔽物となる根の向こうで、倒れる兵の一人に太刀を突き立て、その武器を奪って次なる一人に斬り掛かる。側方から襲い掛かる敵の一撃を軽く受け止め、鍔で相手の手元を搦め取って払い、喉元を一閃した。木陰より飛来する投擲剣に、少年は今しがた仕留めた兵の首を掴んで持ち上げて即席の盾にする。
攻撃を凌いだ後は、それを無造作に捨てた。
「全員、仕留めないと終わらないか……。そうですか、分かりました」
少年が駆け出す。
森の中に、悲鳴の輻輳が遠くまで響いた。
× × ×
千極の城下町は、今までのしめやかな空気を吹き飛ばす勢いで賑わい、何処を見ても灯の無い街路は無く、地下の暗渠にすら絶え間なく地上の活気が騒音となって反響する。これには暗がりを塒とする鼠や虫も迷惑に思い、自然と町を離れて行く。
この活気付く雰囲気の中、商売人としては最も労働すべき時間に、然れど閉店した『填顧』の中では密かな盛り上がりがあった。遮音性のある戸に閉ざされた先では、複数人による喧しい騒乱が繰り広げられている。
特定の客人のみを招聘する夜は、店主も普段は厨房では作らぬ料理の作業に追われて忙殺されていた。承知していたとはいえ、苦労の度合いが予想を遥かに超える。勘田は秋の他に、港湾都市より訪れた量胡による協力を得て、辛うじて運営に成功していた。
その作業速度は、熟練と称するに相応しき手捌きで行われ、勘田からするなら、ある意味では自分達を護衛する際に長作務衣の敵兵を仕留める明宏の攻撃にも似て見えない。戦闘力は無いにせよ、包丁の扱いから次の作業に移行すると同時に別の工程を並行しているのは、店を営む一人としても桁外れと形容するに価する。
受付付近の席に腰掛け、こちらに酒を要求する剛力の蜥蜴族二人組に罵声を投げつつ、やはり手の動きは止まらない。相手の気を損ねるであろう冷たい言葉にも、しかし彼等は笑っていた。無論、彼女が本気でいないのも察しているが、恐らく付き合いが長く、どんな暴言だろうと許容するほどの仲なのだ。
「ねぇ、勘田。あたし達も早く落ち着きたいね、そしたら……ゆっくりと、ね?」
「最近お前の調子に付いていけないんだけど……」
「大丈夫、生涯付き合うんだから……」
「?そりゃ、長いのは良い事だけどさ……?」
二人の会話を中断するかの如く量胡が勘田の面前に器具を突き付ける。不機嫌になる秋の感情すら眼中に無く、仕事を放棄する店主を冷然と鋭い視線で刺す。厨房に立つ者の気迫でも、ここまで殺気を放つのが不可思議で、蒼褪めた顔で直ぐ様作業を再開する。
余人を恐れに竦ませる昏い眼の秋に睨められても、涼風とばかりに平然と受け流す量胡は、委細構わず彼女にすら労働を求めた。弟子の美里が駆け抜け、勘田の分まで仕事を遂行している。
剣呑とまではいかないが、それでも険悪な厨房の様子に仁那も目が逸らせない。量胡の性分であると容認出来るのは知人の自分達だけであり、初対面の秋や勘田にとっては些か憤怒を覚えても仕方の無い態度である。尤も、本人はそれすら気にしていないだろう。
勘田を容赦なく使い回し、まだ小さい美里であろうと自分と同等の仕事量を課す。長期間に亘って多数の魔族の生活を裏で支え、一人では賄えぬ理不尽な労働力を鍛練で体得した量胡は、不満は覚えても口に出来ない程に厨房を営業す。
「働きなさい、それでも店主の妻ですか?この状況でそんな甘い事を言っているのなら、労働者としては失格です」
「て、店主の妻!……そうね、量胡さんの言う通り」
「え、秋?それ認めて良いのかよ?」
「おーい、量胡!ワイに酒をもう一丁!」
「秋さん、あれには医療用の消毒液を瓶にして提供すれば結構です」
「今、客人を厨房で殺す命令が聞こえたで?」
蜥蜴族の二人組は、港湾都市周辺で主に活動しており、鴫原の戦を治めた「白き魔女」に後続して首都に参上した。元来山賊であった彼等が剛力となった要因としては、四ヶ月前の仲案道堂事件に携わり、共闘した仁那達の影響である。量胡に至っては、成り行きで行動を共にしており、今回の首都遠征に参加したのは、手紙を一切寄越さない仁那への不満を訴える為だった。
友好的な仲であるのは確かだが、制御の難しい一行の些細な喧嘩を大きな争いに繋げぬよう腐心しており、最も苦労が絶えないのは剛力の太郎。誰よりも年少でありながら大人の立回りを強要される状況に、今卓上に陳列する量胡の料理を無言で頬張っている。しかし、疲れたからこそ何かに甘えたいのか、隣に座る仁那の腕を抱いて離さない。
音信不通の理由を述べて謝罪をしつつ、料理の味を堪能する彼女の姿に、量胡も態度には見せずとも許している。その点を指摘し、談笑の種にする剛力二人には、首都でも刺激の強さで名を轟かせる香辛料を隠し味として大量に投与した食事を供する。一見して美味の研鑽を積んだ量胡の手練が伺える外見は食欲をそそられる一品だが、一度その匙で掬って口に運び、舌に載せて数秒後には悲鳴が上がった。
蜥蜴族としては最大の弱点たる辛味を惜しみ無く発揮する凶器のごとき料理に、二人は椅子から落ちて床を激しく輾転とする。愉悦の一笑を見せる量胡に悪魔の姿を垣間見て、箸先を迷わせる太郎に仁那が代わって口に運んでやった。可愛い弟の様な男児に、仁那も甘えている。
魔王に許可を得て今宵の宴に参加する鈴音と幹太は食事をしているが、この店に来る為に魔王と相談してから、彼の様子が優れない。鈴音が終始気を掛けており、心配させまいと気丈に振る舞うが、その表情に陰りが見受けられる。誰もが悟ったのは、途轍も無く困難な試練か代価を求められたのだろう。
盛り上がる宴会には明らかに似合わぬ憂いの表情に、美里がより多く酒を注ぐ。的外れな気遣いにも感謝し、杯を一思いに煽って乾かす。膝の上に眠る弁覩が思案顔で見上げていた。
唯一、肉体が神族に奪われなかった弁覩は、今後の戦争でも大きな戦果が問われる。祐輔曰く、元来一つであった『四片』は、肉体と魂の共鳴で作用し引き寄せ合う。仁那が宿す祐輔の魂、詩音が所持する輸慶の魂、そして夜影にある昌了の魂を以てすれば『主神の玉座』から肉体を、弁覩がそして己の氣を奪還しさえすれば、神族が計画する己の神格化を阻止できる。
しかし、祐輔が過去の旅で暁と共に得た情報を元にすれば、肉体のみでも神格化を可能とする術がある。尤も、力の均衡が維持でき無い欠陥品であるため、仙術などの会得には繋がらないという。加えて弁覩の肉体を僅かしか剥ぎ取れなかった彼等は、復活の儀式を完成させられる状態ではない。宣告された第二次大陸同盟戦争にて弁覩のみならず、魂の回収を強行する。
即ち、次の戦いで仁那を含めた四人が倒れれば、早々に勝敗が決するのだ。責任重大であるため、カリーナの策としても仁那を前線に立たせるのは控える予定である。一刻も早く祐輔を復活させたい所存の仁那は、この焦燥感で総てを無駄にする事を恐れて強く自分の意思を主張できない。
何より、敵の本陣には暁が構えている。
仁那は不意に暁の何気ない横顔を思い出して恥ずかしくなり、一気に水を一杯飲み干した。顔が火照るのを抑えているのを太郎に悟られまいと顔を壁に向ける。能天気だと己を罵りたくなる程に、彼から向けられる敵意の眼差しにすら顔が綻んでしまう。
過去の死人といえど、仁那にとっては初めての恋心だった。短期間でも今まで接してきた人間の中で、これまで熱く思い慕った記憶は彼以外に有り得ない。だが祐輔の注意は厳しく、暁に惚れた女性は多種族だったが、その末路は決まって残酷であるという。想いを寄せる人間を意図せず、悉く不幸に貶めてしまう為か、尚更彼は人との交流が苦手となった。
誰かを守る為、目的を完遂する為に自分を昇華する修行、矛剴殻咲の響しか脳内に無い硬派な人物である。雰囲気の所為か群衆に紛れても誰かに気に留められる事もなく、子供にも好かれ難い。響と街を出歩いた際には、彼女を晩酌に誘う男達を悟られずに路地裏で始末したという。
ゼーダの考察通り、二代に亘る闇人の例を鑑みるに、感情を抑制される闇人ほど愛情に深く、そして飢えている人間は居ない。一度愛する者を得れば、周囲を顧みず守り、そして命令を遂行しようとその力を行使する。言義で見せた優太の殺意、天守閣で弟子を想い遣る暁の狂気。
愛が常に世界を平和にするのではなく、また逆の場合すら考えうる。愛が世界を滅亡させるのだと、暁を以て痛感した者が多い。
“――祐輔は誰かを好きにならないの?”
『オレ様が?そりゃ、神族の計画とは別の意味で世界を変革しなけりゃ有り得ねぇ話だ』
“――わっせの事、好き?”
『五月蝿ぇ小娘としか思ってねぇよ。ま、百は譲歩して友達だな』
“――素直じゃないんだからさ、本当に。”
苦笑する仁那を、是手と太郎が奪い合う。二人にとっては、一行の中でも唯一甘えられる年上の女性であり、重宝すべき対象と認識されている。嫉妬する觝が背後から接近し、是手を取り上げて奥の席へと連行する。
店内の隅にある一画は、花衣の近衛が座を占める。生前、己の墓は不要と断言していた銕だったが、彼を想う面々は遺体を火葬し、骨の欠片を炭鉱町シェイサイトに居る掟流の妹ミミナへと送った。戦争が終わり次第、上連と共に帰ってから、弔う場を決定する。
遺品である錫杖を一席に置いて、全員はこれまでの旅路に想いを馳せて語り合っていた。
そこに花衣は居ない。
酔いに顔の赤い幹太を案じて、鈴音が声を掛ける。
「体に悪い、今日は止めよう」
「こういう時だけ気遣い上手いんだから。お前は俺の嫁じゃないんだから、寧ろ今日は父さんに甘えて良いんだぞ!……本当のお父さんも気に掛けてな?俺の比重が大きいと、殺されちゃうから」
「私、幹太に嫁ぎたい」
「……悪戯なら、止めてくれよ。お蔭で魔族に「旦那様」とか、「次期魔王殿」って揶揄われてるんだぞ。俺は静かに里で暮らすのが性に合ってるし、お前はこれから一つの大陸の未来を担う存在だ。これからの人生で、俺より良いのと沢山……」
幹太の麻衣が、鈴音の強く握る手に引きちぎられた。一瞬で意識が覚醒し、酔目だった幹太は、店内で服を剥ぎ取られて顔が固まった。
「……本気で、言ってる?私は幹太の隣に居ちゃ、駄目なの?」
「!いや、そんな事は(というか服が)……」
『今の言い方だと、そうニャって捉えられても可笑しくニャい(服が大変ニャ)』
鈴音が幹太の胸に顔を埋める。
「私はいつまでも一緒に居たい。これは、ただ幹太が優しかったからじゃなくて、魅力的だったから。……それとも、紗香(狩人の里に居る幹太の幼馴染)と結婚したかった?」
「いや……紗香とは難しいかな、うん。彼女は、ちょっと……ね?良い娘なのは判るけど、何か性格がね、うん。
まあ、傷付けたなら済まない。それと、まだ無理かもしれないけど、できる限り鈴音を一人の女性として見られるよう、努力する……で、良いか?」
『おお、幹太にしては精一杯のデレ、だと思うニャ』
「店長、この猫で一品作れますか?」
『ニャ!?』
「構わないわ、こちらに運んで」
「量胡、お前さんは店長や無いやろ」
人の想い方は其々、擦れ違いや迷いがあり、しかしその果てで合流した繋がりは堅く、容易に断つ事は出来ない。それが神であっても、人の絆を切る事は不可能だと、仁那は信じる。
花衣は一人、天守閣の一室で涙していた。
この世界に、一体どんな希望を持てば良いのだろうか。たった一つの救いすら奪われてしまった彼女は、ただ窓から射す月光に照らされながら、悲嘆に暮れていた。
大切な人との繋がりは、断たれてしまったのだと。
× × ×
二週間後――。
曙光の射す首都に翳される天守閣の影は、いつか鬼の居城と畏怖されていた頃とは違い、破壊された最上階を改装して天蓋を付け、円らな形となっている。鬼の角が剥落した後の印象は、民の安寧の象徴だった。
悲劇の雨を思わせる雲は空の彼方にも見受けられず、市壁の上に立つ者はゆっくりと山陰より現れて荒野と首都を照らす光に目を細める。また穏やかに、然れど騒々しく人々の活気にこの街は今日も喜びに震えるのだと予測される。
しかし、まだ人すら動かぬ時間帯にも、事は裏で動いていた。
「赭馗密林への捜索部隊編成?」
天守閣の一室を借り急造されたカリーナの書斎に呼ばれ、仁那と夜影は文机の前に立つ。正面から向けられる灰色の双眸が放つ光が、いつになく鋭い刃物を連想させる。つまり状況が切迫しているという事を表していた。
捜索部隊の編成を自身に告げられた理由は愚か、誰を捜索する目的なのか、赭馗密林とは何処なのかをまず把握していない。カリーナ直々の命であり、ジーデスが廊下の様子を窺っている事から機密事項であると察せられる。
カリーナは曳斗の中から一枚の紙を取り出し、仁那へ無造作に投げ遣る。夜影が宙で受け取り、紙面を展げて見せた。いつからか仁那の随身として振る舞う様になり、周囲からは夫よりも従者として映る。彼に外せぬ用事があると、その位置に茶菓子が就く事が多い。
仁那は軽く礼を言ってから文面を検めた。
内容は中央大陸北東部の赭馗密林に向け出発させた調査隊による報告書となっている。これからの中央大陸開拓の為に、森の地勢を審らかにするというのを建前にし、其処に潜むとされている矛剴の里を探る目的で遣わされた部隊。構成員は【太陽】の数名、近辺に約束で待ち合わせ合流した冒険者を含めた編成。
しかし、記されたのはたった数行であり、その内容もまた要領を得ない短文に加え、謎の記号が多い。暗号文であるとは仁那でもおおよそ判るが、しかし実際にどんな事実を韜晦した文字なのかはまでは読めず、晦渋な文章と目を凝らして格闘するのも空しい行為だった。
「先日、派遣した調査隊が全滅した。これは唯一の生存者……今は死しているが、息絶える前に記したもの」
「もしかして、矛剴に迎撃された?」
「その可能性が十二分に考えられたが、解読した所、少し異様でな。『矛剴によって殲滅された野党の死体を確認、腐敗状況などより推察する経過時間はおよそ数日』だ。つまり、短期間に幾度も襲撃を受けている……あの矛剴が。
それと、花衣に向け無名の同伴者ゼーダが送った手紙と重ねると、妙に嫌な予感ばかりを掻き立てる」
ゼーダの存在がまだ居る。彼は最も優太に近い場所で見守っているのだ、里の深い部分にも関与し得る権限を有するからこそ、誰よりも彼の情報が貴重だ。花衣へと送る事に何ら不自然な点は無いが、カリーナが覚る異様な感覚とは何なのか。
嫌な予感という言葉に、仁那の脳内でも不安が募る。不意に『填顧』の宴会の席に、花衣が居なかったと想起した。当時は出席を断った彼女の真意を深くは考えなかったが、何かあったのかもしれない。
あれから花衣の姿も見ていない。
「ゼーダの手紙、内容で重要な部分は……『優太の記憶に欠如あり、何らかの力が作用している。』だ」
「それは……」
「ああ、闇人暁が世界に宣戦布告した日。あの時に無名に移植した己の黒印を介して、無名の記憶を改竄すると言ったあれだ。一月の内に抹消されるとか……恐らくそれだろう」
「っ……じゃあ、花衣の存在を……」
「それも重大な問題だが、それよりも注視すべきは其処じゃない。ゼーダは『何らかの力が作用している』と言う。“何らかの”とは、恰も優太の記憶を操作する力について感知していないかの様な口振りだ」
仁那が小首を傾げると、カリーナは嘆息する。
「あの日、輸慶の能力を行使し、全世界に円卓の出来事を中継した、あの周知の災厄。ゼーダ程の男なら、宣戦布告を聞き無名がその日の出来事から何かしらの影響を受けたと考えるのが妥当だ。
ここから考察するのは、あくまでも私の主観による推論だが……。ゼーダ、及び赭馗密林に存在する者には、あの日の出来事は知られていないのかもしれない」
「え……えぇっ!?それじゃあ、優太さんは師匠の復活も?」
「そうなるな。あの密林に神通力すら阻む結界の如き力が働く領域が展開しているのか、或いは……闇人暁が意図的に避けたのか」
仁那はここで、己が呼び出された理由を言葉なくとも心得た。『四片』の持つ神通力すら遮断する場所で無い可能性――暁が矛剴に現状を知られまいとする底意があるとするなら、後々そこで何が起こるのかは容易に想像しうる。
情報とは一種の力であり、最も強力な武器とも言える。知識量が多い分、敵の分析も正確であり正体を看破するまでの所要時間を短縮する他、刃を交えずに勝つ有効な方策すら立てられるのだ。今、二つの大陸が結託した中で、その現状に追い付けず孤立しているのは矛剴のみ。
即ち、矛剴が弱体化した現在で情報力すら事欠いてしまったとなれば、隙が大いに生まれる。大陸同盟戦争で戦意の高まる中、数々の凄惨な事件や内戦を勃発させ、人の負の感情を助長し殺戮の循環を促してきた彼等への恨みも今以上へと育まれる。
それに不自然なのは、暁も口にしていないにも拘わらず、赭馗密林に潜伏する矛剴の所在を見抜き、襲う集団が各地で現れている。これは、何者かが情報を流布しているのだろう。彼等を倒す為の運動が、それこそ「西人狩り」よりも苛烈。
「……矛剴殲滅の兆し」
「それで今回、仁那……お前には動かないで欲しい」
「……わっせが行った方が、まだ赭馗密林の神秘っていう可能性を解明できる」
「それは後々、本人達に聞けば良い。どちらにせよ、神族が監視の目を光らせる中、不用意にお前を遠隔地へ送る訳にはいかない。下手に隠しても、お前の運命の力か何かで暴かれ、その行動を逆に誘発してしまうのも必然。
だから最初に釘を打つ。今回お前は関わってはならない」
仁那は文机に両手を叩き付けて身を乗り出す。
「野党に優太さんも襲われるんだよ!?それに花衣を連れて行くべきだよ、記憶が戻るかもしれない……」
「お前が倒れれば戦争は敗ける。それを重々承知の上で行く積もりか?お前の身勝手な判断で、世界全体が危殆に瀕するんだ」
仁那はその一言に力を失って後ろに蹌踉めいた。夜影が受け止め、その顔を覗くと生気が抜けている。
「話は以上だ、退室してくれ」
話は打ち切られ、仁那は渋々と部屋を辞した。
遣る瀬無い想い、カリーナの正論と自身の憤怒に葛藤する仁那の小さな背を、夜影は背後から見守っていた。彼女は未だ多感な時期であり、まだカリーナの様に冷静に物事を見るには難しいだろう。カルデラ当主を比較対象とするのも些か不適ではあるかもしれないが、まだ齢十六の少女には考えられない残酷な選択である。
「わっせ、どうしたら良いんだろう」
「……今回は、私もカルデラに同意だ。だが、本心を明かすなら、仁那を意のままに行動させるのが好ましい」
「……でも、大陸の為なら、動かないでおく。けど、矛剴も悪い人間ばかりじゃないんだよ。だから、救える人は……」
傲慢にも、仁那はすべてを救いたいと願っていた。一族の所業よりも、己が見聞きした物に依って導き出す解答を恃みにしている。本来ならば愚考と切り捨てるのも容易いが、仁那の性質は相手の本心を曝す。だからこそ、その願望が今まで相手に届いて来た。
夜影には不可能であり、夜影には無い彼女だけの特別なモノを多く持っている。孤独に戦い続けた自分と違い、誰かと助け合う事で苦艱を切り抜け、過去より大陸の間に生じる軋轢や因縁から与えられる多くの憎しみに耐え、常により良い未来を獲得する努力を怠らなかった。
誰にでも出来る事ではない。
しかし、これからは前例に無い大戦となる。仁那がこれまで経験した以上の悪意に屈してしまう事も否定出来ず、それを側で支えるのが人類であり、そして自分なのだと理解しなくてはならない。
これからは、総てが混沌とする世界が始まる。様々な信念と矜持、破壊と創造、復活と死滅、あらゆる概念が混ざり合い、皆を惑わせる。夜影は嘗て瞼を閉じて先を見据える事も諦め、自分が生み出した混沌の闇を彷徨した。定めるべき目的地も持たず、ただ滔々とした時間が生を消耗する。
しかし、今なら――昌了の力を得た己なら、その闇を切り払い、形を失った大切なモノを切り分けて、正しく世界に提示する。
“――昌了、必ず救いに行く。”
友の姿が脳裏に浮かんだ。
これからは、自分も誰かの手を借りて、そして誰かの為に混沌を切り分ける。
「仁那、焦らずに行こう。私も最善を尽くし協力する」
「!うん、これからも宜しくね!」
二人は微笑み、廊下を寄り添い合って歩んだ。
アクセスして頂き、誠に有り難うございます。
これにて第二部四章は完結となります。恒例の小話と自己紹介を挟み、次の話へと移行したいです。
第二部最終章となる話は優太が主人公です。当初の予定は『優太と矛剴の里』という題名でしたが、果たしてその通りになるのか自分でも少し予想出来ません。
それでも、これからも本作をより皆様に楽しんで頂けるよう努力を怠らぬようにします。(その為に頑張ります)。……腰に響かぬ程度に……。
次回も宜しくお願い致します。




