わっせがそうはさせない。
その言葉に誰もが戦慄を覚える。
繰り返される歴史に、しかし今がその時であるのだとは予想だにしなかった。神族の暗躍と矛剴の戦役、これらが重なり複雑に中央大陸を掻き乱す事で、確かに訪れの凶兆はあったのだから、誰かの脳裏にその予感が漠然とでも浮かんでいて可笑しくはない。
第二次大陸同盟戦争――。
人知れず復活を遂げた伝説の刺客――暁が催す凄惨な戦いの第二幕が、此所に宣戦を布告された。それはかつて、闇人である彼が北大陸へ往き、神族へ助力を申請して終幕した筈である。
何の奇縁か、それは暁の手によって再び巻き起ころうとしていた。救世を為した終焉の使者は、数十年の時を隔てて破滅の神として帰還し、人類には無視の出来ない存在となる。
誰もがその顔と素性を深く知らず、艱難多き時代にただ大陸全土へ隠然と剣呑な刺客として伝わり、幾代にも亘り子を寝かし付ける文句として、悪魔とも怪物とも、或いは天使ともされた。実質はそれらと相違ない力を秘めて、以後これを世界に知らしめる事もなく、安らかに森の中で息絶えた人。
死後にまで及ぶ壮大な物語を書き綴り、その行く末を見守り続けるという余人には為し果せぬ事までも、この男には然したる問題ではなかった。否、祐輔の記憶であっても、彼が復活を仄かに予言した時がある。だがそれは、予感の如き弱い含意であって確実性を伴う確かな言質ではなかった。
この要素も勘考すれば、暁の復活はある意味では吉兆とも捉えうる。平和を望む彼が持ちかける最悪の未来の修正点。尤も、それを前提とするならば、即ち現在は予知した中でも最悪の末路に人類が向かおうとしているという意味も混在させる。
和睦の円卓に踏み入った神族の長と新たな勢力。それは誰しも敵対を選ばず、念頭にすら置かなかった存在である。今まで人類の敵は、国境を越えた先にある東西の怨恨、南の海洋を隔てた先に跋扈する魔の人。何らかの操作を受けていたとしか思えぬ程に、人々は北大陸に深く関与する事を意図した者すらいなかった。
あの未知に対して無窮の貪欲を示すガフマンでさえ、二年前の事件より興味感心が向く事もない、古来より神々の住まう地とされるなら足先向かう筈が無い、それが何よりもの異常である。
暁によって改変された意識が、遂に普く総ての生命より上位に在る種族を認めた。
カリーナには、この時初めて人間が産声を上げたのだと確信する。新たな世界が母胎から、永遠に生まれる筈もなかった生命が誕生するのだと、神族はそれを畏れ、人々もそれを慴れる。
真の混沌が始まる、暁と伊耶那岐の契約が完了される時が近付く。誰もが怖れながらに、本当の意味で欲した新たなる進化の軌跡を刻む為の一歩。屍と残酷な歴史の真実によって出来る山の巓で届く、扉の開放へと導く光の先。
二神の間より生まれた闇の中から、それは遂に人類の目に現れたのだ。
高欄に座る先代闇人――暁が腰を上げた。
世界に対する示威と宣戦布告を為し遂げた男は、静かに天空へ向けて掌を翳す。一同が反抗の意を持って向ける眼差しを一身に受けながら、それでも泰然自若と山の如く聳える姿。救済と破壊をもたらす最終敵が円卓に告げる。
首都火乃聿の空が暗くなる。
ガフマンが面を上げれば、其処に再び巨大な隕石が出現していた。瞠目したガフマンの剣先に火焔が宿り、柄本まで包み込んで火勢を増す。それが彼の感情の波を表すものであり、そして攻撃を予告する力の予備動作であった。
一同もガフマンと同様に見上げて身を固まらせる。それは、二度も出現した事実ばかりではない――墜ちて来ている。天下を圧し潰し、圧倒的質量を落下速度によってより増幅させた威力を直下の火乃聿へ照準を定めて来ていた。あまりにも巨大すぎる故に高度が推測出来ない、一体地面に衝突するまでにどれ程の運動力が生まれ、地上にて発散されるのか、計算は出来てもそれは想像を絶するだろう。カリーナは図式ではなく、現実に目の当たりにした事で思考回路が停止しそうになる。
しかし、彼女はそれよりも生存の術理を探った。この現状を打破する最善の一手、あの隕石を上空より消し、国民に被害の及ばぬ策を導く事に専念する。
「皆ァ、伏せよォ!!」
周囲を叱咤するのは、真紅の外套を強風に煽られながら、その場から僅かでも退かず、厳然と佇立する戦士の威容であった。
ガフマンが手に携えた長剣の鋒を空に掲げると、刀身を包む火焔が瞬間的に爆発し、より巨大な火柱となって空気を焼き焦がす。充溢する闘志と破格の氣によって、灼熱の剣気が頭上の破壊を具現した標的へと差し向けられた。
振り被って、渾身の踏み込みと共に大上段から高らかに振り下ろす。その瞬間、天守閣の高欄の一角と城郭の一部が爆散した。
「『大悉勦覇斬』――――――ッ!!」
振り翳した剣の赫耀が瞬き、刹那の刻だけ首都を包んだ。床に身を低くした皆が、次に目を開けて頭上を振り仰ぐと、驚愕に誰もが呆然としてしまった。
天空から悉くを圧殺せん隕石が、見事に両断されていた。その一刀が天上を劈き、本来なら分かたれる訳の無い隕石の間隙で不浄の総てを滅するかの如き劫火を炸裂させ、爆ぜた熱と風が大岩を押し退けて吹き飛ばす。
狩還が感嘆の吐息をついた。嵌是は目元に手を翳して影を作り、果たしてその驚愕の光景を見ているのかどうかも判じれない望洋とした眼差しを向けている。
「そうか、確か聞いた事あったね。【灼熱】のガフマンって名を」
「おー、こりゃ凄ぇな」
二人が暁へと向く。
この大破壊の正体、誰一人も知覚できない域の力の真髄を、暁は両目を真紅の瞳にして解明していた。それは優太の持つ『千里眼』よりも上位の力を秘めたモノであり、如何なる力の流動さえ視認してしまう。
剣を振り抜いた体勢でいるガフマンに、暁の目が微かに眇められた。
「人間が“聖氣”を解放させている。道理でこの威力か、その赤い獅子については注意すべきだな。――だが、まだ終わりではない」
暁が初めて見せる警戒の色があった。
火乃聿の南北に拡がる荒野に断ち割られた隕石が墜落した。地響きと共に大地を震駭させ、首都のみならず各地を大いに揺らす。最上階が激しく揺れ、全員が床にしがみ付いた。
格が違う、これが最強と謳われる人間の住む世界なのだとしたら、何がそこまで人間を昇華させるのかなど考える事までもない。ただ己の一心を愚直に貫徹し、ある境地に達した故に得られのだと、自他共に了解したのだった。
ガフマンが上を見上げる。
「次が来るぞッ!」
注意を喚起する一声。
先程と同じ大きさの巨石が空間を潰して迫る。誰もがガフマンに縋るしかない状況下で、暁はふと視線を夜影の胸の中に懐く少女へと向けた。
× × ×
四方を鳥居に囲まれた暗黒の空間。
中央の地だけが照明されており、そこに仁那が仰臥している。意識を喪った状態で倒れ、長時間もこのままでいた。誰かの声も無く、永遠に近い眠りに耽る。
東の鳥居の向こう側にて、それを祐輔が苦し気に見詰めていた。その首と胴体を、闇色の鎖に封じられて唸り声を上げる程度の抵抗しか許されない。普段ならば魂の共鳴した相互関係により、祐輔の能力を通常状態で軽微でも発動しうる仁那の回復力は高いのだ。
生命の促進を促す祐輔の氣の恩恵が、今は無効化されていた。仁那の体内に侵入した異物が、今は彼女に次いで体の宿主でもある祐輔を取り押さえて支配したのだ。無力化され、仁那との意思疏通すら阻害された。
神族の襲来に倒れた仁那を呼び醒ますのも叶わない。互いを助け合う関係である相棒でありながら、力及ばずただ虚しく足掻く現状が苦痛だった。
慚愧に駆られる祐輔の耳に、空間一帯に谺する跫が届く。彼女と自分しか存在しない、精神世界の中へ自若として踏み入る者。その姿が仁那の側へとゆっくり現れた。片膝を着いて、その寝顔を眺めている。
祐輔は有り得ぬ侵入者の、信じられぬ正体に唖然としてしまった。其処に居るのは、十数年前に今生の別れを告げた筈の朋友――暁だった。その黒衣は兎も角、外見年齢は祐輔が知る最盛期の彼のままそのもの。
『て、テメェ……何で此所に……!』
「久しいな祐輔、手荒な真似で済まなかった」
暁が一瞥すると、祐輔を束縛する鎖が霧散した。巨体を唸らせて急接近し、鳥居に鼻先をぶつけて呻く。巨龍の突進が生み出す衝撃にも動じず、静謐の空気を纏う暁は眠る仁那の頬を一度だけ撫でた。
立って鳥居に歩み寄り、直近から祐輔を眺め回した。碧眼の眼差しに射られ、暁は微笑する。
「お前に知られると計画が頓挫する危険があった。まだ仁那に俺の再生を知られるのは拙かったからな」
祐輔は納得と同時に呆れ果てて、深いふかい溜め息を吐いた。
仁那が独りでに木に語り掛けていたと見えていた時、礼拝堂へと向かう過程の記憶が欠如した不可思議な現象、すべて暁の仕業と知れば納得がいく、そう合点できる自分にも嘆息を禁じ得ない。
それらを総括し、暁がこの世に復活した事を察するに多くの時間を要する事無く、その半生を見届けて来たかつての友だからこそ、祐輔は得心して暗闇を叩く哄笑を放つ。
巨龍が喉を鳴らすだけで震える空間が、その笑声が帯びた音圧で暴風が巻き起こる。呵呵と大笑する間に、外界の状況を理解する。それと暁の登場を照らし合わせて概ね把握してしまった。
『成る程な、テメェは敵側って訳か』
「そうなる。だが、その前に仁那を覚醒させる必要がある、だからこうして来た。だが俺では無理らしい……友よ、頼めるか?」
『テメェに命令じゃなくお願いされると寒気がする所、変わってねぇみてぇだな。……オイ、いつまでも寝腐ってんじゃねぇぞコラ!』
祐輔の怒声に、石化したように閉じていた仁那の両目が大きく見開かれ、慌てて上体を跳ね起こす。鼓膜を破らんばかりの勢いで聴覚を刺激され、耳を押さえて涙目の仁那だったが、不意に周囲を見渡して異変に気付いた。
相棒の祐輔と共鳴した時の心象風景が消えている。此所に見覚えはあれど、どうして居るのか、その理由までは掴めなかった。
後ろより肩を叩かれて振り返り、其処に居る人物が暁だと知った瞬間に抱き着く。捕らわれた彼が無表情ではあるが視線だけで救済を求める。祐輔は相変わらずと彼を見て呆れ、逡巡した末に顔を背ける。
旅先で深く関与した異性から必ず淡い思慕を寄せられる。その性質は未だ健在だと知って哀れみすら覚え、祐輔は苦笑してしまった。
抱き着いて離れぬ仁那を諌め、その腕の中から脱した暁は襟を正す。寂しがる彼女に向き直った。
「俺は闇人の暁……と言えば、判るか」
「……え、えッ!?嘘、音無さんって優太さんの師匠だったの!?若すぎるよ、詐欺だよ詐欺!うぅ、わっせの初恋がぁ~……祐輔ぅ~……!」
『うるせぇ、俺に振ってくんな!てか、テメェが惚れてんの知ったの初めてだが、そういやお前ぇも女だったよな』
「あれ、一緒にお風呂入るの、あんな恥ずかしがってたのに。というか、わっせと話せなくて寂しくなかった?」
『普通に言うんじゃねぇ!恥ずかしくも寂しくなんかもねぇよ、恋に現を抜かしてる奴がよ!どうせあられもなく頬を染めてたんだろうが!』
「なっ、失礼な!わっせだって恋する乙女だよ!そ、そんなの……って、本人の前だし!」
自分の存在を忘れて会話に没頭する両名を眺め、暁は小さく笑った。人間を嫌う獣と心通わせた少女の談笑、暁が予言し求めた景色が目前に広がっている。「仁那」という名には『思い遣りの美しさ』という命名した者の心慮がある。
その名の意味する通り、思い遣り、慈しむ心。その碧眼と同じく、すべての人々の心を受け止める蒼窮の如し器、同じく分散し獣の姿へと堕ちた神の魂すらも認めて味方にし、世界と人間を繋ぐ少女。
東と西の血を持つ事で心に国境は無く、怨恨に距離を置く魔族を出身とする少女すら友とし、そして人間を厭う神と魂を共鳴させた。その辿った来た道筋が、生き様が、強い志が、あらゆる隔たりを繋ぐ架け橋となる。
紛う事なき『導く者』の資格を持つ存在であった。
力で認めさせるのではなく、皆に認められる者。
「いま首都は俺の落とした隕石で混乱となっている」
「えっ、何その状況説明!?」
「皆が不安に駆られた現状、仁那はどうしたい?」
仁那は考える事もせず即答した。
「みんなを助けたい」
『愚問だぜ、最初からよ』
暁が肯くように、掌を地面に打ち付けた。
精神世界に響く乾いた音が響く。仁那が首を傾げて戸惑っていると、残る鳥居の前に三つの人影が現れた。其々が仁那の見知る人物であり、悲鳴に近い驚きの声を上げた。続いて南の鳥居に輸慶、西に弁覩、北に昌了が聳り立つ。
仁那の内側へと招かれた人影――夜影と詩音、幹太が現状の不可解さに周囲へ忙しなく振り向いていた。続いて背後に居る相棒の姿に吃驚して、中でも幹太は尻餅を付いた。
蒼褪めた顔で白銀の体毛を立たせる巨獣を指差し、震えた声で叫ぶ。
「ぶ、不細工な虎が居るッ!」
『ニャんだとぅ!?全力でニャーは可愛い筈ニャろうが!』
「ああ、輸慶!良かった、また会えた!」
『ええ、私も嬉しく思いますよ』
「無事だったか、昌了よ」
『いや、余は未だ囚われの身。其方との対面が許されたのは、魂のみである。この面会の場を設けたのは、恐らく……』
一同の注視を受ける暁。
四方を巨獣に包囲される黒装束の男。祐輔は既視感に笑ってしまった。まだ彼が齢一七の頃に東国の秘境にある廃れた神殿を訪れ、堂々と獣の住処へと押し入った時の景色。誰もが畏怖に自害すら選ぶ威圧の中、涼しげな相貌のまま中央で対峙する。
古巣を出て、信ずる人の側に付いた時から長い月日が経過した。暁を見詰める眼差しに込められた想いは各々で異なる。それでも皆が漠然と感じたのは――まだ予言の時ではないということ。
「昌了、祐輔、輸慶、弁覩――まだその時では無い。だが、今はお前達の力を借りたい」
『随分……現実と様子が違うニャ』
「当然だ、外の俺は此所に居る意識とは違う。復活したのは、“新世界と敵対する俺”であり……その肉体を操っているのは俺であって、俺ではない」
「どういう意味だ?」
夜影が詰問する。
銕を殺害したのは、自分自身ではないと主張する相手の姿に憤ったのだ。幹太や詩音には、銕と過ごした月日は無いが、それでも身内を喪失した悲痛と憤怒は共感できる。それは人を憎悪へと奔らせるに事欠かない強い感情だ。
仁那がこれまで学んできた人間の心に於いて大抵は一概に言える事が、多くの情念の発端は愛情とされるという真理。誰かを想うからこそ、その先を損傷したり喪失したりすると、愛は形を変えて憎悪や憤怒、悲哀へと変じる。人が生きる上で他者との関係を拒もうとも、愛情を求めて彷徨する。自分以外の拠り所を必ず求めてしまう。それは仁那にとって祐輔や暁であり、優太にとっての花衣なのだ。
暁は上を振り仰いだ。天井は影の輪郭すら無い闇だが、まるでそこに外の世界が見えているかのように想いを馳せる。
「俺が予て決定した……というのもある。
実態は、最も『伊邪那美の器』として有力な俺で再度現世への回帰を企図する神の意思だ。肉体は俺の記憶や精神を再現しているが、実質半身は彼方側が把持している。
今現実に居るのは、響を喪失し彼女に縋り付いて悲願の成就を志す感情、優太への依存心、伊邪那美の意思で稼働する似て非なる“別の俺”だ。
仁那と会話していた俺は、此所に居る。あの肉体を一時的に支配し、千極帝の救出と助言をしたかったからだ。あまり時間が無いからこそ、物置小屋が限界だった」
暁であって、現実の彼は本人の意思とは少し異質な人間。中枢の半分を神が占有し、戦闘術や記憶は見事に復元され、肉体をこの世界に存在する条件として成立させている。
闇人が千里眼、仙術を会得する資格を有する理由としては、その祖先と起源が伊邪那美である事に端を発する。黄泉國を訪れし主神より強奪したのは、半身の所有する『六神通』の能力の一端たる『天眼通』と、世界運営に不可欠な仙術であった。
死した者しか干渉し得ぬ見えざる世界より、『天眼通』――つまり千里眼を用いて、伊邪那美は現世を目視し、我が子の子孫に闇人を生産する。その影響を強く伝承した者が、死術による生命の循環と魔術が書き換える自然界の運動、そして氣術が内包する両者の共通概念を理解した者が仙術を得る。
中でもどの先代をも凌駕し、生来より桁外れの邪氣を持っていた暁は、伊邪那美の期待を強く寄せる最高傑作でもあり、意思を封じられた闇人には極めて稀有である独自の思考と行動力があるため、仙術を体得するに至ったのだ。
幼少期に開眼した『天眼通』を用いて、過去から現今までの時の流れに生じた自然界の現象、その犠牲となって新たな生態系や世界の運営を支える命の流れを見て、神代から現世に伊耶那岐以外には無かった存在となる。
暁は四体と四人に振り返った。
「予知した幾つもの未来の中で、最悪の結末に達しようとする際、再び甦るよう細工した。最後に俺を敵に据えれば、世界共通の敵が生まれる事で大陸は団結すると踏んで。……伊邪那美が介入してくるのも予想していたが、俺の意思の割合を些か間違えた。
お前達に頼みたい、俺を――止めてくれ」
夜影が現実で抱いた疑問に挙手する。
「あの赤髪の戦士が持つ、“聖氣”とは?やけに興味と警戒を示していたが、何も威力のみに着眼したのでは無かろう」
鋭い洞察力で、隕石を破壊したガフマンの力が見せる壮観に対して見せた暁の感情の機微と、その真意を読み取っていた。あの場に居る全員が空より斥けられた神の鉄槌に怯えていた時、夜影は敵の中枢を観察していた。
暁の体から無数の黒い粒子が空気中に浮かんで舞う。禍々しくも、どこか注目すれば魂が引き込まれてしまう妖しい魅力が混じる物。
「“聖氣”とは肉体を司り、“邪氣”が魂を司る。前者を全身で開放し得た者が、世界と自己という概念の境界を常時無視し、第二の伊耶那岐に到達する。俺は仙術を使用しても、聖氣の操作までは修行で獲得出来なかった。出自が闇人であるのもそうだが、俺は主神……世界そのものにまではなれない、世界を動かせば出来てもな。
本来ならば『四片』の力を等しく有し、精密に操作する事で初めて開放されるのだが……あのガフマンは、数々の戦闘経験で培った身体と氣の連動、それを精巧に統御する事で半身の“聖氣”を体得している。
邪氣で防御しても、あの男の攻撃は通るかもしれん」
「つまり、あの五月蝿いの(ガフマン)は規格外だと……俺、そんなの家に泊めてたのか」
肩を落とす幹太に苦笑する三人。
あの破天荒と貪欲な探究心で振り回された幹太の苦労は他人には容易に共感しうるものではなく、また自分が対応していた人間が世界そのものに近付く力を持つと知って悲しい納得が得られた。
改めて、暁の話を己の中で反芻するが、回答など最初から一つしか見当たらず、仁那が即答した通りの物に重なってしまう。
「必ず斃す、貴様に再挑戦してな」
「ボクは輸慶とみんなを守るよ」
「それ、やらないと里に帰れなさそうだしな」
暁を中心に、心象風景が刷新される。
支柱が崩落した無蓋の神殿、山々に囲われたその場所の頭上に拡がる天空は蒼く澄み渡っていた。足下には埃と砂塵に薄く風化した六枚の花弁――縹色、銀色、緋色、鶸色、そして闇色と白金色が拡がる意匠。
久しく見た故郷に感傷に浸る四体、彼等の住処を初めて見た四人の感嘆を他所に、この世界の中枢に在る暁が両手を打ち合わせた。
「祐輔の魂で均衡は無いが、『四片』の氣を持つ仁那はお前達を繋ぐ。これより先は、仁那を介して話せるだろう。そして……絆を持つその三人も。
俺のこの意識のみでは、総量は運べなかった。魂と六割は、お前達に移された」
「いや、アンタに不可能ってあんのかよ……」
幹太の呆れた感想は、この場の全員の代弁であった。この会話の内に、幹太と詩音と夜影に、それぞれ三体の魂のみならず半数以上の氣を運んだのだ。もはや、何が不可能なのかを知りたくなるのは当然の理でもある。
しかし、暁はそれに応えなかった。
四人の足元にある花弁が光を放つ。
「改めて頼む。どうか俺を止めてくれ」
× × ×
再来する脅威に、ガフマンが再び剣を掲げる。
その時、暁が頭上に持ち上げた拳固を振り下ろした瞬間、襲来する巨石が一度消滅した。突然の事に怪訝な視線のガフマンと、安堵する面々は再び恐怖で統一される。
今度は四方の空から先程と同じ大きさ、しかし数を増して墜落する破壊の滴。神の力と形容して遜色無い代物に、誰もが動けずにいる。ガフマンが最も早く墜落する一弾はどれか判断し、先に斬る算段を立てたが、どれも処理が困難であると気付いた。
総て斜方に僅かに弧を描いて落下する。高空より再襲撃を仕掛ける爆弾の到来。天守閣を四方向から勦討する為の軌道だが、両断したところで先程と同様に南北の荒野のように都合良く人気の無い場所に払えない。ガフマンの居る天守閣は躱せても、首都は再興も不可能な致命的にして壊滅的にして滅亡的な大打撃を受ける。
天守閣最上階から展望する首都では、街路に人々が飛び出していた。恐らく、先刻の暁の宣戦布告を耳にして混乱している。加えて隕石を見て避難すら思い付かずに固まっているのだろう。
先程は世界全体に脅威と己が力を示す為に形としてしか見せなかった筈が、千極の首都には集中的な発破を掛けてくる。未だ底が見えぬ目的を思索する猶予も無い。次なる渾身の一撃を放つ為の準備に入った。今はどちらにせよ、世界の要となる人物が集ったのだから、その命を何としても守り抜かなければならない。彼等が倒れてからでは、世界は確実に勝ち目が無くなる。
しかし、事態は好転する兆しを全く見せず、着々と空の巨大な刺客は目的地を一つに絞って高度を落とす。ガフマンと同等の威力を発する兵器を併用しない限り、……あの隕石を粉塵へと帰するモノが無ければ、多くの国民の命が潰える。火炎の剣の刃先を翻し、再び振り下ろそうとした瞬間、その腕を誰かに掴んで止められる。
意識を取り戻した仁那が、その華奢な腕で自分のそれを何本束ねても足らないガフマンの巨体を制止していた。その背後で夜影と幹太、詩音がそれぞれ別の空を見上げている。だが、どこにも慴れに陰る表情すら見せない。
四人の異変を察し、剣を下ろしたガフマンに一度だけ朗らかに笑むと、仁那は暁へ決然とした眼差しを投げ掛けた。額に巻いた襟巻きを首元に巻き直し、両脇に握り締めた拳を引く。
「祐輔、準備は良い!?」
『抑えられてた分、オレ様の怒りも溜まってるからなァ!!』
仁那の肢体が祐輔の氣に満ちる。
「行くぞ、弁覩……間違えた、クソ猫!!」
『間違えてニャいんだけど!?』
幹太の肉体を弁覩の氣が包んだ。
「ボクらも負けてられないよ!!」
『確かに、今回ばかりは、あのお調子者に迫力で劣るのは癪ですね』
詩音の満身に輸慶の氣を纏った。
「昌了、力を貸せ」
『承知した』
夜影の全身に昌了の氣が奔った。
「小娘、やっと起きたか!」
仁那は一瞬で変身を終えた。
額に一対の角を模す翡翠の頭髪、左肩に波紋模様を拵える裾の短い同色の羽織を纏う。縹色の氣で編まれた襟巻きの先は龍の頭となっていた。ジーンズと黒い徳利襟が一体化し、胸元に肩と同じ幾重にも収斂させた円の模様を持つ。
轟然と大気を圧して来訪する四つの兵器を見回し、直上へと跳躍しつつ宙で身を翻して東の空より襲来する隕石と正対する。
幹太の体は右肩の皮膚に波紋模様が刻印され、黒い縞模様が全身へと伸び、両手は鋭利な虎の爪を持つ手套を填める。頭髪は白銀だが、肩同様に所々で黒く縞が浮かび上がり、後ろに流した長髪が乱れて一対の獣の耳介を象る。頬に猫髭の黒い三本線が入り、臀部からは白い尾が二本生えていた。
詩音の背には薔薇色と朱色が混じる複雑な色彩に羽根の一枚いちまいが煌めく両翼を伸ばす。毛髪が金色に変色し、腹部に暈のような波紋模様が浮かぶ。半袖の襯衣の襟から爪先まで緋色の線が走り、踵には太く鋭い蹴爪が現れていた。腰から流れ、常に色の変わる艶やかな光彩を帯びた虹色の羽毛が風に靡く。
額に二重の円、鶸色の長作務衣の腹部に六角形、頂点から中の波紋模様と繋がる線が黒で描かれた外観。指先や足先までを黒い氣が包んで手套と長い足袋に似た装いとなり、背には深緑の甲羅の如き盾が顕現する。得物の薙刀に蛇の意匠が刻まれ、刃が通常の三倍に膨張して、急速な変化のあまり床を深々と抉っていた。
「ここからは、わっせ達がやる!!」
詩音が二人の背に軽く触れた。
侠客、狩人、飛脚、兵士と職の違う面子が空より参る災厄の破壊を敢行する。天上から消し去るには、たった一度の失敗も許されない。その直後には信頼したモノ、総てが無駄になってしまう。
だが、気負いも迷いもない四人の面持ちが円卓の側に居る者達に希望を抱かせる。
「仁那が東なら、私は北を処理する。狩人は西を、飛脚は西が担当だ」
「働くのは面倒臭いが、鈴音に良い姿見せるか」
「それじゃ、飛びますよ!」
一瞬の間を空けて、三人が忽然と消えた。
その姿を探って全員が見回すと、頭上を縹色の光が満たした。強く網膜を刺激する閃光が弱まり、カリーナが視線を高く持ち上げて正体を確かめる。
天守閣の真上に、巨大な龍が体を泳がせている。だが、注視すれば実体ではなく厖大な氣によって形成された姿形なのだと察知した。首都に住む人々の氣を総て集束させても届かない量を、精密な制御力で纏めている。これが青龍門・祐輔と完全な一心同体と化した仁那の真髄。
南の荒野には、空を覆う両翼を羽ばたかせる孔雀、北の荒野に大地を跳ねらせるように着地する蛇と亀、西には咆哮を上げる虎が同時に立つ。
仁那のみならず三人までもが完全共鳴を果たした。『四片』の獣が一ヶ所に集い、その神聖なる真の姿を公然と晒す。首都の四方を囲う景色は、まるで守護神の如く高い市壁の前に立ちはだかって荘厳であった。
龍の全体から放たれる光帯がより広範に届いて強さを増す。
「突っ込むよ――『画竜点睛』ッ!」
虎の巨体が膨らみ、口腔が銀の光で満たされる。
「ぶち噛ますぞ――『虎嘯風生』ィ!!」
孔雀の羽が騒めいて逆立ち、夜空に点綴と光る星を連想させるようにそれぞれ異色に輝く。
「撃ち落とすんだ――『鳳凰銜書』ッ!!」
亀に肢体を巻き付けていた蛇が変化し、螺旋状の槍となる。
「害悪は滅する――『麟鳳亀竜』!!」
東の空に雷光が閃くと、隕石が中心から光を炸裂させて粉塵となる。物質を微細に破壊するのではなく、分解するかのような攻撃の余波は、首都の市壁寸前まで拡がって消失した。首都東部に面する森林は恰も掬われた後の砂地、綺麗に抉れて円形の深い窪地が形成されている。
しかし、その後に破壊の痕跡を掻き消さんと自然界の修正力が働いたように、消えた地勢に新たな植生が生まれた。先程の一撃によって分解され、降り落ちた砂塵が肥料と化したとしか思えぬ速度で森林が再生される。
西の空で銀毛の虎が咆哮を上げた。半円状に拡散し、隕石に穿たれ三々五々と散っていた雲を完全に消滅させる。虎を中心に蒼天が首都西部を覆い、虎のけたたましい咆の音響に隕石の核まで罅が入る。すると、硬い岩石が灰に変化し空で霧となって駅や街道に舞い落ちる。噴火後と錯覚させるほどに、蒼天が灰色に染まった。
その氣の属性『金』は、あらゆる金属を別の金属へと変換する異能力となる。脆弱性の高い物質へと変え、氣を帯びた音声に触れた途端に変換され、地割れすらも引き起こす音圧に晒されて粉砕されたのだった。
南の空に一迅の暴風が吹き荒れ、周囲の瓦礫を浚って行く。風が凪いだ一瞬、虹色の光線が天空を切断せん速度で隕石を貫通した。穿たれた部分から爆発を断続的に発生させる。上空で爆ぜる岩が地上に墜落するまでに小石の大きさにまで削られて行く。
しかし、民家の屋根を打つよりも先に高熱を発して融解し、風によって遠くへと運ばれてしまう。繊細な制御が働いているのか、その突風は一切街道の人間達に影響を与えず過ぎる。
北の空に螺旋状の支柱が立つ。爆音は一切無く、静かに隕石は上空から消滅し、代わりに輝いて空気を澄み渡らせる衝天の光が北の荒野に聳える。煌々と照らされた大地を這い、遅れて爆風と振動が馳せて市壁を乱打する。内側にいる人間には遅れて現れた衝撃に思わず倒れた。
破壊された隕石の破片は、地面と大衝突を果たすのではなく、互いに連結し落下地点を選んで自由に動き、其処に一つの新たな崖を構成し、地図には無い地形が誕生する。そして今は消えた光の麓では水が湧き、東や西へと流れて行く。
「少しはやるようになったな」
暁が独りごちると、龍が天守閣に戻った。
口腔を開けると、その内側から仁那が飛び降りて円卓の上に着地する。龍の氣が空中で霧散し、仁那の姿も通常に戻った。同時に、西と南と北から獣の姿が消え、彼女の後ろに夜影達が帰還する。
仁那を背後からガフマンがその頭をがしっと掴むように撫で回し、不敵な笑顔で暁を見遣った。軻遇突智が不機嫌に鼻を鳴らし、何気ない所作で一団に向けた人差し指から黄金の炎が迸った。床を焼き払って正面から焼き滅ぼさんと襲い掛かる。
カリーナが杖を手放すと、邪氣の黒玉へと回帰し、即座に再び変形する。今度は大口を開けた巨狼の頭部に変形し、神聖な火炎を呑み込んだ。その後方では『顕現の鵞ペン』を虚空に走らせ、氣で綴った文字を成して行く。
隣では結の氣が白銀の炎となって、その傍らに人の姿を象った。槍の如き矢を矧いだ重甲冑の兵士は、炎の体を躍動させて手中に集積した氣を矢へと伝達する。
「《勇将の戦唄》・《加護の守り》」
カリーナの文字が結の氣と融合し、その威力をより増大させる役を担う。
「行くわよ――魔術《天の弩弓》!」
弓兵が槍を放つ。弦に弾かれ射出されたそれは、高速で軻遇突智の顔面を直撃した。爆炎が至近距離で炸裂した威力は、天守閣の一画に火柱を打ち立てる。轟風に煽られて高欄に捕まる狩還達。
暁は片腕で倒れかけた彼を支えた。
「今日は此所で去ろう。次に会うとすれば戦場か、或いは……矛剴の里になるだろう」
「矛剴だと……其処は……!」
「皇族の少女、お前に予言しよう」
暁は花衣に振り向いた。
「これから先、里で起きる出来事によって優太は変わる。それが闇か光か、栄転か転落かはまだ判らないが……。
それでも――お前と優太の道が交わる事は、もう決して無いだろう」
花衣が恐怖に身を縮める。
しかし、その隣で仁那が大きく床を踏み鳴らして否定した。
「わっせがそうはさせない。
二人は幸せにするし、世界だって音無さんや軻遇突智さんの思い通りにはさせない。敷かれた道、用意された台本じゃなくて、わっせ達が書いた物語にしてみせる!」
暁が頷くと高欄の側にいた乱入者たちの姿が風景に溶けて行く。仁那には、鈴音が死術で姿を透明化した時と同じ様に見えた。祐輔と共に感知してみるが、狩還と嵌是、軻遇突智の気配は薄れて行く。暁は元より知覚すら不可能だが、視認できる範囲では既に顔の輪郭すら捉えられぬ程に消えていた。
「仁那……北大陸で待っている……」
闇人暁が完全に姿を晦ませた。
襲来を凌ぎ、安堵に腰を着く一同。ガフマンでさえ床に大の字となって仰臥していた。だが、特に疲労していたのは仁那達四名であって、盛大に大技を放ったばかりに体には平生無い負荷が押し寄せ、立ち上がろうとすれば膝は小刻みに震えて脱力する。
休憩を得て安らぐ一同だったが、城下町から響く歓声が弛緩し始めていた空気を緊張させる。カリーナが何事かと高欄から展望すれば、どうやら災厄が去った後の欣喜を分かち合って、冷める事もなく勢いを増して天守閣に駆け寄っていた。
四方八方から押し寄せる群衆に、張り出しまで四つ這いで近付いた仁那が力無く笑った。
「これ、大変だねぇ……」
『いいや、これからだぜ』
隣で長嘆するカリーナとは別に、脳裏で相棒の声がする。
確かに、昌了と輸慶の肉体、弁覩の肉片が敵の手に落ちてしまった。祐輔の肉体も併せて既に北大陸にわたっているだろう。主神復活の要素となる四体の一部が実質敵の掌中にある。肝心な魂がまだ此方側にあるといえど、油断はならない。既に開戦の合図は告げられた。
「これから忙しいよ、頑張ろうね祐輔」
『けっ、今更だろ。燻製肉十枚で許してやる』
火乃聿の空は青く澄んでいた。
アクセスして頂き、誠に有り難うございます。
次回かあと二話で、四章は終幕となります。丁度、現実もこれから事後処理が多くなる時期ですね、師走は忙しい……。
頑張って書ききりたいと思います。
次回も宜しくお願い致します。




