礼拝堂の秘密/雨中の城下町
粛々と座して待つ夜叉の前に眠る隻眼の亀――昌了は、手拭いの乾きを肢体に巻き付く蛇を使って訴える。膝を擽る蛇の下に意を察し、桶から柄杓で掬った水を満遍なく振り掛ける。
再び水を得て憩う昌了の吐息に、薄く白眼を見開いて格子窓の外を見遣った。雨は強くなる一方、限界を知らずさながら弾丸の如く地に降り注ぐ。
仁那の外出を認めてから既に一刻が経つ。夜叉の号を以て危害の一切を斥ける態勢を整えたにせよ、不在が長ければ流石に不審に思う。行く先と想定し得る不穏な未来などを思量して、立ち上がった。錫杖を肩に担ぎ、廊下に出る。
「仁那の帰りが遅い」
『ならば如何とするか』
「迎えに行く、仁那に何かあれば切腹に価する」
『なれば余を伴うと良い。あの娘の氣を感知してみよう』
「心得た」
夜叉は仁那がやったように、昌了を手拭いに包むと錫杖の先端に結わえ付けた。如何せん扱いの杜撰な様相であったが、運び方の云々に口出しせず、一人と一匹は黙って退室する。
北の出口を目指す足は階段を降りて行く最中に、慌てた様子で駆け上がる部下と擦れ違う。今は仁那の身を案じる夜叉には些末な事であったが、昌了は顔をを穴より出して視線で追う。
『随分と忙しない』
「それよりも感知を、仁那を速やかに保護せねばならん」
『急いておるな。もしや娘に本気で惚れておるのか、道中聴いてはいたが単なる利用ではなく?』
「他意は無い。人心を読む貴様にしては愚問だな。我欲の薄き人生に、心から求め欲した存在なのは確か。仁那の喪失は我が絶命も同然、たとえ国の命運を決める天秤がどちらに傾こうとも、この手に収めたい人」
『余は自らの耳で、目で判断したい性分。この力は最終手段にて、やはり言葉として、表情として窺えねば意味は無い。能力では感情までは読めぬのでな』
夜叉が一人廊下を歩くと、数人の長作務衣を伴った赤髭が正面の薄闇から、こちらへ向かって歩いて来る。足を止め、昌了を懐に隠して薙刀を壁際の床に置き、その場で跪いた。
白く艶やかな長い髭を撫でながら、微笑みを湛えて歩み寄る。
「どうしましたか、夜叉」
「私も北の修練場に鍛練を」
「……そうですか。しかし残念ながら夜叉、貴方に頼みたい性急な任務があります」
頭を垂れたまま、赤髭の声を傾聴する。懐中で濡れた手拭いが肌に張り付く。昌了の存在は隠さなければならない。
「あの「白き魔女」の傀儡が町に潜伏しているとの情報があります。この雨に紛れ、諜報活動を続けているやもしれない、城下町の巡回を頼めますか?」
「ご命令とあらば」
夜叉は立ち上がると、来た道を辿って南へ向かう。背後では遠くなる赤髭がこちらを見送っていた。懐中から顔を出す昌了が嘆息する。
『あの男、其方を北へ行かせぬ気だ』
「何故に?」
『読み取れたのはそれだけ、目的意識が強く、それ以上の情報が彼奴の内側には聴こえなかった』
夜叉の足は止まらない。玄関へと向かう。
『任務へ行くか?』
「昌了、感知を継続しろ」
『北側より、微弱だが娘の波動を感じる』
夜叉は頷くと、玄関を前にして別の道を行き始めた。赤髭とは遭遇せぬよう、迂路を選んで屋内を進む。
『任務放棄とは感心しない』
「私の天秤は、そちらに傾いた。仮に仁那を脅かすのなら、敵が何者であろうと、例外無く我が刃の斬るべき対象でしかない……例えそれが、閣下であったとしても」
『心意気良し、娘の近くにも悪意を感じる。急げ夜叉……否、其方に名を授けよう』
懐より見上げる亀の頭に、顎を引いて目を合わせる。この至近距離とあって、互いの顔を鮮明に視認する事ができた。蛇は二人の周囲を探って首を巡らせる。
『娘に寄り添う影、光の許に立つ娘の影なり。娘を朝とするなら、それと対極を成しながら断ち切れぬ結ばれし存在。其方は――夜影を名告ると良い』
「では、閣下の命令に背いた今だけ、私は夜影と名乗ろう」
確固たる意志を胸に、夜叉あらため夜影は仁那の許へ急いだ。
× × ×
地下礼拝堂の静謐を侵す仁那の跫。
初代千極帝が御神体として祀られ、常に魔石による光で照明され、磨かれた支柱の光沢が眩しい。左右に伸びる長椅子の列と壁面に彫刻された悪魔と思しき像の数々が祭壇を睨む。これらは、帝を畏れ脅かそうとした反乱分子を魔物とし、彼等の視線が注がれる礼拝堂の奥では、帝の遺体を葬ったとされる石棺を囲う半円状に突き立つ八本の槍が守護神を象徴する。
東国では神を尊ぶ信心は無く、しかし人間でありながら比類なき偉業を成し遂げた存在を称え、像として残し記憶する風習がある。帝はその代表例でありながら、どうして人々から忘れ去られた城郭の隅に建つ。
人目に触れぬ神聖さとは裏腹に、ただ埃を被るだけの歴史の遺骸と化すには勿体の無い意匠と威厳、そして拭いきれない寂寥。訪れて僅か数分しか経たない仁那の胸中に強く伝わる。
もしこの場に一人で立っていたなら、孤独とそれらに挟まれ、気を狂わせていたかもしれない。振り返ってみると、音無は扉の脇に控えて静観する。彼の存在が心を支える一つだった。
改めて、音無の言葉を反芻する。
――此所に帝が幽閉されている。
その事実は真か、それを詮議する必要性は無い。此所まで導いた幽鬼の如し音無は、誰も訪れもしない帝の墓所を示す意義が、今さら些末と判断できるほど仁那は愚鈍ではなく、そもそも初対面の彼の言葉に対する疑心を全く抱かずにいる。
不思議な感覚であった。突如として現れた怪異、自分に何を示唆しているのか、目的も不明な男の言葉を心底から信じる己の精神、一つずつ問えば途方もない時間を要する。
祭壇に近寄って周囲を調べる。この地下に孤立したような空間に幽閉されるなど、常人ならば精神など保てない。帝も例外無く人間、いつからなのかは判らないが、少なくとも救わなくてはならない。仁那は必死になって、標となる物を探す。
音無は協力の姿勢を見せず、仁那を淡々と見守るだけであった。
「音無さんは、どうして帝の場所をわっせに?」
音無が僅かに眉を動かす。いつの間にか勝手に渾名されていた事を知ったのだ。仁那は道中、会話中にも彼の名を呼ぶことは無かったのが原因でもある。
「……初代千極帝には、世話になった記憶がある」
「え?」
「旅をしていた頃、千極帝と盟約を交わした。戦時中、故郷から連れ出し山里に預けていた幼馴染が、仮に里を出た場合は守護して欲しいという希求に、帝は途中で死して尚、腹心の部下を使い以後も約束を反故にはしなかった。
彼女は家庭を築いた事、また帝の尽力が裏にあると知った。少々長い時を隔ててしまったが、その返礼をしなくてはならない」
ここで漸く察した。やはり、直接探す事は出来ない。恩がありながら、仁那に捜索を促す理由など一つ――自分の力では不可能であるからこそ、他者の力を介さなくては、帝への干渉が困難である以外に無い。やはり尋常一様ではない事情の持ち主なのだと再認識した。
仁那は黙ってから、ふと邪念が芽生えて意地悪な笑顔になる。音無と初代千極帝の間にある過去から摘み取った小さな要素に悪戯心を踊らせた。
「その幼馴染、女の子だったんだ」
音無は頷いた。
「その子を連れ出したって、どうして?」
「………………」
「もしかして、駆け落ち?……あ」
仁那は自身の口を押さえた。
音無が初めて、視線を逸らし微かに表情を曇らせた。その幼馴染は既に家庭を作っている、仮に彼が好意を持っていたとしても、それは届かなかった意味を含む。思いを汲み取れず無神経な言葉を悔いて、仁那は俯いた。
千極帝との盟約――縁あるが故に此所へ誘導した彼の真意は、過去の返礼である。それは仁那が信念とする侠客のつとめ。それに類似した行為だ。そこから言及すべきでない事実にまで踏み込もうとした浅慮を恥じた。
無用心だった己の軽挙を内心で激しく叱責していると、音無は滔々と話し始める。短く、最小限の言葉で伝えた。
「彼女は幸せそうだった」
「うん」
「それで良い」
声に抑揚は無く、機械的であった。ただ予て用意した文を音読しているかの如く、言葉に滲む己の心情を隠す努力を感じる。それ故に痛ましく聞こえてしまう。
琥珀色の眼差しは、相手を真っ直ぐ正面から見返す。その時、仁那は彼の眼から動揺を読み取った。それは恐怖の色、たとえ心許ない思念でも言い遂せた己の冷たさに怯えている。
しかし、それも刹那の心底から漏洩した澱。また感情の無い、無色透明の彼に戻った。
「本当に?」
「……俺には出来なかった事だ」
自嘲も悲哀も除外した無機質な声音。当人の遂行能力を精確に計算し、結果から当然の判断を下して報告する機械のようだった。
仁那は首を緩やかに横へ振って否定する。
誰かを幸福にする、それは隣に在り共存する事。互いを支え合い、不足した物を補い合う、想いが通ずる同士でなくては成立し得ない関係。そこに権力や財産が無くとも、人々の営みが続いて来た根元である愛がある。例に無く、音無もまたその情念を持つ真っ当な人間。それを否むのた容易くとも、仁那の眼はそれを許さない。
この闇の中を歩く時、寄り添い仁那を支えてくれた音無の行動には、誰かを支え、補う力と、相手を想う優しさがあった。その尊い感情が、彼に欠陥しているとは到底思えない。
「ううん、きっと出来た。だって音無さんは優しいから。……ごめん、後悔させるような事言って、わっせって無神経だね、あはは」
自虐的に微笑んだ仁那の囁く声は、確かに礼拝堂に響く。
音無は初めて感情を大きく顕に瞠目し、口を開きかけて止まると、また無表情で爪先を見下ろす。礼拝堂に反響する二人の声を、地下の静寂が呑み込んだ。沈黙がまた音無の気配を無にする。声がなければ、其所に在るのかも定かではない存在感。
仁那は自身の発言に自信と、微かな憐憫を胸懐に残し、礼拝堂の調査を再開した。今は帝の恩に報いようとする意志に協力する。幽霊であろうが、敵であろうが関係や正体に拘泥するなど愚考。敵の懐である天守閣の中で怯えていた自分を案内役として支えてくれた音無に、侠客として本来の務めを果たすべく。
闇の通路を、そして雨の中に寄り添って握られた手は温かい感触を掌に残す。当時は体温を感じない無機質で不可思議な手が、今になって道中の記憶を顧みると仁那を包む思い遣りを想起し儚くも色彩を生んだ。
音無は礼拝堂の床に重く沈殿した薄闇に立つ己の足許に固定していた視線を外し、仁那の後ろ姿を静観する。自分では把握しない己の優しさを説く少女の慈愛に満ちた相貌を思い返す。
階段の上を一度見上げた後に前方へ手を差し出す。指先から闇色の泥が音もなく垂れた。音もなく飛沫も上げずに着地すると高速で床を這い、仁那の影と接触した途端、指から零れ落ちた全体を滑り込ませて同化する。
何らかの違和感を覚え、動きを止めた仁那だったが、勘違いだと判断して作業を継続した。その後ろで、音無が何をしたかも知らずに。
矩形の石棺に触れて、仕掛の有無を確認した。
言義では機械仕掛けで暴かれる地下への脱出経路、跳ね橋を稼働させるという技術を見て来た。祐輔が今まで目にして来た暗殺者の秘密経路に関しても、正体の隠蔽や効率的な仕事の為に表面上では景色に溶け込んだ工作が施されている。
初代千極帝の祭壇に立つ八本の槍を次に調べると、手懸かりはすぐに現れた。五本目の長柄を握り締めると、床に突き立つ穂先で閂の降りるような音が鳴る。
変化の乏しい帝の捜索には吉兆に思え、喜色を顔面に湛えて手を放すと、背後で石棺の蓋が横へと移動した。仁那の顔色が蒼くなる。もしかすふと、自分は死者を甦らせる悪魔の罠を起動させてしまったのではないかと邪推し、石棺から如何なる邪悪が出現するかと身構える。
歯車の廻る音が空間一帯を震動させ、仁那が固唾を呑んで見守る中、石棺の上から退けられた蓋は独りでに裏返った。底には鉄の環に括り付けられた縄があり、棺に伸びている。恐々として覗いてみると、人骨や木乃伊は無く、それどころか石の底すら無い。更なる地下が匿う闇を孕んだ空洞が続いた。
踏み出すか否か、躊躇って後ろを向くと、扉の脇に居た筈の音無が消えていた。また闇に紛れているのかと視線を奔らせるが、見当たる人影は在らず、礼拝堂に残された仁那の存在ばかりが際立つ。孤独感に棺から離れようとした時、脳内で親しみ深い声が響いた。
『話は終わったか?』
欠伸混じりの曇った声で、祐輔が起床した。夜叉との会話を阻害せぬよう常時働いている感覚の認識共有を外していたため、想像していた未来とは大いに異なる景色に、今度は喫驚で言葉を失う。仁那は説明よりも安心感が先立って、棺の縁に寄り掛かって胸を撫で下ろす。
説明しようとして、ふと祐輔が険しく唸る声を聞いて止まった。仁那は小首を傾げ、精神世界の相棒に語り掛ける。
“――どうしたの?”
『いや、テメェと肉体を共有してるお蔭で、眠っている間の出来事も視る事が出来た筈なんだが……』
“――判らないの?”
『オレ様の居ない間に何があった?』
仁那は質問されて言葉に窮する。
短い間にあった出来事を語るだけなのに、何処から話せば良いか、その区切りが判らない。記憶の糸を手繰って――あれ、彼とはどうして出会ったんだっけ?どうしてこんな場所に?そもそも音無って……誰?
思い返すと、空白の時間が生まれた。仁那は己の中の記憶の欠陥が知覚出来ぬほどになり、最新の記憶は天守閣の階段前で途絶する。脳内で鮮明に再生が可能なのは、そこまでしかなかった。虚脱感にも似た不快な感覚に苛まれ、自分の体を抱いた。
祐輔も感覚が繋がっている所為で、同じように体験し、それが記憶を奪われた後の症状だと即座に理解する。意図的に除去された痕さえも、その内に消えていく。時間の経過で証拠を完全に抹消される戦慄も、後には残らないのだろう。
二人は胸中を騒がせる奇怪な現象に頭痛すら覚えてしまう。地下礼拝堂に一人佇む仁那は、棺の中を改めて覗き込む。何事かは思い出せずとも、此所に立っている事が無為である筈がない、石棺の中にはもしかすると、この己の疑問を解決する証拠があるのだと希望を抱く。
眥を決して、縄を掴んで縁からゆっくりと降りる。護身用として携えてきた拳鍔刀があれば充分と思い、降りて行く手の早さに迷いはない。次第に頭上へと遠ざかる魔石の光を侵す闇が周囲を包み、未だ暗順応しない視覚を凝らして闇の中を探る。
“――何も見えないよ、弁覩の能力を使おうかな。”
『輸慶の能力なら適度に照らせんじゃねぇか?』
“――ぜ、全身照明みたいな?”
『そりゃ面白そうだな、笑ってやる』
“――笑われると解ってて、誰がやるのさ!本当に祐輔は意地悪だね!”
『まあ、テメェで光らずとも魔石の一つでも拝借すりゃ簡単なのにな』
“――それ……早く言ってよ。”
『気付かねぇテメェが阿呆なだけだ……ったく、ちと待ってろ』
襟巻きが縹色の氣を帯びる。自分の意志とは無関係に発動した力に一驚する仁那の前で、裾が祐輔の頭部に変形して上に伸びた。まさか部分的に能力の一端を開放できる慮外の発見に茫然としていると、魔石を容れた桃燈を咥えて帰還する。仁那の手に渡して、通常の襟巻きに戻った。
闇の中に広がる光が安心感をもたらすと同時に、仁那は手元にどこか懐かしさを覚えた。この桃燈に、何か思い出があるかのように。それでも該当する記憶は一切無く思い違いと考えて、更に下へと降りる。
爪先が地面の硬い感触を掴み、意を決して縄から手を放した。揺らがぬ足場を得てほっとすると、桃燈で地下空間を調べる。
鈍く照らされ、虚空に浮かび上がったのは岩壁だった。掘られた後に放置されたままの洞穴の内側さながらの壁面を眺めながら、進んで近付こうとした時、縄が頭上から落ちて来た。驚いて振り仰いだ仁那の視線の先で、歯車の音と共に矩形の出入口が閉じていく。
唖然とする仁那の眼前で、光の間隙は完全に封鎖され、桃燈の光だけを恃みとする暗黒が訪れる。
「え……どうして?」
『誰かに感付かれたのかもしれねぇな、入り口塞がれちまったぜ』
「いや、危険だよ!?どうしよ!?」
『その気になりゃ、テメェの力で天井ごと破壊して脱出出来るだろ』
「あ、そっか。……それでも礼拝堂壊しちゃうよ」
『死んでも良いのか、此所で。お前も中々の物好きだな』
「うん、そうだよね、背に腹は変えられない!わっせにそんな酔狂は無いよ、うんうん!」
仁那の声ばかりが喧しく響く。閉塞的な空間に取り残されても冷静な祐輔の声に、改めて心強さを得た。相棒の存在が自分の支柱となっている。支え合い、助け合う、その関係は片方が肉体を失っても未だ健在であった。
闇の中を再度検め、桃燈を手に進もうとした。
「誰だっ!?」
反響する声は祐輔でも仁那でもない。
音源を探っていると、跫が近付いてくる。
「だ、誰だろう」
『礼拝堂に祀られた亡霊じゃねぇか?』
「こ、怖い事言わないでよ!」
照らされた地面の中に、足が現れた。
× × ×
天守閣が見下ろす城下町は、依然として人の姿を見せず、雨に打たれる無人の街路は虚しい景観を呈している。雷雲が頭上で遠雷の音は、天上から咆哮する龍の慟哭のようであった。過去に天空を泳ぐ巨龍の姿が帝位継承の際に目撃され、それ以来この千極では変革の兆しとして龍が現れるとされる。これに従うならば、それは三日後に訪れる使者が改革をもたらす前兆なのかもしれない。家屋の窓から空を覗き、都市を震わせる天の咆を聴く人々はそう直感した。
城塞都市に降り注ぐ雨音と雷鳴は、気配を掻き消すには好都合。これに乗じて動く者は、一貫して人に見られるのを厭う事情を持つ者ばかり。決まって、暗殺者や間諜である。
地面を覆う水を蹴散らし、泥に足を汚した長作務衣の数名が、路地に駆け込んで周囲を鋭く見回した。無人である筈の路上に敵意の眼差しを投げ掛け、注意深く探索している。
路地の気配は無い。再び駆け出す長作務衣の水を踏む音が遠ざかると、彼等の元いた位置の中空に円形に拡大する孔が生まれた。背景の家屋の輪郭を歪ませたそれの内から、二人の人影が現れる。
一人は前髪が著しく伸びて目元までを隠す赤褐色の頭髪をした男性。面貌は数ある種族の中で最も個体数の多い人族でありながら、その頭頂に円らな一対の獣耳が立つ。強い雨滴の打擲に前方へ傾いてしまい、鬱陶しそうに頻りに手で覆う。五分袖の黒い革外套の下には、膝下まで伸びる単衣を着ている。
白く塗られた端正な鼻梁、しかし地肌は淡褐色に近い。両手は柔らかい白い体毛に覆われているが、水分を大いに吸って今では細い腕の輪郭を晒す。腰には湾刀を佩いているが、鞘の無い抜き身の状態である。ただし、これは人を斬るに適した鋭さを持ち合わせておらず、刃の所々は歪んで潰れた鈍物。
長身の所為で、家屋の屋根から流れ落ちる雨水の滝は本来なら隣の少女に当たる筈だが、その途上に立った彼の頭頂を命中し、ますます耳を倒す悪因となっている。それを少女に笑われ、更に不機嫌は増す。
濡れ鼠となって、普段と比較して無様な彼を見て笑うのは、鋭角を作る長い耳介をした少女。淡い黄色の長髪を右で束ねており、毛先からは常に水が滴っている。異常に長く伸ばした左のもみあげは胸元まであった。だけを虹彩が黄金色をしており、やや倦怠感を思わせる目付きなのは、目尻にかけて瞼が垂れているからだ。
腰に一本の短剣、背には五尺に及ぶ大弓を装備しており、鏑矢を含めた弓矢を容れた筒を左の腰のやや後ろに帯びる。一掴みに足らぬ弓幹だが、外貌に反する強度と弾力性を備えた良質な材質で作られており、矢自体が粗末でもない限り射程距離の優れた代物。赤い縞模様のある弭巻を両端にし、弦は水が伝って妖しい艶を纏う。
弓懸を填めた左手の指を鋭く鳴らすと、空間に穿たれた孔が収斂し、跡形もなく消滅した。この超常現象を操っていたのは少女である。
二人は街路の何処から敵が姿を現すか、気を配って屋根の内側に身を寄せる。今、この首都では油断は禁物、自身らを執拗に追跡する長作務衣の集団から逃げていた。理由に思い当たる節は無く、ただ理不尽な待遇に不満を糾する間も無く逃避の一手を講じている。
「何か気味が悪い~。明宏ぉ、その獣人族の鼻も利かないの~?」
語尾を伸ばす癖のある話し方に、前髪で隠した眉が若干の苛立ちを示して皺を寄せる男性――獣人族の明宏は小さく舌打ちした。この猛雨で嗅覚は機能せず、寧ろ五感のほとんどを遮断する環境である。天変地異とまでは言わずとも、災厄の前兆と形容し得る天候の荒れ様が鋭敏な感覚器官を持つ明宏を封殺していた。明宏は魔力感知の術に長けていないため、他に手法がないからこそ鼻に頼る傾向がある。
索敵の為に懸命に神経を研ぎ澄ますが、やはり不能に終わってしまう。長作務衣からの逃走は、やはり少女の力を活用する他に安全な策は無さそうであった。それを暗に知って、ますます笑顔で胸を張る彼女を助長してしまう現状への不如意が募る。
少女は彼の不得手とする魔力感知を用いて、自身を中心とした二〇メートル付近を探る。その領域に反応する長作務衣の気配は無く、ここが束の間の安全圏だと約束するが、それは一秒とて保つかも定かではない。
「どうだヨキ、奴等の動きは?」
「今の所は居ないかな~、でも早く屋内に移動したりして姿隠した方が賢明だよね~。……あ、来るよ」
「ちっ……執拗い連中だ、何をそんなに目鯨立てるのかね、オラは此所へ観光に来ただけだっつのに」
「明宏が不審者っぽいから、仕方ないよ~」
二人の立つ街路に躍り出た長作務衣は、首を巡らせて姿を探す事もせず、一直線に狙いを決めて馳せる。
知覚域の外側に居た彼等の迷い無い行動に、一瞬の驚愕で目を大きく見開きながら、長耳の少女――ヨキは弓矢を矧ぐ。その矮躯で扱うには少し難しい大弓を即座に構えての射出――寸分違わず眉間に命中させた。
先頭の長作務衣が倒れ、それを踏み越える後方の数名に湾刀を引き抜いて明宏が立ち塞がる。技量の高い射手を守る前衛として、鋒を前に翳して前髪の向こう側から肉薄する集団の影、それらを聴覚で位置を正確に把握した。
左側から泥と水を巻きながら足許を払わんとする錫杖を踏み押さえ、右方の一人へ湾刀を振る。中空を刺す雨滴を切り裂いて水の緒を引いた刃が首へ走った。
湾刀の把を握る明宏の腕を叩いて止めた長作務衣は、錫杖を彼の脇腹へ目掛けて突く。狙うは脇腹、肝臓を匿う肋骨を力業で打ち砕こうとする。この至近距離で長物を操るには相応の技巧を要し、この長作務衣は十全に技を研いて可能としていた。
流麗な武器の操作にそれを察した明宏は、踏んでいた錫杖を足場に飛び上がり、宙で両足を同時に左右へ放って二人の顔面を側方から蹴り抜く。戦闘の才に於いて他種族より秀でる獣人族さながらの体術。続け様に柔軟な体を空中にて折り畳み、さらに前方から錫杖を振り下ろす別の長作務衣の攻撃を正面から受け止めた。
すると、長作務衣達の頭上の虚空に孔が開く。明宏の後援であるヨキが引き絞った四本の矢、その鏃の先にも同様のものが出現する。指を放して飛び出した矢はすべて孔に吸い込まれた。明宏に向けて挟撃を仕掛けようと全員で踏み出した長作務衣の頭上から、ヨキの矢が放出される。
全弾を脊椎に命中させ、明宏の周囲に死体が転がった。
これがヨキが得意とする特殊魔法――空間魔法の力である。空間を圧縮し、距離を隔てた地点を結ぶ孔を作る。十丈もある間合いを、たった一寸にまで短縮してしまう効果であり、歪められた空間を繋ぐ孔を介して物体や人を移動させる効果。故に、先程の矢は総てヨキの任意で連結した異なる地点の空間を結んで矢を届けた業。これならば、矢が持つ一方向のみへの射撃しか不可能である弱点を克服し、確実な命中を促している。
普段の態度からも人の怒りを増幅させるような倦怠感漂う彼女でも、その特異な能力を無為にしない強力な戦法と、独特の戦術を成立させる技能には明宏も素直に称賛していた。だからこそ、行動を共にしている。
襲撃した長作務衣を撃退した二人は、武器を納めて疲労の溜め息を吐く。
「あの装束って~、総督様直属の部下って事だよね~」
「「西人狩り」の恐怖もあって、ヨキの空間魔法で検問を避けた横着が仇になったな。彼等には恐らく、敵国の諜報と勘違いされた……オラの観光予定が……」
ヨキは西国出身の妖精族である。元来、妖精族自体が神の信仰に篤い種族であり、西に偏って棲息するため、その出自だけで西の者だと判断される。一ヶ月前に「白き魔女」によって赤髭の悪行が世間に露見し、「西人狩り」の勢力も衰弱の一途を辿ってはいるが、この首都は何があるかも判らない。
落胆する明宏の隣で天守閣を見上げながらヨキは肩を竦めた。
「どうしよう、やっぱり出て機を改める?」
「まあ、それが正道か」
二人は市壁に向かって歩く。
ヨキの空間魔法は有効範囲が無限である訳ではなく、精々魔力感知と同じ程度である。そのため、火乃聿を脱するならば、それなりに接近しなくては意味を成さない。氣の温存も考え、道中の長作務衣との戦闘の危険は避けられないだろう。
二人は改めて気を引き締めて踏み出す。ここでも恃みとなるのはヨキの感知能力。こればかりは自分の不甲斐なさと、自慢気な彼女の態度に再び不機嫌だ。
ヨキは進行方向に人の気配を読み取った。移動せずに物陰からこちらを伺う氣の反応が筒抜けである。目配せで方向を示すと、明宏が湾刀を片手にゆっくりと近づく。前方斜め右に建つ酒屋の引戸前に並べられた樽の奥だ。
明宏が身長に音を立てまいと雨の中に摺り足で接近すると、樽の影から小さな影が躍り出た。思わず身構える二人に対し、攻撃する事もなく現れた人間は石に躓いて転倒した。取り押さえようと明宏が乗し掛かる寸前で、泥から面を上げたのは少年である。
「ま、待ってくれ、俺は敵じゃねぇ!」
「……信じる証拠は?」
「調べてくれて良い、武装なんざしてない酒屋の跡取り息子だ」
必死に無害を訴える少年は、頭頂で黒髪を括り襦袢と裾を絞った袴という服装。前髪を後ろに撫で付けて晒された額に一文字の傷を掲げた精悍な面差しである。確かに敵意や危険などを感じない彼に、二人は未だ懐疑的に思いながら警戒を少し解く。
空気が弛緩して安堵の息を漏らした少年は、用件を思い出し、慌てて二人に向かって叩頭する。
「俺は勘田ってんだ!頼む、あんたら強いんだろ!?後生のお願いだ、どうか俺を天守閣に連れてってくれ!」
「え~、何言ってんの、この子」
「何故、我々にその依頼を?」
酒屋の少年――勘田は覚悟を決めた相で、二人を真っ直ぐ見つめた。
「あいつを――友達を助けたいんだ!」
アクセスして頂き、誠に有り難うございます。
新キャラ続々登場の回となりました。この面子を疎かにせず物語を進行して行きたいです(当たり前の事だけれども)。
次回もよろしくお願い致します。




