信じる心を亀は説く
少年は辿る――闇への一途を。
課せられた宿命を知り、己の未来を変えるべく立ち向かう決断は、導きの暁闇に差す光に従い、巡り合う者達を黎明へと誘った。その先にある平和を、自分の幸福を求めて突き進んだ月日に心は更なる燈火を灯す。
だが先導者であった少年は、自身の放つ光から生まれた影を見るようになり、次第にそちらを追って進み始め、いつしか後ろを続いていた者と擦れ違う。自分が否定し続けた己の闇と対峙し、その巨大さに光は強さを失い、その身を黒く染め上げる。
そして闇の中を見据える為の紅い瞳、無から有を生み出す術を得て、皆が手を伸ばす退路を顧みず、進路の無い暗中で唯一存在感を示す赫耀に向かって、立ち塞がる暗影を斬り伏せる。その過程に伴う流血と禍に足を取られながらも歩んだ。
自分の視た暗黒に射す一点の光が偽物だとも知らず、常に後ろで帰りを待つ真の光を、歩を進める都度に忘却の彼方に置き去りにしていく。
光の迷い子は、闇を視る。
少女は切り開く――光への路を。
運命の徒に大きな因果の流れに迷い込んで、光の届かぬ都市の闇、人の心が抱える虚無、途方もない悪意を目にし、その威に抗うべく足掻き続けた。闇を叩く己の拳足が、そこに光を生み出していく。それに気付いて、少女はひたすらに猛進した。
その後ろを、同じように闇を彷徨していた者が集い、そして大きな光の一団と合流し、世界を包む闇を切り払う槍となる。自身に取り付いていた暗闇を取り除き、己の輪郭を強く帯びた姿が人々の先頭に立つ。
それが如何なる脅威も慴れぬ肉体を獲得し、呑み込もうとする害意の波頭を打ち返し、押し寄せる壁を打ち砕いて光の環を拡げて行く。蹂躙を是とする亡者と怨念のうねりには導きの光を与え、然るべき場所へと還す。
自分の道を作り出し、常に先頭に立って一人として欠かさぬよう敵を前に聳え立つ。その先に何があるかも知らず、それでも愚直に前進を止めなかった。
光の使者は、闇の中に小さな光を見付ける。
光の環の内側に立つ少女。
無窮の闇に佇立する少年。
引き合う両者に、二つの手が差しのべられる。
× × ×
城塞都市に敷設された水路に囲われ、高い外堀を設えた火乃聿中枢の天守閣は、一人で散策するにはあまりに広大な敷地を有し、一つ道を違えただけで目的地とは大きく逸れた道順を辿る。
およそ四丈もある内堀が段数を作り、天守閣は首都を眺望するに相応しい高さに屹立していた。最も城郭に近い場所には、洗練された白い敷石の地面に一条続く石畳の歩道に沿った丸庭園が幾つか点在しており、櫓が中央に建って廓の外を見張る。
幾つも分岐した道、段を登る傾斜路の先には、もはや町の風景さながらの建物が建ち並び、囲いの塀が繋がって路地を作って所々に扉があった。火乃聿の中に在るもう一つの市街、政権を持つ高官と兵士だけが滞在を許された場所。
天守閣最上部の棟木の両端には、縦に弧を描く蛇の像の装飾。これは、代々実権を握る帝の座を狙って争い、毒殺も暗殺も手を尽くした東国の政治文化の様相を象徴し、毒蛇どうしが互いに睨み合う図を形にしたもの。
遠雷を背に城下町へ影を投げ掛けるが、下から見上げる子供には、巨鬼と化して天守閣が常に市街の景観を見下ろし、不埒な輩が居ればその威光で竦ませる、という言い回しになり、夜半に眠らない子供にはそう言い聞かせる。だが、大抵の子供が『暁より怖くない』と返しを繰り出すのが約束となっている。
大陸同盟戦争後に戦傷を癒す作業に没頭する中央大陸の中で、次第に東方文化が国境を敷いて別離し始めた時から建ち、千極という国家が公然と興された際を新時代とするなら、この天守閣はその時期から建設された最古の城である。尤も、他にも歴史的文化の貴重な資料となる寺院などに比較すれば、未だ約六十年などという浅薄な年数しか重ねていない。
北側の一画には、調練用の修練場となる寺院が密集し、錫杖を持つ長作務衣の姿が絶えず見られるが、年齢層は幅広くあり、最低でも僅か生誕から五年ばかりの童も同じ装束で武術を学ぶ。主に兵士に関しては、育児に掛かる費用に苦しみ、貧窮に喘ぐ両親から孤児として徴兵する。
こうして、幼き頃から厳酷な訓練を積み、魔法や呪術が作る迷彩結界、迎撃用魔導師の火力に匹敵する肉体と戦闘技術を身にする強力な兵力を産出し、現今までの平和を維持してきた。
魔法や呪術を操り、強力な殺傷力と繁栄を築き上げた西に対抗する強靭な肉体と武具を生み出す東。その対立の構図の中心部に、この天守閣が常に描かれるのは必定である。
闇の濃さを深めて行く屋内を漫ろ歩く二人。廊下の角がより陰気を増し、雲底から迸る雷だけが自分が何処を歩いているのか、それを知らせてくれる。
奇妙な案内人を得た仁那は、隣を黙々と歩んで導く相手を横目で眺めた。足音もせず、闇に紛れてしまう姿を見失わぬよう、その単衣の下から出た徳利の袖を小さく摘まむ。こちらを一瞥もせずに進む姿はこちらを忘れているかに思わせるが、しかしやや暗がりに臆病となって小さくなった仁那の歩幅に調子を合わせている。
名を知らぬ仁那は、半目同様に渾名を付ける事にした。音無――安直に思われて致し方無い、この命名に関する才能について周囲からは何度も指摘を受けているため自覚はある。
仁那が居るのは、城郭の中の北側へ向かう長く闇へしばし続く廊下。場内を巡回しており、頻りに遭遇していた長作務衣の姿も道中まったく見られない。音無との邂逅以来、この屋内から人気がぱったりと途絶してしまった。
廊下を出れば、本殿から出る扉と正対する。土足を履く為の段差が設けられ、それを見た仁那は思わず声を上げそうになる。自分は西側にある玄関口に草履を置き去りにしたままだ。替えの物も、夜叉の居た部屋に放置した状態である。
音無は段差を降りて、床に片手を触れた。指先から光の粒子が溢れ、数を増したそれらが集合すると草履が現れた――一瞬の出来事だった。唖然とする仁那に差し出す。鼻緒に指を遠し、未だ信じられずに何度も踏みしめる様子の彼女を黙って見ていた。
門を開けて、仁那が険相になる。前方に現れた傾斜路は一つの川となって地面を洗い流し、虚空は滝のごとき強さで束ねられた降雨の斜線。外出など改めるべきであるのは一目瞭然であった。加えて空を震動させる雷鳴が気分を損ねる。
踵を返し、草履を脱ぐ仁那の後ろで、音無は屋根の外側へ悠然と進み出た。雨風を凌ぐ建物の庇護を迷い無く捨てた判断に呆れ、振り返った仁那はまたしても驚愕を味わわされる。
雨下に透明な膜が生まれ、音無を包んでいた。雨の一切が遮断され、足下さえも水を退けられた地面が剥き出しである。これが己の幻視なのだと嗤って一蹴できたかもしれないが、目の前で手を差し出す音無に、それが現実以外だとは微塵も考えられなかった。
手を取って進むと、膜の内側に迎えられる。
雨に濡れず外の空気に触れる感覚、体温を感じない音無の手。ただ砂を噛む草履の音だけが、此所に居る確かな実感と証左。どうやら、膜の内側にある地面は水分が無く乾燥してしまうらしい。
隣の音無に微笑みかけた。
「こんな事が出来るんだね。もう何か凄いよ」雨音に紛れぬ声量で会話を試みた。
道中、必要以上の雑談すらなかったからだ。窓から覗き建物の説明をする、その単調な作業を淡々と繰り返していた。初対面は寡黙であった夜叉の方がまだ口数は多く、表情も豊かである。
「修業の成果だ」短く応える声は素っ気ない。
沈黙が再び二人の間に訪れる。本来なら話題を次々と持ち込んで、仲を深めようとする仁那だったが、何故か口を閉じて引かれるままだった。音無の雰囲気は、ただ傍にあるだけで安心感を得る。余計な言葉を省いて、雨中を安穏とした心持ちで散歩する。
音無が足を止めて、本殿の方を振り仰ぐ。続いて立ち止まった仁那も倣って、そちらを見た。
「どうかしたの?」
「夜叉が見ている」
仁那は目を凝らしたが、この猛烈な雨の中で城内から窺う人影を見付けるなど困難だ。靄の中に朧気な格子窓が薄く浮かび上がるだけである。音無が冗談を言っているとしか思えないが、それでもその表情は虚飾の欠片も無く、天守閣を見上げた。
一度だけ掌を宙に振った音無は、そのまま前に進み始めた。まるで虫でも払うかのような無造作な所作。まだ格子窓の内側から見ていると思われる夜叉の姿を捉えようと、微かな手懸かりを探して雨に遮られた景色と格闘していた仁那も慌てて続く。
「挨拶したの?」顔を覗き込んで問う。その声音は、自分に探す猶予も与えず中断させた事に対する不満を含んでいた。
「いや」音無はまた短く返答する。仁那の不平声など気にしていない様子だった。
傾斜路を下り、北側の寺院が集合する一画を目指す。まだ高地であるため、それらを一望する位置にあって先に道順などを確認できる。本殿に向かうまでは困難だとしても、帰路や目的地は此所から確認し得る。
相変わらず素っ気ない音無の態度に、意地悪な笑顔を浮かべて仁那は囁く。
「そんなんだと、大好きな人とかに愛想尽かされるよ」
音無が視線だけを遣って、再び正面に定める。
「済まない」反省しているのか否か、判らない滔々とした口調に仁那も諦念で肩を落とす。
旅先でもこれ程に会話で紛糾した経験はない。続ける必要も無いが、彼を知りたいという欲求が異常に昂っている。音無が心を開いていないのもあるが、果たして彼が自分と親しくする心積もりがあるかも不明。愛想を尽かされては困るという意を含めての謝罪の言葉だったのかもしれないが、何処までも心が読めない難敵だ。
極度に対人会話を不得手とする人間ならば、こうして案内役を自ら引き受けたりはしないだろう。現に仁那の手を引く誘導行為もままならなかった筈だ。
無音の一足、奇怪な力、口数の少ない――音無の持つ神秘性がより深遠なものに感じられ、仁那は握られている感触すら真か、何度も指に力を込めて確かめる。その都度、何故か握り返す彼の反応に笑いを噛み殺した。
北側の寺院の奥には、死者を弔う石棺を孕む六角堂が建つ。隣接する敷地には蔵が囲うように建てられ、その内側にも棺を匿う地下室が設けられている。他には骨董品や史書が収納される伽藍が佇立し、密かに地下水路と繋がる穴蔵が床に隠された普請。瀟洒な意匠の施された壁面や円窓に、それを暴く細工を起動させる仕掛がある。
二人は樹冠の隙間から垂れる雨水すらも弾いた透明の傘を開きつつ、石扉に閉じられた六角堂への路は一筋の杣道同然の細い石段を辿った。その路傍に拡がる庭園は整然と墳墓が雑草から身を覗かせる。手入れが行き届いている痕跡はなく、草木が繁茂して墓石の意義をほとんど無にしていた。弔われたのは首都で一時期流行した疫病の犠牲となったり、刺客嵌是によって殺害された宦官の墓所。
凄惨な事件の爪痕、災厄の記憶を封印したこの霊園の樹間に滞留する湿潤な空気は、外観だけの為に作られ訪問者すら居ない寂寥に哀訴と怨嗟の声を混沌とさせたようである。深呼吸をすれば胸の内側から毒に冒されてしまいそうで、仁那が口許を押さえるのに対し、涼しげな面持ちで雑草に隠された路地を足で掻き分ける音無。
濡れる草の表面を伝った水滴までもが、膜の内側では蒸発する。仁那の褲を引っ掻くだけで、染みを作りには至らず擽ったさだけが皮膚を撫でた。脚絆の代替として脛に包帯を巻く音無には感じられないだろう。
ここで脇を擽った時の反応は如何なるものか、想像するよりも先に好奇心に体が動いた。音無の背後からそっと手を伸ばし、脇腹に指を這わせようとした瞬間、振り返って悪戯が露見してしまい、所在なさげに視線を右往左往させて苦笑する。道案内を頼んだ相手に言い訳も付かぬ非礼だが、無表情だった彼は暫くしてまた前を向いた。……どうやら呆れられたらしい。
六角堂の石扉の前で仁那を止まらせ、音無は構造を手探りで調べるかのように、何ヵ所かを拳で軽く叩扉した。屋内で扉を塞ぐ位置に物が置かれているらしく、どう中にするか、その手法などを思索している。何も此所に必見の宝物が収納されているのか、音無にとって重要な物品が隠匿されているのかと推察し、自分の拳で撃ち抜こうと身構えたところで制止された。
音無は仁那を扉の脇に優しく押しやってから、その場で跳ぶと宙で体を回し、わずかに遠心力を載せた踵で、観音開き作りの扉が合わさる下部を叩いた。衝撃が加わった部分に鈍い音がし、次に屋内の方で物が倒壊する騒音が立て続けに鳴った。
仁那は驚嘆しつつ、扉を押す。ごくりと音を立て、ゆっくりと隙間が開いていった。石扉を叩いた感触、そして跳ね返る音で見えない内側の空間図を脳内に描いて、扉を封鎖する障害を倒す算段までを導き出したのだ。微かな手懸かりで困難な状況に対処する音無の行動に、仁那は素直な尊敬を向ける。
扉の間隙から室内の闇が二人を迎え入れた。入口で待つ仁那と違い、澱みない足取りで踏み入った音無の姿が暗闇に同化して消えた。取り残された不安を目前の空気が湛える暗黒が増長させ、心細さに誰何の声を上げようとして、火の明かりが点った。
手に桃燈を持つ音無が暗中に忽然と現れる。先端にそれを糸で吊るした棹を下げ、足下の様子を明らかにする。先程扉越しに蹴り倒したのは鉱物を曳斗に積めた箪笥で、これが持つ重量が閂の役割を果たしていたのだ。音無はその周りに散乱する塵や木片を照らして、仁那を誘っていた。
もはや心強さ、頼もしさしか感じられず、恐怖心が疎くなった仁那は意気揚々と瓦礫を飛び越え、彼の傍に着地した。
極めて厳かな印象を持つ装飾の少ない伽藍の内装。天井は四丈上に最上部を掲げた円蓋で、屋内の音は湿気った空気に重く響く。
音無が一度見回すように桃燈で周囲を照明する。その時に欄干のある地下へ続く階段を発見し、仁那は彼の袖を強く引いて急かす。先刻と違って積極的な姿勢に、あの音無は微かな驚きの色を面貌に見せる。
軋む段差を踏み外さぬよう注意し、二人で下りた先には棺が安置された暗い一室である。広く作られた方形の空間に、所狭しと石棺が列座する。暗さも相俟って、まるで死の館を訪れたような錯覚に身震いし、それを先導する桃燈を手にした音無が死神として映った。本人があまりに物静かなのもあって、ある意味適任だと不謹慎ながらに含み笑いの仁那を怪訝に見る音無。
石棺は火葬した者の骨と共に着衣や縁の品も一緒に納める、これは天寿を全うした高官の葬り方である。蓋に紋章を刻印した簡素な外見だが、仁那には貴重に思え、合掌して黙祷する。音無は黙って横に立っていた。
空間の最奥には紫檀の大扉が待ち、今度は仁那が進んで開放すると建国初期の帝を奉る礼拝堂に出た。まだ国家が安定しない時頃、幾つもの小国に分かれ独立を掲げようと領地拡大に争う総てを平らげ、統一したのが初代の千極帝。現代の帝は重篤な病を患い、政務の殆どを後継者の長男に譲渡したが、赤髭の娘と婚約して既に摂関の任を総督に委任しており、今日の体制が生まれている。
そのため、帝は体裁だけの暗君と化し、初代の威光も今や礼拝堂の奥に追いやられた残骸としての役しか担っておらず、訪れる高官にも深甚なる崇敬の念を胸にする者も少数であった。
今年になって内憂の処理に追われ、内争に疲弊した彼らは、その激務でこの場に訪れる僅かな機会も自分の予定からは消えたのだろう。霊園の生い茂る草木、荒廃した伽藍や蔵、埃で覆われた石棺と礼拝堂の寂寥感は、それらが原因だ。
仁那は此所に到着するまで目にした物、そして音無が誘った理由などを勘考し、重要性を秘めた証拠の数々を彼の動作など細かい点までもを洗っていく。六角堂に入るまで異常はなかったが、ふと扉を開けようと音無が蹴りを放つ映像が脳内で停止される。
誰も訪れない、そんな余裕すら無く放置された墓所で、何故この六角堂をわざわざ箪笥を置いて扉を内側から押さえたのか。それも、磨いてすらいない鉱物を曳斗に容れて……よく見れば、あれらは収納時に無作為に仕舞われたかのように種類は別々であった。鉱物に精通しない素人の仁那の目からしても、それは瞭然としていた。
この六角堂に何かが隠されている。それを音無は伝えたかったのではないのだろうか。無言なのは性格なのか、それともまさか他言するのを憚られる事情を持って、行動のみで示してきたとも捉えられる。
音無は……墓所の霊魂の一つが化身して、何かを訴える為に仁那の近くに来たのか。それならば、案内の途中で披露した数々の妙技も頷ける。いや、それでも扉を蹴り抜いた時の手練は異なる気がする。
「此所に帝が幽閉されている」
音無が室内の闇一帯に谺する清澄な響きを持つ声音で呟く。
仁那はその言葉を聞いて、正確に解釈するまでに数分を要した。そして意味するところを意識した時、理解不能と驚愕に礼拝堂の祭壇に視線を注いだ。
× × ×
夜叉は一室で静かに待つ。
仁那の身の安全を自身の地位を用いて保障した。それ故に長作務衣も不用意な攻撃を仕掛けるという暴挙に出る事は無く、無事に帰って来れる。赤髭総督には以前の知荻縄での一件、その詳細を報告していたが、仁那については話していない。穏便に事が済み、会談まで何事もなければ後は仁那の見解を聞き、己の解答を示すだけ。
しかし、微かな期待があった――事ある毎に地域で騒動の発端になる仁那の強い運命の力、この暗雲に太陽から隠された都の闇を払う強い風となるのではないかという、不穏当な未来を片隅に意識していた。
仁那の行動は周囲に多大な影響を及ぼし、その真性を暴く力を秘めている。今まで堅固だった秘密の掩蔽までもが悉く無駄になったのは、今年の夏以降――『伊耶那岐の器』として選定された少女の登場に一致する。本人では御し遂せぬ運命力が、無意識で発動しているも同然の偉業だった。
何より、一ヶ月前に東国の空を染め上げた光は、仁那とあの闇人の後継者による仕業だと間諜から聞き及んでいる。
先代カルデラ当主の響が遣わした中央大陸に次うものなき無類の刺客。彼が成し遂げた功績を連ねた書物があるが、俄に信じがたいものばかりだった。
齢十二で北大陸の神々に助力を乞い、大陸同盟戦争終結の一手を打った立役者。
その後にカルデラ当主の随身に就任、命令で各地に潜入捜査で赴き不正の悪政を是とする町長などの監視と暗殺。
東国との外交に遅送なく書簡を届ける。
戦場に駆け付けた西国の王姫の護衛。
当時の八部衆を壊滅させ、停戦の署名を受け取って帰還する。
救世主と敬称されても不遜の無い勲だが、字面の裏側に含まれるのは、彼が斬った夥しい死屍。英雄とは一言で言い表し難い経歴、敵の慈悲を乞う声に耳を傾けず処理する冷徹な殺し屋。敵対者で生き延びたのは、元より殺害を命じられていない自分と銕、列挙すればいずれも現代では強者と称えられる存在ばかりだ。
誰もが感知しないところで、暁は他にも様々な工作を施している。調査して未だ確証は無いが、国を掻き乱した黒衣の武装集団<印>の棟梁を殺害し、密かに北大陸に航って主神と謎の契約……神話の如く武勇に満ちた話ではあるが並べると信憑性が無い。
仁那も彼に仕掛けられた歯車なのだとしたら、自分は単に思考を放棄して、人の敷いた路に身を委ねているだけなのではないか、自身が納得した実感を欲する今、それは断固として許されない考えだ。
『悩んでおられるか、盲目の兵』
「……何者だ」
部屋に聞こえる他者の声に、夜叉の手が素早く錫杖を掴み取って構えた。それだけで狭い空間に満ちた空気が極度の緊張を孕み、殺気が肌を凍てつかせんばかりの冷気となる。戦闘となれば余計な思量も無く、愁色の濃い面相も引き締まった。
気配は無い、声は脳内に直接語り掛けるよう続けた。目の見えない夜叉からすれば、敵を察知する術は聴覚と錫杖で叩いた感触――彼は著しく触覚が優れ、手応えだけで物や重量などを測定してしまう他、破損した物体の痕跡から経緯を推論する。聴覚による音と照合し、その確実性を深めるのだが、この声はそれらを阻害し、夜叉の意識を集中させる。
害意の無い声色にも、だが夜叉は警戒の構えを解かない。
『其方の憂い、失礼ながら聞かせて貰った』
「こちらが問うて居る、貴様は何者だ!何処に姿を隠している!」
『隠してなどおらん、此所に居ろう』
部屋を見回すが、人影は見当たらない。
同室中の者など、仁那を欠いた今では、この亀しか――
『漸く気付いたか、余は此所に在る』
「……まさか、呪術による動物を中継とした遠隔通話、というものか?」
『余の意思によって織り成された言葉を、よもや他人の言伝てと解釈するとは、戦火に身を投じる余り随分と柔軟性の無い思考だ。目前の事実を享受するならば、より大きく構えよ』
やれやれと首を振る手拭いの上に眠っていた亀。甲羅から空洞だとばかり思っていた六つ目の穴から、蛇の頭部が現れた。小さな亀の尾と違い、爬虫類特有の鋭い瞳孔に牙、二又の舌は深紅で時折口の中から出し入れされる。唖然とする夜叉の前で、甲羅から長い蛇体を伸ばすと亀の全身に巻き付いた。
絡み合った黒蛇と鶸色の亀は、泰然として芯を据え、見下ろす夜叉に賢しげに細めた目で、澄んだ眼差しを投げ掛ける。動揺に錫杖で数回叩こうと試みるが、その前に蛇の頭部に弾かれる。
必要以上の接触を嫌う態度は獣に無い深甚なる知性、既存の生物からしても有り得ない共存を果たす姿から魔物の一種だと感じた。
『余の名は昌了、明暗を詳らかにし、境界を明瞭にする理を繙く者の意』
「亀にしては傲岸不遜、良い名だ」
『余の命名は、先代闇人こと暁である』
その名を聞いて、一瞬固まる。
「まさか貴様、仁那が連れていた祐輔と同じ……?」
『然り、その名は余の同胞に相違無い。しかし、そうかあの娘が予言の者であったか。道理で体内から三種、慣れ親しむ氣を感じた訳か……まさか市街で巡り会うとはな』
感慨を含む声で応える蛇体に絡められた亀――昌了は隻眼を障子へと向けた。
『さて、話を戻そう。
其方の憂慮は、これまで命を賭して守らんと誓った主の悪性、戦役に苦しむ者の紛糾、放置されたまま残る傷痕を見てきたからだ。それ故にあの娘が必要以上に輝かしく映り、その判断が眩んだ瞳で下した速了だと臆しているのだな』
見事に言い当てていた。
この亀は矮小たる命、錫杖を全力で振り下ろせば甲羅ごと粉砕するのも難しくはない弱小な生物でありながら、それを感じさせぬ威厳。そして夜叉の心内を見透かし、一切の違いなく代弁する。
自然と床に錫杖を置き、膝を正座に組み直して正面に対した。
「では昌了、私はどうすれば良い?」
『それこそ其方が恐れた他者の意見に同調する軽挙なり。余に聞いてはならない、先刻申した通り、目前の事実を享受する為に大きく構えよ、そしてその裏に秘められた意義を確かめるのだ』
「……つまり、最後まで己だけで見て、考え、そして断ぜよという解釈か」
『然り。他者の声は単なる情報、その事実を照明する一つの仮説と意識の隅に置け。己の中枢は常に空にするのだ。あらゆる物を目にし、必要な分だけを収集したなら、その真実に当たる情報を選別し、手に取って光に翳せば、それが其方の中での真実となる。
早まるな、見極めよ。遅くても構わん、急を要する事態だとしても、導き出す手を早める事はするな』
「貴様は懊悩する私に、更に熟考しらと言うのだな」
『答えを出すのは其方だ。他人に委ねるな、それは唾棄すべき逃避である。
短時間ではあり、未だ余の速了だとも思えるが、其方の情報を聞く限り、其方が見てきたあの娘は、己の判断で常に行動し続け、納得の行く岐路を選択した故の輝きだ』
「……!」
『其方に眩く映るのは、単なる愛嬌や優しさばかりではない。其方の羨望があの娘を輝かせている』
夜叉が押し黙る。
羨望――確かに、我知らず仁那を憧憬していたのかもしれない。夜叉は常に赤髭の意を伝える刃として機能する戦士であり、個の意思を以て何者かを排した記憶は無い。いや、初めて独自で下した勝手な判断とすれば、それは知荻縄で仁那に免じ敵勢を前に踵を返し、見逃したこと。
脅威にも迷わず立ち向かい、理不尽にも挫けず苦悩と葛藤を続け、足掻いた先にいつも結果を得て来た仁那は、幼少から兵として淡々と任務を遂げる夜叉とは正反対。
仁那という存在が、夜叉の中に自我を生み出したのだ。
『余の能力は『心聴』、またの名を“他心通”と呼ぶ神通力。そして切り分ける『裁断』という力を以て己が主観で作り出した正邪の境界を瞭然とさせる』
「……貴様の能力が些か羨ましい。私には、どちらも望んで手に入るかも判らん」
『それは「己を信ずる」という一点から派生する、当然の事でありながらも強力で重要な力だ。誰しも持ち合わせている、それを行使しないだけだ。其方に欠けてなどおらん』
夜叉はふと、窓の外を見た。
眼下の北側の出入り口から出た仁那の影が見える。あの猛雨の中、彼女は一人で歩いていた。急いで追おうと立ち上がった途端、仁那の姿が一瞬で消えた。
愕然として硬直し、その場に立ち尽くして仁那の影を庭園の中に視線で追う。
「何だ……今のは……!?」
『案ずるな、直に娘も戻ろう。あの子は出会ってしまったのだ、暫くは無粋な手出しも許されん』
昌了は一言告げると、また手拭いの上に体を伸ばした。
アクセスして頂き、誠に有り難うございます。
予想より長引くかもしれませんが、急がず慎重に書いていこうと思います!
次回も宜しくお願い致します。




