欠けた彼を想う
篠突く雨に打たれる黒衣の少年――矛剴優太は、火乃聿を囲う城壁の上に立ち、楼閣連なる都市の中枢に厳然と屹立する天守閣を見詰めていた。雨水に濡れるのも厭わず、検問を通過して都内に次々と入る軍列を静観する。本来ならば列に加わり、行軍の中でも重厚な近衛の環に守られる馬車の傍に着く筈であった。
せめて無事を見届けてから、己の求める事を為しに行く心積もりでいる。百人乃至二百人の守衛で挑む相棒の狙いなど知れている。強力な幹部、絶対の忠誠を誓わせた手練の戦士を束ねた錚々たる構成員の面子は、一見すれば本陣に侵攻する敵勢。転じて、赤髭が何らかの攻撃を仕掛けた瞬間、この火乃聿で全面戦争を展開するのも吝かではない意を伝えていた。
敵を脅す策や振舞いも板についた姿は、二年前に出会った相棒とは異なる。生粋の冒険者であったが、今では軍事を主に行う辣腕の持ち主。対等な関係だった二人は、いつしか王と側近の立場に変じ、誰かを守る為の剣は王の弊害を断つ凶器に堕ちた。
願わくばこの戦乱を治めた時分に、嘗ての相棒の姿へ回帰する未来があって欲しい。家族を喪失し、自己を見失いかけた末に見出だした希望、冒険者として誰かと手を取り合っていた強い少女へ。
都市の上空で稲光が弾け、雷鳴が轟き渡る。天災の近付きを顕すかの如く、首都を珍しく悪天候が襲う。秋の蒼天を覆い尽くした黒い雲底より現れ地上を照らす雷電は、今にも天守閣の棟瓦に直撃しそうである。
胸中を騒がせる煩悶を処理し、優太は右方に振り向き、携えていた紫檀の杖を手中で一旋させ、右半身を前に晒す体勢で低く構える。背中に引いて、仕込の柄に伸ばした右手を中途で停止させて城壁の上に立つもう一つの影を睨んだ。
袈裟懸けにした肩紐で三味線を担ぐ長作務衣。加齢に蝕まれて皺を深く刻んだ面相で笑み、胸まで伸びた顎髭を掻いてから笠を取り払った。後ろに撫で付けた白髪は豊かで、後ろで無造作に結われ、後れ毛は墨汁に付けた筆先のように黒く染まっている。糸目の老人は、朗らかに微笑んで一歩進み出た。
「流石は二代目闇人・梟。我が自慢の弟子を刹那に斬り捨てた武人の遺産に遜色無い、その気迫と気配察知。
一度退役したとはいえ、摩睺羅伽を務める者。総督に仇為すなら……お相手仕る」
素直な賛辞であった。
大きな雨音で隠された跫を聞き取った優太の感覚の敏さは、成る程かの先代闇人の後継者として相応しい察知能力である。琥珀色の隻眼が稲光に照らされ、剣呑な刃物に似た輝きを生む。相手の気配を看取し、即座に対応するのは紛れもない刺客としての立ち居振舞い。
襲撃者を撃退する為に剣を執って尋常に勝負する騎士とは大いに異なり、相手への敬意も手法の是非も鑑みず、ただ斃すことを意図するだけの暗殺機械。
武者震いした長作務衣は、三味線を弾き始めた。豪雨の中に奏でられた音を耳にするのは、首都を展望する高所に相対する二人のみ。緩慢に一歩を刻んで接近する老人の微かな挙措の一つすら見逃すまいとする優太の視覚。
唐突に演奏中の弦を弾く銀杏形の撥が何気無い仕草で擲たれた。空間を斜線状に刺す雨滴を切り裂いて、敵の眉間へ直進する。
まだ踏み込んでも遠い間合いの外からの奇襲に、優太は顔を横へ煽って回避した。弾き、掴み取るなど造作も無いが、相手の刃を受けず、相手が抜くよりも先に斬り、相手が踏み込むより先に断つことこそ流儀。
抜刀の構えをやや崩した優太――そこを隙と見て、細い目を見開いた棹の上部に撚りを加えて引く。その手元に三味線から凶刃が現れた。全貌は刃渡り一尺の短刀。
雨に水の膜を張る地面を蹴り上げ、爪先で飛沫を優太の顔へと飛ばす。寸陰を惜しむ戦いは刺客の十八番、如何に相手の初動を遅らせ、己の爪を心臓に届かせるかの勝負。勝敗を決するのに時間は要さない。
摩睺羅伽は短刀の鋒を、少年の頭頂に振り下ろそうとして握力が消えて手を放れ、標的の脇を潜るようにその後ろへと勢い余って転がる。状況が理解できず、後ろを顧みて瞠目した。
優太は抜刀していた。抜き放たれた秋霜三尺が雨水を受ける。同時に刃先に付着した僅かな血が洗い流されてゆくのを、摩睺羅伽は呆然と見詰める。自分はいつ斬られた、何処を斬られた?
混乱する摩睺羅伽が視線を足下に落とし、疑問の正体を発見して安堵した。膝と内股からの流血に長作務衣が汚れ、自分の下に小さく紅い池を生成する。
摩睺羅伽には見えなかったが、爪先で飛沫を上げた瞬間に膝の漆蓋骨の下の隙間、その次の瞬間に股の内側に通る股動脈を断った正確な剣技。摩睺羅伽は、約二〇年も前に己の愛弟子を屠った男の遺した刀を目にして、納得の吐息を吐きながらその場に倒れた。
「見事……なり……」
優太が納刀し、振り返った時には多量な出血で絶命していた。己の技巧に戦慄し、杖の柄元を額に当てて瞑目する。無意識だった、相手を立ち上がらせぬ為に膝だけを損傷させる一太刀に加え、身体は次に相手の急所を狙い噛み付いた。自分の手先が完全に殺人の術理に長けているのだと再確認させられ、手元から震えが消えない。
城壁の上に別の人影が現れた。こちらは見慣れた包帯の男――ゼーダである。優太の異常な様子と倒れた老人の姿から事の次第を悟り、少年を窘めるようその肩を抱く。
「行こう、優太。――下で奴等が待っている」
「うん……わかった」
優太は杖を腰紐に斜に差し、死体を仰向けにさせて腰元に手を組ませ、笠を死相の上に安置する。殺したのは自分だが、せめてもの弔いとして、合掌し冥福を祈った。
暫しの間を空け、立ち上がった優太の顔には憂いや陰りの無い冷然とした表情となり、ゼーダの下へと戻る。変わり果てた少年の様に憐憫を抱きながらも口にはせず、二人で城壁から降りた。
「もう『樹液』は摂取したか?」
「いいえ、まだ。でも、これで本当に……?」
優太は腰元に紐で吊るした竹筒を一瞥して、怪訝な顔付きになった。中には余人の常識を逸した神秘を内包する液体で満たされている。つい一ヶ月前に受け取ってから保存していた。
確信はないものの、ゼーダは頷いた。
「本当の『天眼通』の力が開花する――両の瞳にな。お前の師が幼少期に開眼した際、そのさらに先代が神樹を訪れて『樹液』を持ち帰ったという記録がある。
その眼は、命運を左右する重要な意味を持つだろう。特に、制御が困難な状態の優太には」
右の掌で顔を覆った優太は、内側で瞼を開く。
“不完全”と言われた理由を今では心得ている。その力を完全に把持すれば強力な武器にもなるが、ことごとく未来視という力に悪印象しか持たない優太からすれば、より精密に操作する制御力を体得したところで、然して喜びや心強さは感じないだろう。
二人が歩くのは戦争に敗れた町の景色を通過する石堤の道。黙々と足を進めていると、雨下に待つ迎えの使者と思しき複数の人影。こちらが音を立ててやれば、静かに振り向いてその場に跪く。
「お待ちしておりました、優太様。当主様もさぞ歓ばれるでしょう。……それに、お付きの透様も」
「その名で構わないが、早く案内しろ。余談をしていられるほど、治安の良い地域ではない」
「では、参りましょう」
使者が垂れていた頭を持ち上げ、二人の前を先導して行く。優太とゼーダは一度目を合わせると、警戒に使者全員を見回しつつ踏み出した。
× × ×
市街の音を飲み込む猛雨が要人の護衛の為に随行する兵士を上から叩打する。紅葉の時期を待つばかりの梢は今にも折れそうに撓っていた。今宵相見える敵同士の熾烈を予告するかの如く天候は悪化する一方である。
都市全体が浸水する勢いの雨脚を見て、馬車の中からは嘆息ばかりが吐かれる。それを背後に感じて、輓馬の手綱を握る詰襟の黒服を着た赤髪の文官は、屋根の内に身を寄せても足を濡らす雨水に顔で嫌気を示しながら、それでも先の会談の憂いで落ち着きがなかった。
水を蹴りながら行進する軍勢を見下ろす天守閣は、落雷を背にしてこちらに影を落とす。見上げる者には、数多の魔物を抱える鬼の居城に映る。その認識も強ち間違いではなく、実態はそれに似た戦闘兵器として特化した人間を備えているとの風聞。
巨魁はその上階から人々を睥睨し、その到着を泰然と座に腰を下ろしているだろう。宿敵カルデラ一族に加え、蹶然と両国に勝る軍事力になって擡頭した【太陽】、そして幾度となく脅かそうと刺客を放って捕獲を企んだ兇手を潜り抜けた猛者と「金色の娘」。これらの難敵が揃っていて、何の事前準備もせず来訪を待機していたなら、その地位は既に誰かの手に渡り、現今まで生き延びてはいない。欲する物は掌中に、弊害ならば一網打尽にする磐石の体制を以て招聘された救世主と世に謳われる者達に対峙する。
楼閣すらまだ見えない市壁の門を潜り抜けたばかりの後続部隊に守られた要人の一人――花衣の窓から顔を覗かせた顔には、口上に出来ない期待を膨らませた明るい表情があった。
不穏な空気に満ちた火乃聿へこれから踏み入る兵士は、時折そちらをちらりと盗み見て冑に隠した顔を密かに綻ばせる。傾国の美女と比喩する「白き魔女」に遣え、その美貌と力に心を奪われ忠義する兵さえも和ませた。彼女とは異なる種の美しさと人を想う優しさを兼ね備えた麗しの姫が護衛対象とあって、気概でさらに気を引き締めて任務に臨む。
そんな彼らの内心を見透かし、上連は呆れて物も言えず、花衣に顔を引っ込めるよう注意する。いつ矢が飛来するやも知れない敵地で、無防備にその面貌を晒されては、近衛として一年以上も付き合う男の負担も大きくなる。
不満げに、それでも素直に頷き車内へと隠れた。その嬉々とした感情を宿す相貌の理由とは、この不穏当な場所であるとすれば一つしかない。長い月日を経って再会を待ち望んだ婚約者の姿を早く目にしたい一心。予定では、もう先行部隊と合流している。
喜悦に緩む頬をなんとか引き締める。逃亡中は行動の邪魔になるといって短くしていた金髪も、今は一つに束ねて左肩に流せるほどに伸びた。今まで、この長さにまでしたことのない花衣としては扱いに困るが、それでも優太が口から溢した言葉を憶えていて、保護されて安全なのだと確信して以来切らずにいたのだ。
女性への細かい気遣いは出来ても、ある一面では絶望的に鈍感な気質の優太でも、この変化にはどの様な反応を示すか。その一点に心を踊らせていた。
敵を前にしてなんと気楽なと嘲られても仕方ないが、近衛の一である銕はそれを良しとし、錫杖を鳴らして馬車の側で牽制の意を込めた眼光を街路に巡らせる。屋内から黙視する気配の数々に、赤髭の傀儡が居るかを注意深く観察した。
敵陣の真っ只中、たとえ市中であろうとも油断大敵。この間にも、列の中に居る兵の一人を殺めて紛れ、着々と距離を詰めているやもしれない。下劣、卑劣と謗られて当然の手法も用いて始末する男だと、銕は知っている。
東国出身として、嘗て総督を守るべく鍛え上げた修身は、その傘下を外れて野を野犬となって徘徊して暫し、如何に徒労であったかと悔恨に苛まれた。
しかし、今となってはその慚愧も無く、敢えて滅する刃として帰った現状に満足感がある。本来は手中にある戦力の一員たる証の長作務衣が、よもや敵の傍で随身として控えているとなれば、赤髭の屈辱は大きい。花衣やカリーナ、そして結が感知していない銕の密かな復讐の楽しみであった。
運命を決する舞台となるのは、あの天守閣に相違無いが、銕はふと円卓を囲う面子の絵を想像して人知れず驚く。あの耄碌に対するのは、どれも見目麗しい女性だ。縁談でも無く、寧ろそれとは反対の険悪な空気になると予想されながら、脳裏に浮かんだ未来図は華やかで、汚穢が一点際立つ奇観。
優太のように躙り寄る危険や殺意の臭いを嗅ぎとれるほどの感覚があれば、花衣をより迅速に、安全に守護できただろう。幼き頃からの異様な教育による賜物は刺客でありながら、護衛の任にも適している。だからこそ、過去にその噂を耳にした聖女が護衛を依頼した事もあった。利害が一致せず、結果的にその刃が自身を襲う惨事に至った。
勇猛果敢で華やかな武勇譚の数々を持つまでになった結とは違い、彼の足取りは望まぬ暗澹とした血臭絶えぬ道へと確実に進行している。もう二年もの間、顔を見ていない銕はあの優太の顔が修羅か少年か、想像でも些か判じれない。
花衣を支柱に立っているが――仮にもし、今回の首都での会合で会えないなどの不都合があって先延ばしになり続ければ、ただの殺し屋として優太は闇に堕ちる。奇しくも、その要因となる戦場を与えてしまったのは優太の師であり、相棒の結であり、優太を愛する友人とその周囲だ。
それと反対に、光の強さを増して皆の中心になろうとしている少女――仁那という奇妙な存在が周りを照らすのに比例し、優太の影はより色濃くなる。果たして、これが正しいか否か、自分だけではなく全員で考えなくてはならない。どちらが欠如しても、この一団は支えを失う。
上連が訝って向ける視線から顔を逸らして後悔した。そちらでは、ちょうど觝が水を含んで重くなった服の胸元を少し開いて絞っている。上背の銕からすれば、筒抜けの状態であった。
後ろを歩く芹支亜が作務衣の裾を摘まんで引き、振り向いた彼に顔を横へ振って咎める。自分よりも一回り年の低い少女に注意された羞恥で顔を強張らせ、それを愉快そうに見ている上連を厳しく睨め付けた。馬車の手綱を握る掟流は全員の様子を見回し、緊張感があるのか無いのか判らず、半笑いの顔でいた。
強固な守りの陣形を展開し、馬車の中で到着を待つだけの「白き魔女」――結は、暇を持て余して車内で悶々としていた。湿気の籠るここであと数十分を待たなくてはならない。余興になる道具一式は荷持ちとして着いて来た剛力数名に相場以上の報酬金と一緒に握らせてある。
加えて、何の気違いを起こしたか、矛剴の里へ向かう許可を求めに来た優太の言葉に断固として耳を塞ぎ、引き続き馬車の傍に居るよう指示した。窓のない馬車であるが故に、外で彼がどんな様子でいるかも窺えない。
少々気になって、というより車内に招いて彼を暇潰しに使おうかと一考した結は、扉を小さく開けて優太を呼ぶ。しかし、直近に居る筈の相棒から返答はなく、代わりに近くに居た部下が駆け足で歩み寄る。
「梟殿は列を外れて北側へ」
結は呆気に取られ、無意識に扉を閉めて椅子に腰を下ろすと放心状態となった。まさか、自分の意思が通らないと判断して、勝手な行動に出るとは思いもしなかった。カリーナに似て頑固な部分は知っていたが、この大事な局面で席を外し、あまつさえ矛剴という怨敵の本拠地に向けて発つなど許せるものか。
最近は付き合いの悪い相棒に抱いた友人関係以上の情念から来る独占欲が、沸々と胸中で怒りを掻き立てる。西東の意が一ヶ所で直截交わされる場は、中央大陸の未来を大きく決定付ける事柄である。そこに立ち合ってなくてはならない重要人物である己の身分を弁えながら、それでも独断で他所へ動くなど唾棄すべき行為だ。
何より、自分の手元を離れた事が甚だ苛立たしい。呼び戻す為に手紙を飛ばそうにも、書を認める為の筆記具もなければ、この雨では飛ばした途端に地面に叩き落とされて行軍の足元に敷かれてしまう。
相棒の不在を知ってより一層不機嫌となった結は、仏頂面で腕を組んで眠る事にした。先んじて天守閣に潜入し、そこで落ち合えるのではないかという根拠もない期待を微かに夢見ながら寝息を立て始めた。結からすれば、この両国会議など意中では深甚な意味を持っておらず、ただの後処理でしかない。
戦乱が続けば、何もかも手に入る。求める先は一つに定められている今、希望まであと一歩に差し掛かっている。
この東国を鎮めた後、あとは<印>という最終敵を滅するまでに、優太の中で自分と花衣の存在を入れ換える。どうあっても、結が必要不可欠であり、その貴賤において花衣よりも優先すべきだと心底から認識させる為に。二年前のロブディ同様に壊れかけの機械になりつつある彼の状態なら、少し絶望という名の刺激を与えるだけだ。
復讐すると親の仇であった<印>がいつか講じた策と同じものを実行しようとしている己に、思わず自嘲する悲愴な笑顔になる。あれから自分がどれだけ変わったか、その点に関しては重々理解していた。想いが強くなるだけ、手段を躊躇わなくなった。
自分の手足となって敵を斬り捌く優太は、少しずつ心の芯をこちらに傾け始めた。それは闇人として、伊耶那岐やその代行者である魔術師を主人として定める性質か、それとも戦場で背を預けられる相棒として、異性としてなのか。どちらにせよ、花衣から離れて自分の傍に居るならば結果は問わない。
ただ、ここで発生した問題点が二つ。それは道程の延長と、異例の登場。それは『四聖獣』と呼ばれる神の分散体が集合しつつあること、それに伴って沈黙を続けていた神族が始動しこちらを攻撃したこと、そして……突如として二つと深く繋がるようになった仁那。当面の問題として扱い、ゆっくりと探して優太を籠絡する時間稼ぎの目的として放置していた魔王の後継者を発見した。さらに『四聖獣』の力を身に宿した神族から血を分けられたという耳を疑う成り行き。
結が画策していた構図を、外側から崩して行く存在があった。
必要なら、潰す必要がある――結の目が妖しく細められた。
× × ×
街路を蹂躙する他国の武者の数が逓減し、集団の影が煙る雨の向こうで輪郭が霞み、望洋とした影を映す距離となったのを頃合いと見て、路地の中心に二人は躍り出た。
一文字に視界だけを拓いた仮面に黒外套の一組は、先行く行列の前に先回りするように道を選んで天守閣へと急ぐ。兵数を記憶し、その人員でも際立つ強者の情報を持って主の下に帰る命令を帯びている。
ここは火乃聿、つまり赤髭総督の肝煎りである刺客の巷――銕や上連が懸念していた通り、既に一行を監視する悪意の目は配備されていた。周到に準備を進めた赤髭は、逐電の道という安全確保――つまりは撃退失敗後の保険の為に、二人を近くに潜ませた。
事前に共有された情報と、面子の容姿から得た己の解釈を照らし合わせ、実力を推し量る。選出された二人は、長らく総督の走狗として任を完遂してきた手練れである。主に諜報や暗殺を用途とする二人組は、今回の報酬に想いを馳せて路地を走る。
吉報を手にしていた――行軍の一員に、あの闇人らしき姿は見受けられなかった。つまり、総督が危惧していた八部衆を全滅させる危険要素が欠陥した今回の面子は、想定よりも脅威としては低い。
刺客としては、相手の機嫌取りもまた己の分け前に色を付けられるため、これは大層気に入られるだろうと期待していた。弾み、されど鋭く速く天守閣への近道を迷わずに駆け抜ける二人組。こちらの動向を把握していない連中に、これは致命的な情報となる。……これを無事に届けさえすればの話だが。
歪に入れ違う四叉路の角を曲がった先で足を止めた。楼閣の塀に挟まれた路地、天守閣へ向けて傾斜が出来た先で少女が立っていた。鍔の無い短刀を佩いた桜色の単衣と黒の裙子が特徴の外観である。雨に打たれて前髪が目元までを覆っており、表情が見えない。
二人は東国の、それも身内ではないと判じて懐手の匕首を取り出そうとした刹那、背後から鋭い痛みを感じて呻く。何事かを調べるよりも先に体は力を失い、前方の傾斜路を洗って流れる雨水に浸かった。
頽れた刺客二人組を、服の背面に太陽の模様を背負う少女――弥生が無感動に見下ろす。彼等が見ていた前方の影が揺らぎ、形を崩すと地面に泥となって落ちる。魔法にて形だけを似せた木偶人形同然ではあったが、弥生の技量によって本物と見紛う精緻な人の像を作り出していた。
優太を除いて「白き魔女」が部下としての信頼を置くのは、この弥生に他ならない。持つモノは結や優太以上の才覚がある。ただ怯えていたばかりの村の子供は、国に匹濤する勢力でも並ぶ者の少なき高い地位に就く力量だった。
結からの命令により、優太に代わって周囲の索敵と排除を目的てして動いている。任務遂行能力ならば優れた彼女だからこそ委任された役だったが、結が予想しているよりも少し支障を来していた。
敵を排除する力に問題は無い、しかし精神状態が平時の弥生とは違った。冷静に努めんと己を叱責する都度、その胸の内に膨らんだ感情が抑制した分だけ大きく脈動する。
弥生は路地の脇に踞り、頭を抱えた。紺碧の瞳は黒く染まり、その小さな体を恐怖に震わせていた。
「先生、先生、先生、先生……!どうして、どうして居ないの?弥生は、会えると思ってたのに、弥生を独りにしないで……黙って行かないで、置いてかないで、弥生を抱き締めて、撫でて、笑顔を見せて下さい……っ!」
出身地の村を出て以来、未だ克服できない禁断症状があらわれ始めていた。一定期間、優太と離れていると孤独感や過去の恐怖に苛まれ、精神が不安定になる。自身を虐げた人間の罵声や拳が脳裏にちらつき、少女は自分の体を抱いて縮こまった。
一ヶ月前から別行動を取る優太と再会できると信じて来た。だが、弥生が任務に当たるのは優太が合流する前であり、遠くから彼が去っていくのを見ていたのだ。その所為で、自分に一言も告げずに去った少年の姿が胸を焼く。
「許さない、誰なの、先生を取るの、誰なの?……駄目、落ち着け、任務成功させないと、先生に褒めて貰えない、後で帰って来た時に、いっぱい褒めて貰う。きっとすぐ戻って来る、そう、そうに違いない」
自分を制御する為の言葉を並べる。
優太と会った時のことを想像し、己の欲求を一時的に満たした。気分が幾らか落ち着きを取り戻した時点で自己暗示を中止し、弥生は火乃聿の検問まで戻った。任務は索敵・排除ではあったが、その他にもう一つ重要な密命を受けている。
大軍に踏み荒らされた路地を遡って行くと、火乃聿の市壁に唯一設置された大扉が開かれた状態のままだった。検問所の人間達は地面に倒れており、どれも肢体の一部を失うという損傷が目立つ。
扉の向こう側は雨の中で奇妙に霧が立ち込めていた。街道が一切見えない濃霧は、明らかに自然的に発生した現象ではない。
死体を認めた弥生は足を更に前へと急がせ、扉まで駆けて死体を道脇へ避けて、自分もその隣で跪いた。霧の中から影が揺曳し、次第に大きさと明瞭な輪郭を帯びていく。
「よくぞお越し下さいました――魔王様」
頭を垂れた弥生の近くに、七尺を優に超える長身の影が佇立する。無言でそちらへ振り向き、魔王という称号で呼ばれて首肯する。すると、背後から人と魔物、どちらかと言えば後者に属する外貌を持つ種族の者が霧を割って出現した。
案内として弥生は立つと、その隣に控えるよう寄り添う。
「私は「白き魔女」の使いで、案内仕る弥生という者です」
「ああ……聞いている。して、鈴音は何処に?」
「既に先行部隊と共に」
「そう……か……」
夥しい死の気配を纏うその人物が前進する。後ろで構える魔人が町の空気を汚染する瘴気を発するように体から吹き出された霧で、街路の景色を勦討していく。弥生は背筋を直接撫でられたような危機感に、何度も忙しなく振り向いた。
検問の死体は匿され、痕跡の一切が呑み込まれる。後から続いて、血肉を租借する怪音だけが耳朶を擽った。弥生は絶え間なく耳にする不快感で顔を顰ませた。結が呼び寄せた客人ではあるが、この野蛮な種族の振舞いには嫌悪を示さずにはいられない。
人族の弥生だけが目立ち、背後からは好奇と侮蔑の眼差しが集中する。無論、前者は好意的なモノではなく、単なる食料としての興味関心だ。侮られていると知って、それが途轍もなく苛立ちを募らせる。
だが、こんな場所で粗相を起こせば結の面目も立たない、それに作戦も成功しない。いや、それらの理由は単なる後付けであり、この軍に強襲を仕掛けるよりも先に隣を歩く長身の人間に殺されてしまう。それほどの実力を肌で感じられるまでの迫力があった。
「済まない……我らも飢えていてな」
「……いえ、こちらこそ」
「さて、見極めさせて貰おう……中央大陸の真実とやらを……」
先行部隊を歩く勇者セラは、脊髄に走る電流を感じ、後方へと鋭く振り返った。感覚の芯を突き刺すモノ――『勇者の加護』を刺激する何かの気配を敏感に感じ取る。
車上のジーデスが怪訝に思って訊ねる。
「どうしたんですか、何か敵の気配が……?」
「ううん、何でも……ないのかな?」
「確りして下さい」
セラは頬を膨らませ、自分でも説明の付かない謎の正体を探る。必死に考察する時、顎に手を当てて大きく唸って見せるもので、周囲の兵士から憐れみの視線を集める彼女にジーデスは小さく嘆く。
どこか、鈴音に似たもので、でもそれ以上の強さで『加護』が感知する対象。
「いや――ないよね、まさか」
セラは頭を振って脳内の疑問を捨て、笑顔で前を向く。それでも手は担いだ三叉槍に伸びて、いつでも構えられるようになっている。我知らず滲み出す闘志が兵士を圧倒した。
ミシルがその異常を正確に悟っており、馬車をちらりと見た。これをカリーナに伝えれば、その解答が貰えるのだろうか。
当の本人は、脳内で必勝の手を組み立てている最中だ。余計な問題を持ち込むわけにはいかない。
そんな彼等を、天守閣の正門が静かに待っていた。
アクセスして頂き、誠に有り難うございます。
睡眠に快適な気温となり始め、気を抜くと瞼が降りてしまう今日この頃です。秋って何をするか一番悩む時期で、正直運動はしたくないかな……と。
自堕落な生活をしても太らないのが幸いですが、油断してるとまた捻挫をしそうなので気を付けたいです。ここは『読書の秋』にしよう、うん、そうしよう(何を言いたかったか、途中で忘れてしまった)!
次回も宜しくお願い致します。




