砂上の雷霆(壱)/親友へ魂を捧ぐ
雲海を泳ぐ龍の背には、何者も乗れはしない。
人の手が届かない領域を支配する存在、その上に座すなど絵空事と嘲られて当然である。誇り高い龍が己よりも強者だと認めた相手だけが跨がることを許される。空の色が群青色から黒へと変遷して行く境を水平線のごとく一望する高度で、龍は小山を蜷で包み隠してしまう巨躯を伸ばす。
我が物顔で天空を征く龍の鬣から尾へと繋がる背の体毛は、洗練された翡翠の輝きを瞬かせて蒼窮を泳ぐ。大陸の全貌を解き明かす空の高みより、世界を見下ろす視線は二つ。炯々と眼光を放つ巨龍の双眸――そして、その間に座す黒衣の青年。この世で唯一無二、天上への立ち入りを容認された人間である。
本来なら誰もがこの美観に心を震わせ、興奮を抑えらず、人生でも再度と拝めない筈と貴ぶ。だが、この青年には如何にも茫漠とした景観にしか映らず、自分を内包する世界を矮小だと語る瞳は天上に燦めく太陽のような琥珀色である。
地上からもし彼等を目視し得る者が居たならば、太陽を背景に立つこの二つの影は天空に浮かぶ濃い暗雲として禍々しく映え、衆を恐怖の深淵へと陥れる。実質、この巨龍と青年には大陸の破滅など可能だろう。
眉間に腰を下ろし、ただ無感動に雲の水面を眺め下ろす青年に、巨龍は深いふかい嘆息を吐く。それだけで風以外の音などない世界は、忽ち命の気配を宿す。
躍動する巨龍の背の揺れに僅かに体を揺らしながら、杖を抱いて胡座を掻く。吐息が白く凍り付く上空で、これほど無感情で居られる人間は錚々いない筈だ。凪いだ湖面のような瞳に今しも感情の光が灯らないか、目を中心に寄せて何度も確認する巨龍は忙しない。
“――どうした、祐輔。”
風で遮られずに耳に届き、巨龍は少し気まずそうに呻く。まるで少年よりも騒がしいような自分を恥じた。生きている年数ならば、比較する者など居ないほど重ねているし、世界を誰よりも永く見ていたと自負しても不遜ではない。
だがこの沈着な青年の機微が、悠久を生きた経験の中でも稀少であるが故に関心を惹き付けられる。だが自尊心の高い巨龍はそれを自ら述懐するのが気に食わず、煩悶に小さく口端を動かすだけだった。
ここまで誰も踏み入れない絶対領域とされる青空に入場してなお静かなその心情を知りたい。何を考えているのか、そして共感できるのか。それよりも、この自分の背に乗ったという偉業を成し遂げながら無反応なのが甚だ業腹なのだ。
問いを投げ掛けてから、青年は返答を待って足許を見ていた。答えが無い時点で、相手にとって答え倦ねる話題なのだと察して、気遣って別の事柄に話の主点を変えるのが普通ではあるが、生憎この人間にそれを期待するだけ損である。
結局は巨龍が話を逸らすという状態になり、あたかも敗北を認めて逃避したというような思いに、内心では歯軋りものであった。
『“眼”の調子はどうだ?』何気なく問う声は、やや上擦っていた。
“――問題ない。”
短く味気無い反応に、巨龍は舌打ちする。こちらが珍しく心配したというのに、まったく感謝の気持ちも無い声音だった。無駄を省いた青年の気質が唯一裏切られる時があるとするなら、それは主の護衛だけだ。
今、巨龍は中央大陸の空を縦断して南部を目指している。人の足で歩くよりも、この体に乗せて運んだ方が時間短縮も図れる。これも青年の案であり、他の人間ならば死を以て応える龍も彼には背中を許した。
この調子ならば、夜には到着する。その想定もあって、青年の荷物は極めて簡素な物だった。
『以前とは、少し違うんだろ?』話を繋げるべく、巨龍も躍起になって質問した。
青年は暫し両の瞼を閉じてから、再び目を開ける。瞳孔を囲う白い環を有する真紅の瞳で空を見詰めた。
“――これなら、前は視ることのできなかった遠隔地も捉えられる。まだ試行はしていないが、伊耶那岐が言っていた六つの力も使えるだろう。”
『もう何なら、手前が『器』で良いんじゃねぇか?』
“――残念だが、闇人になった時点でその資格は無い。”
『そうか?オレ様はその方が安泰だと思うけどな』
“――静かな場所で実験する。庭でやると響の植えた花を台無しにしてしまう。”
『それでキレてたな、あの娘』恐れを滲ませて苦笑する。
以前、青年が氣術で当主専用の花壇を荒らしてしまった際、苛烈に激怒したのを見ていた。何者も敵わない強者の青年でさえも、口答えができない。その点では巨龍も畏敬の念を向けており、以後なにがあっても花壇には近付かないよう心掛けている。
巨龍は口にはせずとも、あの館での生活を好んでいた。安穏としており、戦乱とはかけ離れている。安眠を貪る平和を謳歌し、そしてあの青年も隣にいる女性に対して微かだが幸福の笑みを見せたあの光景。人間嫌いであった自分を安心させてくれる。
『早く帰って飯が食いてぇなぁ。つっても、今の状態じゃ腹の足しにもなりゃしねぇがな』そう呑気に呟く巨龍。
青年はそれには応えず、真剣な表情になった。
“――祐輔、いつかお前と『器』が別たれる時がある。それが一時的か、或いは永久なのかはお前の判断次第……頼んだ。”
『あいよ、任せとけ。……んじゃ、着いたら鞄の中の肉で、運賃を支払え』
“――これは響への土産だ、諦めろ。”
『知ってて言ってんだよ、寄越せ』
無人の天空で、暫し青年と巨龍の小競り合いが騒々しく響いた。
× × ×
樹海となった前庭に来襲した神族――月読命を見上げる。茎の上に直立する可憐な少女から発せられる狂気に、その場に居合わせる者ばかりでなく遠くで見守る旅人さえも圧倒された。矛先は一つに定められているというのに、その余波が町を占有する。
大量の氣を消費して行動不能の鈴音と、少なからず戦闘で疲労した詩音では加勢など無理だ。いや、前提として二人で協力しても月読命には勝てない。視線を一度交えただけで理解してしまった。
優太は二人の姿を遠くに認める。月読命の意中に二人に存在していない。自分が殿を務めれば、できる限り二人の戦線離脱を掩護できる。須佐命乎とどちらが危険性が高いかはまだ判じられないが、少なくとも敵わない相手ではない。可能ならば、速やかに処分して仁那の助勢に回りたい。
優太は俯いて瞑目する。目元の「隈」が形を変え、右腕の黒印が顔面を覗く全身を染め上げる。手に握る物、纏う物までもが暗黒に包まれた。薄く、しかし強靭な鎧のように邪氣を装備し、目の前の月読命を両目で見竦めた。
これが「隈」と右腕の黒印を連動させた黒貌――共鳴。自分の身体能力と技では対処の不可能な大敵にのみ発動する優太の“奥の手”。
敵意を向けられた神族の少女は、膚を刺すような冷然とした鋭い眼差しを放つ優太の右目を見て、小首を傾げる。
「その『千里眼』、まだ不完全なんだ」
その言葉に眉を顰める少年の反応を面白がって、茎に突き立てた鎌の長柄に腰掛ける。余裕綽々とした態度はまるで挑発行為だが、そういった戦法に動かされる優太ではない。相手がいつ飛び出す動きを見せるか、その一点のみに視聴覚を研ぎ澄ます。初動が捉えられたら、後は距離や己の行動速度などを考え、最適の一刀で仕留める。
隈取のある顔を見て、月読命は鳩のように喉声で笑う。それは無邪気で如何にも無害な少女の姿である筈なのに、総身を危機感で満たす迫力がそれを否定する。現に、彼女の傍にある茎は切断されていた。如何なる魔法や武具を用いても断ち切ることの難しい太さを無視して軽快に為した。
仁那と事前に行った情報交換で、優太はこの月読命についての予備知識を大方得ていた。精錬された技、神族としての膂力、何より得物が秘めた能力の脅威は最も警戒すべきだ。鍔迫りでは須佐命乎に劣るかもしれないが、どちらにしろ優太を弾き飛ばすなど造作もないだろう。
姿勢を低く斜に構えて対する優太は、相手から隠れた位置に提げた仕込の柄に右手を添える。長柄から飛び上がると同時に、踵で蹴り上げて旋回する大鎌を掴んで軽く振る月読命。
詩音は身を隠す為の場所を探すが、目前の二人に意識を吸い寄せられる。離れなければ、優太の足枷になってしまう。判っているのに、この現場から目が引き付けられる。この対敵を見逃す訳にはいかないのだ。
「君を捕らえて、私の眷族にする」
「それは後免だね」
月読命が踏み込む。――その瞬間、優太の姿が消えた。音もなく、ただそこに在ったのは自身が作り出した幻であったと錯覚させられ、詩音は思わず前のめりになった。
大鎌を振り翳したが、もう居ない相手の姿を探して視線を奔らせる月読命。神族にも見えない速度、これは『四片』の力を開放した仁那に相当するのではないか。以前、彼女に敗北した苦い記憶を想起して、緊張と戦慄が体内を駆ける。
その動作に音を立てず、超速で斬りかかる。果たして、そんな敵にどう対応したら良いかなど、月読命には判らなかった。ただ相手が現れた方向を狙い撃つだけだ。だが、それでは間に合わない。
月読命は一旦上へ逃れる選択を採った。それが奇しくも命を繋ぎ止める幸へと結ぶ。
漆黒の剣閃が趨った。背中を掠め、その白装束に僅かな出血が滲み、月読命は後ろへ首を巡らせて慄然とする。逆手持ちにした仕込を振り抜いた優太の姿は、至近距離で見て初めて恐怖を懐かせる。背後を取られた不覚が致命傷に繋がる、闇人の能力は神族の天敵だ。
距離を空けようと上に上昇する月読命を睨め上げ、優太はその場で直上に跳んだ。背に黒々とした梟の両翼を拡げて追随する。黒貌の応用力ならば、空中戦の対応も容易い。
刃圏の外と踏んで飛んだ月読命も、下からこちら目掛けて飛翔する黒い梟に瞠目する。空中で再度斬りかかった優太の一撃を受け止めた。そのまま膂力で弾こうと肱に力を込めるが、突き出された掌底と共に発動した斥力で月読命が吹き飛ぶ。
単純な腕力だけで潰そうとすると、それを上手く逆手に取って返される。本来なら月読命が得意とする戦術に於いて、現在の少年の方が明らかに上手だった。
仰向けに飛ぶ敵に対し、追撃に出て上から突き刺そうと急降下する優太の姿はまさに獲物を捉えた梟である。その鋭利な爪で即死を図った攻撃を仕掛けた。
しかし、月読命が回旋させた大鎌に阻まれて離れる。その勢威のまま薙ぎ払った一閃は、紫色の三日月となって空気を走り、上昇したばかりで身動きの取れない優太を狙う。
黑氣術で邪氣を盾の形状に展開し、強力な攻撃の威力を封殺する。凄烈な氣の爆発を起こし、風に煽られそうになるのを堪えた優太の背後に、大鎌を振りかぶった月読命が忽然と現れる。
首を狙って薙いだ凶刃は、邪氣の翼を変形させた黒い両の掌に挟んで止められる。離さないとばかりに力で掴む邪氣の手を引っ張るように、大鎌を振り回した。
優太は南方へと向かって投げ飛ばされた。鉄の欄干を越え、断崖絶壁より落下して言義の川が合流する池に落下する。着水と同時に上がった水柱が盛大に音を立てて、近くに居た民衆が急いで集まる。遥か眼下の水面を騒がせるそれに目を凝らす。
一同注視の中で、優太は水面に足を着けて立ち上がった。黒貌はそのままに、濡れた仕込を振って水分を払うと鞘に戻す。初日は仁那が泳いだ場所に、自分も落ちたこの現状に自嘲する。見上げた場所に揃った人々の顔を見て、ただ長嘆の息を吐くしかなかった。時計塔周囲に居た人間しか自分の顔を知らない、その部分だけは譲らずに作戦を遂行しようとしたが、これではそれも望めない。
落胆する優太の前に、月読命が悠々と降り立つ。
「凄い、水の上に立ってる」
「火力は無くても、氣術は万能に近いからね」
「私の眷族になる積もりは?」
「微塵も無い」
相手からの提案を真っ向から否定する。
黑氣術、黒貌、氣術を総動員しても手傷を負わせられたのは初手の掠り傷だけだ。それも、邪氣で与えたもので回復を遅延する効果が見込めるとは雖も、さすがに治癒している。決定打となる手は何度も講じている筈なのに、この拮抗した状況となると一人で月読命を狩るのは無茶なのかもしれない。
思案する優太の前で、月読命はまたしても長柄に座って休憩すると、指を鳴らした。何の合図かと面を上げた優太は、彼女の頭上からゆっくりと降下する二つの物体に唖然とする。
微弱に金色の光を帯びた鎖によって拘束された祐輔と輸慶が足掻いていた。その度に光は強くなってよりきつく二体を縛る。いつ捕らえたのか、いやそれよりも『四片』を抑える拘束力を持つその鎖が気になった。
今は小さい貌を選んでいる彼等だが、真の姿は雄大であり、人など塵芥に等しき小さな粒と見る巨躯である。体内に秘めた氣の量は世界を循環するそれの根源だ。
優太の疑問を察し、月読命は鎖に縛られた祐輔を抱き寄せる。
「これは『天呪の軛』。父上が後の世で『四片』が暴走した際に拘束する為に製作した神器」
「それを使って……何故、二体を?まさか仁那も拘束する積もりか」
仁那の名を口にした時、露骨に顔を険しくさせた。
「違う。兄上が先代闇人の思惑を概ね知ったらしくて、それを阻止する為に『四片』を回収する事にした」
「師匠の計画――か!」
優太は会話中に踏み込み、黒い一閃を放つ。
不意打ちを察知し、祐輔を抱いたまま上昇した月読命は安堵の息を漏らす。空を切る筈だった攻撃の末端が取り残された輸慶の鎖を切断した。元々、氣を遮断する性質がある邪氣は伊耶那岐の神器にも有効。偶然の発見に欣喜するよりも先に輸慶を受け止める。
開放されて羽を拡げる輸慶を肩に乗せ、上に構える相手を再び振り仰ぐ。
『くそったれ、離しやがれ、鬱陶しいんだよ!』
『……朱雀は逃したけど、別に良い。貴方は仁那への人質になって貰うから。……そうだね、ここは撤退しよう』
再び上昇を始める月読命を追って、優太は跳躍するが、大鎌の一閃に弾かれて落水する。意識を刈り取るには充分な一撃だったが、辛うじて堪えた。しかし、衝撃が体の節々を麻痺させてしまい、優太は沈んで行く。
輸慶は舞い上がって別方向から彼女を狙ったが、既に姿はなかった。水面付近に移動しており、月読命が手を軽く振り上げる動作をすると、優太が水中から浮上する。満足に動けない相手を自身が座る長柄の端に引っ掛けて持ち上げた。復調しない体の痺れと朦朧とした意識で、優太の黒貌が解除される。
少年の体を抱き寄せて恍惚とする月読命の背後で、輸慶は仲間の救出を試みた。祐輔の鎖を解こうと必死に爪で引っ張り、烈風を束ねた刃で切ろうとするも、まったく傷や隙間は生まれない。焦燥感に駆られ、自分への無力感に苛立つ。
祐輔はそんな様子を見て、小さく笑った。ここまで焦る輸慶は見た事がない。いつも済まし顔で理を説き、気紛れで動く弁覩、反発する祐輔、耳を貸さない昌了を見下していた彼と過ごした長過ぎる年月でも目にしなかった一面である。
仲間を救おうとする心意気は嬉しいが、それが徒労になると判って祐輔は諦念に嘆息する。
『輸慶、訊いても良いか?』
『黙って下さい、今鎖を……!』
『オレ様の氣を、仁那にどれだけ送れる?』
突然の問いに固まった。何を意図しているのか、それが輸慶には判らなかった。――否、理解したくなくて、判らない体を装う。
この決意した龍の澄んだ瞳が、今は輸慶の胸中で恐怖だけを掻き立てる。
『は、八割が限界です』
『そうか、次いでに頼みたいんだが』
『駄目です、それ以上口にしては』
必死に遮ろうとする輸慶にも、口を閉じなかった。
『――オレ様の魂も同時に、いけるか?』
祐輔が降した決断に、輸慶は目を伏せて首を横へ振る。
つまり、彼は肉体を捨てて少女の肉体と運命を共にする心算だ。確かに、祐輔の基部である魂自体を得れば、仁那は力の反動に苦しむ事もなくなるし、たとえ月読命に肉体を拐われても後から取り戻せば仁那の中に保存した魂で復活も可能だ。
祐輔の要求、それを叶えることはできる。だが、それは一度死を体験するのと同じだ。不死であり、主神の復活が必要とされない限り永遠に生き永らえる存在には有り得ない事象。
『……死ぬ積もりですか、祐輔』
『んな訳ゃねぇだろ。仁那の中で何れ戻る隙を窺うだけだっての』
『どうして、一人の人間にそこまで……』
『永く生きてると、何処ぞの人間ばかりか自分にまで頓着無くなる。加えて、オレ様を捕まえようとする野蛮な連中の所為で最悪だったぜ。
でもよ……予言とかそんなの度外視しても、仁那の人柄が……その、なんだ……気に入ったって話だ』
最後は濁すように声を小さくしたが、意を決して顔を上げた祐輔は清々しい大声で告げた。
『オレ様が認めた二人目の親友だ、ソイツを傍で守りてぇだけだ』
祐輔の言葉に、輸慶は胸を打たれて黙った。声は出ず、もう彼が変わらないのだと知って寂寥と悲しさに鎖にかけた爪を離す。仲間を送り出す勇気を問われている。月読命の言葉が真実ならば、弁覩にも遠からず刺客が差し向けられるだろう。
これは英断なのだ、これが最善だ。輸慶は自分にそう言い聞かせる。親友へ魂を捧げる彼の並々ならぬ判断に、敬意を表するのが然るべき態度なのだ。
輸慶も気丈に振る舞って応える。
『必ず救いに行きます、それまで小娘の中で悠長に昼寝なんかしてはいけませんよ』
『早くしろよ、こっちゃ準備万端なんだぜ』
輸慶は頷くと、羽で祐輔を包む。
鎖の内側で縹色の鱗が燦然と輝き、次第に粒子となって空中で集合を始める。魂と八割の氣、それを一つに練り合わせた物を仁那へと運ぶ、それが輸慶に今できる仕事だった。
その真意に気付いた月読命が大鎌から跳躍しようと長柄を踏んだ時、輸慶が同時進行で後ろへ放った烈風の刃が胴を刺し貫く。風に押され、彼女は水中深くへ突き落とされた。
祐輔の体から出た氣と魂は結晶化し、球状の青い宝玉となった。魂を分離され、肉体は力を失って垂れる。
『……必ず届けます、貴方の言葉と共に』
足で優太と宝玉を掴み、その場から転移する。
風で押さえ付けられていた月読命は急いで水上へと戻ったが、瞬間移動で姿を消した一同に悔しそうに唇を噛み締め、残った祐輔の肉体を脇に抱える。
「やられた……でも、いずれ回収する。兄上の計画の為にも」
月読命の姿も、蛍色に発光する水の上から静かに霧となって消えた。
× × ×
地上――破幻砂漠は暴風に見舞われ、地形は常に変動した。勃発した仁那と須佐命乎による打撃の応酬によって生まれた衝撃波は、もはや砂上に落ちた雷である。
荒涼とした砂漠は砂を貫いて下の岩盤にまで達して窪みを作る。地下に生息していた魔物も驚怖に一帯から逃げ出し、完全に生命の気配は消え失せていた。
砂嵐の中に聳え立つ須佐命乎は、一つだけ建った小屋の側にある池の浅瀬に倒れ伏して動かなくなった敵を観察する。縹色の氣を身体に纏っているので、能力が解除されていないのは判る。腕は治癒が追い付かないほどに腫れ上がっていた。
須佐命乎と正面から何度も打ち合った――いや、仁那が振るった拳に合わせて意図的に自分の攻撃を激突させて相殺した結果だった。次第に腕力の差は顕れ、半ば須佐命乎の蹂躙が始まったのだ。
今まで誰も並ばなかった自身の膂力に対する自信を粉砕された仁那は、戦意を喪失していた。須佐命乎に勝つには、やはり歴戦の英雄であるガフマンのように最強と謳われる人物しか敵わない。奢っていたのだ、自分の能力に。
挫けずに相手と拳を交わし続けたが、悉く凌駕されてしまう。逆にこちら側ばかりが傷を受け、砂漠を跳ね回り、時に沈められ、砂塵と共に上空へと打ち上げられたりもした。埋められず、詰められない実力の差を痛感させられる。月読命に一度勝ったから、どこか軽視していたのだろう。須佐命乎は彼女よりも強力だった。
神族は未だ力を隠している、手応えで理解した。そして、仁那にはまだそれを引き出すだけの力量が備わっていない。
須佐命乎が砂を踏む音が近付く。
その手中にまた大きな鉞が出現した。最後は首を断たれるのだろうか。兄の眷族たる少女を禁忌だと断じて始末するのか、それとも単なる私怨か。
仁那は水に浸かった体を起こして、そちらを見遣った。自分の腕は動かないのに、須佐命乎は握り込んで今にも跳躍する勢いでこちらへ向かっている。脳裏に去来するのは祐輔と仲間の顔――それだけが心の支えだった。
鈴音と詩音は無事に記録を回収できたのだろうか、優太と卓はまだ生きて戦っているのか、鉄徹一味や石黒、ピュゼルと弥生は無事に吞丼を救い出せたのか。……自分は、その犠牲になれたのだろうか……。
自分達を生かす為に命を擲ったヴェシュの最期の姿が脳裏を過った。孤独に戦い続けた彼に比べれば、自分などまだ軽いのだと嗤笑する。
ざぶり、と水に踏み入る音がした。もう手を伸ばせば届く位置に足が見える――いや、もう腕は伸ばすこともできない。
「存外しぶとかったが、これで終わりだ」
近くまで悠揚と歩み寄った須佐命乎は、鉞を高々と振り上げた。先端が太陽を背にぎらりと光り、仁那へと狙いを定める。
自分にはもう体に振り絞るだけの力は無い。祐輔の能力が解除された途端、脱力してしまった。俯いて処断の刻を待つ。
須佐命乎が武器を振り下ろした。もう逃れられる距離でもない、能力を発動するだけの猶予もない、諦観に瞑目する。
「まだ諦めるには早い!」
轟音が鳴り響いた。
はっと顔を上げた仁那の眼前で、邪氣の拳で横合いから須佐命乎を殴打する人影を見付ける。――肩に輸慶を乗せた優太だった。急襲を受けて踏み堪えることも出来ず、巨体が猛然と回転しながら砂丘を突き破って飛ぶ。
優太は仁那の隣に膝を着く。彼もまだ麻痺から回復しておらず、体を支えるのがやっとの状態でいた。
「優太……さん、どうして……」
「少し神族と交戦してね……少し休憩した後、鈴音と詩音を安全な場所に移動させて来た。……作戦は成功だよ」
「…………良かったぁ……」
心底からの安心感に倒れようとする仁那を輸慶が後ろから掴んで支えた。
『確りして下さい、それでも祐輔の親友ですか?』
「親……友……」
まだ呆然としている仁那の手元に、青い宝玉が落とされた。
仁那はそれを見下ろす。傷付いた自分の血濡れた掌の上で、美しく青空を閉じ込めたようなそれに思わず見とれながら、触れた左手が熱くなるのを感じる。
「え――ッ!?」
一瞬の閃光と共に、仁那の意識は深い闇へと沈んで行った。
アクセスして頂き、誠に有り難うございます。
三章の最終決戦となります。主人公二人と須佐命乎の激闘、書けるか心配ですが頑張ります!
次回も宜しくお願い致します。




