温泉街の狐火(弐)/幹太対九尾狐
およそ十数年の月日を経て帰還した故郷。
その道端には、己が斬った同胞の死屍が散乱している。それぞれが体のある箇所に『白印』を刻まれた、哀れな運命の被害者である。生まれ出る時より、その体は憎悪に支配されていた。
それが果たして追放者に対して課せられる呪いであるのか。ある者は首を捻り、ある者は邪推だと断定する。だが、その事実を深く知悉した男は、自身が殺めた幼馴染、その甥の赤子を誘拐した。
林間を走り抜ける男の速度は狼そのもの。追い縋る影と着実に大きな差を作る。風となって奔るその体に抱かれた赤子には、着地などの衝撃はまったく伝わっておらず、安らかに眠っていた。追跡の手が緩んだと思った次の瞬間、樹幹を両断して無色無臭の刃が迫る。
感知して山の斜面を低く滑り降りた。次々と放たれる風の凶刃を躱わした先で、松明を点した包囲網が敷かれている。月光を遮った森の闇夜に浮かぶそれらを冷戦と見詰めて、男は背後の景色を検めた。光は無くとも、所々に潜む人間の殺気がある。
光の輪より一人が歩み出て、刀の鋒を翳す。闇の中に幽鬼のごとく佇む男は、その明確な敵意を示されてなお表情に変化は無く、さらに前進を始めた。この圧倒的な敵勢に臆する素振りすら見せず、それらを無感動に見渡している。
その腕に抱えている赤子が、彼等にとってどれ程に大事な存在であるかを弁えている。それ故に自身に徒に攻撃を仕掛けることが出来ないと踏んでいるのだ。悠々と花を労るような優しさで扱いながら、有効な人質として使う。
包囲網を統率する人物は、顔に渋面を作って手を拱いた。里では男を止めようと必死に身を擲って、誰一人も手傷を負わせるに足らなかった。里の長を過去に仕留めた無類の刺客。
「その方を返せ、我々からこれ以上奪うな!」
「お前達――氣術師は勘違いしている」
突然、話の脈絡を断って男が語る。
「魔術による自然現象を倣い魔法という技術が産出され、死術による生命の循環に近付く為に呪術が開発された。どれも模倣……贋作といったところだ。
その中でも、氣術は神代から継承された伝統ある神本来の力――そう思い違いをしているだろう?」
包囲網の一同は、男が何を言っているのか理解出来なかった。魔術、死術という『業』の中でも氣術は変化無く受け継がれた神の力。それこそ不変にして、唯一の一族の誇りでもある。
男は赤子を柔らかい土の上に置いて、多勢に対し単騎で対峙する。背後では赤子と離れた好機に、藪から飛び出した。
「元より『業』とは二つ――魔術と死術のみ。氣術とは、その二つの源流たる一つの力を模倣したモノに過ぎない。三人の子でも『調停者』は神の劣化品――神の力には遠く及ばない。
これが……その力だ、今その誤認を改めさせてやろう」
男が両手を眼前で打ち合わせた。
集団の全員が戦く。男の身体から感じられた氣が消えた――否、自然と完全に同調したのである。今の男はこの森と、取り巻く空気と同一の存在に自身を変換したのだ。だが、それは氣術師にとっては基本的な技術である。
しかし、空気が異様に冷たく膚を刺す寒さに変わった。
男の周囲に佇立していた高木が、あたかも命を得たかのようにうねり、背後から肉薄した一団を薙ぎ払って掃討すると、今度は前方の松明の光を求め奔流となった。波頭が飛沫を上げて、全員を蹂躙する。赤子は伸びた蔦が絡め、男の頭上となる安全圏に掲げられていた。
それらを躱わし、後ろから斬りかかった一人は彼に吸い寄せられ、顔面を鷲掴みにされた。抵抗にその腕を掴もうとしたが、全身が脱力し意識を喪失する。力が抜けて沈黙した人間の体が、純然たる氣に分解された。それは男の掌中で再び凝縮され、光を放つ巨大な炎の球体へと変体した。
生存した僅かな面子が顔を上げる。有り得ない、自身を中心とした生命を自在に操作し、さらには生命体を分解し別の形へと変えた。
「何なんだ……それは……!?」
「死術と魔術、双方への知識を深めれば、氣術はその段階に到達し得る。この『業』を使用できるのは、現代世界においては主神以外に一人」
「ッ……そ、そんな『業』を以てして、何を企む?一族を根絶やしにする魂胆か?」
「大切な道具だ、抹殺はしない。お前には働いて貰うぞ、矛剴当主……これより先、本家の血筋には自由を与えよう」
倒れる人物に歩み寄り、屈み込んだ。
「何を、する積もりだ?よせ、やめろ、やめ――」
男の手が、視界を闇で塗り潰す――。
× × ×
黒狐に扮した幹太だが、その服は自身の傷から滲み出した血で染まっている。元より狩人が好む軽装では竹槍の鋭い一刺も防げはしない。火でゆっくりと炙られたような痛みが肌を撫でる。
治癒魔法を会得していない昆旦は、この時ばかりは傷に苦しむ仲間の姿に歯噛みする。自身の不甲斐なさ、無力さを痛感させられてしまう。空気中の鴉片の濃度が高くなり、それは階段の段差を覆うほどの煙になっていた。外敵を意志なき人形へ堕とす麻薬が、すぐそこで焚かれている。
手拭いを鼻に当てた応急処置だが、やはり弁覩の顔は晴れない。次第に強くなる異臭に、何度も咳き込んでいる。「月狐」の頭領が居る集会場は、鴉片の煙幕が無ければ視認可能な位置にあるだろう。漠然と扉が近いと悟って、鉈を握り締めて段差をゆっくりと上がった。
前方から差し迫る害悪の影は無い。だが背後から町の巡回から戻った狐達が来る可能性はある。早々に決着を付けなければ、負傷した幹太とまだ鴉片の抜けない昆旦で勝機は見出だせない。
扉に辿り着くことに成功した。その前では、階段の中心に方形の穴が竈となっており、中から濛々と煙が立っている。昆旦がこれを鎮火し、暫くして空間を包む瘴気の生産が止まった。
「これで……」
「ああ、やっとご対面願えるぜ」
幹太は扉前で昆旦と顔を見合わせて、互いに覚悟を決めて頷くと、扉を蹴破って中に駆け入る。こちらの入室と共に迎撃に出ると身構えての突進だったが、それは空しくも空振りとなった。
集会場は広い間取りとなっており、置物は何も無く空間の中心に円形で陳列する座布団のみ。部屋の隅で灯籠が照らすそこは、誰一人として人が見受けられない。既に侵入者の気配を感じて何処かへ身を隠したのか。でも、この空間には抜け道や非常用の脱出経路は無い。それらは既に弁覩達から聞いている。
無人の集会場が湛える静寂に、幹太は耳を澄ませた。下階は既に鴉片で意識を失って静かだ。この最上階の床が微かな軋りでも上げたら、それが敵の所在を知らせる。誰よりも迅速にそれを看取しなくては、みすみす取り逃してしまう。
全景を見渡していた昆旦は、その意を察してその場から動かなかった。自分の立てる音で、幹太の行為を妨げてはならない。森の中で培われた彼の感覚器官の鋭さが恃みだ。せめて視認のできる範疇だけでと、昆旦は周囲に視線を奔らせる。今しもそこに、こちらを狙う敵の凶刃は無いかと。
幹太の頭上から埃が落ちた。肌をかろく撫で、緩やかに床へと落ちていく。それを何気なく目で追ってしまった。肩で弁覩が何かに気付いて顔を上げる。
『幹太、上にいるニャ!』
「何!?」
天井を見上げるより先に、昆旦と幹太は一斉に壁際まで強い衝撃を受けて床をもんどり返って、壁まで転がった。昆旦はすぐ様立ち上がって前方を睨む。
そこには茶の長髪を釵で高い位置に纏め、肩から胸元までを無防備に露出し、長い袖や裾を床に引き摺った装いである。その面貌は赤く隈取りをした狐の仮面をしており見えないが、その体型からして女性。妖艶な空気を醸し出す敵の本体へ、不覚にも心騒いでしまう。
しかし、昆旦は即座に現実へ引き戻された。その背景では、壁際で立ち上がろうと苦心する幹太の足掻く姿。その下の床には、血が滴っている。
『幹太!』
「やべぇ……背中の傷が開いちまった……!」
女性が放ったと思われる攻撃で壁まで叩き飛ばされた幹太の体は、黒狐との戦闘で限界を迎えながらも耐えていたその体の脆弱な均衡を容易く打ち砕いた。鉄扇で抉られた箇所から、服を赤く染めていく。
傷の悪化と共に生じた激痛が、体の節々を固くする。敵前にしてこの状態、このままでは一方的な暴虐が始まってしまう。その対処を昆旦一人に一任する訳にはいかない。痛みに萎える全身に鞭を打って立ち狐の頭領を見遣った。
相手が女性であろうとも、自分達を脅かすなら容赦もしない。「西人狩り」の中枢を討って、この抗争を止める。
女性は二人を見た後、悠々と集会場の中央へと歩んで背を向けた。敵に背を向けるなど愚の骨頂、昆旦が前に踏み込んで魔法を放つ初動に入った。威力は高く、命中力も申し分ない高火力による洗礼。幾ら数多の狐を束ねる存在であっても、中身は所詮は自分達と同じ人族と読んだ。魔法に対する防具も装備していないとなれば、必殺は確約されたもの。
だが、幹太の脳裏に恐怖が過る。なら、何故彼女は天井に留まりながら、こちらを壁際まで吹き飛ばすほどの力を発揮できたのか。何か見落としがある、決定的で致命的な見落し。
魔法がいざ放たれん――昆旦の周囲に氷の弾丸が控える。彼の合図と共に、標的を制圧すべく高速で発射されるのだ。
しかし、その寸前で女性の長い裾の内側が膨張した。布を押し上げる謎の膨らみ、そこに孕まれた謎の正体を注視する幹太の前で、それは暴発して裾の中から姿を現した。
床を滑って昆旦を下から突き上げたのは、枯葉を連想させる渋い茶の体毛をした尻尾だった。太く、長く伸長して敵を天井に叩き付ける。顎を殴られ、体を搦め取られて梁を突き破った仲間を凝然と見上げた。
天井から木片と共に尾が引き抜かれると、数瞬遅れて昆旦が床に落下した。気絶して動かず力なく四肢を投げ出して広がる。頭部から出血して、鼻眼鏡は歪になって破損していた。彼を仕留めた尾がゆらゆらと揺曳する。
尾の数は九本――どれも大木の幹ほどある。艶に濡れているのではなく、凶器のごとく灯籠の光をぎらりと撥ね返す硬質な印象がある。どれもが自由に、別々の方向を這って床に散乱した木片を掃いていた。
名は知らない……けれど、「月狐」の頭領――これが九尾狐!
「何だこれ……まさか、奴は……精霊なのか?」
『魔族ニャ、まさかこんな町に潜んでいたニャんて』
「え、そうなのか?くそ、甘く見てたぜ。確か魔族は形態変化が得意な生態の連中だったな――うおッ!?」
幹太の頭上を鋭く切り裂く尻尾。九尾狐が袖を捌くと、その度に九本が躍動して幹太を追う。
彼女を中心に円を描いて走りながら回避していた幹太だが、ふと足を何かに引っ掛けて転倒する。床を俯せで滑走した彼を上から押し潰すように、九本の尾が集合して拳を形成し上から殴り付ける。
足に引っ掛かった物――意識を失った昆旦に謝りながら、横へと転がって上から繰り出される連撃から逃げた。弁覩も肩から離れて退散していた。床を叩き割る威力から、今の幹太なら一撃で動けなくなる。今は恐怖と混乱が痛みを凌駕しており、それが奇しくも行動を可能とさせていた。
幹太は座布団を拾い上げると、九尾狐に向けて連投する。それを尾も使わずに手で払い除けて、追撃を中断する事は無い。相手は手負いの狩人、如何に運動能力が高くとも捕まるのは時間の問題である。
しかし、九尾狐は何枚目かの座布団を叩き落として瞠目する。手で簡単にあしらった敵のか細い抵抗、投げられた最後の座布団に隠れて山刀が投擲されていた。今までの攻撃はすべて陽動、座布団を遮蔽物として凶器を顔目掛けて投げていたのだ。油断を衝いた奇策、これを咄嗟に考案し実行するこの狩人は、外見とは裏腹に戦闘に慣れている。
九尾狐は甘んじて山刀の一撃を受けた。重い刃物とあって、肩に深々と突き刺さる。尋常な人族ならば、腕を斬り落とされていたであろう威力も、こちらも外見を裏切る強靭な肉体に半減されてしまった。得物を一つ手放したとあって苦い顔をしたが、まだ幹太の瞳に絶望は無い。
次なる攻撃の一手に出ようとした時、左右から拳固を象る尻尾の挟撃に遭う。唸りを上げて接近する厳のごとき縦拳。後ろへと床を転がれば、眼前で打ち合わされて風圧を起こす。
人体など容易に粗挽きの肉に変えてしまいそうな痛撃である。躱わした安堵が胸の奥底を緩ませた瞬間、尾は分解して九つの刃となって翻り、幹太を抉った。六本を辛うじて避けたが、それらを覗いた三発が左肩の肉を裂き、黒狐の仮面を割り、腹部を打つ。
幹太は吐血と共に意識が白む。
意識が途絶える――このまま負ける――。
閉じた瞼の裏に、鈴音の面影が浮かんだ。
× × ×
『幹太、しっかりするニャ!』
扉の脇に避難していた弁覩が叫ぶ。悲鳴に似た悲痛な声音で呼び掛けるが、応答は無く血を振り撒いて横臥した幹太は動かない。昨晩からの連戦が祟った、彼は理屈を抜いた精神論であっても動けないほど疲弊している。もう足腰を震わせるほどの体力も無いのだろう。
これは自分の失態だ。敵の急襲とあって、虎に変化する隙がなかったというのもあるが、鈴音に彼を無事に会わせると約束した。だが彼は敵に敗れてしまい、実質的に反故にしたも同然である。
九尾狐は入口でなにかを訴えている猫を見咎めた。尾をそちらへ方向転換させて走らせる。弁覩は幹太を見る余裕もなく、そちらへと身構えた。巨大な虎と化し、爪を剥き出しにして尾を迎え撃つ。九尾狐は硬質な剛毛を束ねた尾を悉く切り裂いてみせる虎の強さに嗟嘆し、仮面の下でわずかに目を見開く。
目を凝らして観察すると、虎の爪が微細に震動している。耳を済ませば、聞き取り難い高温を発していた。これが尾を切断する正体――あの爪は、高周波の刃として機能しているのだ。恐らく至近距離なら鼓膜を簡単に破壊する音が出ている。
九尾狐は総てを錐状に収束させて突き出す。竜巻となって押し寄せる一撃を横へと回って、爪で一刀両断した。正面に集中した攻撃は側面からの衝撃には弱く、先端を避けた中程は爪を入れた途端に切れ目が大きく拡がる。
しかし、切断された尾が広がると即座に弁覩の肢体に巻き付いた。荒縄を何本も束ねたように堅く、弁覩の些細な動作すら許さない強さで縛る。
唸り声を上げて睨む白銀の虎を仮面の下で嘲笑う九尾狐だったが、そんな己の絶対的優勢が瞬間的に崩壊するとは知らなかった。その慢心、覆し難い強さを打ち砕く奇襲があるとは知らずに。
「!?」
「これは、お返しだコラァ!!」
満身創痍で気絶していたはずの幹太が、背後から九尾狐を羽交い締めにする。尾の付け根となる部分を踏み台にし、その肩に刺さった山刀を更に強く押し込んだまま上に引き上げる。
血飛沫と共に怯んだ九尾狐から離れ、弁覩の下へと走り逃げる。幹太を狙って虎の拘束を解いて攻撃しようと考えたが、今度は横から苛烈な氷の礫による砲撃を受けて床に倒れ伏せた。
何事かと振り返れば、そこで片膝を床に着きながら構える昆旦が居た。彼も躄って弁覩の方へと寄る。
「くそ、肩痛ぇ……」
『さすが幹太ニャ、やれば出来る男』
「ここまで勇敢な人は初めて見ましたよ」
「誉めるなよバカ!嬉しくて目から血が出るじゃねぇか!」
『涙じゃニャいのかよ』
立ち上がる九尾狐の仮面が割れた。
中からは複数の眼球と下顎から突出した牙の魁偉な面相が覘く。
「雰囲気美人……だな」
「一瞬でもあれに心騒いでしまった自分を罰したいですね」
『鈴音の方が可愛いニャ』
「その通り!……とは言え、どうする?こちとら、お前以外は気力だけで動いてるんだぞ」
前方では尾を地面に打ち付けて憤る九尾狐。床が凄惨な状態に変わって行く一様を、二人は呆然と見詰めていた。美女に擬態しようとしたが顔だけは努力を尽くしても変われず、結果的に仮面で欺す装いに辿り着いた姿。まさに化け狐とはこの事を言うのだろう。
だが強敵である事に変わりは無い。恥を曝してもはや自暴自棄になったのか、前屈みになって唸っている。先程までの気品や美しさは脱ぎ捨てられた。まだ肉体は女性に擬態したままとあって、覗いた胸元から思わず二人は顔を背け、弁覩は吟味するように目を眇めた。
「来るよな、あれは……」
「もう出し惜しみは無し、ですね」
『全員で行くニャ!』
九尾狐の尾が一斉に暴走を始める。先端を硬化させ、空気を切り裂いて一同を襲う。前方で複雑な線を描きながら進んでおり、本体が匿れてしまっていた。山刀を投擲しようと身を乗り出していた幹太が怖じ気づいて退く。
弁覩の双眸が光る。それらが隠された九尾狐を、尾の中から探り出していた。微かに開き、彼女に通ずる穴を捉える。
その能力は、祐輔の『助勢』と同類――即ち『神通力』の一つであった。『四片』として自身が持つ力、真贋が入り雑じり、偽物が跳梁跋扈する世界からただ一つ秘匿された真実を看破する能力。弁覩の『神通力』――『審美眼』であった。
『幹太、おミャーから見て左斜め上に隙間があるニャ!山刀を真っ直ぐ刃を縦に立てたまま、撃ち込んでやれ!』
「猫語を……貫けアホ!」
刃先を前に向けたままで、槍のように指示された場所へと擲つ。回転せず、迂回せず、わずかにある空隙へと吸い込まれた山刀が隠れた瞬間、尾の向こう側で悲鳴が上がった。
襲来する尾に向かって、今度は昆旦が自身の持ちうる最大火力の魔法の呪文を詠唱した。弁覩による掩護で放った幹太の投擲が命中したのもあって尾が少し怯んだ隙が生まれ、全身の氣を練り上げて発動する。
「《氷塊の嵐》!!」
無数の氷の礫が量産された後、突発的に強風が吹き乱れる。その乱気流の中心以外に凶弾となった氷が尾を打ち払った。床や壁、天井と見境無く暴れた魔法を最後に昆旦は力を失って座り込んだ。
その横から弁覩が飛び出した。背には幹太が跨がり、鉈を振り上げている。白銀の虎が前方を阻害する尾を高周波の爪で断ち斬って猛然と突進する。空間全体を震わせる咆哮を上げ、九尾狐に体当たりした。あまりの衝撃に後方へと蹌跟めく魔族の体に刻まれた傷から飛沫が憤然と上がった。
傷口を押さえて呻く九尾狐は、顔を上げて目を見開いた。
虎の背を蹴って飛び出した男が、鉈を後ろへと引き絞っている。尾は総て切り、傷の痛みによって出来た相手の隙を最大限活用して、全力で首を刈り取る積もりだ。一寸先に首を刎ねられた未来があると想定して、恐慌に迎撃する策が浮かばない九尾狐は愕然としながら顔を庇うように上げた腕の隙間から狩人を見上げる。
幹太の一閃は、九尾狐を防御した腕を切断して頭蓋を割った。
充分に矯めて鉈の重量に自身の全力を載せた結果――「月狐」の棟梁はその場に頽れた。幹太の足許に許しを乞うているように割れた頭を伏せて沈黙する。
数歩後退した後に座り込んだ幹太は、今度こそ仕留めた安堵に一笑すると鉈を床に手放して倒れた。弁覩の目の前で、彼の背中に出来た血の滲みが再び広がり始める。
「幹太さん!?」
『出血の所為ニャ!早くしニャいと死ぬ!』
弁覩は咥えて持ち上げようとするが、無闇に動かせば出血量は酷くなる。だがこの場に適切な処置を施せる者は居ない。治癒魔法には魔法と呪術に関する知識を併せ持つ人物にしか使用は不可能。昆旦が氣を大量に消耗している今では、全く希望などなく、ただ胸の内を焦燥が焼く。
全員の意識が命の瀬戸際にある幹太に傾注されている中で、ふらりと立ち上がる一つの影。頭部からの夥しい流血も意に介さず、自身を殺し損ねた怨敵を見据えていた。
× × ×
九尾狐は生きていた――。
大きく体を損傷しながらも、まだその命脈は強く続いている。
魔族としての生命力は未だ体を活動させるだけの力を見せ、背を向けた白銀の虎から仕留めんと再生した尾を振り翳す。
その一部始終を視界の片隅に見ていた昆旦は、今度こそ敵の生存に戦き、息を呑んだ。幹太と弁覩に迫る危険を伝えようと口を開ける――だが、声が伝わったとしても、彼等が無事ている確率は限り無く低い。
昆旦が一声を振り絞ろうとした時、その背を飛び越えて走り、九尾狐の背後に回る影を見た。
「油断大敵、とは正にこの事であります!」
九尾狐の背後を取ったのは、少女だった。後ろで結った黒髪が揺れ、片目は瞳が澱みを湛えており光が無い。
両の人差し指に銀の指輪を填めており、交差させた腕を敵の肩で振り抜く。その動作が行われたと同時に、魔族の醜悪な顔を支えている首が胴から転げ落ちた。綺麗な断面を残し、複数の目を開いたまま床で血溜まりを作る。
それでもまだ体は止まらない。尾が弁覩達を頭上から串刺しにしようと撓った途端、今度は階段から飛来したのは長い三叉槍である。未だ脳を失ってなお稼働する肉体を貫き、後方れ突き飛ばして壁に刺し留める。
唖然とする昆旦の背後から、赤髪の少女と男性、続いて黒衣の女性が現れた。三叉槍を投げたと思われる赤の少女は、九尾狐まで近付くと槍を引き抜く。
「あの……貴女達は……一体?」
「話は後だ」
長髪を手で払って座った黒衣の女性は、懐中より魔石の装飾が施された鵞ペンを取り出すと、虚空に発光する文字を綴っていく。淡々と羅列を作るその作業を呆然と見詰めている昆旦は、女性がペンを執る手を止めた瞬間に溢れた光で目を瞑る。
「《再生の詩》・《物質創造》」
文字は粒子となり、幹太の体へと溶けて行く。弁覩の目の前で、傷口は瞬く間に塞がる。仄かな光を帯びた幹太の体を観察していると、背中の傷も止血されていると判った。まだ完全に回復はしていないが、それでも急場を凌いだのである。
黒衣の女性は立ち上がり、額の汗を無造作に袖で拭った。
「あの…………?」
「私はカリーナ・カルデラ。少しこの「月狐」には追われていたが、これで安心できる。後ろからお前達の奮戦を拝見させて貰った」
「か、カルデラ……!?え、え……!?」
昆旦はその名に、その女に喫驚する。
カルデラ――西国出身ならば、国王や伝えられる神話に並び誰しも知る英雄の一族。
大陸同盟戦争前よりも前から存在する由緒ある血統で、国の中枢にも発言力を持ち、先の大戦においては赤髭総督による侵攻を抑え、二年前までの平和を築き上げた偉業を持つ。短命という呪いがありながら、その知識は大陸で並ぶ者は居ないと過言しても不遜ではない。
しかし、数年前より使節団を組織して千極首都の火乃聿を目指してすぐに消息を絶った。総督の刺客に襲撃を受けた、「西人狩り」によって壊滅したという噂ばかりが立っている。
目前に立つ女性こそ、現当主カリーナ・カルデラと言われて、昆旦は未だに信じられない。その反応は見飽きたとばかりに鼻で嗤うと、幹太の傍にさらに寄って顔を覗き込む。弁覩が警戒に咆哮して威嚇すると、九尾狐の首を切断した隻眼と三叉槍が動き、弁覩に得物を突き付ける。
三叉槍の先端が上から翳されていた。
隻眼の少女は幹太と弁覩の間に割って入り、両手で制止する。両の人差し指の指輪――その中空に何かが垂れている。弁覩が注視すると、それが糸である事が判明した。意識しなくては目視が難しいほど景色に溶けていた。
動けば深傷を負う事になる。渋々と引き下がった弁覩から、槍が離れた。黒衣の女性が弁覩に振り向くと、その面前で屈み込む。
「お前は、この狩人の使い魔か?」
『ニャーは下僕じゃニャい、家族ニャ』
「どちらでも良い。お前達の仲間を救った代価、それを要求しても構わないな?」
『……何をする気ニャ』
黒衣の女性は嫣然とした微笑を浮かべると、立ち上がって階段へと歩く。その後ろを少女二人が後続しており、扉の前で赤髪の男が待機していた。
去り行く四人の背中を見る昆旦と弁覩は、振り向かずに答えた女性の声に身震いする。洞穴の中で谺させたように、この空間全体に響く。
「機会を改めよう。三日後、傷を充分に癒してから、『敷座』の北棟に来るといい」
取り残された一人と一匹が階段を凝視している中、幹太が意識を取り戻して立ち上がった。まだ全身を走る痛みに小さく悲鳴を上げつつ、上体を起こして周囲を見回す。
壁際に無惨な姿で斃れた九尾狐、それから視線を逸らして階段を見詰める一組。状況の整理が全く出来ず、説明も無いので取り敢えず鉈と山刀を回収して鞘に納める。
「何があったんだ?」
『……何でもニャいニャ。それよりも「月狐」の棟梁は討ったから、この首を持って後は帰るだけニャね』
「後は「月狐」の構成員を逮捕する、それだけです。実害は我々だけでなく、この娼館にも甚大な影響が出ていますから」
「そっか、じゃあ後は頼むわ」
『任せろニャ』
「あれ、働けって言わないんだな」
『あれ?そんニャにやりたいニャか?』
「いえいえ滅相もありません!ゆっくり休ませて頂きます!……ってあれ?」
幹太は自分の体を見回して、傷がない事に気付いた。誰か治癒魔法で治療してくれたのか。だが、昆旦には不可能だし、弁覩の能力は回復の趣を異にする。
九尾狐の首が自分の足許にあり、それと目があって思わず弁覩に抱き着いた。益々現状の把握が難しい。
自身が眠っている間の事が気になったが、ふと鈴音と仁那のことを思い出して、壁の向こう側にある町へと振り向いて想いを馳せる。いま二人とガフマンが戦っているのだ、まだ終わっていない。
「……負けんなよ、仁那、鈴音」
自分の背中を押してくれた少女と、最後に口付けを残して加勢に向かった家族へ、ふとそんな言葉が口を衝いていた。
アクセスして頂き、誠に有り難うございます。
幹太と弁覩の共闘、如何でしたか?途中、自分でも混乱し始めたのですが、楽しんで頂けたなら幸いです。
次回も宜しくお願い致します。




