『器』の能力
旅館『敷座』から離れ、森の中を進むと山麓に佇立する小屋がある。合掌造の屋根を高い柱が支えており、内装は一般的な家屋と然したる差異と思われる点は見当たらない。
しかし屋内の角の内で北の方角にある一画の床は、板張りの木目にある特定の位置を叩くと、その衝撃に反応し裏返る工夫が拵えてある。下に続くのは、地中を穿った洞穴かあり傾斜を削って設えた石の階段が中へと誘う。襲撃に備えた逃走経路ではなく、その最奥にはこの地に纏わる史書や文献が大方揃えられた書架がある。
また、奥の行き当たりに置かれた大きく少し湾曲した文机と、脇息のある紫檀の椅子が正面に設置され、袖机の棚には蒐集された薬草、薬を調合する道具が充実していた。
椅子に腰掛けているのは、漆黒の長い頭髪を無造作に垂らす女性。無駄な肉の無い顔の輪郭が細い線を描き、怜悧な美貌は引き締まっている。灰色の双眸で大雑把に机上へ広げた書面を検める速度は素早く、次へ次へと頁を繰る手が止まらない。僅かな時間で、大量の知識を蓄える集中力と分析力を遺憾なく使用して、書物の解読を進めていた。
ふと、その背後から穴蔵へと入る人影がひとつ。人目を惹く赤毛は襟髪のみを伸ばして結った短髪であり、同色の瞳が灯籠に照らされた洞穴の奥に影を作る女性を映した。こちらに目もくれず、書物を漁る姿に呆れず、見慣れたものだと軽く受け流し、その場に跪いた。
「当主様、新たな情報が入りました」
「何度も当主様はやめろ、と注意したぞ。……まあ良い。今回は何事だ?」
手を止め、背凭れに体重を預けながら天井に向けて溜め息をつく。文面を繙く際は何も感じない、未開の地を踏み締めて歩くような鮮烈さが気を紛らわすが、ひとたび現実に引き戻されると目元や肩に乗し掛かる疲労感が後になって押し寄せる。
会話も億劫だというように、背後で恭しく頭を下げる股肱にも素っ気ない態度を取る。
女性が今目を通しているのは、過去の大戦における情勢と、戦争に作られた陥穽の記録。西国の内憂に関しては既知であるが、千極には未だ謎が多い。徹底した守秘体制により、情報漏洩を防ぐ官僚達の動きによって、千極の中枢は敵国を恐怖させる闇を内包していた。
「神城を発った【太陽】が、現在は南の港湾を求めて南下中とのこと。足取りからして、「白き魔女」が首都に入るのは二ヶ月先かと」
「あの獣人族の娘が、大軍を率いる長になるとは薄々予想はしていたが、その威光は流石に度し難いほどの力に成長してしまったな」
「白き魔女」を中心とした組織【太陽】は、云わば一つの国家を形成するに値する勢力であった。政に関しても優秀な人材を幾つも傘下に吸収しており、武官の実力も将軍と称呼して申し分無い。末端となる部下の調練にも力を注いでいる為か、彼女の堅陣はまさに国である。
ひとつの部隊で万軍に匹濤する力に育成する手練手管を解き明かそうとする者もいるが、その前に不審な事故に遭い誰もがその秘訣を知り得ない。脅かすなら小さな分子であろうと見逃さず、排除に徹した体制こそ公然と示された【太陽】という組織力を維持する一つの要素だろう。
二年前までは炭鉱の町で窃盗の罪を積み重ね、それを食い扶持に生き続けた鼠と揶揄しても相違無い生き方を恥じることなく繰り返していた小娘は、いつしか西国と東国、南大陸の魔族に追随する力を掌中に納めている。
知己である故に、これを利用する手は是非もないと、男は一考した。
「接触を試みますか?」
「それは不要だ。確かに今、「白き魔女」と合流すれば大きな流れは上手く運ぶだろう。この逸機を恨むことはあれど、しかし解読が優先だ。でなければ、赤髭の牙城を崩すには足らん」
赤髪の文官と思しき男が押し黙る。苦節一年以上もこの地に逐電し、好機を見計らって息を潜めて頗る赤髭の行った数多の策謀を解析した時間は長い。その間にも、各地の戦況は目眩るしく遷移している。この変化に乗じて、一策を講じたいと願うところを、男を操る主は慎重を期して不動を貫いた。
進退に関する判断で、この女性が誤ったことは無い。若くして多大な権勢を誇る一家の当主を継ぎ、行動力と演繹力においては国中では比肩する者のいないと称賛しても遜色などない能力がある。
一国の主たる赤髭の打倒を目指し、入念な準備を重ねる彼女の依然とした姿勢に、些か不満を持ちながらも声には出さず、また自分の判断が実際に行動に移されたなら返り討ちは必至。こちらの身が逼迫する未来が確約されてしまう。だからこそ、彼女にこの国の命運を託し、従う他にない。男は彼女の能力を恃みにして篤く、疑いさえしない。
そんな信頼を一身に受けて重圧とは思わず、寧ろ感知していないほどに自身の役目を全うする。女性は厚い本を閉じて、文机の端に押しやると席を立った。
「あの二人は今、何処を廻っている?」
「二人とも、任務内容を違えず蒐集に勤しんでいます」
「では、数日中にこちらへ帰還するよう伝達しろ。恐らくだが、町中で擦れ違った連中の事も考えると、近い内に動く」
「動く、とは?」
「白壕のみではない、<印>に加えて赤髭の間諜、そして……」
言葉を濁した最後は、男には判らない。だが、恐らく後に登場すると予想される闖入者に対する策の具として、出払っている二人の腹心が必要なのだろう。男はすぐに引き戻す算段を脳内で立てると、その場から立ち上がった。
女性が体を伸ばすと、振り返って男をみた。
「もう一度、汗を流すか。……防諜は抜かりないな?」
「はい、ゆっくり楽しんで下さい。私から旅館には伝えておきます」
満足そうに頷いた女性の傍に寄り添い、二人で洞穴を出た。階段を悠々と上がって、最後に出た男が入り口を塞ぐと、洞穴の中に揺れていた灯籠の火が消えた。
× × ×
店内で対峙した二組の集団。
ガフマン率いる一行と、「月狐」を名告る武装集団である。鉄扇で指示する者を先頭に、狐たちは一斉に行動を開始した。先鋒を務めるガフマン以外が輪となって固まり、迎撃の態勢を整える。敵の実力が未知数ないま、無闇に攻撃を仕掛けるのは愚策と判断する一行と違い、長年の戦闘経験で培った自負なのか、迷い無く哄笑たからかに赤い獅子は店内を駆ける。
机を足場に高く跳躍した狐の一人に、放置されたままの皿を投げ付けた。ガフマンの膂力で発射された物体は、如何なる性質であろうと鈍器で殴打された威力に等しい。故に空中で鞘に納めたままの帯刀で防御した狐は、激突した皿が破砕すると同時に後方へと体が仰け反り、宙で一回転した。
衝撃の強さと急速に反転する視界に目を回す狐を地面に着地する寸前で襟首を掴み上げ、今度は後方から肉薄する三人に向けて投げる。仲間を受け止めようと急停止した矢先、狐たちは横薙ぎに振るわれた獅子の脚によって顎を打ち砕かれ、命中した者から天井へと飛び上がった。
店内にまだ駆け付ける狐の増援にも獰猛な微笑みを湛え、赤い風となって月狐の団塊に向けて躊躇い無く疾駆する。
戦槍で作られた槍衾を前衛とし、その背後でガフマンに照準を合わせる弓が引き絞られている。距離が充分に縮まり、防御も間に合わないと判じて一斉に放たれた。
しかし、ガフマンは一番手近にあった机の端を持ち上げて即席の盾にする。半ば払うように、矢を撃墜したガフマンはそのまま手中で振り回した机を槍の遣い手に向けて投擲する。躱わそうと身を屈めた前衛をすり抜け、後援の弓兵を押し潰した。回避した者には、そのまま長剣の剣積で薙ぎ払い、一撃で意識を刈り取る。
未だ真骨頂を見せずして、急襲にも十全に対応し、圧倒して見せる。ガフマンたる強者だからこそ可能である手際であった。
狐達を踏みながら戸の外へ身を乗り出して、さらなる援護が無いと知ると、振り返ってその場に腰を下ろした。臀部で呻く狐の鳴き声は耳にも届かず、その場で胡座の膝に頬杖をついたまま座視する姿勢である。
「さて、見せて貰おうか」
ガフマンが見守る先では、円陣を組む一行を包囲する十数名の狐。それぞれの手には、既に抜き身の刀が握り締められており、ガフマンから彼等を挟んだ対岸には、同じく静観する鉄扇の狐が悠然と机に腰掛けていた。恐らくは、ただの小娘と山賊と侮っての態勢なのだろう。
実質、ガフマンに充てられた人数は多かったが、仁那達を追い詰める狐の総数はそれよりもあった。世に知られた【灼熱】の名を冠する者に直接対決を臨むよりも、人質を捕る方が遥かに効率が良いと考えての事だ。数としてはあちらに利がある。
だが、危地であるはずの状況にガフマンは嘲笑を浮かべた。命の危機に晒された仲間ではなく、優勢である狐に対し、腹の底から湧く彼らの油断が見受けられる戦略への嗤笑。
鉄扇に隠した口許は歪に口角を上げていた。ガフマンの表情が、余裕が即座に覆された未来を想像してのこと。この劣勢を逸する力がこの集団にあるとは思えない。捕らえてガフマンに対する人質にし、これらを有効活用して西で英雄と称えられる【灼熱】の首を討ち取れば、名声も富も恣にできる。何より、一行の中には上玉が揃っており、奇々怪々な生物もいるとなれば後に商品として、懐事情を潤すだけの大きな財にも為り得る。
そう、彼等が念頭に置いていたのは生け捕りである。この集団を利用した後の月狐の利益を生産する為の人選。
しかし、鉄扇の狐は量り損なっていた。殺す気ならば、まだ勝てたかもしれない。本気で取り掛からなければ、誰一人として捕縛することすら叶わず、侮り嗤っていた集団の逆襲があるとは露知らず。
狐の輪が仁那達に向けて縮まる。
幹太が前方に向けて飛び出すと同時に、腰から鉈を引き抜き、鞘を片手に持つ。相手の刀と幹太の鉈では、刃渡りもあちらの方が長く、一太刀目で先を取れるのは間違いなく狐。しかしそれを承知の上で、狐の一人に向けて敢然と距離を詰めた。
予想通り、刀を上段から振り下ろした狐に対し、床を尻で滑って低く潜り込む。だが刀を避ける速度は無い。刃が脳天から鋭く襲う瞬間に、自分との間に鉈を滑り込ませた。甲高い金属音と共に受け止められた二種の刃物の交点で火花が散る。
敵の眼下で幹太は鞘の鐺を敵の踝に叩き付けた。先端が傷みやすいとあって金属で保護された硬い部分が、敵の体を支える脚の骨を横殴りに粉砕する。体勢を崩した狐を下から直上に跳ね上がりながら、鉈の柄頭で頤を殴り上げた。
強烈な痛撃に失神した狐を見下ろし、安堵の溜め息が漏れる。
「ったく、荒事は本気で勘弁だっての」
胸を撫で下ろす幹太を背後から突き刺そうと踏み込む狐の顔面を、横合いから鈴音が鷲掴みにした。振り払おうと腕を振り上げた途端、服から露出した皮膚が次第に水分を失い、細く筋と皮を張った骨のみの状態まで萎んだ。肌色は薄黒く変色し、仮面の下の面相は眼窩に深く落ち窪んだ眼球も乾いている。
木乃伊も同然となった狐を投げ捨て、鈴音は自身の鉈を握り締めた。把に接触している手の中から煌々と屋内を仄かに照らす柑子色の光が溢れる。そのまま刀身にまで広がり、発光する武器の形が木材を軋ませたような怪音を立てて変わる。
刃の中程に穴が生まれ、その縁が牙のごとく鋭い円錐状の凶器になった。中からは赤く乾いた軟体の物質――舌が牙となる金属を舐める。鈴音の鉈があたたかい光を帯びた次の瞬間には、怪異な形に変容した怪物に生まれ変わった。
鈴音がそれを振るうと、刃が伸縮自在の物体に性質を変化させ、本来ならば間合いの外にいる者にも襲い掛かり、その刀身に発達した口で頭頂から飲み込んで首を噛み切り咀嚼する。牙の合間から垂れる血も舐めれば、刃がさらに大きさを増した――成長している、この凶器は人を捕食する一個の生命体になっていた。
魔物と化した武器の猛威を回避しようと身を退く者達を、次々とその口内に収めて行く。鈴音の異質な能力を見守っていた鉄扇の狐は、あまりの驚嘆に言葉を失って茫然と目を見開く。遠くから観察していても、その原理さえも分析できない。いや、ここもいずれ危うくなるだろう。
机から離れ、さらに奥へ後退しようとした鉄扇の狐の首に、太い縄――いや、蛇と思われる動物の胴体が絡み付いた。背後を誰かに取られるならまだ想像は付くが、突然天井から垂れて首を縛る物体に恐慌で思考回路が停止する。狼狽える狐の肩に軽い感触が乗り、眼前に鋭利な爪を翳した。
狐は漸くその正体を掴んだ――非戦闘員の飼い猫かと思っていた、白猫と龍が自身を捕縛したのだと。
『ちょっと、お話を伺うかニャ?』
『たっぷりとしごいてやるぜ?』
悲鳴も上げられず二体に拘束された狐の視線が外れた騒動の中心で、仁那は四人に四方を囲まれた。逃げ場は無い、鈴音は離れた位置で幹太と共に敵を撃滅している。ガフマンは依然観戦の席に着いたままで、恐らく援護は望めない。
仁那は中段に構えた狐の刀に触れた。自ら凶刃に触れる行為に戸惑った狐が、瞬間的に照明の光すら跳ね返す強さの発光体になり、蒸気を立てながら床に伏す。以前の戦闘で、『刻印』の力を発動中は全身に雷を発生させる氣を纏っているという理解を得た。金属の武具を扱う者なら、触れるだけで滅することは容易である。
感嘆の吐息を漏らして、掌を見詰めた仁那を背後から狐が槍で突く。咄嗟に気付いて足元の皿を拾い上げて盾に替えようとするが、研がれたこの槍の先端を受け止める強度はこの薄い食器に備わってはいない。判断を誤ったと回避に移ろうとした仁那の手に握る皿が、槍を受け止めた。
衝突した槍を押し止めてなお、亀裂が一つも見受けられない。誰もが不可解な現象に混乱する中で、外野で鉄扇の狐を拷問していた弁覩が叫ぶ。
『物体の性質を増強する『助勢』という祐輔の能力がいまの仁那にはあるニャ!思う存分、かましてやるニャよ!』
「よ、よく判らないけど、要するに手に取ればお皿でも槍に匹敵するんだね!」
皿の底にある凹凸で槍を弾き上げた。
武器を手放し無防備な狐の腹部を足で撃ち抜く。接触部から強い光が閃き、皮膚を焦がした雷の攻撃によって後方の机に倒れ込む。
仁那は翻身して残り二人の刀剣を握る。身体強度も増強された所為か、刃を皮膚に押し当てた程度では切創も無い。代わりに、触れられた物から凄まじい電撃の余波を受けて倒れる狐達。
「ほ、本当に凄いな……」
『刻印』の力が解除され、通常の状態に戻った。仁那は自身の腕を見下ろして、自身の力を自己分析する。
弁覩の言葉通りならば、いま自身が使用しているのは縹色の花弁――祐輔の能力。接触した物質が持つ力に影響を与え、それらを増強する。例えるなら、先程の皿である。皿の材質となっている物にある硬度、耐久力などが仁那の力によって増幅された故に槍の一撃を凌ぐ効果を発揮した。即ち、乾いた枝でも剣に敵う武具に変換可能であるということ。
「くそッ!」
祐輔に首を絞められていた狐は、手中の鉄扇を投げた。空中を回転して飛翔したそれは、運動をそのままに仁那を目指す。あれはただの扇子ではない、投擲に適し狩りにも使用される棍棒である。
『なっ、投擲武器だったのか!?』
仁那は気付かない。不覚を取られたと弁覩が慌てて狐の肩を蹴って飛び出すが、距離はもう四尺とないほどである。いまさら駆け出した所で獣の脚力でも防ぎようもない。鉄製の扇子はそのまま標的を撫で斬りにする。
仮面の下で微笑む狐の前で、外側から走る影があった。仁那に急接近したそれは、彼女を抱えると扇子の軌道から体を逸らす。同時に血が天井に飛び散った。
一同注視の中、扇子の脅威から仁那を庇ったのは幹太だった。背中を掠めた鉄扇に血を流し、彼女と共に床に倒れ込む。
「か……幹太さん!?」
× × ×
軌道を変え、再び旋回して仁那達に襲い掛かろうとする鉄扇は、飛来した長剣によって天井に固定された。ガフマンの愛剣で止められた光景を見て、狐は祐輔の中で気絶する。
意識が無いことを確認し、拘束を解くと慌てて仁那の下へ向かう。鈴音は顔面を蒼白にし、幹太の傍へと跳躍する。隣に着地し、慌てて抱き起こした。
「幹太……幹太……!」
「い、痛ぇ……あれやっぱセンス無いって……!心配すな鈴音。これくらい……姫熊に襲われた時に比べりゃ何てことぁ無ぇよ」
ガフマンは三人を見ながら、天井から長剣を引き抜いて鞘に納めると、鉄扇を片手で握り潰した。弁覩がその肩に乗り、その光景を見下ろす。幹太の傷に冷静さを失い狼狽する鈴音の対応に困る幹太の背後で、仁那は悄然と肩を落として祐輔に慰められている。自身の油断で仲間を傷付けたことに悔いがあるようだ。
横目でガフマンの目が向けられているのを知って、弁覩は視線を返す。
「あれが……貴様の言っていたやつか」
『『器』はニャー達の能力を使用するニャ。これは魔法や氣術、呪術ニャんかじゃ再現しようのないモノ。これらは『神通力』、と呼ばれるモノと予言者は言っていたニャ』
「その予言者とやらに、会ってみんとな……興味が湧いたわ」
『もう死んでるニャよ……七年前に、国境の森の中で』
「……まさかとは思うが、そいつの名を聞いても良いか?」
ガフマンは既に事を察している様子だった。これが愚問と知りながら、用心深く確認を求めている。弁覩は嘆息し小さな声で応えた。
『先代闇人……通称も同じニャけど、個人名は――アキラ』
「……成る程なぁ、我もあの炭鉱の町で坊主と知り合って以来、この運命とやらに取り込まれているのやもしれんな」
一人と一匹の視線の先は慌ただしい。
「幹太……傷は?」
「大丈夫だろ、唾でも付けときゃな。……なんちって」
「判った」
「ちょい待て。鈴音の唾液は俺にゃ刺激が強すぎる」
「じゃあ、わっせの使って下さい。負傷の原因はわっせなので……ごめんなさい」
「あ、あれ?誰も冗談として受け取ってくれないんだが……?」
『オレ様が焼いてやるよ。そしたら傷も塞がるだろ』
「うん、もっと安全なのお願いするわ」
仁那が雑嚢から綺麗な包帯を取り出すと、察した鈴音が幹太の上着を剥ぐ。突然着衣を奪われて困惑する幹太は、為されるがままに治療を受けた。ガフマンは歩み寄って屈むと、傷の具合を判断する。命に関わる出血量ではないが、些か深いため快癒には三日の時間を要するだろう。
作業の途中で痛みに呻く幹太の背を叩いたガフマンに、三人の批難を込めた視線が集まる。それを笑って一蹴すると、祐輔の首をつまみ上げた。
「治療は女に任せ、我々で少し話をせんか?相談って程じゃあ無いが、少しな……」
『庇った代償に、コイツが仁那に体を要求してくるかもしれねぇ』
『大丈夫ニャ、幹太は筋金入りのヘタレ。そう女子に手を出すほど色欲に塗れてはニャい』
「おい、聞こえてるぞクソ猫、俺だってやる時はやるんだからな?本気になれば……本気、になれば……」
小さくなっていく声に、祐輔も納得した。見たところ、彼は三十路を迎える一歩手前の年齢である。それでも妻らしき人物はおらず、鈴音を娘と愛する姿に加えて自信の無さを見ると、確かにそういった経験は無さそうだ。
移動するガフマンと二匹を見送りながら、仁那は再度頭を下げた。幹太は首を傾げている。
「ごめんなさい……わっせが確りしていれば」
「いや、しゃあ無い。というか傷が無くて良かったよ、流石に娘と同じ年の女の子が傷付くのを見過ごしてたら、クソ猫が言っているヘタレ以下に成り下がってるからな」
笑って仁那の頭を撫でると、幹太は四苦八苦しながら立ち上がる。鈴音の補助があって近くの椅子に座ると、そのまま意識を失った。
「だ、大丈夫なの……?」
「疲れて寝てる。仁那、幹太の治療ありがとう」
「……当然だよ、わっせの所為だから」
「それでも」
「……うん」
仁那は幹太の寝顔を見詰める。彼は魔法や戦争とは無縁な人種に思われる。穏やかで鈴音に無償の愛を注ぎ、元は人間嫌いであった弁覩からも慕われていた。ガフマンや鈴音の容姿からしても、「西人狩り」に狙われるのは瞭然としていながら、それでも寄り添う事を止めない。
そこに相手を思い遣る愛があることが判った。そんな彼を襲った「月狐」を仁那はどうしても許せない。それは、傍で静かな憤懣を懐く鈴音も同じである。
「仁那、協力して」
「勿論だよ、よろしく」
仁那の差し出した左手に、鈴音は躊躇わずに応えて握手を交わした。
ふと、仁那は展開した雑嚢の中から紙切れが出たのを見咎めた。拾い上げてみれば、それは確か港湾を出発する際に隻腕のゼーダから強引に押し付けられた物である。
「何だろう」
確認するのを忘れていた。白壕への道を急いでいたのもあるが、今は過酷な現実から一時でも離れたいと考えた故の逃避のあまり、この紙切れの存在をすっかり失念していたのだ。
展げてみると、中には短文が綴られている。その内容は理解できなかったが、仁那には何かの不吉な兆しに思えてならなかった。この文を読んだ時から、何かが変わるように感じて。
『心せよ、天上より遣わされる刺客は常にお前を見ている』
アクセスして頂き、誠に有り難うございます。
更新に少し間が空き始めたのは、忙しくなってきたというのもあります。これから更に長くなると思いますが、暇さえあれば執筆する所存です。
最悪でも三日に一話……という間隔になります。早ければ一日に一話、です。
これからも宜しくお願い致します。




